「この時まで私には氣が附かなかつたが、その羊の群には小さい鳶色の犬が一匹附き添うてゐて、動いて來る彼等を檢閲するやうに、少し離れた草の中に小さく立つて見張りをしてゐるのであつた。そのうちにみんなの列に後れた五六匹の羊が、十間ばかり置いて、後からのそり〃來るのを見ると、犬は急いでその方へ駈け出して行つた。すると、後れた羊は小言を食つたやうに足早に走せて、みんなの列の後に附いた。
犬はそれを見るとまた走つて引き返して、先頭の羊の前を横切つて向うの側面へ廻つて、再び後まで行くと、それで安心したやうに、あとから草の上を嗅ぎ〃徐かに附いて來る。
「あの犬があゝして羊の番をするのかい?久さん。」
「あいつがわしたちの手足のやうなものですのい。思ふ通りに犬がちやんと動かすんです。一匹でも迷うてうろ〃してるやつがあると、ぢき嗅ぎ出して引つ張つて來ます。羊舎から出ると牧夫はたゞ懐手をして見れてばいゝのですのい。」
久さんはかう言つて番犬を手もとへ呼んだ。外へ出てからは羊のことは何でも一々この犬が獨りで始末をするのださうである。
「だから牧夫は女房より番犬を大事にしますい。牧夫なんぞの女房なら、叩き出してもまたどこかに轉がつてるけど、かういふ犬はこの牧場に五匹しかゐないのですけの。」と久さんは重たい口で冗談を言ひながら、犬の頭を撫でゝゐる」
鈴木三重吉『羊(明治44年)』より
戦前、長崎の牧場で使われていた牧羊犬
「名犬ラッシー」や「名犬ラッド」で有名なラフコリー。
日本人が最初に知ったコリーは、勿論ラッシーではありません。それは明治時代に遡ります。
富国強兵・殖産興業の一環として、明治政府は綿羊事業にも注力しました。輸入される羊と共に、牧羊犬も早期から来日しています。
しかし大規模な放牧場を確保しにくい日本では、畜舎での小規模牧羊が中心。日本コリー犬協會、帝國軍用犬協會、日本シェパード犬協會は牧羊犬の作出を支援したものの、就職先が少ない以上は頭数が増える筈もありません。
国策として始まった日本の綿羊業は、やがて満洲の地で開花。そして傀儡国家満洲の牧羊犬たちには、羊を襲うオオカミや野犬、そして入植者を襲撃する抗日ゲリラとの戦いが待っていました。
忘れ去られた日満の牧羊犬史について。
幕末から明治の開国により、日本は諸外国への対抗力を持つ必要に迫られます。
こうして富国強兵への道を歩み出すのですが、殖産興業の一環として推進されたものに牧羊がありました。
重要な物資である羊毛増産の為、明治政府の大久保利通は牧畜の拡大を提唱。
明治3年には薩摩藩士岩山敬義(後の下総種畜場長・石川県知事)と長州藩士三隅市之助をアメリカへ派遣、農業視察と種馬輸入を行わせました。
更には外国からアップ・ジョーンズら牧羊指導者を招聘し、最新知識の吸収にも努めます。
明治8年に千葉から茨城一帯を視察した大久保は、三里塚に牧羊場(後の下総御料牧場)の設置を決定。
帰国した岩山を種畜長に据えて緬羊事業計画をスタートさせました。
「(明治九年)十一月
緬羊購求ノ爲メ清國ヘ派遣セシ属官二名及ビ「ジヨンス(※アップ・ジョーンズ)」等羊畜各種千三百餘頭ヲ率テ歸朝ス。
本場附近幸ニシテ猛獸ノ棲息スルモノナキモ、古來野犬蕃息シ牧馬ヲ害セシコト甚ダ尠カラズト云フ。故ヲ以テ緬羊ノ到着二先ダチ乃チ野犬獲殺ノ規則ヲ立テ、豫メ之ガ防備ノ方策ヲ設ケリ。
十年五月米國ヨリ緬羊「メリノー」種五百餘頭並ニ乗用種牝牡馬二頭、農用驢一頭、都合十一頭ヲ輸入ス。
時恰モ交尾時期ニ際スルヲ以テ直二在來牝馬ノ肥大強壮ノモノヲ擇テ之ニ配シ漸次蕃殖ノ目的ヲ立テリ」
「猛獣ノ棲息」とありますが、この時代はツキノワグマだけではなくニホンオオカミも存在していたんですよね。
日本牧羊界が、オオカミや野犬を非常に警戒していたことが分ります。
試行錯誤を重ねつつも、牧畜の近代化は順調に進むかに見えました。
しかし、明治11年に起きた紀尾井坂の変で大久保利通は暗殺されてしまいます。「公の薨去は、國家造畜産業の一大損失と云はざるべからず(齋藤獸醫正)」とあるように、日本の牧羊業にとって大久保の果たした役割は大きかったのです。
内務省が千住製絨所を開設、羊毛製品の量産が開始されたのはその翌年のことでした。
(途中経過は省略)
以降は徐々に衰退していった日本の牧羊事業ですが、大正時代には農商務省に緬羊課(後の畜産局)が設置され、北海道から九州までの各地に次々と種畜場が造られていきました。
事業拡大には至りませんでしたが、羊毛は重要な軍需物資であり続けます。
日露戦争などが起きる度に羊毛価格は暴騰。昭和12年からは羊毛増産が計画され、昭和14年には商工省が軍需以外の羊毛取引を禁止するに至っています。
だいぶん端折りましたが、国家主導による日本牧羊史はこんな感じです。
この牧羊業にとって欠かせないのが牧羊犬。
人類が牧羊犬を使い始めたのは遙か昔、紀元前に遡ります。
長い牧羊史の中で各種のシープドッグが誕生するのですが、日本では「家畜の管理に犬を用いる」という概念自体がありませんでした。
従って、明治時代に始まった緬羊事業は日本牧羊犬史の始まりでもあるのです。
アメリカやオーストラリアから羊を積んでやって来る貨物船には、牧羊犬も一緒に乗っていたのでしょう。
彼らは明治5年前後から日本の牧羊場に姿を現し始め、明治10年代あたりから御料牧場を中心に規模を拡大していった様です。
「羊ヲ牧ニ放チ、若クハ牧ヲ出ス時、厳シク逐フコト勿レ。厳シク逐ザレバ、牧犬敢テ是レヲ咬マス。牧犬咬マサレバ、其毛ヲ損害スルコト無シ」
絵と文:レーベ著 杉山親譯『牧羊説』より 明治15年
その下総御料牧場で用いられた牧羊犬の記録も幾らか残されています。
まず下総では、羊の輸入前に野犬と鳥獣の駆除がおこなわれました。これは、家畜や農作物への被害に備えた措置です。
「創業以來明治九年に至り諸般の事業既に緒に就きたるも素より本場の如き四隣宏豁にして猛獸の棲息する地なく他に恐るべき外患なしと雖も、近傍野犬の多き昔年馬牧たりしとき馬の犬害に係る頗る多しと。夫れ犬の羊に於ける之を敵視し之を嗜食するは自然の性に出て、本年秋季綿羊輸着に先だち之が豫防の方策を設けざれば、到底牧羊の目的を達する能はざるを以て牧羊場を去る四里内の町村に於て野犬獲殺及び銃殺の規則を設け、又明治十年五月場内に於て野犬の防害并耕地鳥類豫防の爲め威銃を備へ専ら駆除捕獲の方法を設けたり」
『下總御料牧場の沿革(明治28年)』より
下総の牧羊犬がいつ、どうやって来日したのか。
同牧場がアメリカから羊の輸入を始めたのは明治10年5月~12年6月ですから、この頃に貨物船で運ばれてきたのかもしれません。
下総で護羊犬の記録が登場するのは、明治14年頃になってからの事です。
「(明治)十四年二月
滿期ノ爲メ「リチヤード・ケエー」ヲ解雇ス。
同年四月
内務省ヨリ農商務省ニ引継ガレ、農務局ノ管理スル所トナル。
同年六月
種畜改良ノ景況並ニ泰西馬耕式、天覧可被爲在旨仰出サレ、同月三十日、御臨幸獅々穴區、三里塚區ニ於テ親シク事業ノ景況ヲ叡覧、同日成田行在所ヘ還幸被爲在タリ。當日、天覧ニ供シタルハ牛馬羊放牧ノ景況、馬匹ノ乗御、護羊犬ノ使用、各種農用機械ノ運用、野馬追込ノ状況、捕馬及ビ競馬術等ナリキ」
牧羊犬の初舞台が、いきなり明治天皇の天覧から始まってますね。
明治26年4月5日には、皇太子(後の大正天皇)にも下総牧羊犬の実演が披露されました。これら牧羊犬の管理担当者については、明治24年4月規定の「下總御料牧場處務細則」で定められています。
下總御料牧場處務細則
第十二條
各掛ニ於テハ左ノ事業ヲ分掌シ、事ノ細大ニ拘ハラズ總テ場長ノ判決ヲ経テ後施行スルモノトス。
庶務掛
(関係ないので略します)
會計掛
(略します)
育馬掛
(略)
育牛掛
(ry)
育羊掛
本掛ハ畜羊ノ蕃殖改良ヲ謀リ、其管理飼養ノ方法ヲ案ジ、剪毛、斷尾、截蹄、去勢、養犬等ノ事ヲ掌ル。
以下略
続いて28年の記録。
「(十四日)
農科大學獸醫科乙科生と同伴して新堀羊舎に至り掛員辻、大野、西氏に面會して綿羊の毛剪りを見しが、其種類は「メリノー」種、「ザウスタオン」の二種あり。
該所羊の頭數は千以上にして外に護羊犬數頭を置けり。本處の樹林は皆風を防ぐ爲めに植へたるものにして最も能く成長するものは松樹、次は椹にして杉は植へたれども寒氣と風の力に堪へずして枯死するものありと」
寒河江重吉『下總御料牧場参觀日誌』 明治28年5月11日~18日より
護羊犬増減表(各年末現在)
明治三十二年
増
・牝 購入無 出産七 計七
・牡 購入無 出産五 計五
減
・牝 賣却三 斃死五 計八
・牡 賣却無 斃死三 計三
年度末現在頭數
・牝五
・牡三
三十三年
増
・牝 購入無 出産五 計五
・牡 購入無 出産五 計五
減
・牝 賣却四 斃死一 計五
・牡 賣却四 斃死無 計四
年度末現在頭數
・牝五
・牡四
三十四年
増
・牝 購入無 出産二 計二
・牡 購入無 出産一 計一
減
・牝 賣却二 斃死無 計二
・牡 賣却二 斃死無 計二
年度末現在頭數
・牝五
・牡三
三十五年
増
・牝 購入一 出産四 計五
・牡 購入一 出産四 計五
減
・牝 賣却五 斃死無 計五
・牡 賣却三 斃死一 計四
年度末現在頭數
・牝五
・牡四
三十六年
増
・牝 購入無 出産五 計五
・牡 購入無 出産六 計六
減
・牝 賣却四 斃死一 計五
・牡 賣却二 斃死無 計二
年度末現在頭數
・牝五
・牡八
羊や牧羊犬の飼糧について。
いずれも『下総御料牧場事業報告』より 明治37年
これら御料牧場の牧羊犬は、何の品種だったのでしょうか?
幾つかの資料では「ラフコリー」と解説されていました。まだ輸入される牧羊犬種は少い時代でしたから、矢張りコリーなのかもしれませんね。
では、下総の記録に登場するコリー達はどこから購入され、どうやって訓練され、不適格と判断された場合どこへ売却されていたのでしょう?
運用ノウハウは複数の牧場間で共有されていたのでしょうか?それとも各牧場が独自に訓練法を学んでいたのでしょうか?分らないことばかりです。
明治30年代になると、牧羊犬を運用する上で下記の様なコマンドが使われていたそうです。これが各地の種畜場でも用いられるようになったのでしょう(ジンパ学のサイトには明治40年代の月寒牧場でこのコマンドが流用されていた例が載っています)。
「護羊犬は一種の犬にして能く羊を護り牧夫の命令を奉するものなり。緬羊を舎飼するには餘り必要なきも放飼のときは大に必要を感ずべし。殊に緬羊を陸送する場合は最も必要なり。仔犬一頭の價、現今下總御料牧場にて拂下ぐるものは弐圓五六拾銭位なり。
牧夫は常に護羊犬を馴致すべし。
而して猥りに各種の言語を用ひず「ゴーオン」(行ケ)、「バーク」(叱レ)、「ベツキ」(返レ)、「ラウンド」(回レ)、「カメ」(來レ)、「ストツプ」(止レ)、「ライト」(右)、「レフト」(左)位の數語を限り修養すべし。又常に他人に使用せしむべからず。且つ命令の場合には決して右の如く限られたる言語の外に他の言語を用ゆべからず」
主馬寮技手辻正章著述『日本牧羊問答(明治38年)』より
思わぬところで「カメ」が出てきました。「Come in=カメ(洋犬の呼称)」説も、あながち的外れではないのですね。
◆
ラフコリーの「独占市場」だった明治日本の牧羊犬業界。しかし、そこへ新たなシープドッグたちが参入してきます。
それが、オーストラリアからやって来たケルピーと、ドイツからやって来たジャーマン・シェパードドッグでした。
北海道へとエリアを広げていった大正の牧羊犬界、そして満州国へと移行した昭和の牧羊犬界は、これら三犬種が熾烈な競争を展開する戦国時代と化したのです。
……ちょっと大げさ過ぎますか。スミマセン。
こんな感じで次回に続きます。