木城村の川原土場より高鍋駅の土場、亦製材所に木材が荷馬車により運搬されていた。
川原に高鍋営林署の土場がある。土場とは材木を置く場所の事を言っていた。
石河内の奥山より樅咎松杉檜と、色々な種類の木材が、トロッコにて川原土場に運び出されて来ていた。
トロッコを引くのは、犬が二匹か三匹で引っ張っていた。
トロッコにはブレーキが取り付け有り、山師さんがトロッコの速度の調整をするので、下り坂に成ると、犬はトロッコの上に飛び乗っていた。
帰りは石河内村の食料等を積んで運搬されていた。
たかなべ追憶「荷馬車引き」より 西村満氏

帝國ノ犬達-森林軌道
●加江田渓谷に残る家一郷森林軌道レール。

帝國ノ犬達-綾南
●綾南川沿いに残る綾南線ガーダー橋。いずれも宮崎県の林用軌道跡。


その昔、全国各地の山林には、伐採材の搬出や林業関係者の移動用として森林鉄道が敷設されていました。
機関車を使用した本格的な森林鉄道以外に、トロッコによる軽便な「林用軌道」なども多数存在します。

戦後はエンジン付トロッコになりますが、それ以前のトロッコ牽引は犬が主力。
往路は空のトロッコを犬に曳かせ、復路は勾配を利用しながら荷と犬を積んだトロッコを滑走させていたそうです。
人、馬、犬を動力とするトロッコは、全国各地の林用軌道で普通に見られる運用法でした。
高知県の魚梁瀬森林鉄道のように、犬によるトロッコ輓曳(犬トロリー)で知られた路線もあります。

※運搬犬の歴史については「戦争の犬達 運搬犬(前・中・後編)」で解説しております。

帝國ノ犬達-魚梁瀬森林鉄道
●魚梁瀬森林鉄道の路線図(「魚梁瀬」より 昭和6年)

(1)明治三十年代の運材
官斫創業の當初は地方民間尚未だ利用上の技能に乏しかりしを以て、木曽、大和、吉野方面より従業夫を招致したるものゝ如く、當初の運材は木場落しにより谷底又は一定ヶ所に集材せるものを桟手、修羅木馬等にて渓流に曳き出し堰出し法により河川に送り、管流或は伐流をなし海岸に搬出せるを常とし、明治三十年代に於ける奈半利川流材事業の如き特に著名なり。
(中略)
(2)軌道の普及
明治四十一年度馬駱安田川線車道に軌道を敷設して著しく運材能率の発揚を見たるに起因し、各斫伐事業所に是が利用を見るに至り、従来の木馬道は逐次其の影を失ひ、山内奥深くトロリー運材により小出距離を減じ搬出力を高め、天候に左右せらるゝこと少く計画的操業を持続し得るに至れり。
而して山内軌道は自ら急勾配軌道の必要あるに至り、大正八年當営林署谷山作業所に於て堀田式制動器の考案あり。
最急八分ノ一勾配にまで自由にトロリーを運転し得るにより、軌道益々普及を見るに至れり。
急勾配軌道の普及により搬出系統は単純化し、運材能力は増進せるが、空車押上げには相當困難なるに至り独り、人力を以てしては容易に操業を持続し難きに至り、犬を利用するの風次第に流行し、トロリー一台當り一頭乃至三頭を飼育し、遂には敢えて人力押上げを行はず、或は犬に代ふるに牛馬を以てし運材経費は比較的嵩上するに至れり。
而して一面には水槽、木材等の下降力を利用し、空車曳上装置の考案もありたれども、地形に左右せられ普ねく利用せられたるを見ず。
魚梁瀬営林署「魚梁瀬」より 昭和6年

魚梁瀬インクライン
●魚梁瀬の西川事業所が設置した一ノ谷インクライン(「魚梁瀬」より 昭和6年)

魚梁瀬森林鉄道の犬トロリーは、大正期に機械式運搬へ転換されていきました。
大正10年に営林署の山村氏がインクライン施設(傾斜鉄道:緩勾配階段軌道)を考案、野村式炭材運搬器や綱島式集材機と共に各事業所での採用が拡大します。
翌年、山村主任は素材搬出索道の導入を提案(その後、一ノ谷山で殉職されています)。失敗だった野村式や綱島式と違い、索道方式は大きな成果を挙げました。
年を追うにつれ、森林鉄道には高性能軌道車両が次々と配備されていきます。

「大正十二年、森林鉄道貨車に設置すべき小関式制動機の考案あり、人力による制動の危険と滑走による車輪の破損を防止し、汽車運材上甚大の好果を収め得るに至り、現在魚梁瀬森林鉄道貨車全部本制動機を使用せり(同上)」

大戸山鉄車
●魚梁瀬の東川事業所が設置した大戸山鉄車インクライン(「魚梁瀬」より 昭和6年)

昭和5年にはガソリン機関車や石油発動機が購入され、魚梁瀬森林鉄道はほぼ完全に機械化されました。
※機械化による新たな問題も発生し、沿線の久木山では機関車の煤煙によって何度も山火事が起きています。この為、危険地域には幅18mの防火線や警鐘台が設けられてました。

路線以外での人馬による運搬は引続き行われた様で、昭和6年の標準賃金にはトロ曳賃銀1円25銭、木馬曳(橇)賃銀1円50銭などと記載されています。
「造材現場に散在する素材を木寄夫又は日傭と称せらるゝ集材夫の手により運材路線迄搬出する操業を木寄小出と称し、普通材木造材後一ヶ月乃至二ヶ月にして着手す。
木寄小出は専ら共同作業(共同出役による功程事業)によるものにして数名乃至十数名相協力して是に當る。
其の技能の優劣は素材の損傷程度に影響すること大なるを以て特別の注意盤督を要し、必要に応じ吊木をなし又桟手を設け修羅を張り、又適當に留を作り、臼を設け、或は馬トロリー等をも利用することあり。搬出路線の夫れと相俟て操業計画上苦心を要するものとす(〃)」

森林鉄道
●魚梁瀬の中ノ川事業所で使用されていた白土式木炭瓦斯機関車(「魚梁瀬」より 昭和6年)

犬トロリーを行っていた森林軌道は多数あります。九州では日之影町の鹿川線、綾町の綾北線と綾南線、山田町の長尾官行線、そして加江田の家一郷線などが存在していました。
魚梁瀬が犬を廃止した後も、他の地域では畜力に頼るトロッコの運用が続けられています。
※日之影町に関しては、同町の歴史を調査されたyamatosh様がtwitterに書き込まれた内容に基づくものです。この軌道は銅山の鉱石運搬用だったとの情報までいただきました。

トロッコ
こちらはトロッコ馬。

このような運用法が何時何処で始まったのか、どのようにして全国各地へ広まったのか。
鉄道・鉱業・林業に関しては門外漢ですし、その辺はどうやって調べればよいのか判りません。
九州の使役犬史についても同様。畜犬団体の記録自体が少ないのです。
一応、使役犬団体は九州各県に存在していました。
帝国軍用犬協会は、九州支部(福岡)をはじめ、大分、長崎、熊本、鹿児島、宮崎に各支部を設置しており、佐賀や佐世保の支援団体も確認されています。
日本シェパード犬協会でも九州支部が活動していました。
各地域では猟犬が盛んに使われていましたし、警察犬による容疑者検挙事例も複数記録されています。
しかし、運搬犬に関する資料は見つかりません。

当時の畜犬関係者すら、「猿と人とが半々に住んでるような気がする(by夏目漱石)」宮崎の犬界事情には疎かった様です。
実際、昭和7年頃の宮崎で飼われて居たシェパードは青島系・上海系のみ10頭程度で、100頭を突破したのは昭和10年以降のこと。
昭和12年頃だったか、日本シェパード犬協会メンバーが「日向の地方人はシェパードを見て逃げ惑う。犬の智識がない田舎者ばかりだ」と宮崎の現状を嘲笑う文を2度に亘って発表。
これに対し、帝国軍用犬協会側から「宮崎でシェパード愛好家が活動中なのを知らないのか」とツッコミが入りました。
※因みに、帝国軍用犬協会宮崎支部会員23名、日本シェパード犬協会員3名、宮崎県軍用犬倶楽部19名(宮崎・都城)その他。宮崎市内のシェパードは牡40頭、牝48頭。うち登録犬32頭。
この反論文が、宮崎の畜犬団体を知るための数少ない資料だったりします。
大正10年から犬のメンデリズム実験(交配研究)に取り組んでいた本部定俊氏など、宮崎の畜犬界もそれなりに歴史や実績があったんですけれどね。
トロッコ犬の研究をしていた人は……、いないんだろうなあ。

帝國ノ犬達-木材
●トロッコ犬の画像は「高知県中芸地区森林鉄道遺産調査報告書」に掲載されています。
とりあえず、当ブログでは材木運搬中の樺太犬を。


戦時中、燃料事情の悪化と共に運搬犬の活用が叫ばれました。
「犬は御国の役に立つ動物なのだ」とPRするのが目的でしたが、提唱者の白木正光によると、愛犬家の関心は低かったそうです。
結局、それを実践していたのは樺太・東北・中部・近畿の荷役業者や各地の林業関係者だけでした。

戦争が終ると、燃料事情も徐々に好転。
昭和30年代までに、各地のトロッコは自走式タイプへ置き換えられていきました。トロッコ犬も、この頃までに姿を消した様です。
やがて、林道の整備、作業車両の普及などによって森林鉄道はその役目を終えました。
加江田の森林軌道が廃止・撤去されたのは、昭和48年頃のこと。
現在の家一郷森林軌道ルートはハイキングコースとして整備されており、休日には多くの人々が訪れる観光スポットになっています。
僅かながらレール跡も保存されていますけれど、これらも経年劣化や路肩の崩壊によって、将来は消えゆく運命なのかもしれません。
そういえば、あちこちの山中を歩いていると旧い遺構に出会うことがあります。土台だけになった住居や炭焼き小屋の跡、埋没した給水設備、苔むした石組み。
同じ様に、忘れ去られた森林軌道の跡が山の奥に眠っているかもしれませんね。



休日を利用して、トロッコ犬が働いていたルートを辿ってみました。
加江田渓谷の遊歩道は林業関係者のみ車両乗り入れが可能で、一般車両は進入不可。
コース両端に設置された丸野駐車場か椿山キャンプ場付近に車を停め、その間をひたすら歩くしかありません。
※落石や滑落の危険がある場所も存在しますので、充分な注意が必要です。


森林軌道

トロッコ
僅かに残るレール跡。
通行の邪魔となるレールは、残念ながら大部分が撤去されてしまいました。




枕木


枕木


橋

トロッコ

枕木

枕木
犬釘が付いたままの枕木も複数箇所に残存していますが、大部分は土砂に埋没。

枕木

枕木

枕木
撤去され、朽ちつつある枕木の山。一部は路肩の補修材としてリサイクルされています。
帰りも此処から7km歩くのか…。

レール
林道脇に撤去されたレール。

レール
長い年月のうち、樹に呑み込まれてしまった撤去レール。

渓谷

道は段々と険しくなります。

レール電柱


レール電柱

レール電柱
山道の所々にレールが屹立しています。その天辺に碍子とケーブルが残っているので、仮設電柱として撤去レールを使用していたのでしょう。

橋


橋

台風などで流失してしまった橋もあります。

渓谷


樹

巨岩・奇岩や河童でも出そうな深い淵の連続で、散策者の目を楽しませてくれます。

渓谷


帝國ノ犬達-樹
整備された杉林だけではなく、豊かな照葉樹林も残されています。

コケ

渓谷はシダ、コケ類の宝庫でもあり、そちら関係が大好きな私にとっても楽しい行程でした。
片道は8km程度。分岐する登山道以外はほぼ平坦な道なので、こまめに休憩しながらでも数時間あれば往復可能。
但し、人工的な灯りは一切無いので(ホタルなら沢山います)、日没に備えてヘッドランプか懐中電灯を携行しましょう。

森林軌道の終点は椿山キャンプ駐車場。上流域では高速道路のトンネル工事中でした。
ここで折り返し、再び下流の丸野駐車場へ戻ります。
椿山キャンプ場から更に北郷方面へ車で走った場所に、明治24年着工の山仮屋隧道トンネルが保存されています。


落石
落石の直撃を受けた手摺。

この道をトロッコ犬が往復していたんですね。大変だったろうと思います。
一部だけでも軌道や車両を保存していれば、良い観光資源になったかも。
しかし、大量の落葉、路線の修繕や落石の撤去まで考えると、維持管理費の面から無理だったのでしょう。

以上、林道機動の紹介でした(トロッコ犬の資料が無いので、お茶を濁しておきます)。