生年月日 昭和8年 台湾出身
犬種 シェパード
性別 牝

台湾歩兵第一連隊軍犬班所属。

生後一年六ヶ月のハリー號は、第三回目の発情後、第十一日目及第十三日目(六月十一日、同十三日)に交配せしめた。
然して七月十一日、少し多いと思はれるくらいの帯下を出したのである。
早速某獣医の診察を受ける事になつた。
其の結果流産と言ふ芳しくない診断を下された為めに、川村・甲斐一等兵はすつかり落胆してしまつた訳である。
毎夜丸々と肥つた仔犬の出産を夢に見てゐたのである。
川村一等兵などは川村式仔犬食器と云ふ自案自作の仔犬食器を作つて待つてゐたのである。
其後七月廿四日更に精密に検査して、確に妊娠してゐる。併し三頭内外と言ふ確信を得た。
併し再燃した喜びは僅かに一刻。同時に発見したのは余り著名でない血斑病の症状であつた。
併して翌日七月廿五日に、血便を看、後下腹部或は側腹部、歯齦等に小指圧痕面大の血斑を発見した。
その数歯齦に数ヶ、下腹部に十数ヶである。
舌は乾燥し、其の他熱、食欲は殆ど異状がない。
私共は希塩酸の希釈液を投与して、食事を注意し、軽い運動を許した。
元気のいゝシエパードには全く安静を守らせる事は不可能であるので、七月廿六日も軽い運動を許したが、運動より犬舎に帰つて数時間後午後二時、左の鼻孔より血液を地上に滴下せしめた。
刻一刻、出血量は次第に加り、氷嚢を鼻梁に當てゝ冷したが中々止血しない。
犬にはアドレナリンの注入やタンポンの挿入は全く不可能である為め、出来る丈安静を守らせて冷したのであるが、犬は中々安静にして呉れない。
一旦止血しても、犬の動揺と共に、再び出血すると云ふので、取扱兵の看護の苦労は一方ではない。
午後四時、オポスタチンニ瓦を皮下注射し、二十分の間を於いて更に二回合計六グラムの注射後に止血の徴候が見えたので、其儘出来る丈け安静を守らした。
川村一等兵は懐中電燈で犬の鼻を検査しながら犬舎に夜を明かす。

私共は更に出血を見た時の用意に、高調食塩水の静脈注射を用意してゐたが、其儘朝まで異変がなかつた。
併し午後二時より午後十時頃までに、鼻出血の量数百瓦に達し、ハリーはすつかり貧血して仕舞つて、翌朝心身の疲労を現し眠つてばかりゐたが、脈拍に異状も無かつたので、其の儘安静を守らした。
川村一等兵は疲労するし、甲斐一等兵などは四十度もの不明熱の體を激して愛犬の看病にやつて来るなど、ハリーの病気は軍犬班に實に涙ぐましい情景を見せたのである。
其の甲斐あつて、七月卅日発病三日後全く恢復し、皮膚の血斑も吸収の傾向を表した。
併し七月卅一日陰部より少量のタール様血性粘液を出し、子宮粘膜に出血せるを知り流産を案じてゐると、翌日八月一日午後一時頃一頭を死産したが、母は頗る元気であつた。
其の夜更に流産して、死産児をハリーは自分で処置してしまつたらしい。
八月四日、ハリーは全く健康を恢復したが、取扱兵はハリーの乳を搾つてみては残念がつてゐる。

此の際私共は次の様な事を学んだ。
シエパードの様な敏感な犬に血斑病の徴候を発見したなら、出来る丈け安静を守らせる。
吠えるやうな機会を与へてはいけない。暑さは最もいけない。
オポスタチンの皮下注射は決して無益でない。
出来る丈け冷涼な食物を摂取せしむる事等である。
犬の鼻出血はアドレナリンやタンポンなど全く不可能であるから、患部を只冷すより外にはないと考へられる。
外に適當な治療法が有れば承りたいと思つてゐる。
台湾歩兵第一連隊軍犬班 鈴木中尉 昭和9年


十一月〇〇日
冷たい雨の日だ。
記者は〇〇部隊の名誉の戦傷者の一人である〇〇部隊軍犬班の正木貞夫一等兵を〇〇陸軍病院に訪ねて心から白衣の戦士正木君を慰めた。
正木君は左手の上膊部に敵弾を受けてから二ヶ月にもなるが、未だ五指の自由が全く利かない。
併し意外に朗かな態度で記者に戦地の様子を語られた。
「私がやられたのは九月十九日と廿日の戦闘を終つて廿一日の午前五時に〇〇でやられたのです。
それから二里も後方の野戦病院に後送されたので、その後は全くベツドの上でこんな生活です。

〇〇部隊の軍犬班は、上海上陸前二組に別れました。
森軍曹を班長とするハリー、快、速(はや)、ナナ、ハツの組と、持原上等兵を班長とするエリツク、榛名、クマ、クロの組で、私は川竹君とハリーの受持だつたのです。
最初の頃ハツとナナは機関銃の音を恐れましたが―平時演習に恐れなかつた―ハリーはよく傳令をやりました。
ハリーは私の負傷後に戦死したそうですネ。病院のベツドの上でそれを知つた時私は泣きました。
川竹君もキツト泣いたでせう。
犬は皆元気だつたのです。クリークの泥水をうまさうに飲み、クリークの泥水で炊いた飯盒の飯を、それも半煮えの飯を私共と一緒にうまさうに食べてよく働きました。
時々味噌汁が渡りますが、平時味噌汁なんて食べない犬もよく食べました。
兎に角犬は戦地で喜ばれてゐますから、性能のいい犬を沢山送る方法はないものでせうか」と。
痛々しい左手の戦傷をも打忘れて、正木君は戦地に於ける軍犬の働きを語り、その補充のことまでも考へてゐるのだ。

宮本佐市「台湾犬界戦時日記」より 昭和13年