西暦300年代あたりから登場する、ギリシャあたりを発祥とする超大型犬。アイルランドへ渡ったあとはオオカミに対抗し得る猟犬として飼育されました。
19世紀になると、アイルランドでのオオカミ絶滅や深刻な飢饉が重なり、この大型犬の需要もなくなってしまいます。その状況を憂いたグラハム大尉は、絶滅に瀕した個体の復活に着手。各国の大型犬と交配し、現在のアイリッシュ・ウルフハウンドとして生き延びることとなりました。

この犬は「世界最大の犬」として、戦前の日本でも知られていました。
近縁の超巨大犬として、ディアハウンドなども明治時代から紹介されています。ただし、その巨体ゆえ実物の輸入は阻まれたままでした。

そしてついに、アイリッシュ・ウルフハウンドが来日します。日中戦争が始まる直前、昭和12年のことでした。

犬
来日したアイリッシュ・ウルフハウンド

珍犬アイリツシユ・ウルフハウンドがその堂々たる巨躯を東京市芝公園アンドリウユス商會に現はした。
―と云ふことは三月初めの新聞紙上で、皆さんの既に御承知の通りである。
―珍しや、アイリツシユ・ウルフハウンド君、君が来朝を心から讃ふ―そんな氣持ちで、一日、同君歓迎と出掛けた。

市電を御成門で捨て、アンドリユウス商會の門をくゞる。廻転ドアの傍らの受付で刺を通ずると、廣い事務室のテーブルをグル〃縫つて、受付子グン〃記者を導いて行く。
同商會は機械輸入商で、商會主チヤールス・アンドリユウス氏は大の愛犬家。最近所用があつて加奈陀へ渡つたが、帰途英國で買ひ付けたアイリツシユ・ウルフハウンドをバンクーバーで受取り、三月五日横濱入港の船で犬とともに帰朝したのである。
受付子に引つ張り廻される様な格好で、第一の事務室、第二の事務室を抜けた記者はやつと奥まつた一室のドアの前に到着した。そこで受付の引継があつて、ドアの内部に招じられる。

秘書室を抜けて、やつと目指す商會主の部屋へ―。
アンドリユウス氏にお目にかかる。氏は英人だが、正に英國型の好紳士である。
「ようこそ。アイリツシユ・ウルフハウンドを御覧においでですか。さあ、どうぞ……」
立派な日本語だ。後ろを振り向いて
「ガイ、此方へ來い……」
これは英語である。來朝早々の、英國生れのガイ君に日本語の分る筈がない。
氏の背後から紐無しでノソ〃現はれた巨大な動物。一瞬これが犬とは一寸思はれなかつた。偉大な巨躯、グレイの長毛が、背、足、顔を被ふて、光りを浮べた眼がジツと記者をみつめる。
表情は何處かスコツチ・テリアに似てゐる。
「大丈夫ですか」
「體は大きいが、温和しいのです」
「犬とは思はれない……」
「いや、柔順な性質で、怖いことはないのです。番犬に非常によろしい」
「随分柄がありますが、體重は?」
「十六貫二百匁です……」
さう答へた氏は、今度は巻尺を取出して體高を計つてくれた。
「體高は三十四吋……」
ガイ君を愛撫するアンドリユウス氏、犬も嬉しさうに氏に寄り添つてゐる。

ガイ君の本名はガイ・オヴ・ペンタヴアラー。牡二才。
英國オーボラー生れ。英國ケンネル・クラブ登録犬である。
「若い割合に賞歴が豊富でしてね」
リストを覗くと、クリスタル・パレスに於けるケンネル・クラブ・チヤンピオンシツプ・シヨウで第一席といふ大物の外、第一席三回、第二席二回、第三席四回、いづれも昨年度の入賞である。
「ところで、この犬種を連れておいでになつた譯は?」
「私は、アイリツシユ・ウルフハウンドが非常に好きなのです。それで以前にも飼つてゐたことがありますが、日本に來るに就いて止めました。ところが、やつぱりこの犬種が飼つて見たくて英國へ註文したのです。しかし御覧の通り長毛種ですから、日本の夏が思ひ遣られ、實はテストの意味で一頭入れてみたのです。夏が旨く越すことが出來、具合がよいやうなら、來年あたり今度は更に牝を入れるつもりで、日本で大いに蕃殖させたい、かう思つてゐます。が、何と云つても心配なのはこの夏です……」
そして氏はガイ君輸送苦心談を語るのである。

印度洋を越させるのは何としても無理なので、大西洋を廻つて加奈陀に上陸させ、大陸を横断してバンクーバーへ。大西洋では特に船員に頼んで面倒を見て貰つたのでよかつたが、大陸横断旅行は箱詰めなのでガイ君すつかり弱つて了ひ、皮膚病に罹つてバンクーバーでは健康恢復のため二ケ月を要し、永く入院せねばならなかつた―。
「何しろ大きいので大變です。假令テストであれ、牝も一緒に入れたい考へもあつたのですが、一度輸送と云ふことを考へると、一寸手が出ませんでした。一時に二頭買つたのではお金の方も大変ですしね……」
釈然として氏は笑ふのである。

「新聞によると、ガイ君の價金五千圓ですね」
「あつは、は。船に來た記者諸君が相談し合つてさう決めてしまつたのです。あの時耳を揃へて五千圓ポンと出すなら、或は賣つてしまつたかも知れませんがね。あつはは、これは冗談。輸送の苦心を思ふと、一萬圓でも手放せませんよ。但し元價はそんなに高いものではありません。それは、こんな大きな犬を飼ふ人は數が少いからで、十年前は英國でも二、三人が飼つてゐたに過ぎず、今でも三、四ケ所で飼つてゐるに過ぎません」
アイリツシユ・ウルフハウンドは正に世界的珍犬と云つてよい。それが日本へ這入つたことは、色々な點からみて意義があると云つてよからう。

飼育は毎日生肉三百匁、犬ビスケツト三個(一個三百五十五瓦)で、それ犬は犬自身たべぬさうである。
「だから食餌の方は割に楽です。運動は自動車で曳き運動を行ひ、郊外を朝夕二哩位走ります。そんなに飼ひにくい犬でないと云つてよいでせう」
ガイ君は隅のマツトの上へ帰つて、いつの間にか横になつてゐる。
と、秘書室から黒い犬がチロチロと現はれた。スコツチ・テリアである。記者のズボンへ鼻先を突つ込む。
「スコツチは可なり昔からやつてゐますが、テンパーで酷い目に逢ひました。先頃四頭生まれ、一頭上海へ送つたのが無事で、あと三頭はテンパーで仆され、サモエデも二頭テンパーにとられてゐます。目下六頭のスコツチの仔がゐますがね。屋上で飼育し、一切屋上から降ろしません。又テンパーになられては困りますからね」
氏のパイプから紫煙が立ち昇る。煙の行方を追ふと、記者の目はガラス張りの壁に行き着いた。
ガラスの中に金魚が楽しさうに泳いでゐた―。

『世界一の大犬』より 昭和12年

アイリッシュウルフハウンドが当時の日本で繁殖されることはなく、日中戦争への突入以降は日英関係も悪化。
そして4年後には太平洋戦争へと突入し、ガイは唯一の来日個体で終わってしまいました。