長い時間を要しましたが、明治時代より海外からの情報をたっぷりと吸収してきた日本犬界は、蛹から羽化への段階を迎えます。
様々な種類の犬が日本に定着し、国家・行政・団体・個人がそれぞれ犬に関与し、幾つもの分野が繋がって、巨大な流れとなっていきました。
それは、新たな時代の訪れと共に大きく動き出したのです。

イメージとしてはこんな感じで↓

帝國ノ犬達-飛越
びよ~ん

元号が昭和へ変る頃、大正時代に芽生えた畜犬団体は次の段階へと向かいます。
それまでのペット商主催による犬の展覧会は、マトモな審査基準すら無いシロモノ。犬種別の審査など行われず、入賞が審査員への「袖の下」で決定されるケースすらあったのです。
審査結果を不服とするクレームや暴力沙汰など、目に余る行為も珍しくありませんでした。

これが大きく方向転換したのは昭和3年のこと。
この年、畜犬団体の日本シェパード倶楽部(NSC)と日本犬保存会が設立されます。明治時代から60年を経て、遂に犬種別の畜犬団体が誕生した瞬間でした。
これを機に、「ペット商主導の畜犬展覧会」は犬種ごとの審査基準による「畜犬団体主導の品評会」へと大きく変化。ペット商や出陳者の利益が目的ではなく、純粋に犬を審査することが可能となったのです。
日本犬界が発展していく上で、営利主義の排除は極めて大きな意味を持っていました。

【日本犬の再評価】

この時期、日本犬の再評価も始まります。絶滅しかけていた無価値な地犬は、世界犬界の序列に加わる国家の宝となったのです。
大正時代から天然記念物指定の努力が続いていた秋田犬にはじまり、昭和3年に内務省から移管された文部省は北海道犬、柴犬、紀州犬、四国犬も天然記念物へ指定。更なる調査によって山間部に残存していた甲斐犬や越の犬も発見されていきました。

帝國ノ犬達-日本犬
ペット商に入荷した日本犬のこどもたち(昭和8年)

しかし日本犬保存会は、犬と地域を結び付ける文部省の天然記念物指定に真っ向から反対しました。「紀州犬と四国犬を交配して生れた犬に甲斐犬を交配した日本犬は、一体何と呼べばよいのだ?」「地域を越えて繁殖活動をしなければ、日本犬は再び袋小路に迷入してしまう」と危機感を抱いた日保は、大、中、小の3タイプに分ける日本犬標準を決定します。

これに猛反発したのが高久兵四郎氏らの専門家たち。彼等は「日本犬の資質は体のサイズで区分出来ない。撤回しろ」などと抗議した挙句、それが聞き入れられないと知るや、関西地方で新たな日本犬保存団体「日本犬協會(日協)」を設立します。
以降、東の日保と西の日協は鎬を削る活動を展開していくのでした。

……となれば面白かった(失礼)のですが、実際の日協は日保に対するアンチ活動に時間を浪費したまま日本犬史の表舞台から消えていきます。
高邁な理想を掲げていたのですから、日協は堂々と我が道を歩むべきでした。それなのに、コソコソと日保の展覧会へ潜入しては「審査方法がダメだ」「あれはダメだ」「これもダメだ」「あんな事ではイカン」等とストーカー行為に勤しむ始末。
内輪ウケの閉鎖集団と化した日協と、他団体との連携や海外への日本犬PR活動にまで範囲を広げていく日保との差は広がるばかりでした。

そう。
日保の宣伝活動によって、「NIPPON INU」は世界犬界の序列に加えられたのです。
昭和10年、日保は海外の畜犬団体へ向けて日本犬の宣伝パンフレット送付を開始。その結果、カナダ、フランス、ドイツ、イタリアから大きな反響が寄せられます。ケンネルガジェット誌では、日本在来犬をShishi Inu(ボーアハウンド)、Shika Inu(ディアハウンド)、Shiba Inu(ターフドッグ)に分類して紹介するようになりました。 
それと共に、海外へと渡っていく日本犬も現れます(それまで輸出されていたのは狆ばかりでした)。 日本在来犬種は、狆に続く「国犬」へ昇りつめたのでした。

日本犬の再評価は、日本犬の産地に対する深刻な「採集圧」も生んでしまいます。
降って湧いた日本犬ブームに「立耳巻尾の犬なら何でも買うぞ!」と人々は大騒ぎ。日本犬が金になると見たペット商たちは、山間部へ押しかけて片っ端から猟犬を買い漁ります。それらの日本犬は都会へ流出し、それまで棲息していた山間部で姿を消すという逆転現象が発生。
自分たちの活動によって和犬の地域性が消えることは、日保にとっても意外の結果でした。

まあ、「犬の産地」側も名犬や良犬は隠しておいて、テキトーな犬を高値で売っていましたけどね。ニワカ日本犬愛好家にとっては、犬の良し悪しより「〇〇産の日本犬」という肩書こそが大事だったのです。

兎にも角にも、この日本犬ブームは日本犬復活にとって最後のチャンスでした。
ブームが過ぎ去るまでに、飽きっぽい日本人へ日本犬の価値を植え付ける必要があったのです。それに失敗すれば、今度こそ本当に日本犬は消滅することになるでしょう。
日本犬保存会は、日本犬復活のために「時代」を利用しました。
「日本犬は忠誠心の高い犬」「日本国固有の貴重な犬」「世界に誇るべき優れた犬」
国粋主義の時流に乗って、このイメージ戦略は見事に的中しました。

真っ当な日本犬普及活動とは、日本犬の素晴しさをPRし、愛好家を増やすこと。しかし、それを理解できない国粋主義者までもがブームに飛び付いてしまいます。
日本の国粋主義は西洋盲拝への揺り戻しとして自国文化の再評価から始まりました。「外国文化と日本文化は等しく価値がある」という国粋主義の考えは、いつしか「日本文化は外国文化より優れている」というドングリの背比べに変貌。
日本犬の世界も同じで、「軟弱な洋犬と違い、日本犬は武士道精神を持っているのだ!」などと真顔で叫ぶ幼稚で偏狭な和犬優能論が台頭してきます。
おそらく、洋犬を貶めることで日本犬の地位が上がるとでも勘違いしていたのでしょう。世界犬界の序列に日本犬を加えようと努力する中、島国根性丸出しの彼らは邪魔者でしかありませんでした。

【忠犬ハチ公ブーム】

この時代、日本畜犬界には三頭のスターが誕生しました。
少年倶楽部に連載された漫画の「のらくろ」
満州事変で戦死した軍犬「那智」
そして渋谷駅の忠犬「ハチ公」です。

犬
ハチ公像を製作中の安藤照と忠犬ハチ公(昭和8年の海外向けパンフレットより)

日本犬保存運動に多大な貢献をしたのが、忠犬ハチ公でした。
大正末期、この秋田犬は主人である上野教授を亡くします。三番目の主人に引き取られるも、以前の習慣通り渋谷駅へ通い続けていたハチ。
昭和3年に日本犬保存会が登録していたものの、ずっと無名の存在であり、渋谷駅でも「通行の妨げになる」として邪険に扱われていました。

ハチ公の運命は、秋田犬保存会の設立で大きく転換します。
闘犬の盛んな秋田県では秋田犬の交雑化が進み、純粋個体が皆無の状態でした。秋田犬保存会を訪問した際、日本犬全体の危機を知らされた斎藤弘吉(ペンネームは斎藤弘)は昭和3年に日本犬保存会を設立。全国規模で日本犬の保護活動をスタートしました。
まずは日本犬犬籍簿に登録するため、いつぞや駒場で見かけた秋田犬を探し始めました。目的の犬はすぐ見つかり、その家の主人・小林氏から秋田犬「ハチ」の過去を聞いた斎藤さんはいたく感激。日本犬保存会に登録しました。
それから4年後、無名だったハチ公に転機が訪れます。
文部省が秋田犬を天然記念物指定した後、ハチ公を広く知ってもらおうと斎藤弘が東京朝日新聞へ投書した時から大騒動が始まります。
朝日新聞記者は独自にハチ公の取材を開始。それを「いとしや老犬物語」という記事にしたところ、読者の大反響を呼びました。
渋谷駅の邪魔者は一夜にして「忠犬ハチ公」へと変身し、人々に感銘をあたえる存在となったのです。
それと同時に「ハチは只の野犬だ」「日本犬保存会の売名行為だ」「渋谷駅通いはヤキトリ目当てだ」「上野未亡人はハチ公を棄てた犯人」などと、ハチとその周囲への心無い中傷も始まります。
まあ、本物の忠犬なのか餌目当てなのか、ハチの真意が何だったかはハチにしかわからないんですけどね。
周りの人間たちがキャンキャン罵りあったり銅像を建てたりする中、ハチは静かにその生涯を終えました。
人々はハチ公を忘れることなく、忠犬として語り継ぎます。

【オンヲ忘レルナと犬のてがら】

ハチ公が死んだ昭和10年、尋常小學修身書に「オンヲ忘レルナ」が登場。文部省は忠犬ハチ公物語を軍国教育に利用しました。
「主人に尽くしたハチのように、お国のために忠義を尽くせ」と無垢な児童を洗脳したのです!

……などと「オンヲ忘レルナ」を読んでもいない癖に激怒している不思議な人たちがいますけれど、 
↓コレの何行目あたりが「軍国教育」に該当するのでしょうか?私には単なる哀犬物語にしか見えないのですが。

犬

「ハチ ハ、カハイゝ 犬 デス。
生マレテ 間モナク ヨソ ノ 人二 ヒキ取ラレ、ソノ家ノ 子ノ ヤウ ニシテ カハイガラレマシタ。
ソノ タメ ニ、ヨワカッタ カラダ モ、大ソウ ヂャウブ 二 ナリマシタ。
サウシテ、カヒヌシ ガ 毎朝 ツトメ 二 出ル 時 ハ、デンシャ ノ エキ マデ オクッテ 行キ、夕ガタ カヘル コロ ニハ、 マタ エキ マデ ムカヘ ニ 出マシタ。
ヤガテ、カヒヌシ ガ ナクナリマシタ。
ハチ ハ、ソレ ヲ 知ラナイ ノ カ、毎日カヒヌシ ヲ サガシマシタ。
イツモ ノ エキニ 行ッテ ハ、デンシヤ ノ ツク タビ 二、出テ 来ル 大ゼイ ノ 人 ノ 中 二、
カヒヌシ ハ ヰナイ カ ト サガシマシタ。
カウシテ、月日 ガ タチマシタ。
一年 タチ、 二年 タチ、三年 タチ、十年モ タッテ モ、シカシ、マダ カヒヌシ ヲ サガシテ ヰル
年 ヲ トッタ ハチ ノ スガタ ガ、毎日、 ソノ エキ ノ 前 ニ 見ラレマシタ(以上全文)」
児童用尋常小學修身書 巻二 二十六「オン ヲ 忘レル ナ」より 昭和10年

これを一度でも読んでいれば、「軍国教育じゃなくて情操教育の教材では?」と疑問に思うのが普通。少なくとも、その表現には慎重になる筈なんですよ。
軍国主義の批判は大いにやるべきです。
しかし批判の対象すら読もうとしない、思考放棄の評論家気取りも同じく批判されるべきでしょう(まあ、実際は皇民化教育の教材なんですけどね)。

ここで話を整理しますね。

そもそものハナシとして、犬を軍国教育に利用したのは尋常小學修身書の「オンヲ忘レルナ(小学2年生用)」ではなく、尋常科用小學國語讀本の「犬のてがら(小学5年生用)」に代表される軍犬武勇伝。
軍国主義のシンボルとなった犬は、秋田犬のハチ公ではなくシェパードの那智號でした。
「ハチ公は軍国主義のシンボルにされた」とかいうトンチンカンな主張は、「ああ、こいつは対象の教材を読みもせず批判しているんだな」と白状するようなもの。

いくら小難しい理屈や難解な言葉で飾り立てたところで、秋田犬とシェパードを間違えるようではお話になりません。読むだけムダ。
ハチ公軍国教育論の正体は、教育を論じるに値しない思考放棄の産物なのです。 

犬のてがら1
小學國語讀本巻五 二十二『犬のてがら』に掲載された、満洲事変における那智と金剛の武勇伝。
これこそが「犬を利用した軍国教育」です。

ハチ公が世を去る前年、昭和6年9月18日。
満洲事変が勃発した夜、関東軍所属の那智、金剛、メリーが戦死します。これをきっかけに、日本犬界も軍国主義へと傾き始めました。

(第六部に続く)