歩兵第五聯隊事件の死體捜索に關して、眞先に犬の使用を願出たるは青森市垣崎巳十郎氏にて、其飼犬は最初の日にこそ死體數箇を發見したりしかど、其後は少しも効を奏せず、次に東京市日本橋區鹽町小林善兵衛氏も参謀本部の手を經て態々飼犬セントバーナードを捜索地に送りて捜索に從事せしめたるに、犬は其處此處の積雪上に彳みて吠える様、死體所在を示すものゝ如くなるより附添ひたる小林方の雇人岡部は大に喜びつゝ捜索兵と共に積雪をば五六尺も掘下げたれど、死體更に見當らず、遂に空しく歸京したれば、犬は到底斯る捜索の用を爲すに足らざるかと人々をして失望せしめたる折柄、遖(あっぱ)れ我こそは手並を見せんずと現はれ出たるは、北海道のアイヌの飼犬にて其犬は都合十一頭あり。
彼等は日頃積雪の經驗に富み居る事とて、頗る人々の注意を惹き居たるが、果せるかな捜索兵にも立優りたる働を顕はして續々死體を發見したりと云ふ。

扨、此名譽ある犬は如何なるものかちいふに、恰かも獨逸のスピツプ種と其形殆ど同じく丈三尺二、三寸ありて足より背に至るの高さは二尺餘もあり、身毛の長さ約二寸四五分に及び、耳は甚だ小さくして狐の如く、毛色は白又は茶褐色ありて、臭官頗る鋭敏なりとぞ。

 

時事「屍體捜索用のアイヌの飼犬(明治35年)」より
 
青森空港から眺める八甲田山系
 
【日本の救助犬史】
 
今回ご紹介するのは明治時代のレスキュー犬。
「日本で救助犬の育成が始まったのは1995年の阪神淡路大震災以降」という解説を見かけますが、実際は戦前から民間の救助犬や日本軍の負傷兵捜索犬が活躍していました。
人の危難を救う犬の能力については江戸時代の忠犬・義犬談にも記されており、西洋のレスキュー犬を知る前から受け入れの土壌はあったワケです。大正時代にヨーロッパの警察犬訓練マニュアルが邦訳されたことで、「探偵犬(遺留品捜査)」「警邏犬(警備と巡察)」「救助犬(当時は漂流する水死体の収容が主任務)」の運用法も周知されるようになりました。
 
帝國ノ犬達-犬
寛文三年(1663年)に駿府の在番、酒井伊豫守殿(酒井忠清)おはせしに、小屋に白犬の有りしが、常に豫州どのゝ前に出るを、小坊主に仰せて物を喰せ給ひし。
ある時豫州殿遠まわりに、とうめと言所に出給ふ。
小坊主も供にまいりしが、過つて谷へ落たりしに、何方より来りしやらん、件の白犬はしりより、帯の結めを噛へ曳て、岡を見上げて吠けれバ、各(おのおの)これに驚き引上げて助けけり。
是を見聞くもの感ぜぬハなかりしとぞ
 
絵と文・暁鐘成『茶道坊を助けて犬恩を報ず(嘉永7年)』より
 
日露戦争ではロシア軍が負傷兵捜索犬チームを実戦投入。軍馬の知識しかなかった日本軍は、軍馬と伝書鳩と軍用犬を使いこなすロシア側の戦術に驚愕します。
陸軍歩兵学校が軍用犬研究をスタートした大正8年以降、オーストリア陸軍の教本をもとに負傷兵捜索犬の研究がスタート。第一次世界大戦における負傷兵捜索犬のデータも参考にしつつ、大正末期までに研究が完成します(お世辞抜きで世界レベルに到達していました)。
 
帝國ノ犬達-衛生犬
第一次世界大戦ではヨーロッパ各国が負傷兵捜索犬を実戦投入、それらの中で最も優れていたドイツ軍のレスキュー技術を日本陸軍歩兵学校が採用しています。
 
昭和3~10年にかけて陸軍の救助犬訓練マニュアルが民間犬界へ公開され、大規模災害や山岳遭難に訓練を受けた救助犬や在郷軍用犬が参加するようになりました。
昭和12年に始まった日中戦争では、日本陸軍の負傷兵捜索犬を実戦投入。蓄積された技術や経験は、しかし昭和20年の敗戦によって失われます。
救助犬が復活したのは戦後復興期のことで、雪崩に巻き込まれた登山者捜索に嘱託警察犬が出動。以降、活動範囲を拡大していきました。
 
カール
神戸市立第一高等女学校の火災現場で行方不明者の遺体を発見したカール號(昭和9年) 
 
要するに、日本救助犬界は自らのルーツについて調べてすらいないのです。
近代日本の黒歴史から目を背けた結果、関東軍501部隊を源流とする地雷探知犬、陸軍省医務局の戦盲軍人誘導犬からはじまる盲導犬、満州国税関が育成に取り組んだ麻薬探知犬などの歴史も辿れなくなってしまいました。
自ら記憶喪失に陥り、欧米から輸入されたことを誇る偽歴史を捏造するのはソロソロ止めてください。
 
今回は、その存在すら忘れ去られた戦前のレスキュー犬について取り上げましょう。
公的機関が救助犬を運用した日本最初の事例こそ、冒頭に掲げた八甲田山遭難事件です。
 
犬
ソ連との軍事衝突に備える日本陸軍は、冬期戦における負傷兵レスキュー訓練にも力を注いでいました。画像は日本陸軍歩兵学校軍犬育成所による、負傷兵捜索犬の雪中訓練風景(赤倉山麓にて、日中開戦前)
 
【八甲田山遭難事件発生】
 
明治35年1月23日。陸軍第8師団青森歩兵第5連隊の210名は、来るべきロシアとの冬季戦に備えて八甲田山での雪中行軍訓練に出発しました。

同じく八甲田山で、20日から別ルートを雪中行軍していた弘前第31連隊員は29日に無事帰還。しかし、ずっと早く戻る予定の第5連隊員はいつまでたっても姿を現しません。
慌てた出迎え部隊は1月25日から捜索を開始。27日に行軍指揮官の神成大尉(死亡)と後藤伍長を救出したことで、計199名が死亡するという大惨事が発覚します。
大規模な救助活動にもかかわらず、発見された生存者は僅か11名。更に、極寒と猛吹雪が捜索隊の行く手を阻みます。捜索隊員は過労・凍傷・インフルエンザで次々とダウンし、雇われた人足もあまりの寒さに作業拒否する者が続出しました。
その様子を、当時の新聞記事はこのように伝えています。

 

風雪激しく雪四尺を増し、哨舎ハ皆破壊され、捜索隊ハ凍傷患者を生する景況なるに依り、最前線の捜索隊ハ皆後方に引揚げ其の他の哨舎を構築中なり。

目下捜索隊に使用せる兵卒ハ千六百名、人夫ハ千四百名なるが逃亡する人夫多く困難の情況なり。本日發見せし者なし。捜索隊にハ異状なし。目下天候稍静穏なり(2月5日)

 
昨夜歩兵第五聯隊の捜索隊百十七名交代して歸營せり。内九十七名ハ患者として休養せしむ(2月6日)
 
本日烈風時々雪を齎らし天候不穏、山中にある捜索隊の人々大に困難なり(〃)
 
午後ハ吹雪となり一層寒氣厳しく捜索出來ず(〃)
 
犬
明治時代の日本に紹介されたスイスの救助犬(『感ず可き犬の實話(明治43年)』より)

極限状態での救助活動の中、八甲田山にレスキュー犬が姿を現しました。
現代では北海道犬ばかり注目されていますが、実際は青森の猟犬、東京のセントバーナードなども捜索に参加。アルプスの救助犬など、西洋の知識が日本でも広まった時期と重なったのでしょう。
メディアによる報道や青森歩兵第5連隊が編纂した『遭難始末』などの事故報告書より、当時の状況を引用してみます。
 
凍死軍隊と獵犬
青森縣に於ける凍死將校の躰軀捜索に就ては獵犬を使用せるが、市内日本橋區通鹽町小林善兵衛氏は兼ねて最も熟練慧敏の洋種獵犬を養ひ居るこゝとて、之を曳き自ら捜索隊に加はりたり。
 

『銃獵(明治35年)』より

 
獵犬の無効 
東京より來たりたる獵犬ハ雪の深き爲め其効なく明日連れ歸るよし。又青森の獵犬二頭ハ曩に結果良かりしやに聞きたるが、捜索隊の多人數なるを恐れ實際効果なかりしと云へり
 
明治35年2月9日の東京朝日新聞より
 
有名なアイヌ捜索隊の北海道犬以外に、東京や地元の青森からもレスキュー犬が参加していたとありますね。
八甲田遭難事件関連の書籍には出てこないし、一体何だコレ?と思ってアレコレ調べたら、捜索期間中のレポートに関連記録を発見しました。
捜索に参加した犬は、1月30日に青森・柿崎巳十郎氏の猟犬、2月5日に東京・小林善兵衛氏のセント・バーナード、2月10日に北海道・弁開凧次郎氏らのアイヌ犬(「アイヌ犬」の名称は差別的であるとして「北海道犬」へ変えたのは、昭和12年の天然記念物指定前)という順番だった様です。
まずは柿崎氏の猟犬たちの記録から。
 
捜索隊は一の哨所を作りて捜索を爲さんとするには、先づ一望概然たる雪を踏み堅めて一條の雪道を作らざるべからず、踏み堅むるには三人一隊となりカンヂキを使用せざるべきあらず。斯て成りたる細經も吹雪にして一度至らば忽ち消へ去りて、一望概然の景状に復する恐あり。幸に此の兩三日晴天打續きたるより無難なりしも、一朝風雪の起るあらば折角の苦心忽ち水泡に歸すべし。聯隊本部の一意天候を案ずる故なきにあらず。
●先鋒は獵犬
青森市役所の意見を採用し、田茂木野に於ける五聯隊出張所は獵師一名を雇ひ獵犬を牽かしめて捜索隊の先鋒となし、一月三十日朝六時より捜索に從事したり。生存者約三十名を發見し屍体十個を發掘したるも、獵犬の効なるべしとの説あり
 
詳しい捜索状況は下記のとおり。柿崎氏の猟犬は相当な貢献をしたと記されています。
 
●獵犬と死体捜索
獵夫柿崎某の獵犬が如何にして死体を發見するかと云ふに、先づ英敏なる鼻をうごめかして此方彼方と駈け廻り、死体の埋れある場所に至る時はうゑに佇んで主人巳十郎の來るまで動かず、斯くて主人至れば其の任を果せるが如き様して又駈け出して目と鼻をうろつかせ好く捜索の意を了して孜々努むるが如き状、一見感ずべき程なりと云ふ。
犬の佇立せる場所に捜索兵を呼んで發掘すれば必ず死体の埋れありしと、流石は平常主人が獵用に練らせし甲斐ありて此回其の効を奏せしか。
獵犬二頭はあまりに勞疲せるものにや病んで主人と共に休養し居たりと。
 
いずれも千城生『悲慘雪風・雪中行軍隊(明治35年)』より
 
青森の猟犬が撤収した後も、陸軍ではレスキュー犬の投入を続けました。雪に埋もれた遭難者を捜すため、犬の捜索能力に期待していたことが分かります。
続いて参加したのは、アルプスの救助犬として有名なセント・バーナード。
明治時代にセント・バーナードがいたのか?と思われるかもしれませんが、八甲田山事件は幕末の開国から40年近く経った頃の出来事です。明治日本にはさまざまな洋犬が輸入されていました。
 

大正9年に輸入されたセント・バーナード。大正~昭和初期にかけて輸入が増えたものの高価な希少犬であり、昭和10年度の東京府における飼育登録数は12頭となっています。

 

捜索用獵犬派遣
本日陸軍省より捜索の爲め獵犬派遣の事を照會あり。第五聯隊にてハ依頼の旨返電せり(2月3日)

 
洋犬使用者の青森行
日本橋通り塩町小林善兵衛なるもの洋犬(※セントバーナード)を使用して凍死者の死體を捜索せんことを願出で、昨日許可を受けて青森に向け出發したり(2月5日)
 
獵犬遭難地に向ふ
東京より來れる獵犬ハ昨日遭難地へ向ひたり。又北海道よりも來たる筈なり(2月6日)
 
「本日天候宜し。頗る見込みある地點を發見し大捜索を爲したり。犬も使用しつゝあり(2月8日)
 
しかし、ヨーロッパで実績のあるセントバーナードであっても無訓練では役には立ちません。翌日にはこのような結果が報告されています。
 
 

第五章 捜索救護計劃並に實施 
第三、實施第二期 
自二月二日 至二月九日

二月七日
本日は特に東京の人小林善兵衛が特志を以て死體捜索に使用せんが爲、店員岡部某をして携行せしめたる「セントバーナート」種獵犬を監澤捜索(※監澤義夫大尉指揮の第2捜索隊)に附して之を試みしも、犬は未だ其目的を解せざる者の如く効果を収むる能はざりき
八日
捜索諸隊は午前八時より捜索に從事し小林氏の飼犬は更に種々なる方法を以て捜索に試みしも、遂に効果を得ずして歸還せしむるに至れり

 
どうやらセントバーナードは役に立たなかった様ですね。
それで犬の使用は諦められたかと思いきや、2月9日から2月18日にかけての第3期捜索では新たな猟犬が投入されています。
この時北海道から招聘されたのが、雪山での狩猟経験豊富なアイヌの猟師たちでした。
 
八甲田山駒込川上流域で捜索中の弁開隊(陸奥青森寫眞師:柴田一奇撮影)
 
2月10日、陸軍より協力要請を受けた弁開凧次郎氏ら一行はアイヌ犬(現在の北海道犬)を連れて青森に到着。捜索部隊と共に雪の八甲田へと入山します。
 
 

第四、實施第三期 
自二月九日 至二月十八日。

此日(2月10日)北海道土人辨開凧次郎以下七名各獵犬一匹を携え來着す。
是より先、津川聯隊長は土人の雪國に生長し其經驗の多からんことを思ひ、之を雇用して捜索に使用せんと欲し第八師団参謀長林大佐に語る。
大佐其言を然りとし函館要塞司令官谷澤砲兵少佐に計る。司令官斡旋即ち七名を得て派遣す。
由て翌日より捜索に從事せしむ。
(中略)
司令官因を北海道膽振国茅部郡森村醫師村岡格に嘱す。
村岡格斡旋の結果同郡落部村辨開凧次郎、同勇吉、有櫛力蔵、板坂是松、碇宇三郎、板木力松、明日見米蔵を得たり。
由て直に之の聯隊に報じ二月十日を以て屯營に到着し翌十一日より捜索業務に從事することなれり。

 
駒込川渓谷での捜索に従事した弁開隊は、「死力を尽す」と宣言した通りの活躍を見せました。
峻嶮な地形をものともせずに深雪を踏破し、凍りつくような冷たい川に腰まで浸かって遺体を回収するなど「地方人夫をして驚嘆舌を捲かしめたり」と記されています。
 
此の數日間は天候不良の爲め到底捜索の目的を達するを得ず、空しく數千の軍隊をして恨みを呑ましめしが、去る十一日捜索大隊の新編成と其の翌十二日の朝に至りて天候一變、近來稀れなる好天氣となりたるを以て、何れも大に喜び勇みに勇みて各哨所を出發し、捜索地に向へり。是れより先き十一日夜、平岡大隊長より左の命令ありたり。
一、第七哨所(爾今豊田、馬渡、後藤の三捜索隊所在地を第七哨所と稱す)は明日の捜索に關しては昨夜命令の通りとす(捜索進行の都合に依り第五捜索區域の捜索をなすべし)
二、鎌田捜索隊は明十二日鳴澤附近の捜索をなし、且つ去る九日石丸中尉の發見せし死体を運搬し歸るべし
三、アイヌ捜索班は明日午前八時鎌田捜索隊を續行し、駒込川の河谷を捜索すべし
 
アイヌと獵犬
北海道より來れる辯開外六名には獵犬と共に遭難地にありて、捜索に從事し居ること別項にあるよしとなるが、獵犬は從來の犬と同様其の効果を認めざるもアイヌ丈けは經驗あるものから人跡の容易に到るべからざる渓澗斷崖等を跋踄し大に捜索の力となり居る由(柴田一奇)
 
 

其の被服たる襦袢、袴下に綿入一枚を着し股引を穿ち麻製脚絆を用ゆ。
而して其上所謂「アツシ」なるものを被ひ足には鮭皮鹿皮若くは馬皮製の靴を穿ち、而して各人悉く懐に狐の頭骨を携ふ。
曰く護身の神なりと。
斯の如くして身體輕捷、其働や敏活山野を跋渉する平地を行くが如し。
此一行は四月十九日に至るまで六十七日間連續捜索に從事し得る所、死體十一、其他行軍隊の遺棄せる武器装具等を得たるは蓋し枚擧に遑あらず。
其賃金は一日の額辨開凧次郎、有櫛力蔵は二圓他は一圓五十錢宛を支給し、且つ三月上旬賞與として金圓を與え、歸還に際しては聯隊長の名を以て各人に感謝状を附與し添ゆるに同じく金圓を以てす。

而して猶彼等の志願により三神少尉報告の爲め、弘前師團司令部に赴くの便を以て該所に誘導せしめ、市内を一巡して師団司令部並に官衙兵營の状況市街の光景を觀覧せしめたり(歩兵第五聯隊)
 
アイヌ捜索隊の活躍を伝える地元青森のカメラマン
 
これは余談ですが、八甲田山遭難事件に対しては「無能なる團隊長に依て雪國の健兒二百餘名を空しく凍死せしめたるの報に接してハ憤慨痛嘆に堪へず(2月6日)」と世間からの非難が集中しました。
しかし、東北や札幌の部隊では直後に同様の雪中訓練を強行。一体ナニを考えていたんだか。
猛吹雪で散々な目に遭いつつも、こちらは全員無事に帰還したそうです。
 
【八甲田山事件以降のレスキュー犬】
 
八甲田山事件は、公的機関がレスキュー犬を使用した日本最初の事例となります。
次に日本人がレスキュー犬と遭遇したのは、2年後の日露戦争でした。
日本軍との戦争に備えるロシア軍は、イギリス軍からハンドラーを招聘して負傷兵捜索犬部隊を編成。開戦と同時に実戦投入します(英軍上層部から冷遇された軍用犬専門家が、敵対するロシア側へ協力したという経緯でした。日英同盟とかあったけど気にしない)。
八甲田山のレスキュー犬報道ですが、日本国内では知られていなかったのでしょう。日露戦争において、馬と鳩と犬を駆使するロシア軍の戦術に日本軍は困惑しきりでした。
 
帝國ノ犬達-ロシア衛生犬
黒溝臺の役(※黒溝台会戦)、露兵は赤十字の徽章を巻きたる犬を戰線に放ち、我が軍の處在を探る(横井特派員・明治38年)
 
上に掲げたイラストは、ロシア軍の負傷兵捜索犬を警備犬と勘違いして隠れる日本軍斥候兵の様子。せっかくの赤十字ゼッケンも日本軍に対しては意味がありませんでした。
 
帝國ノ犬達-捜索
日本陸軍歩兵学校によるレスキュー犬訓練の様子(大正時代撮影)
 
これら日露戦争と第一次世界大戦の事例を元に、日本陸軍歩兵学校もレスキュー犬の研究に着手します。大正8年度から実地訓練をスタートし、大正14年頃には負傷兵捜索犬の訓練運用法が確立されました。
日本軍が参考としたのは、ロシアではなくドイツ軍のレスキュー犬です。
 
第一次世界大戦では、レスキュー犬の運用方法が大きく転換しました。
「負傷兵のもとへレスキュー犬が包帯や薬品を運ぶ」という従来の運用法を捨て、ドイツ軍は「レスキュー犬が負傷兵を捜索発見し、救助チームをその場へ誘導する」という人犬協同の救助方式を発案。これにより、一頭のレスキュー犬が一人の負傷兵に専従するのではなく、一頭のレスキュー犬が次々と負傷兵を救助して回る事が可能となりました。
このドイツ軍研究レポートが邦訳されたことで、日本軍は新世代のレスキュー犬訓練法を教科書にすることができたのです。
無駄な試行錯誤を避けられたことにより、僅か数年間で技術習得に成功。
大正後期の歩兵学校史料を見ると、レスキュー犬に関しては世界レベルの技術(お世辞抜きで)が確立されています。運搬犬の研究は前時代的な荷車犬へ固執して迷走しまくっていたので、運の良い部類に入るのでしょう。
 
帝國ノ犬達-捜索
日本軍のレスキュー犬実演。負傷兵役を捜索発見した証拠としてその軍帽を持ち帰り、衛生兵を誘導してきた場面です。
捜索、持来、伝令、誘導任務を組み合わせた、非常に高度な作業でした。
 
やがて陸軍のレスキュー犬訓練法は民間にも伝えられ、荒木貞夫陸軍大臣の愛犬シトーや神奈川県警嘱託犬アヤックスなど、山岳遭難者の捜索に在郷軍用犬が投入されるようになりました。
昭和12年に日中戦争が始まると、日本軍レスキュー犬たちは戦場に取り残された負傷兵の救助に奔走します。
残念ながら、マスコミが報道したのは歩哨犬や伝令犬の華々しい武勇伝ばかり。「戦闘の後始末」的な負傷兵捜索犬の活動は、殆んど記録に残されませんでした。
 
この報道姿勢は、現代においても変わっていません。「血に飢えた日本軍戦闘犬」みたいなイメージをメディア側が求めているのが原因でしょう。
運搬犬や負傷兵捜索犬の部分を巧妙にオミットし、対敵警戒任務の部分を画面中央におさめるカメラワークや編集技術をみるたび、毎度感心しております(同じ史料を使っているので、「カメラが何を映していないか」は丸わかりなのです)。
そうやって犬を差別する者が、同じ口で「戦争の犠牲になった犬が可哀想」などと抜かすワケです。二枚舌も大概にしろと思う今日この頃。
 
八甲田山遭難事件から連綿と続く日本のレスキュー犬史。
しかし、「日本のレスキュー犬は戦後に登場した」などと勘違いされた結果、彼らの存在は忘れ去られました。
時代は違えど、人の命を救ったことに変わりはないというのに。