「戰争中、我々愛犬家が受けた社會からの壓迫といふものは實に驚くべきものでした。犬と生活することを國賊の如く云はれて懸命の反撃にも拘はらず、愛犬家はしひたげられ、罪無き幾多の犬が献納といふ美名の下に惨殺されました。
さうした中にあつた、その行爲に對する激しい憤りと悲しさの中にあつて、何か日本の犬達が救はれる楽しい日が來るやうな豫感が、焼夷弾攻撃の焔の中に立つた夜も私の心をかすめてゐました。
終戰後五ヶ月もたち、落ちついた静かな昭和二十一年を迎へて、やはり此の豫感に間違ひはなかつたやうな氣がしてゐます。何事も再出發の時、今まで涙にくれてゐた愛犬家皆様は、そして愛犬を献納された方はその供養の爲にも、どうか元氣に立ち上つて頂きたいと思ひます。
昨冬十二月二日、梅ヶ丘の山に観賞會を拝見に出かけました。私はかういふ會を拝見するのははじめてで、終日草むらの一隅に茫然と立ちつくしてゐましたが、リンクにあらはれた元氣な犬達とその飼主を拝見して非常なたのもしさを感じました。今まで良種犬の飼主といふものは魂ある犬を物品視する傾向の方々ではないかと思つてゐた私の疑ひが晴れました。
戰火の中で黙々と乏しい食糧と社會からの壓迫に戰ひぬき、かくも元氣に犬を守られた苦心と幸福な犬達をながめて本當に楽しく、その仕合せが何か羨ましいやうな氣さへしました」
高橋和子『思ふことども』より 昭和21年1月

犬
戦後復興と共に、生き延びた犬達も疎開先から戻り始めました(昭和24年)

昭和20年8月、日本畜犬史上最悪の時代はこうして終わります。数えきれない程の犬が犠牲となり、あれほど隆盛を極めた日本犬界は焼け野原から再出発することとなりました。

15年間の戦争に続く10年間の戦後復興期。そこへ流れ込んで来た米国ペット文化の眩しさに幻惑され、戦前に花開いた日本犬界の記憶は忘れ去られます。
過去をリセットした戦後の日本人は、次の世代にウソの歴史を伝えました。「日本のペット文化は、戦後にアメリカから持ち込まれたのだ」と。
しかし、明治時代から積み重ねられたノウハウだけは、戦後の日本へと受け継がれたのです。

復興、再生、隆盛へ向かった戦後の畜犬史について。

【日本犬界の戦後復興】

愛犬を軍へ献納した人々は、「戦争に勝てば、出征した犬たちも凱旋帰国して来る筈だ」と思っていました。
しかし日本は敗北。敗戦国の犬達には残酷な運命が待ち受けていました。

戦地に展開していた何千頭もの軍犬や在留邦人のペットたちは置き去りにされ、混乱の中で姿を消しました。内地のペット毛皮献納運動ではどれだけの犬が殺処分されたのか。空襲や食料難の犠牲となったペットの数に至っては把握することすら出来ません。
国内に残留していた軍犬は無事だったのかというと、そちらの運命も苛酷でした。
日本軍解体後に近隣住民へ譲られた犬はまだマシな方。飼主たる日本軍を失った軍犬たちは、薬殺、射殺、溺死(ケージごと海に沈める)などで殺処分されてしまいました。


敗戦時に国内残留していた軍犬の場合、飼主宅へ戻ることができたケースもあります(昭和21年)

【敗戦と犬】

日本の惨状を対岸の火事と眺めていた満州国は、ソ連軍侵攻によって先に崩壊。満洲国犬界や満洲軍用犬協會、関東軍軍犬育成所の貴重な活動記録も、大部分が灰と化します。
朝鮮・台湾・樺太を始めとする海外の領土も失い、629万人もの在留邦人が日本に引揚げてきました。しかし、国内の農業・漁業・畜産業界は働き手を失い、生産能力は大きく低下。工業地帯や物流システムも空襲によってズタズタに破壊されていました。
こうして敗戦直後の日本は大混乱に陥ります。
犬を飼うどころか、日々の食糧を得るので精一杯。餓死者すら出る悲惨な食糧難の中で、食用となった犬もいました。
せっかく戦争を生き延びたというのに、戦後も苦難の日々が続いたのです。

「飼料にいよいよ行き詰まり、カーレンは日々やせてゆくばかりで、昔を偲ぶよすがとて無い状態になり果てまして、時々どこかへ迷ひ出る様な始末になりました。こうして一日一日と栄養不良に陥つてゆく愛犬の姿はとても見るに忍びないものがありました。嬉々として走り廻つた彼女の面影は今どこにも無く、名前を呼んでも反應もなくなり、全く死の一歩手前と云つた状態でした。こうして置けば苦しみのみの生活です。ひと思ひに薬殺してやる方がどんなに幸福かも知れない。どんな方法を用ひたならば最も楽に眠らせることが出來るかなどゝ栗のイガを呑み込む様なつらい思ひで幾度か考へました。併しその方法は分つてもどうしても實行出來ず、日は徒らに過ぎ去つていつたのです。
十月のある日。進駐軍の飛行場となつた○○に犬と一緒に散歩に出ました。このカーレンがもつと元氣だつたらいゝのに、永年夢に抱いてゐた蕃殖の楽しみも、今は水泡に帰したのかとボンヤリ飛行場の周囲を歩いてゐますと、一人の米兵がやつて來ました。
彼はカーレンを見るなり、眼を輝かし手を延ばし、口笛を吹きならして走り寄つて來たのです。「これはシエパードですね。本當に良い犬なのだが可愛想に余りやせてゐる。餌が充分無いのですか?」と訊くのです。
「あなたは犬がお好きですか?餌は澤山やりたくも、残念ながら私は何も持つてゐません。私はこの犬を我が子の様に愛してゐます。この犬が飢ゑてゐるのを見ることは最もつらいことです」と私は答へました。
「私も犬が大好きで、ワシントンの家にも矢張りシエパードが居ます。今君の犬を見てそれを思ひ出しました。私と一緒にいらつしやい。部隊には澤山残飯があります。肉もあります。それを喰べさせたらすぐ元氣を取り戻すでせう」と親切に言つてくれるのです。
私は心からこの犬好きの兵士に感謝して一緒に兵舎に行きました。食堂に案内した兵士は「こゝにいつも食物はあります。毎日來て充分喰べさせて下さい」と教へてくれました。食器の蓋に乗せられたバタ付きのパン切れ、肉片、骨、馬鈴薯の残りもの、今まで見たことも無い御馳走を並べられて、カーレンは夢見る心地で喰べるのです。私は哀れなこの愛犬の姿を見て、嬉びと感謝で胸が一杯になりました。私のカーレンはとうとう救はれたのです。
充分な食料を採つて一息ついたカーレンは、満ち足りた元氣な眼付きをして私と米兵を交々見上るのです。暖い幸福な氣持ちで家に帰ると、母は「どうしたの、ばかに嬉しそうね!」と云ひます」
橋本道夫『米兵とカーレン』より 昭和20年12月28日

戦時下において、軍犬を供出した人、飼育を諦めざるを得なかった人、愛犬を毛皮にされ、空襲で喪った人たちは、不平を口にすることすら許されませんでした。
しかし戦争が終わったことで、戦時体制への批判が噴出し始めます。特に、横暴を極めた帝国軍用犬協会(KV)への怨恨は根深いものがありました。戦時中に迫害されていた日本シェパード犬登録協会(JSV)や他の愛犬家たちも、戦争で受けた被害に怒り心頭でした。

「食糧難は深刻になりつゝあつて、此際犬どころではないかも知れない。然し幾多の犠牲があつてこそ始めて将來が拓けるのだ。立派な人格者、平和愛好者、愛犬家は大いに努力して飼ひ得ない愛犬家のため盡して欲しい。何れ努力家の日本人は必ず遠からず諸君先輩の恩恵に浴することであらう。
戰争犯罪人的な團體(※KVのこと)は形を變へても許さるべきではない。國家的の犯罪人ならば或は間違つても國士的であつたかも知れない。が、残念にも彼等の多くは利益のために知らず知らず入つた非國家的な利益團體と云ふ、妙な戰争準犯罪人的存在であつた。過去を廣く葬る所以である」
龍象生『廣く過去を葬れ』より 昭和21年

「戰後早くも第一回観賞會を開いて帝都S犬界再建の第一歩を踏み出した東京犬界を一言にして現せば、焦土の中に出んとする力と熱と喜びに充ちてゐると云ふことが出來ます。
戰争中は虎威を借るKVの有形無形の無謀な壓迫のため愛犬家的雰囲氣の醸成すらも許されず、陰鬱と憤懣の中にもただ黙々とし自己の愛犬を護り通して來たJSV人は、今は全く朗に、希望に満ちて地區的の會員が相集り着々帝都犬界の再建に奔走してゐます。
然し、東京犬界はS犬の拂底、特に種牡犬の貧困に悩んでゐます。犬種の發展と種族保持のためには最も愚策であつた例の軍の種牡犬買ひ上げが種牡犬貧困の大きな原因となつて、今日の様な状態を現したものと思ひます」
FA生投『東京犬界』より 昭和21年

「支那事變が始められ、家業が忙しくなつて自然會誌から遠ざかつたが、會と共にあつた三年間は、私達も若かつたし、會も若く盛な頃で、思へば楽しい懐かしい時代であつた。其から間もなくJSVも受難時代に入つたといへよう。對米戰への没入と共に、軍國主義の壓迫干渉は會の存續さへ危くし、會長(※元皇族の筑波藤麿)のあの「私一人でもJSVは存續させます」の御言葉で、JSVは毅然として存立し今日に至つた。だが今、我々の周囲には理屈に合はない干渉も無いし何等の壓迫も無い。悲しい敗戰ではあつたが、日本の上に幾何かの明るいものをもたらしたと同じ様に、シエパード犬愛好家の行手にも光明が輝いて居る。
心ならぬ長い戰争の間、偏狭な思想から受けた壓迫の爲に、同じ様に愛する、同じ趣味の愛好家が袂を別つて心ならず競つた悪夢の時代は過ぎた」
荻田虔 昭和22年

民主主義教育へ180度転換したことで、戦時批判の対象を犬に転嫁する教育者も現れます。そのイケニエとされたのが忠犬ハチ公でした。
昭和21年に民主主義教育研究会が唱え始めたハチ公批判は、かつて軍国教育に犬を用いた反省の心……からではありません。戦後の教育者は「敗北してなお天皇制に盲従する愚かな日本国民」を忠犬ハチ公になぞらえたのです。

「日本人は、明治時代の國富の全部を失ひ、その上、徳川幕府時代よりも、遥かに悲惨な境遇に投げ込まれたにも拘はらず、國を挙げて天皇を護持し、それを栄誉の基としたり國の象徴だとするのだから、常識的な封建主義に非ずして、寧ろ家畜主義と云はざるを得ない。その意味に於て、八公は日本人の模範である。日本人は八公よりは利慾に迷ひ、不純なところがあるが、八公にはそれがない。恐らく八公も、飼主が「ウシー」と一聲けしかけたならば、生命を顧ずに強敵に向つて突進したであらう。楠公の銅像と八公の石像とは、精神主義日本の双璧と云ふべきである」
民主主義教育研究会 まさき・ひろし『忠犬八公と日本人』より 昭和21年

社会批評や日本犬保存運動にとって有用だった忠犬ハチ公論。しかし、戦後のハチ公論は思想ごっこの道具へ貶められてしまいました。
この動きに便乗した者は少なくなかったのでしょう。結果、「オンヲ忘レルナ」と「犬のてがら」の教材も区別できないエセ批評家が大量生産される現状へ至ります。

教育といえば、我が国には近代犬界の基礎知識を学ぶ教科書が存在しません(「犬の現代史」などの優れたテキストはありますが、あれも「東京エリアの畜犬史」に過ぎませんし)。
戦前・戦中の犬界史は、47都道府県・外地・満洲国の実情を知る犬界関係者たちが総括・編纂すべきでした。しかし彼らは、その作業をジャーナリストや小説家に丸投げしたのです。時系列に沿ったデータベース構築は放棄され、次世代への継承は大失敗。
記憶喪失に陥った日本犬界史は感情論とアジテーションの場と化してしまいました。

【日本犬界の復興】

ペットを飼う余裕が生まれてきたのは、敗戦の混乱がおさまりつつあった昭和23年頃のこと。
それを証明するように、ペット雑誌も次々と発刊されます。昭和22年7月創刊の「小鳥と犬(畜産文化社)」をはじめ、翌年から「ドッグワールド」や「犬の研究(戦前の同名ペット誌とは別です)」などが追随していきます。
残念ながらいずれも短命に終わりましたが、昭和27年に登場した「愛犬の友」だけは現代に至る長寿誌となりました。

ペットの増加は、いっぽうで狂犬病の再流行にもつながってしまいます。ペット毛皮運動で犬が大量殺戮された「成果」として、狂犬病感染犬は昭和19年の733頭から94頭にまで抑え込まれていました(敗戦直後には24頭まで激減)。
しかし戦後復興で犬が殖えると共に感染は再発。昭和25年には感染犬867頭、死者52名を出す大惨事となっています。
当局は必死の防疫活動や飼育マナー啓発を展開し、これをピークとして発生件数は減少していきました。

サンフランシスコ講和条約が締結された昭和26年以降、国際貿易が認められた日本では犬の輸入が再開されます。ヨーロッパ各国も戦災からの復興が進み、犬の輸出が始まったことも助けとなりました。

「昭和十六年といえばあのいまわしき太平洋戦争のおきた年ではあるが、この年に独逸からチンテイスとシャルクの二頭が輸入されてから十年、その間全く独逸とは隔絶されていた。
戦争が終つて私が一番知りたかつたのは、あちらの様子である。S犬はどうなつただらうか。両国のS犬を比較し得る日が一日も早く来る事を楽しみに熱望して いた所、東京にロードv.ツエンタール(カール・ミューラー氏)、大阪にウジロv.プロイセンプルート(斉藤氏)の二頭が、前者は昨年後者は今夏輸入され た。
私はこの二頭を親しく拝見し、血統書をも見せて貰つたが、非常に興味あるものを覚えた。
期せずして両者の母方三代組にルートv.シュトルツツェンフェルスを持ち、ボードをも含み五代組にフィキィv.ベルンを持つ等、その血液構成には興味のつきないものがある。
体形的にも多分に研究の価値あるものと思い、今後も出来るだけ外国からの輸入によつて我国S犬界の発展に貢献してもらいたいものだと念願しつつ擱筆としよう」
榊原茂年『無題』より 昭和25年

戦地へ出征していたメンバーが復員してきた頃から、各畜犬団体は活動を再開。まとまった数のシェパードが温存されていた北海道では、内田亨北大教授の元に元KVメンバーなどが集結し日本ケンネルクラブ(NKC)を結成。後にHSA(北海道シェパード犬協会)に改編され、日本シェパード界の復興を担いました。
HSAから供給された個体群をもとにJSVも活動を再開。日本シェパード界は驚異的な回復力を見せ、昭和25年までには全国の地方支部を復活させてしまいました。
時を同じくして日本犬保存会も活動を再開し、何とか護り抜いた犬達を元に日本犬再興へ動き始めます。某全国紙が「純粋な日本犬は絶滅した」などと報道し、「事実誤認も甚だしい」と日保を激怒させたのもこの頃のことでした。
もしも戦時中に日本の犬が消滅していたら、現代の我々は日本犬を飼えなかった訳ですね。
壊滅状態にあった闘犬界も、東北と佐賀に残存していた20頭ほどの土佐闘犬をもとに復興をスタート。狩猟報國運動によって勢力を維持していた猟犬界も活動を再開します。

一方で、戦争末期に活動を休止した畜犬団体はそのまま消滅していきました。
日本最大の規模を誇った帝國軍用犬協會は解散。メンバーは新たに日本警察犬協会を設立し、かつては敵対していた日本シェパード犬登録協会と協同で活動範囲を広げます。
また、JKCなどの新団体も続々と設立されていきました。

戦後の記録を見ると、再び犬を飼えることへの喜びで溢れ返っています。
それらの声の一部をどうぞ。

犬
戦後の人気犬種となるスピッツも、敗戦直後から復活。昭和22年

「所謂冷い戦争とは暖い心もて暖い平和を招来すべく、必死の努力が拂はれてゐることである。暖い心なくして平和はない。犬を愛する心は暖い心であり、平和に通ずる心である。
愛犬熱の普及はそれ丈人生になごやかさとうるほいとをもたらすものであり、犬界の發展隆盛は世界平和の増進を意味する。暖い心もて犬を愛し、吾人生を豊かにすると共に、同好者相寄り愛犬熱の高揚を計り、犬界を盛にして、以て世界平和に貢献したい。一九四九年は世界平和の年であらしめたい」
犬の世界社『年頭言』より 昭和24年

犬
マルチーズも生き残っていました。昭和24年

「我が國に於ても、原産地に劣らない優秀な犬さへも作出し得るようになつたのでありますが、あの、苛烈な戦争と不幸な敗戦とは、それらの多くを我々の手から奪つてしまゐました。
然し、幸にも我々はそれ等の全べてを失つたのではありませんでした。少数ではありますが、エアデールへの愛情を忘れ得ない幾多の古い同志が居り、それに加へて、熱心な新しいフアンツアーが数多く居ります。我々は、あの、苛烈を極めた戦時中、よく犬を持ちこたへて下さつた人達に、多大な感謝をしつゝ、それ等の貴重な犬達を基礎とし、新舊同好者協力して、蕃殖に、育成に大いに努力して、我が國エアデールの復活をはからなければならないと思つて居ります」
大堀七郎『エアデール所感』より 昭和24年

犬
戦前から人気者だったスコッチテリアも、蕃殖が再開されました。昭和25年

「終戦近くには蕃殖が次第に困難になつて行つた。終戦となつてはシエパド犬の飼育その事すらが処罰を受けるが如き誤つた考えを持つた人が多く、為に急いで愛犬を手放す人が増加し、為に蕃殖は殆ど行われない、言わば蕃殖の真空状態が半年程續いた。
併し今や北海道シエパド界は完全に復活した。否、軍犬時代にも見られなかつた隆々たる勢で復活した。此所までに至る経路も容易なものではなかつた」
高松孝清『北海道漫録』より 昭和23年

犬
戦時中に途絶えたポメラニアンの輸入も、戦後3~4年で再開されました。昭和24年

「終戦後日本の畜犬の数も次第に殖え、愛玩犬も、ぽつぽつ良いものが観られる様になりましたが、戦前あれ程盛んだつたワイヤーは一時姿を消し、フワンを歎かして居ましたが、其後東京では、ロケツト系其他二、三の種犬が發見され、最近では進駐外人のペツトも現はれ、漸くちらほら姿を見掛るようになりました。
数に於て、質に於て、戦前の水準には未だ道遠しの感があります」
奥津クニ『ワイヤーヘヤードテリヤ雑感』より 昭和25年

犬
ドーベルマンも再び姿を現しました。この子は敗戦の2年後に生れていますね。

「終戦後三年目を迎へた一九四八年度の我が國S犬界は、戦前の黄金時代を凌ぐほどの活況を呈した。他の社会現象に比してS犬界がかく早急に復活發展した原因としては
一、指導團體の再建が早かつたこと
二、S犬愛好者の熱意が戦後も引續き失はれなかつたこと
三、北海道犬界に多くの良質資源が残つてゐたこと
などが挙げられると思ふ。勿論、これらの原因が互に交錯して、昨年度のS犬界隆盛の因をなしてゐたことは云ふまでもない」
『S犬界の回顧』より 昭和24年

犬
こちらは敗戦の翌年に生れたグレートデーン。

核攻撃を受けた広島や長崎、凄惨な地上戦で全滅した沖縄犬界も復興に向かっていました。
アメリカの統治で分断されつつ、沖縄犬界と本土犬界は連携の維持に努めていたのです。

「あの惨憺たる原爆の災禍を蒙り、世界の全人類を戦慄せしめ、今以てその後の御動静如何にやと御案じ申上げて居たわがJSAの広島支部が、森信支部長を中心として雄々しくも立上り、1953年度の西部準ジーガー展の主催を買つて出られ、しかも模範的な大展覧会を開催せられたことはわれわれの驚異であり、より一層の感激でありました」
有坂光威 昭和29年

「私共支部もその目的達成のため頑張つて居ります。設立第一回行事と致しまして、会員相互の親睦を計る意図のもとに、去る4月18日(日)、那覇市内遊園地(新世界)に於いて観賞会を催しました。
本島では初めてのことでもありますので、開催に際して色々と吟味を致しました結果、多数のフアンの為、或はS犬を理解して頂くためにも是非、形式的にでも一頭づゝ会員全員で批判し合う形にもつて行けば「犬はどう云ふ風に見るのだ」と云ふ、未だS犬に接した事の無い方々にも趣好的で良いと結論を得ましたので、同封の写真の様に、顧問、支部長、来賓、マイク(私)の外は随意リンクに這入つて、研究的に観察致し批判し合つたのであります。傍マイクで血統書に依る説明を参観者の方に致しました。
その外JSA入会案内書の一頁と二頁をパンフレツトにして参場者に配り、協会並支部の目的とS犬の普及に資したものであります。以来、加入者も増加致すことゝ存じます。
観賞会も近着の規約、規定変更で、内地のそれに比して実にお粗末と痛感して居ります。然し「ローマも一夕一朝でな成らぬ」と将来に期待をかけて頑張つて居ります。参加頭数20頭であります」
仲村春光『沖縄支部の現況』より 昭和29年

犬
モチロン日本犬の再興も図られています。

「戦後日本犬への愛着は日ごとに高くかつひろがつてきている。長い戦争の前後の犬とはなれた生活の反動もあろう。明日もはかりしれない不安感、有史このかた初めての日本全土への外國軍隊進駐管理下の民族意識覚醒のあらわれとしてなど―。
そのほか、原因はいくつも考えられるが、われわれ日本犬愛好者にとつて、同好者をふやすいい機會である。と同時に、この高潮期に日本犬の正しい認識と固定化への適當な指針がとられないならば、日本犬百年の将来にきわえて悪い結果を残すことになるであろう」
中城龍雄『日本犬の體高について』より 昭和24年

つらく厳しい戦後復興の中、犬との暮らしを癒しとしていた人々がいました。ペットの復活は、僅かながらも心の余裕が生まれてきた証でもあったのでしょう。

異国日本で暮す進駐軍の兵士達にとっても、日本の犬はよいペットになりました。拾ったり寄贈されたりしたマスコット犬、特に秋田犬は人気の的となり、やがてアメリカへと持ち帰られます。
戦前、海外に輸出された日本犬は少数でした(熱烈に受け入れられたのは狆くらいです)。それが戦後になると、アキタ、カイ、シバなどが続々と欧米へ進出。
我が国の在来犬たちは、ようやく世界に認められたのです。

混乱が収まると共に、戦前から続く動物愛護運動も復活しました。
「在留外国人や宗教家の啓蒙による動物愛護運動」であった日本人道会や動物愛護會は役目を終え、日本人主導による新世代の動物愛護運動が始まります。
海外からの動物虐待批判もあって、犬への虐待禁止や飼育マナーの向上、野犬の安楽死処分措置などが次々と導入されていきました。

犬
もちろん、多数の飼育者を支えるペット業界や獣医界も復興を果しています。
昭和24年の広告より

決定的だったのは、昭和31年に狂犬病を撲滅できたことです。「死の病を運んでくる獣」への敵意は、これによって大きく低減しました。
犬は、再び日本人の友となったのです。経済白書に「もはや戦後ではない」と記された昭和30年代を最後に、各地に残っていた犬肉食も忌むべき行為として廃れていきました。

こうして蘇えった日本犬界ですが、その姿は戦前と戦後で大きく変化しています。

モータリゼーションによって、荷役犬は姿を消しました。
通信技術の進歩によって、郵便犬や伝令犬も役目を終えました。
賽犬(ドッグレース)の復活運動は、賭博行為への反対から頓挫しました。
陸軍の負傷兵捜索犬は、民間レスキュー犬へ世代交代しました。
失明軍人誘導犬も、民間の盲導犬や介助犬へバトンタッチしました。
満州国崩壊によって失われた税関監視犬や麻薬探知犬は、海外からの逆輸入によって復活しました。
殖産興業のメインであった牧羊業の縮小によって、牧羊犬の働く場は激減しました。
そして猟犬はハンターの友であり続け、闘犬も相変らず開催されています。

戦後の混乱により、忘れられた犬達も少なくありません。
内務省~国家地方警察~警察庁へ体制が変わる狭間で、犯罪捜査に従事した警察犬たちがソレです。

中部・中国・四国・九州方面の各県警本部では、敗戦直後の昭和21年から警察犬を再配備。彼らは、治安が悪化した戦後日本で犯罪捜査に活躍します。闇市場の摘発で業者の恨みを買い、毒殺されかけた犬もいたのだとか。
しかし、警視庁の犬しか見ようとしない「日本の警察犬史」の怠慢により、国家地方警察の犬達は功績すら記されぬまま、ひっそりと姿を消しました。

その警視庁警察犬が復活したのは、他県警から遅れに遅れた昭和31年のことです。

帝國ノ犬達-K-9


日本シェパード犬登録協会と日本警察犬協会は、戦後も軍用犬の購買窓口となっています(現在の在日米軍は、ヨーロッパ方面で犬を調達とのこと)。
昭和28年

敗戦で消えた筈の軍用犬も、戦後世界で復活を遂げます。
日本に進駐した極東米軍は、復活した日本シェパード界から軍犬を大量調達。中国大陸と対峙する台湾軍や治安対策に奔走するフィリピン軍も、日本で軍用犬の購買調達を実施しています。
こうして、戦後日本生れの軍犬たちは朝鮮戦争や中台の紛争、フィリピンのゲリラ掃討などに従事しました。

フィリピン軍(AFP)が日本で購買した軍用犬の輸送ケージ。昭和28年

「賠償解決に珍提案
日本とフイリツピンの賠償問題が行き悩んでいる折から、“これこそ賠償の妙案?”と奇抜な考えを発表したフイリツピン人がある。この人はフイリツピン陸軍第九部隊獣医顧問のオーガスチン博士(39)で日本産のドイツ警察犬を賠償にもらうというもの。博士は「1951年フイリツピン軍が買い取つた150頭の警察犬は、いまゝでフイリツピン各州のフク団やモロ族の罪人および逃走囚人の発見などにすばらしい功績を立てゝおり、警察犬の必要が高まつている」というのがその根拠だと」
毎日新聞 昭和29年

戦後日本も、新たな武装組織として警察予備隊を創設します。
警察予備隊は軍用犬の復活を計画していたらしく、保安隊へと改編された際に日本シェパード犬登録協会へ保安隊ハンドラーの教育を要請。そして「保安犬」と呼ばれる警備犬を配備します。保安隊が陸上自衛隊になった昭和30年代も、幾つかの駐屯地では警備犬を配備していました(現在は海上自衛隊と航空自衛隊が運用中)。
各種センサーや通信技術が発達した現在、軍用犬の役目は限定的なものとなったのでしょう。

【高度経済成長とペット界】

高度経済成長期に入ると、多種多様な洋犬が輸入され、たくさんの愛犬団体が設立され、豊富な飼育用具が販売され、医療体制や医薬品も整えられ、ペット霊園が整備されました。
戦後の人々も「流行の犬」としてスピッツやハスキーやミニチュアダックスやチワワや北海道犬に飛び付き、すぐに飽き、捨ててきました(悪例として知られるのが東京畜犬事件ですね)。
警察による野犬や不要犬の殺処分は、保健所の担当となりました。その方法も欧米に倣い、炭酸ガスによる「安楽死」へ転換。
戦前や戦時と同じく、「愛犬家」が飼育放棄した犬はゴミのように行政へ押しつけられ、命を奪われ続けます。
変った部分といえば、殺処分された犬の遺骸が焼却処理されるようになったこと位ですか。化学繊維や化学肥料の普及により、犬皮や犬肉のリサイクルは戦時で終了となりました。

近年では犬の商品化への批判も高まってきましたが、ペット業界の構造を改善するのは並大抵ではありません。「旧弊を放置すると外国に対して恥かしい」「僕たちこんなに西欧化しました」と海外に見栄を張らねばならないオリンピック開催は、日本犬界を改善する良い機会となりました。

「黒船」が来ないと、この島国は変革できないのです。

戦前の日本に巨大な畜犬界が存在した史実は、戦時の辛い記憶と共に忘れ去られました。
戦前から受け継がれた成果も「戦後にアメリカから持ち込まれたモノ」と歪じ曲げられます。ウソが重ねられる中、戦後の日本畜犬史は忘却と思考停止の産物と化しています。

悲劇ばかり羅列した、薄っぺらで殺伐とした犬の年表。
延々と劣化コピーが繰り返される忠犬ハチ公論。
妄想とイメージだけで美化・批判される軍用犬史。
警視庁以外の犬を無視する警察犬史。
ペット医療の歴史を見ようともしない獣疫中心の獣医学史。
欧米ばかり眺めている動物愛護史。地域性を無視した畜犬行政史。
その陰で黙殺されてきた、猟犬の、愛玩犬の、野犬の、荷役犬の、牧羊犬の、レスキュー犬の、地雷探知犬の、税関犬の、競犬の、盲導犬の、闘犬の日本史。

一万年に亘って積み上げられてきた「日本人と犬との関係」の、これが現在の姿なのです。

戦後犬界は「戦前とは断絶した世代」と勘違いしたまま、21世紀を迎えました。
それは悪い事ばかりではありません。お蔭で、戦後犬界は過去に引きずられる事なく発展できましたし。

「お国の為に犬を捧げろ!」と叫ぶ軍国主義者はもういません。
日本犬に武士道精神を押し付ける、トンチンカンな国粋主義も見かけなくなりました。
狂犬病の撲滅に成功し、犬への敵意も激減しました。
戦前は10年以下だった犬の平均寿命も、獣医学の進歩で十数年を共に暮らす事が可能です。
おそらく、日本犬界は最も幸福な時代を迎えたのでしょう。

【日本犬界の将来】

さて。少子高齢化を迎える中で、「日本人と犬との関係」はどう変化していくのか。
人口減で飼育者が減り、税収減で畜犬行政も破綻し、機械技術の発展に伴って警察犬・軍用犬・レスキュー犬が廃れ、医学の発達で盲導犬や介助犬も不要となり、自然破壊で猟犬が消えた近未来を想像してみましょう。
そのような世界における、犬の存在意義とは?幾つもの犬種が廃れつつ、人と犬との生身の関わりは維持されるのでしょうか?それともバーチャルなペットや(電脳コイルのデンスケみたいなのね)、アイボみたいなロボット犬へ代替されるのでしょうか?
ロボット犬については、現段階で問題が発生し始めています。機械に対して本物のペットのような愛情を注ぎ、長年に亘って「飼育」しているオーナーさんは少なくないとか。
企業にとっては製品でも、飼主にとってはかけがいのない伴侶。製品サポートが終了した場合、その「ペット」の修理は不可能となります。開発側が想定すらしていなかった、生身の犬との死別とは違う、新たなペットロス問題が生れたのです。
魂たるデータがネット上へ永久保存できるようになったら、ロボット犬の本体は乗り換え用の消耗品扱いとなるのでしょうか?主人を失った野良ロボット犬が街を徘徊する時代が訪れるかもしれません。
そういう電気羊みたいな未来は味気ないなあ、とも思う訳です。

私の妄想はともかく、さまざまな可能性のある未来へのステップとして現在はあります。だから足場固めは大事なんですよ。
しかし、現代日本の犬達は粗末に扱われ続けています。このツケはいずれ愛犬家へと跳ね返り、自分達の首を締める結果にならないとも限りません。

温故知新という言葉がありますよね。今迄辿って来た道程は、現状に至った経緯を把握し、失敗を繰り返さないためのデータベースです。
日々積み重ねられる「日本畜犬史」を、偶に振り返ってみては如何でしょうか。人と犬のより良き未来のため、何かのヒントが見つかるかもしれません。

以上です。


昭和16年撮影

「戦いが終って五年、他を憎み、他を呪うことを強いられて来た長い習慣は、容易に、私達にまことの人間性をとり返させようとしなかつた。しかし、近頃になつて、街に村に、犬を飼う家のめつきりとふえたことに気付く。人々はようやくに、他を愛する心を思い出して来たのだ。
そうだ。地上は美しいもの、生きることは楽しいことでなければならなかつたのだ。
犬は、何時も無邪気に、あくまでも忠實に、そして、人の心を正直に反映する。賞歴燦然たるシエパードや、珍重されるコツカースパニールを傍に侍らし得る人は、申し分なく幸せである。
だが、平凡な柴犬の目に、尋常なスピツツの尾に、美と愛を感じとつて生きる人も、亦多幸と云はねばならない。
人々よ、失われた愛することのよろこびをとりもどし、じつくりとそれを抱きしめようではないか」
伊藤治郎『愛することのよろこび』より 昭和25年