貞享二年(1685年)七月三十日
将軍出行に際し、犬猫の繋留を禁ず。
現今にても高貴の方の御通行御警衛の際

同年八月六日
浅草観音別當知楽院門生に對し、門前の犬を殺したる事釋徒の法に背きたりとて、紅葉山の法務並観音の別當を奪はる。

 
同四年正月二十八日
此日生類憐みの令出ず。
惣而人宿又者牛馬宿其外にも生類煩重候え者、未死内に捨候様粗相聞え、不届之族有之者、急度可被仰付候、密々左様成儀有之候ハゞ、訴人に出べし。同類たりとも、其科を免じ、御褒美可被下者也。

徳川十五代の中、他に比類なき虐政なりとして有名なる本令は、其後元禄を経て寶永六年正月十日、綱吉六十四才を以て薨去せらる迄、實に二十二年の永きに亘りて継續せられ、庶民の困憊其極に達したりと云はる。

竹内貞一『犬難暦(昭和10年)』より

犬
全国各地に残る地名「犬の馬場」。多くは犬追物の開催場所につけられました。

中世以降、野犬の駆除・捕獲・遺骸処理(皮革の生産)を生業とする者達が現れます。
それが、いわゆる「河原ノ者」と呼ばれた人々。忌み嫌われる仕事は、身分の低い階層に押しつけられていたのです。

武将が「犬追物」を催す際には何十~何百もの犬を集め、開催日まで飼育し、当日には犬馬場まで曳き出す必要がありました。
しかし、武家にそのようなノウハウはありません。
そこで、犬の調達・運用業務を委託されたのが上記の「河原ノ者」でした。彼等は野犬を扱う専門家集団として見做されていたのでしょう。

帝國ノ犬達-犬追物
犬追物の役割を表したイラスト。前列には犬放者、犬掛者、犬下知、犬牽といった犬の取扱担当者が並んでいます。犬の首に接続された竹筒(先端を輪にした紐が通してあります)は、犬に噛まれないよう捕獲・制御するための器具。
一大イベントである犬追物も、身分の低い「河原ノ者」の支援なくしては成り立ちませんでした。


また、市井において野犬の遺骸処理をしていた人々は「犬拾」「狗賊」と呼ばれていました。彼らは犬の遺骸を集め、毛皮と脂肪(蝋燭の原料)に加工していたのです。それらが河原ノ者と共通の職種だったのかどうかは不明。

江戸時代の犬拾については、大阪の浮世絵師である暁鐘成が目撃談と記録画を残しています。

浪華(なにわ)に生るゝ犬狗、天命の畜齢を保たずして、悉く狗賊の為に害せらる。憐むべきの至りなり。
右狗賊(くぞく)といへるハ、俗に犬取、或は犬殺と號(なづ)けて、浪華の地に多く、他國に於ては聞も及ばざる事なり。
凡そ〇〇の者の内にて、就中無頼の者の成るなるべし。尤予が幼年の頃ハ、犬拾ひとて〇〇の者、頭に編笠を被り蜜柑の明籠に茣蓙(ござ)をかぶせ、是に棒を添て肩にかけ、未明より市中を往返して、死したる犬猫を拾ひ廻れり。
是等は其法例正しく、聊にても息ある内は、打守り居て手を下さず。
全く死するを待て、其他の人に心得て持帰るを風(ならい)とす。實に賤しき者ながら、其正直なる事感ずべし。
然るにいつの頃よりか、斯の如き者ハ更に見も及ばず、狗賊はびこりて畜齢の終るを待ず、悉く殺害なす事とはなれり。其上傍若無人の挙動多く、甚憎むべき所為なり。
夫犬ハ家を守つて非常の人を内に入ず、窃盗を防ぐの宝獣なり。
然るを猥(みだり)に殺害する事、たとへば用心に置きたる番人を殺すにひとしく、賊の加勢をなす悪党といふべし
(一部を伏字にしました)

殺生を避けていた初期の「犬拾」が、数十年を経て手当たり次第に犬を狩る「狗賊」へと変化していった様を伺い知ることができますね。
その原因は、関西地方における三味線の流行でした。遺骸集めだけでは材料の犬皮が足りなくなり、狗賊たちは片っ端から野犬を狩るようになったのだとか。

なお、幼き日の鐘成が見た「犬拾」の姿は下図のようなもの。中華風の絵柄にアレンジしてあります。

帝國ノ犬達-狗賊
此圖は予若年のころ、或商家の店前に出せる襖に畫きし戯れ畫にして、彼犬拾ひといへる者を唐土風に転じ、犬を虎にかきかへたるなり(暁鐘成)

「狗賊」は明治になって「犬釣」「猫釣」と呼ばれるようになりました。飼犬や飼い猫の大量窃盗犯が、警察に検挙された事例も度々記録されています。
近代日本の犬泥棒は、日本畜犬界の発展と共に知能犯化。高価な洋犬や珍種を盗んで転売したり、尋ね犬広告が出たのを見計らって届出たうえ謝礼をせしめたり、毛皮として売りさばいたり、大学などへ實験動物として転売したりとイロイロなタイプへ進化していきました。
戦争激化により皮革統制が始まると、犬皮を目的とした飼犬の盗難事件も激増します。



このように粗末な扱いをされていた犬もいれば、主人に愛された犬もいました。鐘成さんは、犬のことを「宝獣(益獣)」と評価していますね。

昔の日本にも、たくさんの人々と無数の犬達が暮らしていたのです。
当然ながら、その中には犬を虐げる人も犬を愛する人もいました。ただ単に、それだけの事なのです。
以上を無視して、「昔の日本人は動物愛護精神に欠けていた」などと乱暴な主張をされても困るんですよね。
犬の日本史は「真実はひとつ」ではなく、「さまざまな出来事の集合体」という捉え方が適切なのでしょう。


帝國ノ犬達-龍野何某

京師堺町某の町に住める龍野何某といへる医師、優れて情深く、ものを憐れむ人なり。家に養ひたる猫ありて、子を生みたるに、程なく何地へ行きけん出でて帰らず。仔猫は乳にはなれて飢死すべく見えければ、主人いかゞして救はんと思ひをこがし悲みぬ。妥に常に此家に来り、食をあたへられ憐みをかけて、能馴れたる牝犬あり
そこで龍野先生は、この牝犬に仔猫の世話をさせようと思い付くのです。
暁鐘成「主の頼を聞て犬、猫の子を養ふ」より 嘉永7年

近世日本の場合、動物愛護が「生類憐みの令」という極端なカタチで実行された歴史もあります。
お上が捨て子の横行を禁じたところ、庶民がそれを護らず、更にルールを厳しくしても護らず、遂には動物の殺生を禁じるまでにエスカレートしていったのが真相だとか。
将軍様が過激な動物愛護へ走った原因として、「一般庶民が犬を粗末にしていたからではないか?」と思われるかもしれません。
しかし、お上からの押し付けばかりではなく、龍野先生のような愛犬家も普通に存在していました。彼等がいなければ、日本の昔話に花咲爺さんやしっぺい太郎のような忠犬談は存在しなかった筈です。

ただし、多くの日本人には犬を飼う事への「西洋的な飼育責任」の感覚すら無かったのは事実。
テキトーに放し飼いし、不要になれば捨て犬にするのが当たり前でした。
結果として無数の野犬の群れが町々を徘徊し、彼等を原因とする咬傷事件や狂犬病が頻発していたのです。

生活範囲が重なる人と犬は容易に敵対関係へ陥り、それを避けるためにも飼育には共通のルールやマナーが必要でした。
生類憐みの令をはじめ、幾つかの藩が定めていた犬の飼育ルールは、やがて近代日本の畜犬行政へと世代交代します。

帝國ノ犬達-夢
手元の史料が痛んでいるので分かり難いですが、画像は棒で打たれる夢を見る犬。
「犬睡るとき夢を見ておそはるゝ事常にあり。是なん人に打たゝかれ、怖しき目にあひしを忘れずして、夢に見ておそはれるなるべし。斯る思ひ聊も人にかはる事なし。是等の事を想像りて、必らず打擲きすべからず」
暁鐘成「犬狗をやしなひ育つる慈愛の心得」より 嘉永7年 

国や時代によって状況は変化します。
欧米は動物虐待への対策が早期に普及しただけのこと。
繰返しますが、日本動物愛護史にとって「昔の日本人には動物を愛護したり、虐待を諌める心が無かった」などという極論を叫ばれるのは大変困るのです。

そして幕末。
開国によって、外国からは「西洋式の動物愛護運動」が流れ込んできました。

(次回に続く)