日本民族の研究に貴重なる資料として文部省が純粋種秋田犬六頭を昭和六年七月十七日天然記念物に指定し、續いて昭和八年十月二十三日甲斐日本犬が同様記念物に指定され、更に紀州、熊野犬純粋種は僅かに二十數頭殘存するのみで、此のまゝ放置する時は優秀なる熊野犬も遂に絶滅すべしとの声が同地方に起り、昨年八月熊野犬保護會が設立され、文部省天然記念物調査委員鏑木博士を招き座談會を開き、多數の材料を蒐集し其の後正式に記念物指定方を文部省に申請する等漸く此處に日本犬が再認識されて來た事は誠に喜ぶべき現象である。從來日本犬は「山間の狩獵家のみが飼育する獵犬」と言つた様な見方をして居た者が多い様である。
 

杉本榮一『再び日本犬の爲めに(昭和9年)』より

犬

渡瀬庄三郎博士に続き、秋田犬天然記念物指定に尽力した鏑木外岐雄博士。金號は指定犬の先駆けであるトチ2號の仔です。

 

【日本犬保存運動の始まり】

日本犬保存会が設立されたのは昭和3年のこと。
各地に残る地犬の調査、スタンダードの決定、血統書の発行、系統だてた蕃殖への取組み。日本犬保存会の登場は、日本犬の存亡に於いてまさにギリギリのタイミングだったのです。
 

民間団体の日保に対し、国家的な立場で日本犬の天然記念物指定に関わったのが文部省。
この時期に「天然記念物」と「在来犬の復興」がリンクしたことで、日本犬の再評価がなされたことは幸いでした。しかし、「中・近世におけるイニシエの和犬の姿」と「天然記念物指定された日本犬の姿」が混同されてしまいます。
「ルーツたる縄文犬」「弥生~古代にかけて渡来した犬」「中世~近世の和犬」「近代的日本犬」を線引きするため、転換点たる文部省の取り組みを振り返ってみましょう。


【天然記念物か保存活動か】

大正8年、内務省は「天然記念物指定法」を制定。これが文部省に移管後、秋田犬に適用されたのは昭和6年のことでした。
以降、中央省庁による「日本犬の国犬化」が推進されます。

 

ついで昭和八年甲斐犬、其の後更に紀州犬、越の犬、柴犬、土佐犬(土佐闘犬にあらず)、北海道と相次いで天然記念物の指定成り、これで産地別による日本犬は大體指定範囲に入つたのである。
この指定に對し一部考へ違ひの解釈をしてゐる様である。
天然記念物指定は其の公報に明示する如く、各産地別の全體の犬を指定するものである。この點、同指定調査官鏑木外岐雄博士の談に依つても明である。さうしてこの指定された日本犬は、地元のみでなく、何處で飼育されやうと天然記念物に指定されてゐる筈である。
たとへば秋田犬が東京又は大阪で飼育されてゐても、天然記念物には變りはないのである。
文部省としては事務の都合上、秋田犬は秋田縣、甲斐犬は山梨縣、紀州犬は和歌山縣・三重縣、越の犬は富山縣・石川縣・福井縣と云ふ様に、各々主要なる飼育地として指定したに過ぎない。
以上で明かの通り、純粋日本犬は各地方別名を冠するとは云へ、皆々天然記念物指定犬である。であるから我々が今飼育中の日本犬も純粋である限り、又當然天然記念物指定犬であることを銘肝されたい。
昭和十二年二月、文部省に於ては、從來天然記念物に指定した日本犬の保存奨励の爲に「優良日本犬章」の制度を定め、特定の日本犬には優良日本犬賞牌を下付されることに成つた。更に昭和十六年六月には、天然記念物指定鶏にも適用された。同主旨によるものである。
文部省が天然記念物に指定したる上に、尚この賞制を定めたるは、日本犬、日本鶏の飼育者及作出者の熱意を喚起せしめ、我が國特有の家畜・家禽の保存奨励を圖られるものに外ならない。
今迄に、本會は各支部の展覧會又は道府縣連携主催の審査會等より、厳選の上特定の優良犬に對し申請の賞牌が下付されてゐたのである。今日迄にこの賞牌の下付されたる数は相當の多きに達してゐる。


日本犬保存會 渡邊肇『天然記念物指定犬の誤報に付て』より

 

にわかに注目を浴びた結果、各地における地犬の調査も活発化。山梨県では甲斐犬が発見されました。
甲斐犬の場合、昭和4年の甲府地検安達検事による山間部視察が発見のキッカケけとなったのですが、検事や警察官の来訪を受けた地域住民は「畜犬税の取締だ」と勘違いして猟犬を隠してしまったという笑い話が残っています。
相当な山奥でさえ、未納税犬(野犬扱い)の取締が恐れられていたんですね。保護活動が間に合わず、脱税や狂犬病の取締りで消滅してしまった地犬も多数にのぼったのでしょう。

消えゆく日本犬に対し、文部省は天然記念物指定による保護策をスタート。
これに対し、「日本犬は大中小の3タイプに標準化した繁殖を優先すべし」という日本犬保存会や「日本犬を地域に縛るとかふざけんな」という日本犬協会は真っ向から反論しました。

 

この標準は単に古い犬はこのようなものであったというだけでなく、徐々に蕃殖淘汰して行って、大中小各型を各一犬種として独立した畜犬に固定させようと云う目標に進む目当にしたものである。当時天然記念物指定の審査はこの日保の標準とは異った観点から審査されて居るとその責任者が言明していた等はこの証拠になろう。
但し天紀(天然紀念物)が鏑木君などによってどんな観点から審査されていたか、私は寡聞にして知らないが、天紀の報告書を見ると審査の観点を定めるほどの研究がなされていないのが実状であったと思う。

終戦後私が責任者として作ったこの天紀的意途を持ってない日保の標準を天紀の審査に用いているのはその証といえる。この古い体型に基準を発し乍ら、畜犬的に進歩固定する目的のために作った日保の標準がそのままに天紀の審査に利用されているのを見て、実は私は心中唖然と眺め、天紀係官の無知識に憐びんの情を禁じ得なかった。畜犬展で最良のものが天紀として最良のもとのは限らない(斎藤弘)

 

民間の抗議は聞き入れられず、地域名を冠した秋田犬、甲斐犬、越の犬、柴犬、北海道犬、紀州犬、四国犬の7タイプが「国家公認の日本犬」となります。日保の平準化ではなく文部省の地域化が受け入れられた心情には、一般愛犬家の「郷土愛」も大きく影響したことでしょう。

斎藤さんが懸念したとおり、地域と結びつけたことで繁殖活動が袋小路へ入り込み、やがて越の犬は絶滅(柴犬すらも危うく消滅するところでした)。逆に言うと、日保の方針で消えるはずだった地域性は天然記念物指定によって守られたのです。


文部省側の実情はどうだったのか。『天然記念物として日本犬指定の意義(昭和9年)』から、指定調査官であった鏑木外岐雄教授の証言をどうぞ。

【日本犬というもの】

 

日本犬には大型、中型、小型と三種の型がある。その標準は日本犬保存會で立案されて大體の標準が決つた譯であるが、それが絶對的のものでないことは改めて斷るまでもない。
又先年故渡瀬博士は日本各地の犬を調査し、少くとも三つのタイプがあることを主張された。即ち最北型、中北型、南方型と云ふ風に區分されたが、歸するところは大、中、小の三つの分け方と大差がないやうである。大型の現在代表的のものと云へば、秋田犬を推すことが出來る。ところが中型にはいろ〃の型があるので、それを分類することは餘りに廣範に亘り、判然と識別することは困難な事情のもとにある。
そこで中型犬をはつきり分類しようとするのは不可能故、その中の或る主なる型の犬を大體識別して行くほかないと思ふ。
又小型とは所謂柴犬のことで、これとても各地に於て多少の相異はある(鏑木外岐雄)

 

【日本犬保存の意義】

 

犬は人に馴れ親しみ、人の駆使にたへ、殊に狩獵時代には人に随伴して大に役立つた。それで民族の移動にも必ず伴はれた一方、民族によつて飼育する犬の嗜好のタイプもいろ〃であつた。從つてその現今に於ける諸タイプの犬の分布状態を見て、民族移動の經路を辿る資料ともなし得る譯である。
とにかく犬と人との關係は非常に密接なものであつて、純粋な日本犬を保存するのは、我等の祖先以來傳來して來たものを保存すると云ふことになつて、國家思想の涵養の一助ともなし得るものと思惟される。
この日本犬の保存に就いては、天然記念物保護法制定以來考慮されてゐたのであるが、たゞその具體的方法に就いて、いろ〃案をねつてゐたので、むなしく日を過したやうな次第である。
ところが洋風を尊ぶ風習から引いて洋犬が歓迎される結果、自然日本傳來の犬がなほざりにされ、次第に影をたつやうな傾向が見えるので、徒らに方法如何を考究してゐる時期でなく、國家的にも日本犬を保存することは重大意義があり、大切なことであると云ふことを明白にする意味に於て、まづ大型の秋田犬から指定し始めたやうな譯である。

 

【秋田犬(昭和6年指定)】

犬
秋田犬の小政號(昭和9年)

 

私が、初めて秋田犬を視察したのは、たしか昭和五年のまだあの地方に櫻の咲いてゐたのを記憶するから、四月末か五月初めであつたと思ふが、大舘へ行つてそこへ寄つて來た十數頭の犬を見た。
その時聞いたところでは、この附近には自分の見た以外には僅かに四五頭しかゐないとのことで、その少數なのにはむしろ驚いた位であるが、早速それを指定したところ意外に反響があつた。

 

【甲斐犬(昭和8年指定)】

胡助
甲斐犬の胡助號(昭和9年)

 

それ以來日本犬保存會の確立となり、各地方でも日本犬保存の熱が昴つて來たのである。次に見たのが山梨縣で、これは昨年六月頃と記憶するが、山梨縣廳の案内で甲府市及びその附近の所謂虎毛の甲斐犬を視察した。山梨縣は内務部長を初め縣當局の有力者の中にも却々熱心家があり、又民間の日本犬愛護者の中にも有力者が澤山あつて、甲斐犬の保存に努力されてゐるのを見て、非常に愉快に感じた。

 

現地での反応は下記のとおり。

 

十月二十三日、文部省で開かれた史蹟名勝天然記念物委員會では全國からかねて申請中から百八十四件を史蹟名勝天然記念物に指定したが、その中に山梨縣の甲斐日本犬も含まれてゐたので、甲斐日本犬保存會は宿望を達して大喜び、將來益々甲斐日本犬の保護繁殖に努める申合せを行つた。因に甲斐日本犬と云ふのは同地方特産の虎毛の日本犬のことである(昭和8年)

 

【紀州犬(昭和9年指定)】

犬
紀州犬の次郎號(昭和11年)

 

次は和歌山縣の所謂紀州犬(地犬)で、昨年の八月他の用件の序に視察したのであるが、同地方を巡歴して一番愉快に思つたことは、他の地方と違ひ、途上で屡々紀州犬を見かけたことである。沿道は勿論のこと、新宮市内でも同じ光景にちよい〃出會つた。これは交通の不便であるためと、猪その他の獵にこの紀州犬が最適であるので、かくも保存され、飼育されてゐるのであらうが、とにかく愉快に感じた。同地方では新宮を初め、瀞八丁にもゐたし、那智の滝へ行く道でやはり見かけた。三重縣下にも相當ゐるらしく、歸途三重縣を通つた際にも一、二見かけた。

 

天然記念物指定によって、紀州犬の価格は暴騰しました。

 

天然記念物に指定されてゐる紀州犬六頭のうち、一頭が指定後最初の賣買登記を終つた。三重県北牟婁郡尾鷲町岡本氏飼育の指定犬牝洲號は、今度同県一志郡久居町永井鹿蔵氏に買取られ、二十二日県指定臺帳に名義變更手續きを終つたが、この賣買價格一千圓也(大阪朝日新聞 昭和11年)

 

【越の犬(昭和9年指定)】

犬
大正12年に撮影された「加賀の山犬(越の犬)」

続いて「越の犬」が天然記念物指定されます。昭和9年の指定ですが、実際はもっと早くから内務省が関与していました。

 

日比谷の菊の跡に二十七、八兩日中央畜犬協會主催の犬の共進會が催された。集まる諸家の愛犬三百餘頭。出犬人連中が何れも優秀振を誇つてゐる。その中に、此れは又狐みたいに兩耳をによきつと立て、口先を尖らかせ、毛色まで狐色な見すぼらしい野犬二頭が、鎖に繋がれたまゝ惡ふざけしてゐる。聞けば加賀の國の山奥で生れた山犬の種だとある。
出品者の協會幹事で大阪支部長をしてゐる小菅米策さんは語る。
「土佐犬とか秋田犬とか云ふても皆多少の洋種が混じり勝ちだが、これは山犬だけに全く純粋な日本種でせう。昨年十一月頃、北陸線の大聖寺驛から十三四里も道に迷つて、山奥へ入り込むと武者修行物語にでもあるやうに、藤葛がらみの一軒家が在つたので、一夜を凌がして貰ふと、それが獨り者の獵師で、牝牡の山犬を馴らして獵をやつてゐるのです。それが頗る奇抜なもので、夜の十時頃から出かけて狐狸や貂などを襲撃し追ひすくめたところを小銃で撃ち獲め、多い時は一夜に狸七八頭も獲るとの話しでしたので、幸ひ牝牡二頭の仔を産んだのを無理に懇望して譲り受けて來たのです。
農商務省でも頻に日本種の繁殖を奨励してゐる様ですから、私も興味を持つて研究してゐますが、狐狸や貂などを獲るにはどんな洋種でも迚も及ばない手腕を持つてます。
穴ごもりの狸などを發見すると、穴をあけて五匹でも六匹でも居るだけの狸の耳を咥へて外へ引摺出して來ます。精悍とでも云ひませうか、五間や七間の高さは平氣で飛揚がり、木登りは猿のやうに達者、食料は殘飯に味噌汁をぶつ懸けて與へれば美味がつて食べる。人には此通り馴れ切つてゐるが、一度間違つたら怎で大敵へでも喰ひ着いて離れない所を見ると、矢張り本來の野獸性が顕はれるのでせう」

と笑つてゐたが、内務省の名勝舊跡天然記念物保存會では研究資料に譲り受けたがつてゐるが、小菅さんは自ら深く技能の研究を試みるつもりでお断りしてゐる。同氏は十八歳から四十歳の今日迄獵犬に就いての研究を續けてゐる熱心家である。
 
中央畜犬協會「場中の逸物は木に登る山犬(大正2年)」より
 
この時点で内務省は越の犬にも目をつけていたんですねえ。大正期の和犬保護活動は秋田犬が先行していたと思っていたのですが、ちょっとビックリ。
それから10年後。越前・越中・越後それぞれの地域で立山犬、大野犬、能登犬と呼ばれてきた猟犬は、昭和9年に鏑木博士により「越の犬」と命名されました。
 
八月廿八日、天然記念物調査委員農大教授鏑木外岐雄博士は、石川縣日本犬調査のため、同日は金澤市縣會議事堂前に、日本犬四十餘頭を集めて鑑定、更に付近町村の日本犬、翌二十九日は能登穴水町附近一帶の日本犬、三十日は江沼郡方面を視察したが、同地方日本犬の意外に優秀なのには博士も一驚した。加賀の能登、越前、越中一帯に産する所謂地犬の純日本犬を「越の犬」の名で天然記念物調査委員に付議し、指定される筈である。
「鏑木博士石川縣視察(昭和8年)」より
 
同年には越の犬保存会が石川県社寺兵事・農林・保安の3課主導で設立されます。福井県の大野犬と富山県の立山犬に関しては下記のとおり。
 
福井縣大野郡では、同郡出身の猪野毛代議士が、日本犬保存會の顧問をして日本犬に理解が深い關係から、同地方に棲息する純日本犬の大野犬を天然記念物に指定されるやう運動することになつた。
「福井の大野犬(昭和9年2月)」より
 
愛犬家の富山縣會議員飛見丈繁氏は、富山縣産の純日本犬大型約十貫のもの、中型約六貫のもの二種を天然記念物として指定し、繁殖保護されんことを縣社會課へ申請した。
「富山縣でも運動(昭和9年2月)」より
 
鏑木博士が越の犬調査へ赴いたのは、何とホタルイカがきっかけでした。
 
更に本年に這入つて五月の末、富山縣下の蛍烏賊調査に同地方に行つた序に、恰も今春立山犬保存の建議が提出されてゐた關係もあつて、ごく少數ながら所謂中北系の北陸地方に昔から飼はれてゐたものゝ殘つてゐるのを見かけた。
こゝにも熱心家があつて、殊に高岡の中紙榮一氏や縣議の飛見丈繁氏などは、同地方日本犬の保存に大に努められ、又それ等の人達の話では石川縣との界にある醫王山麓方面に昔から立派な日本犬が相當ゐるとのことであつた。
それが調べて見たく、他の調査もあつたので、八月末に今度は石川縣方面に出かけ、金澤、羽喰郡志雄村、能登穴水、宇出津、松任、能美、御幸村石川種畜場その他に於て、可なりの日本犬を見ることが出來た。この中最もよいと思つたのは穴水、松任で見た數頭及び種畜場に集つたものに相當によいものがゐた。
これ等北陸の犬は富山縣では立山犬、石川縣では白山犬、福井縣では大野犬なぞの名稱がないではないが、大體地犬と云つて居り、又殆んど同じ型の犬にいろ〃の名称をつけるのは面白くないので、これらの地方は昔の越路の國の古事に因み「越の犬」の名で綜合して、天然記念物の指定をすることになつた。
 
「越の犬」が天然記念物指定されたのは、同年末のことです。日中戦争が始まるまでに、石川県でも独自の登録制度が整えられました。
 
滅び行く純日本犬種保存の建前から天然記念物に指定された北陸地方の「越の犬」は、四月十四日附石川縣公報でいよいよ「越の犬審査規程」が設けられ、各町村の越の犬所有者は寫眞を添へてその毛色、特徴、肩高、體重等を縣へ登録を要することとなつた。

「越の犬審査規定(昭和12年)」より
 
福井、富山、石川の各県における保護活動の甲斐あって、越の犬は戦時体制下を生き延びます。
しかし昭和45年、最後の1頭である「マリ」が死亡。純粋な品種としては絶滅してしまいました。

【柴犬(昭和11年指定)】


美濃柴の赤號(昭和12年)

昭和10年に日保が社団法人化された頃、日本犬の評価は完全に定着。昭和11年には柴犬が天然記念物指定されます。
 
信州は柴犬の産地、山の中へ行けば未だ澤山の小型柴犬が居る。犬屋が盛に此れを掘り出しては東京へ出す。一頭三圓位で仔犬が賣れるので、山の中の炭燒は「豚を飼ふよりは儲りやす」といつて有卦に入つてゐる。併し犬屋さんはこれを持つて來て「十五圓位で東京へ賣れるんだ」と北叟笑んでゐる。
それかあらぬか、松本、上田、長野、飯田あたりでは此の柴犬が安くていいので中々の流行をしてゐる。雑種の日本犬を得意げに引張つて歩いてゐる紳士も中々ある。日本犬は血統書が要らぬので、犬屋としては實に都合がいゝ。雑種でも判らない。誤魔化して賣るには最も都合がいゝらしい。

南城達郎『信州だより(昭和11年)』
 
 
名古屋でも柴犬がこの程天然記念物として正式に指定された。小型で茶色の犬は決して今後殺してはならないことになつた。
指定とともに縣社寺兵事務課では縣下における柴犬の登録原本がつくられ、全部これに登録され曩に認定された越の犬保存規定が準用され、柴犬が保存されることになつた。

『柴犬天然記念物に(昭和12年)』
 
長野縣下伊那郡南アルプス登山口の遠山、平岡、豊地方に現在棲んでゐる柴犬五十餘頭を天然記念物として保存申請をした。
こゝの柴犬は耳が小さく三角形、身長は一尺二寸位で皇軍勇士のやうに勇猛果敢、今後この犬籍を作つて優良種の保存につとめる。

『犬界消息(昭和14年)』
 
【北海道犬(昭和12年指定)】

北夷
北海道犬の北夷號(昭和14年)

「セタ」「アイヌ・ドッグ」と呼ばれていた蝦夷地の犬は、昭和12年に天然記念物指定されました。
この際、アイヌ犬の呼称も差別的であるとして「北海道犬」となります。
 
北海道犬と云ふ名稱は、文部省の天然記念物指定の際採用されたもので、大日本帝國版圖の最北の分布を有する日本犬を指摘するものである。日本版圖の各地の犬がそれぞれ特別の名稱の下に天然記念物指定を受けた事は、地方的差異が日本中に相當判然してゐるに外ならない。
市川純彦『北海道犬(昭和15年)』
 
北海道犬が舊臘天然記念物に指定されたのを機に、今回左記委員會を以て北海道犬調査會を組織し、秋田犬や柴犬にも劣らぬ優秀性能を持つ本道特有犬種の保存が企畫されて居る。
會長
高辻道廳學部長
副會長
赤木工試場長、田中菊ニ道議
顧問
文部省天然記念物調査委員會東大教授鏑木外岐雄
相談役
幸前道廳社寺兵事部長、日本犬保存會斉藤弘吉、平岩米吉
調査委員
犬飼、新床兩北大教授(昭和13年)
 
広大なエリアで各地の系統を維持するため、猟犬としての能力ではなく犬舎蕃殖が優先されます。
 
將來の日本犬の蕃殖改良は、此等の犬を土臺にし、所謂犬舎蕃殖の方法を採らざるを得ない事情にありと云つて差支へない。北海道犬を保存せんとするに、同地方の關心者の一部に、犬を山にかへせ、舊○人に與へよと云ふ意見も出た。舊○人に與へる事に就いては筆者も亦賛成であるが、併し今日舊○人で狩獵を以て生計を立るるものは真に僅數に過ぎず、過去の北海道犬の必要は狩獵犬としてであつた。從つてきょうの状態に立至つたものを、只再び其の儘返すと云ふのは意味が無い。寧ろ深い理解のもとに都會地でなりとも致し方無きものとしても蕃殖改良をなし、其過剰を(あまりものと云ふ意味では無い)與へ、新しい理解の下に飼育せしめて實益に向けるべきであらう(市川純彦)
 
指定された後になって、「北海道犬は日本犬では無い」と主張する一派が登場。微妙な混乱をひきおこしました。
 
日本犬といふものは矢張日本の本土の犬が日本犬で、北海道の犬は日本犬ではない。あれが日本犬ならば北朝鮮の犬もみな日本犬である」といはれて居る座談會の記事があつた。
北海道は日本の本土にあらずして朝鮮と同一視されて居ることが第一に新説であると共に、日本に居る犬だから日本犬だでは、殘念ながら、あまりに至らない解説である。
北海道犬は(君はアイヌ犬と呼ぶが)日本犬であるといふことは通説である。昔アイヌ犬保存會といふのがあつて、この會の一部にアイヌ犬は日本犬にあらず、アイヌ犬といふ一別種なりといふ論者があつたが、然しその後の北海道乃至犬界の研究はこの犬は日本犬なり、北海道に永年土着した日本犬なりといふこととなり、非日本犬觀念を含むアイヌ犬の稱呼も亦不適當なりとして北海道犬と呼ぶこととなり、やがて天然記念物の指定をうけたものである。
君が今尚アイヌ犬といふ處を考へると、吾等は又ここで昔話を蒸し返して論ぜんければならんやうであるが、これは誠に耐へ得られぬ處で、時代逆行となるではないか。
兎に角、北海道犬をアイヌ犬と呼ぶことも、この犬種が日本犬にあらずといふことも、そしてそうした主張をして居つたアイヌ犬保存會も、もう葬り去られた過去である。昔を今に……と静御前ではないが、君がここに新に若し日本犬にあらずとならば何故にと詳しく教示願ひたいのである。
引續いていはれて居るところの言を借りるが「もつとすごい顔をして」居ることが日本犬である條件ではあるまい。北海道犬の顔だつて、日本人の顔だつていろ〃ある。
「アノ薄ボンヤリして」居ることが北海道犬の特色であるとは誰がいへるか。北海道犬だつて、日本犬だつてウスボンヤリもあればそうでないのもある。君の立論にも少し眞面目に研究的に統計だつて發表して貰ひたい。
スゴイ顔をして抗議する前に、ウスボンヤリでない丈に、教を乞ふ次第である。

北海道フツプシヌプリ生『高久先生に教えを乞ふ(昭和15年)』
 
……また日保と日協とアイヌ犬保存会が乱闘してる。

【四国犬(昭和12年指定)】


四国犬のジョン號(昭和10年)

四国犬の天然記念物指定は、昭和9年からスタートしています。
 
秋田犬、甲斐犬が天然記念物に指定されたに刺戟され、犬の國土佐では亡び行く傾向にある土佐地犬(日本犬)保護のため縣社寺課でも今回牝牡別頭數一年間の繁殖見込、仔犬處分實情の三項にわたり山村の四十三町村、關係十一警察署に照會を發した。

『土佐犬の分布調べ(昭和9年)』
 
土佐日本犬には三つのタイプがあります。即ち西部―幡多郡の犬と、中部本川を中心とする犬、それに―東部安藝郡の國境にゐる犬、この三つに分けることが出來ます。
幡多郡の犬は、所に依り多少體型を異にしてゐますけれども、元來、厚耳で比較的小さく、首は大きくガツチリしてをり、目は稍小さいのが、西部にゐる土佐日本犬の特徴であります。
本川系統の犬は、幡多郡の犬が目は小さいのに對し、丸眼の缺點を持つた犬もゐますが、反面、三角眼で、目尻の吊り上つた、形の非常に勝れた犬もをります。耳は幾分薄氣味であると言ふことが出來ます。
安藝郡の犬は、鹿犬型でスツキリした犬ですが、頭蓋骨が幾らか小さく、中高が多いのであります。
土佐犬を分けて、大體以上の三系統としてゐます。その内幡多郡の特徴を持つてゐる犬は、西部のやないを中心に多く、一名「やない犬」と呼ばれてゐます。これは耳は非常に小さくて、殆んど正三角形で前傾きの耳で、幾分厚いのであります。
そのほか、綿毛が多く、毛も稍長く、從つて尾も太いのですが、首をさげて歩く癖を持つてゐます。身長は幾分長く見えるやうな傾向があります。
私の飼育してゐる、一昨年文部大臣賞を貰つたゴマ號は幡多系統の犬で、その中の正木系と云います。正木村は、元來愛媛に属する村で、高知とは小川を隔てて隣接してゐますが、犬は土佐犬と言つてゐます。
正木系と言ふのは、古老の話に依りますと、やない犬に九州の犬がかかつたものださうでありまして、やない犬の缺點が補はれた、即ち極端に耳の小さいのを、幾分補つた意味合の犬であります。も一つ私の飼育してゐます、昨年文部大臣賞を貰ひました長春號は、中部の本川系統の犬であります。
安藝系のものは、細型で、背の高い、足の細い鹿犬型の犬であることは前に述べました。
こう云ふ次第で、土佐の者は、強ひて他處から犬を入れなくとも、土佐のうちに、これだけの變つた犬がゐるのですから、一概に近親交配とのみは言へないのであります。自分のことを引合に出すのは恐縮ですが、現に私などもゴマ號には中部系統の犬を撰び、長春號には幡多系を撰んで交配させると言ふ風に工夫してゐるのです。
土佐日保支部では、何はさて天然記念物として指定されてゐる土佐日本犬を、その理想的タイプに完成して行くことを先づ目標とし、次に更に進んで、他の産地の犬と交配したいと言ふ氣持を持つてゐるのです。これは一面日本の民族と共に歴史を作つた犬を土と共に愛する、言ひ換えますと眞の意味の動物愛護の氣持に依るのであります。

岡崎眞積『土佐日本犬に三型ある(昭和14年)』
 
最後に天然記念物指定されたのが朝鮮半島の在来犬でした。朝鮮総督府が珍島犬と豊山犬を「朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物第53号」に指定したのは昭和13年のことです(この記事では対象外とします)。

【指定された犬の解釈】
 
私のこれ迄に觀察した日本犬は以上の通りであるが、今後も機會のある毎に各地方の日本犬を調査し、純粋のものは天然記念物の指定を行つてゆきたいと思つてゐる。
一體天然記念物とは郷土の自然を記念するもので、本來から云へば日本獨特の犬全體を指定したいのであるが、先に述べたやうにいろ〃の型があるので、大體その型によつて順次に指定した方が効果があると認め、順を追つて指定の段取りとなつた次第である。
今日までに指定されたものは、私の觀察した、即ち前記に述べた、秋田犬、甲斐犬、紀州犬及び越の犬で、越の犬は漸く十月十九日の委員會で決定した許りである。
 
【各地日本犬の特徴】
 
その各地日本犬の特徴その他に就ては、私の調査の結果が文部省に報告され、記録に上つてゐるが、それとても絶對的のものでなく、又、いろ〃誤解を招く虞れがあるから、こゝに發表することは遠慮して、ごく通俗的にかひつまんで云へば、秋田犬は大型であるからこれは説明するまでもないが、甲斐犬は中型のやゝ小形の方で、特徴は黑味の多い茶褐色の虎斑を呈してゐること、飛節がよく發達して岩石の多い山地を疾駆し、鹿、かもしか獵に最適の輕快性を帶びてゐる。
紀州犬と越の犬は顕著な差異はなく、恐らく朝鮮經由で來たものであらうが、たゞ紀州犬は猪獵に適するのに反し、越の犬はどちらかと云ふと穴熊、狸、兎、山鳥獵に向くやうである。
毛色はいろ〃であるが、越の犬は赤毛のものが多い。それに能登地方のものは吻部が出て、なんとなく黑味を帶び、野獸の面影を殘してゐる。
 
【日本犬保存の方法】
 
最後に保存の方法であるが、天然記念物は日本特有の家畜の保存を計ると同時に、その繁殖を助成することを要すとあつて、この助成の意味から文部大臣のトロフイが日本犬保存會に下附されたもので、出來る丈け原型をとゞめた犬を殘すことに努めたいものである。
私の希望としては全國的のものとして日本犬保存會に大臣賞が下附されたのであるから、更に各地方の團體に對しては年々文部省からメタル位は贈つて、代表犬を表彰することにすれば、一層國犬の保存奨励の意義が達せられはせぬかと考へ、これは是非實現させたいと思つてゐる。
各地方でも日本犬熱は大にあがって、縣でもそれ〃内規などが作られてゐるやうであるが、この際一般愛犬家に特に聲を大にして申上げたいことは、同じ型の犬に對し、個人的の事情や感情はサラリと水に流し、大なる見地のもとにお互に協力し、綜合的の會を作つて統一するやうに努力されたいことである。
そしてそれ等の有力なる團體で犬籍登録を行ひ、毛色やその他の遺傳に就いて科學的研究を進められ、それ等の資料を提供するやう積極的に活動されたいことである。
 
日本犬の再評価により、その扱いは180度ひっくり返ります。山間部に生き残っていた猟犬をペット商が買い漁り、「採集圧」も深刻化していきました。
 
天然記念物に指定され、一躍天下の寵児となつた「熊野犬」が、本場の新宮地方から姿が消えさうになつた。これは熊野犬を阪神地方の愛犬家に売込むブローカーがめつきりと増え、古座地方から新宮川丈付近で盛んに熊野犬の生後二ヶ月くらゐの仔犬四、五十頭を十圓から十五圓ぐらゐの安値で片つぱしから買取つてゆくので、同犬保存會では數年ならずして熊野犬の種が絶えると憂慮し、防止對策を講じることになつた。
 
『熊野犬俄に激減(昭和9年)』
 
犬界の國粋保存と云ふか、復古趣味と云ふか、日本犬保存會あたりが日本犬のよさを宣傳し始めてから、かつて犬にあらずとまで輕蔑された日本犬が、斷然人氣を得て、この頃は日本犬でありさへすれば引張凧の有様。この潮先にのつて一番ホクホクなのは日本犬を飼つて居る山家の人達で、今迄は犬が仔を産んでも、その處分に困つたものが、飛ぶやうに賣れるものですからこたえられません。
その今迄處分に困つたと云ふのは、何分物資に乏しい山村のことで、犬の食糧も容易ならぬ負担で貰ひ手は更になく、獵用に是非必要な犬はやむを得ませんが、その他は極力殖えることを避け、萬一仔が出來ても捨てゝ育てなかつたのです。
ところがこの頃は、仔さへ産まれゝば兎に角五十錢、一圓、或は三圓、五圓と云ふ、山村としては甚だ高値に引取る人があるのです。兎を飼つても一年育てゝやつと一匹七、八十銭に賣れゝばよい方ですのに、犬は生れて僅か二、三週間で、もう立派な商品となり、その上一腹に何匹も生れるのです。
全くこんなボロい商賣はありませんから、今や山村の日本犬飼育熱は都會以上に急騰し、日本犬様々の有様で、事實山村の副業として、現在の日本犬位金の確實に儲かるものも尠ないでせうが、この状勢がいつまで續くかは問題です。

『山村の副業に日本犬様々(昭和8年)』
 
まあ、産地側も良犬を守る自衛策を取っていて、ペット商に差し出すのは三流犬ばかりだったんですけどね。
ペット商側としては「〇〇地方で買った和犬」という箔があれば三流犬でもよい訳で、やがては出処の知れぬ犬や雑種犬までも「立耳巻尾ならば何でも売れる」という異常事態へ突入。都市部へ放出された和犬たちを系統だてて交配する動きがあったのは、唯一の救いでした。
こうして日本犬は復活を遂げたのです。
 
(次回へ続く)