「一般民間でもこの耳のピンと立ち、颯爽として一見狼を思はせるやうな風變りの犬に非常に興味を覺え、のちには一種の憧れさへ抱いて飼育する人も次第に増加して行つた。
この形勢を見て、アメリカ、上海、のちには歐洲航路の船員達が續々シエパードを持つて來るやうになり、現在一樂荘の犬舎をあづかつてゐる永田信雄氏は、その頃神戸にあつて船員の連れて來るシエパードを殆ど一手に引受け、需要者に頒けてゐた。なほ永田氏は大正六年既にシエパードを飼ひ、關西の本犬種の草分けとも云ふべき人で、さうした關係から前記船員との取引きも生じたのであるが、大正の終りから昭和の初めにかけて漸く小鳥熱も終息を告げかけた頃から、シエパード熱は本格的に沸いて來たとは同氏の述懐である。
横濱も東京方面の仕入れ地として、獨逸直輸入犬が盛んに來るやうになる迄は、神戸に劣らず繁昌したものである。又神戸、横濱の外人が飼つてゐるシエパード犬が次第に目につくやうになつた」
白木正光『日本シェパード犬の發展小史(昭和16年)』より

帝國ノ犬達-エスとエイチ
日本陸軍が最初に採用したシェパード、「恵須」と「恵智」(大正9年頃撮影)

近代日本におけるシェパード犬史は、大きく5つに区分できます。

・第1期
大正3年にシェパードが渡来し始めた青島攻略戦後から大正8年以降の歩兵学校による軍用化研究を経て、日本シエパード倶楽部(NSC)が設立される昭和3年頃までの黎明期。
・第2期
NSCによるシェパード普及活動の広がりと満洲事変で戦死した那智・金剛姉弟の報道を経て、昭和7年の帝国軍用犬協会(KV)結成、シェパード繁殖ブームとNSC消滅に至る発展期。
・第3期
KVの勢力拡大と各シェパード愛好団体の吸収合併、それに対抗する日本シエパード犬協会(JSV)設立から昭和12年の日支事変勃発に至る普及・定着期。
・第4期
日中戦争の激化と太平洋戦争勃発による軍用犬としての大量供出、国内飼育頭数の減少、及びドイツ側との輸入ルート途絶による衰退期。
・第5期
戦局悪化と食糧難によって国内からシェパードが姿を消していった、終戦に至る迄の末期。

こうして見ると、日本のシェパード史は第一次大戦を機に始まり、戦争と歩調を合わせて発展していった事が判ります。
ドイツのシェパード犬史が牧羊犬としてスタートし、警察、そして軍隊へと「営業先」を拡大した経緯があるのに対し、日本ではその辺を走り幅跳びしていきなり軍用犬としてデビューしたワケですね。
我が国で「シェパードは軍用犬として作られた品種」と誤解されることが多いのは、これが一因かもしれません。
また、作出者のシュテファニッツが軍人であった経歴も勘違いに拍車をかけているようです。彼がシェパード作出を始めたのは、軍を退役してから10年後なんですけど。

【アントショヴィッツと青島の犬たち】

この「第1期~第2期」にかけて重要な役割を演じた地域が、中国山東省の青島です。ドイツ租借地だった青島には20世紀初頭からジャーマン・シェパードが移入され、青島系シェパード(青犬)と呼ばれる一群を形成していました。
日本シェパード界の黎明期は、この青犬を基礎に発展したのです。
現代シェパード界では青島犬界や青犬の存在を黙殺していますが、それは自らのルーツを否定するのも同じこと。

おそらく「ドイツ直系」を名乗りたかったのか、青島犬界の否定は戦前から始まっていました。昭和5年以降、ドイツ直輸入個体が主流となった途端「青島のシェパードは雑種だった」などと青犬の切り捨てにかかったシェパード関係者の証言を読んで唖然となったことがあります。
独り立ちする前はさんざん世話になった癖に、何という恩知らずな仕打ちでしょう。若い頃は安い国産車を愛用していたけど、カネと地位を手に入れたとたんハデな高級外車を乗り回す成金みたいな態度ですね。

青犬にとっては、更に悪いことが重なります。
昭和12年に日中関係が悪化すると、青島在留邦人は一斉に退去。半年後に日本海軍が青島を奪還したとき、青犬の姿は消えていました。
青犬の消滅は、青島犬界の否定論に拍車をかけます。
それを受け継いだ戦後シェパード界も、青島シェパード界の存在を綺麗サッパリ忘れてしまいました。

日本シェパード史の解説において、青島犬界に触れていないものは信用しない方がよいでしょう。欧米ばかり眺めて、自国周辺の犬界に目を向けないドイツ盲拝論者のタワゴトに過ぎませんし。
この島国根性により、日本シェパード史における「国際都市上海」や「ドイツ租借地青島」や「満州国犬界」の重要性はナカナカ理解されないんですよね。
あげく、オノレが後発組であることも忘れて「当時の日本犬界は中国より進んでいた」とか勘違いする始末。
今回は、日本人が忘れ去った青島シェパード界を取り上げます。

犬
20世紀初頭に撮影された青島のドイツ人警官と警察犬。警察官支援のため、各交番には青犬が配備されていました。つまり、青犬は軍用犬ではなく警察犬として移入された系統です(日本で一番有名な軍用犬「那智」「金剛」姉弟も、青島公安局警察犬ロード號の仔です)。

シュテファニッツの犬達は、やがて東洋へも伝播していきました。その拠点となったのが、国際都市上海とドイツ租借地であった山東省青島です。
ドイツSVは、この青島にも支部を設立していました。

「支那、特に上海付近では昨今我が犬種に對する愛好家が可成り澤山になつて、一九ニ七年には支那シェパード倶樂部(Shepherd dog Club of China)が、勿論アメリカの勢力下に創立されたが、SVは以前獨領青島に青島支部をもつて居た。青島では我がシェパード犬が警察勤務にも使用されたのである。近代日本が我がシェパード犬に好奇心をもつて來たことは敢て意外のことではない(シュテファニッツ)」

青島へ移入されたシェパードは「青島系シェパード」という一族を形成。
これらをドイツ直輸入個体と区別するため、日本人は「青島犬」「青犬(チンケン)」などと呼んでいました。

「この青島犬なるものは、ドイツの中祖主柱犬たるアレックスファーレンハイム時代以前の犬を、青島のドイツ警察署が使用のために移入したのが起源であつた。本国では改良を重ねられたが、青島では近親交配を重ねたので發達しなかつた。
日本へ多數來たのが殆んどが狸の様な小型で、毛色は原色そのままの狼灰色であつて、現在の様なブラックタンや赤色のものは一頭も居なかつた。性能は非常によかつたが、人にやたらに咬みつくものが多かつた(中島基熊)」

犬
青島ボウン犬舎の獨逸シエパード犬(シュテファニッツ)

「シェパードの日本に輸入されたのは歐洲戰乱当時、陸軍省の某武官が佛國から連れて歸つたのが、日本にシエパードが、そのスマートな姿を示した最初であると傳えられて居る。併し支那の青島をを近くにひかへて居る日本が、之まで此犬を輸入しなかつたと言ふことは、むしろ奇跡と言へる。
青島は獨逸の租借地であつたゝめに、自然青島には早くから、此新しき犬が本國から輸入されて居た。
青島の警察に、アントシユウウヰツチと言ふ獨人が勤めて居る。此人は青島の獨逸の手に在る今より三十二三年前、青島の警察署長として赴任して來た人である。此人が本國より二三頭、シエパードを連れて來た。それが青島にシエパードの現はれた最初である。
されば青島におけるシエパードの歴史は、かなり古いのである。アントシユウウヰツチ氏は、今尚青島の警察署に在つて、シエパードと親しんで居る。
青島が支那に還附されて、一層青島のシエパードは混乱して來た。今日シエパードのフアンは、青島シエパードの語を以て、一種侮辱の意味を之に加える。要するに青島のシエパードの、系統の正しくないことを、意味して居るのである。
(中略)
青島におけるシエパードは、青島戰爭によつて、甚しくその系統の混乱を來したのは免れない事であつた。
犬は凡て系統を尚ぶ。之は馬のペデグリーと同じことである。上海にはシエパードが多く居るが、此青島犬の系統をひくものが多い。大連のシエパードもそうである。不思議に日本へは青島系のシエパードは餘り澤山來て居らぬ(中根榮・昭和4年)」

上記の証言中には、青島へシェパードを移入した「アントシユウウヰツチ」なる人物が登場します。彼はアントショヴィッツ・テオドール(Antoschowitz Theodor)というドイツ人警察官で、青島攻略戦後は妻子を残したまま大阪俘虜収容所へ移送されました。

攻略戦のあいだドイツ軍へ徴兵されていたのか、青島の治安責任者として日本側に拘束されたのかは不明です(余談ですが、このとき俘虜となったドイツ海軍のメルテルスハイマー砲兵伍長もシェパードらしき大型犬を連れて習志野収容所へ送られました。千葉県の陸軍歩兵学校がドイツ軍俘虜を軍用犬訓練アドバイザーとして招聘した記録は、おそらく彼のことだと思われます)。

収容所から解放されたアントショヴィッツは家族が暮らす青島へ戻り、青島シェパードドッグ倶楽部(TSC)と交流。
昭和13年の海軍青島上陸作戦に同行したTSCの浅野浩利氏も「當時警察廳の顧問であり警察犬の指導者であつた、獨逸人アントシヨウイツチ氏」と青島で再会したことを証言しています。

1899年に誕生し、1914年に来日したジャーマン・シェパードが、日本人に広く周知されたのは1931年の満州事変。ドイツにおける牧羊犬や警察犬としての歩みを知られないまま、いきなり軍用犬として認識されたのが日本シェパード史の悲劇でした。

東洋シェパード界の窓口である青島犬界の記憶が抹消されてしまったのも、それに拍車をかけてしまいます。


ドイツ直輸入個体が増え始めた満州事変以降、体型などが見劣りする青犬は「猛獣」だの「タヌキ」だのと陰口を叩かれる事となります。
しかし、この青犬が大正~昭和初期の日本シェパード界を支えたのも事実。「この犬は青島産だよ。青島物は低能で駄目だよ」などとシェパード愛好家から馬鹿にされていた青犬ですが、外見はともかく能力自体が劣っていた訳ではありません。
軍用シェパード研究の中心であった陸軍歩兵学校からも、「理由は不明だが、青犬のほうがドイツ本国産よりタフで稟性が高い」との評価を受けています。

同時期には、満洲北部へ白系ロシア人が持ち込んだ「ハルピン・シェパード」も来日しています。こちらも早くからロシアへと移入された系統らしく、体色はウルフグレイのみ。
特徴としては、青犬より大柄で、土着犬種との交雑も回避されていた為か体型も整っていました。

このように、極東エリアには欧州航路、青島、上海、ハルビンなどのルートからシェパードが渡来していました。しかし、シェパードの来日時期はよく分かっていません。
明治時代の文献では「ジャーマン・シープドッグ」なる犬が紹介されていますが、その解説図はどう見てもコリーです。日本の書籍に「獨逸護羊犬(シェパード)」やドーベルマンの写真が掲載され始めたのは、大正元年~4年頃にかけての事。
この時期から、シェパードの存在も知られていったのでしょう。

話を元に戻します。
青島在住のドイツ人が飼っている「狼のような犬」は、当地を訪れた日本人も目にしていました。
青犬が来日した経緯については、神戸が受け入れの重要拠点だったかのような証言もあります。
大正12年の関東大震災によって関東犬界と国際港横浜が壊滅した後、日本犬界の中心は国際港神戸を有する関西へ移動。
神戸に続々と名犬が上陸した結果、震災復興後は「関東の人間が審査し、関西の犬が入賞する」と揶揄される状況へ至りました。

「歐洲大戰中日本が之に参加して、青島を攻撃する事となつた。その時從軍記者として從軍して暫く青島に居た事がある。その時初めてシエパードなるものを見た。
日本へシエパードが輸入されたのが、それから一兩年後であつたと記憶する。千葉歩兵學校でそれを訓練したものを陸軍が日比谷で新聞記者に公開した。僕はあのシエパードが、ハンドラーの下につく態を見て、何とはなしに涙ぐんだものである。
六七年前に僕の近くのフオードの獨逸人技師がシエパードを連れて移住した。その仔犬を買つたのが僕のシエパードを手に入れた最初である。その頃よりして僕の愛犬熱と言ふよりもシエパード犬熱は最高潮に達した。
それは實に關西地方のフアンが、相當に大金を出して良犬を輸入した功績に歸せねばならぬ。彼らは良犬を輸入した子孫を蕃殖させると同時に、その仔犬を相當高く賣つた。
それによつて日本のシエパード仔犬の價値が、良きものと、良からぬものとに區別なく、一概に高くなつた事を否定する事は出來ぬ。併しそれらの批難はどうあらうとも、之らの人の力によつて日本の種犬がうんとレベルを高め、永田君をして日本にはシエパードの種犬に関する限りその資源は既に完成した。本場の獨逸を凌ぐ程である」
鏡一郎『如何にして僕は軍用犬を飼ひ初めたか(昭和9年)』より

いっぽう、「大正3年の青島攻略戦後、ドイツ軍青島守備隊の軍用犬を戦利品として入手したのが日本初のシェパード」とする説もあります。
流布しているのは軍事オタクなのですが、犬の知識が無いゆえに「シェパードはドイツ軍が軍事目的で作出した犬である(※牧羊犬です)」などと間違いだらけの内容となっております。
そもそも彼らの主張は、1974年のミリタリー雑誌に掲載された「シェパードは青島攻略戦の戦利品」という記事を鵜呑みにしているだけ。記事の出典すら確認していません。
この話の元ネタとなっているのは、日本シェパード犬登録協会理事の有坂光威(元陸軍騎兵大尉)による目撃談です。

「私は一九一四年頃第一次世界大戦が勃発し、日本も連合国の一員として対独宣戦を布告し、青島を攻略したころ、日本に来たドイツの捕虜が、いわゆる青島犬と称せられる旧型のドイツ・シェパード犬をつれているのを見たことがあり、これらのうち少数のものが当時の日本軍人や一部の民間人に飼われたようです」
有坂光威『シェパード犬の歴史的展開(昭和45年)』

日本陸軍屈指のシェパード専門家が、「青島戦で鹵獲されたシェパードはドイツ本国産ではなく青犬である」と断言しているワケですね。
後年の軍事オタクが有坂大尉の証言を曲解し、意図せずして青犬の存在抹消に加担してきたのです。

結局のところ、「日本最初のシェパード」についてはよく分かりません。
明確なのは、「青島攻略戦の直後から輸入が拡大した」という事実だけなのです。

帝國ノ犬達-獨逸牧羊犬
おそらく、書籍を介して初めて我が国に紹介されたジャーマン・シェパードの写真。 獨逸SVの資料によると、フッサン・フォン・メックレンブルクSZ6407という名の警察犬です(大正4年)

【シェパードの日本デビュー】

かなり正確だと思われる「欧州ルート」としては、大正6年以前の来日記録があります。このシェパードはドイツ生れで、巡り巡って当時朝鮮総督だった寺内氏に購入され、その後は総督府第三部長の山根正次(衆議院全院委員長)に譲られたとあります。

「何分にも舊体制華やかな時代で、政客の一人や二人は訪れぬ日とてない此の邸へ、柳行李を担ぎ込んだ其日の夕方に、先生が僕を裏庭へ引張り出した。
「あすこに居る犬だが、あれは寺内さんが歐洲から取寄せられたのを、特に望んで貰つたのだよ。名はカイゼルといふ。これから毎日暇をみて運動に連れ出て呉れるんだのう」
「しかし先生、恐ろしい恰好の犬ですね。馴れるまで一寸氣持ちが惡くて近寄れませんね」と聊か辟易する僕に、カイゼルは奮然牙を鳴らして飛び掛らうとする。其度毎に鎖が鞭のやうに伸びてビシビシと犬の体を叩いてゐるといふ光景である。
狼のやうな此の猛獸の運動係は僕の全く豫期しなかつたことだが、先生直々の命令であり、且つは時めく内閣總理大臣寺内正毅大将からの贈物では粗末にも出來ぬと、其後カイゼルとの親和法に僕が之努めたのは當然である。
何しろ、それまでに僕の知つてゐた犬と恰好が全然違ふ。耳が立つてゐる癖に尾が垂れてゐる。動物園の狼にも似てゐて毛色はウンと黑味勝ちだ。しかも歩きつ振りが稀代にスマートである。勿論今から考へると顔は狭く、四肢の角度立過ぎ、胸深浅く體高超過といふ先づ近代的審査基準から申せば良或は可の程度だつたらうが、その當時五歳としても、生れは三十年前だからシエパード犬發達史準初期の典型的な体構を備へてゐたと思ふ。
僕が食事を給する、運動に連れて出るといふ通常の親和過程を経て、半月程後には家中で最も仲良しになつたカイゼル。遂には紐無脚側行進(其頃の日本には犬の正規訓練など観念にもなかつた)で僕を護るやうに随いてくるカイゼル、彼と共に武蔵野の落葉深い小径を舊い詩吟などをやりながら僕は歩き回つたものだつた。
途中で珍しさに声をかけられた行人に「さあ何といふ犬種か知りませんが、相當狼の血が交つて居るやうですよ」などゝ好い加減なことを聞かせて僕は得意になつてゐた」
水野虎男『カイゼルの思ひ出』より 昭和16年

水野少年が世話を始めてから5ヶ月目の夜。下落合の山根邸から抜け出したカイゼルは、そのまま行方不明となりました。
人目を引く大型の洋犬です。すぐに見つかると思われたのですが、方々を捜し回った水野少年の努力も空しく、カイゼルの行方は杳として知れませんでした。
初期に輸入されたシェパードは、こうして姿を消します。

それから2年後、大正8年の秋。日本陸軍歩兵学校は3期に亘る軍用犬研究に着手します。
大正9年1月、歩兵学校は無線調査会の厚東篤太郎少将や警視庁警察犬係の荻原澤治警部から計6頭の犬を寄贈されました。

「シエパード犬が日本に公然登場したのは大正十年である。即ちこの年の特別大演習にシエパード犬は初めて傳令に使はれ、衆目をみはらした。
これより先、歐洲大戰の経験から新兵器、新戰術、軍用鳩等の研究が大に興り、それ〃専門の委員に依つて調査研究されたが、軍用犬も大正八年、千葉の陸軍歩兵學校に於て、小規模ながら研究が開始された。
當時の担任者は同校教導隊の吉田中尉で、宮岡軍曹を助手としてその衝に當り、千葉の有志から貰つた二頭の雑種犬でまづ輓曳の研究から始められた。
かくて半年後には彈藥補充に使用出來る迄に進んだが、その當時は軍犬に関する文献等全然無いと云つてもよい位で、僅かに英國リチヤードソン中佐、獨逸ラインハルト大佐の著書、又は佛蘭西の軍犬教範等によつて、殆んど獨創的の研究が行はれたのである。そしてシエパード犬の有能のことを知り、幸ひ青島戰に捕虜となつて來てゐる獨人中に軍犬の経験者があり、且つ青島系シエパードも内地に連れて來られてゐたので、それを入手することが出來た。その間、警視廳の警察犬係の荻原警部、無線調査會の厚東少将等の後援も大に關つてゐたと云ふ(白木正光)」

歩兵学校の吉田大尉らは、暗中模索の状態で軍用犬研究をスタートします。
幸いなことに、試行錯誤はしたものの方向性は間違っていませんでした。
第一次世界大戦で各国軍隊が編纂した軍用犬レポートを教科書として、格闘用の「戦闘犬」ではなく支援任務に徹する「近代的軍用犬」の研究に集中。ケンカしか能がない国産の土佐闘犬は初年度に失格とし、第二期以降は使役犬種を中心とした編成へ移行していきます。

研究内容が輓曳テストから伝令任務へと進んだ時点で、2頭の犬がズバ抜けた能力を発揮し始めました。
彼らの名は「恵須」と「恵智」。青島から輸入された、獨逸番羊犬(ジャーマン・シェパード・ドッグ)でした。
後にネリー、レヲ、タンクなど6頭の青犬が加わった結果、獨逸番羊犬は日本陸軍の主力犬種候補として高い評価を受けたのです。

「かくて歩兵學校ではシエパード犬の驚異的性能に力を得て、専ら傳令に主力を注ぐことゝなり、傍ら樺太犬、秋田犬、土佐犬等國産犬を始め、各種の外國犬に就いて比較研究を深めて行つた。
大正九年一月發行の軍用犬研究報第一號によると、シエパード犬二頭、土佐犬とコリーの雑種一頭、内地雑種犬三頭を飼育して「座れ」「伏せ」「脚側行進」「前進」等を完成した。
又一年後の大正十年二月の月報によると、シエパードは二頭を増加して四、獨逸ポインター一、雑種犬一、樺太犬一の合計八頭を飼育して、恵智號と云ふシエパード犬の如きは一千米の夜間往復傳令を確實に行つた。そして前記の特別大演習に晴れの妙技となつたのである。
その歩校のシエパード犬陣は次第に増強され、蕃殖も行はれて、亦一般世人に軍犬の認識を廣めるため、努めて新聞等に記事がのせられるやうになり「狼犬」とか「木登り犬」の別名まで出來た(白木正光)」

歩兵学校
恵智(エイチ)や恵須(エス)をはじめとする、歩兵學校の軍用犬たち。大正時代の撮影

歩兵学校のシェパードが一般に公開されたのは、関東大震災直前のこと。大正11年11月、日比谷公園で開催された第5回畜犬共進會がデビューの場だった様です。
このとき出陳された「ジヤーマン・シエフアード(既にこの呼称でした)」は、土井亮造氏の愛犬「ルパン」「モーゼル」、岡田一郎氏の愛犬「タイ」、吉田信三氏の愛犬「ラッチ」、そして陸軍歩兵學校軍用犬班の合計8頭。
既に軍用犬種としての扱いであり、「護羊犬(牧羊犬)」として出陳されたケルピーやコリーは別枠となっています。
当時の記録からどうぞ。

「其他の非獵犬として最新其聲名を世界的に風靡し居るジヤマンシエフアード種の如き、我國に於ては今回の共進會に初めて其出品を見られ、それが相當の優秀犬を東京の吉田信三氏、鵠沼の土井氏が出品せられし事は、我國の共進會としては最も新しき氣分を示し、且つ之れにより今後同種の愛飼者研究家の増加せん事を希望する次第であります」

「今回は特に協會の爲めに、又我犬界の爲めに、陸軍歩兵學校より出陳せられた軍用犬の如きは、全世界を通じて最も有力なる最新種として其實績を挙げつゝある。
元種犬は獨逸の護羊犬種たるジヤマンシエフアードの純血優秀犬を數頭、参考犬として出陳せられました事は軍用犬の如き最新の用途に其特質美を發揮する使役犬に對する知識と理解を一般の觀覧者は勿論、多年猟犬に付き其調教を専心せらるゝ諸君にも相當の知識を與へた事と思ふので、特に該犬に就ては我國に於て最も熱心に指導せられつゝある厚東禎造氏を始め、航空學校教官横山虎三郎氏も親しく臨場せられ、各種の犬種に付き其説明を求められ、又軍用犬舎主任岸中尉(貴志重光中尉の誤植?)も部下の俵軍曹を指揮せられ、特に俵氏が軍用犬の知識と用途に付き別に公園内の大運動場に於て模擬的試験を行はれし事は、犬の理解力と調教者の知識を進むるに最もよき機會でありまして、當時之れを参観せられた諸君は何れも御同感と思ひまするが、當時差し迫まりし要用を棄てゝ此の試験を熟視せられつゝあつた獵界の麒麟兒として狩獵には技神に入るの定評ある木村文蔵氏は又、獵と犬に付き非凡の手腕を有する中尾熊太郎氏と共に自分の肩をたゝきて「君、之れを思へば今後の獵人は犬に對して大に自覺して新生面を開かねばならぬ」と迄激賞せられ、俵氏が軍用犬エツチ號に就き各種の特技を試験中は、其一擧一動をたゞ時々感嘆の聲を漏らして熟視して居られた事は、確かに我獵犬界に強き刺激を與へられて、益々我犬界の發展を促進せしめた事と茲に俵氏の努力を感謝する次第であります」
木下豊治郎『日比谷公園に於ける第五回共進會所感』より 大正12年

民間ペット界では熱烈に受け入れられたシェパードですが、軍部では勝手が違いました。
馬の知識しかない軍上層部は、第一次大戦後の欧州視察レポートで取り上げられた軍犬や軍鳩を「児戯に等しい」と一蹴。思考回路が古いお偉いさんがたへのアピールとして、陸軍歩兵学校は軍用犬のデモンストレーションを展開します。新聞記者や畜犬団体に宣伝してもらうことで知名度を上げ、軍用犬採用の根回しをしたのでした。
しかし、大正12年秋に発生した関東大震災によって活動は停滞。本格的な配備は昭和6年の満州事変を待たねばなりませんでした。

それからシェパード飼育ブームが到来したものの、しばらくは青犬頼りの状況が続きます。昭和6年の満州事変も、実戦投入された軍用犬はいずれも青犬やハルピン系でした。
結局、ドイツからの直輸入ルートが確立されたのは昭和10年前後なんですよね。東の果ての島国へ愛犬を送り出すドイツ側の心情は、それはもう不安一色でした。

「船の出帆の日も分つた。いよいよユタとほんとうの別れをする時が來た。SVの許可を得て2月15日出帆の日本汽船香久丸にハンブルグで積み込む事となつた。今日、2月の14日の午後四時。ユタを入れた箱が船の中に消えた。何處かでユタの泣聲が聞える。知らない國へ遠く海を越えて行くとも知らないで。
今し方迄鼻をすりつけて喜んでゐたのに。黒い大きな煙突が、高いメーンマストがうるんだ私の眼から遠のいて行く。……ユタはとうとう永久に私の手から離れて了つた。
ユタがこれから見出す新しい主人は、必ずやユタと共に喜び、ユタと共に悲しむ、起居を共にし、彼女を作業させる人で、ユタを單に仔を生ます機械として用ひる様な人でない事を信じる。
船に積み出して汽車にゆられて歸る私の手に殘る古びた曳綱だけが、遠く去つたユタの唯一の淋しい思ひ出となつて了つた。もうこれ以上筆をとることは私には出來ない。
日本でユタがどんな生活をしてゐるかを知る事が、今となつては殘された願ひになつて了つた。
ラスベツクは雨だ。ひどい降りが續いてゐる。海も荒れるだらう。―ユタよ、お前は今何處に居るのか!」
憲兵上等兵 フリッツ・マイバウエル『日本に於けるユタの新所有者へ(十時健彦譯・昭和12年)』より 

このような離別を経て、青島やドイツから多数のシェパードが来日したのです。
当初、日本へ持ち込まれたシェパードは狼や狐や和犬の一種と勘違いされていました。大正時代に発行された犬本では「外貌は狼に酷似して居りますので、獨逸の深林に住む狼の血を受けて居ると云はれて居ります」などと大真面目で解説されています。
大正時代の日本人は、意外なことに日本犬の姿すら知らなかったのです。
大正末期までに日本犬は洋犬と交雑化。山間部を除いて消滅寸前に追い込まれ、やがてペット商にすら入荷しなくなります。
見慣れぬ立耳のシェパードを、秋田犬などと間違える人は少なくなかったのでしょう。

その状況は昭和の時代に入っても変わりませんでした。ドイツ本国からの輸入数も増加したことで、日本のシェパード愛好者たちは全国への啓蒙と普及をはかって団結します。

「日本へ獨逸からシエパード犬が盛んに渡來したのはそれよりも遙に遅く、昭和五・六年頃から八・九年が最盛期でありました。八・九年頃は獨逸から船が來る度に、必らず數頭のシエパード犬が乗つてゐたと云はれた位です。尤もそれまでに既にシエパード犬流行の下地が出來てゐたことは申すまでもありません。
最初は従來見かけたことのない立耳の、口の尖つた、一見狼を思はせるシエパード犬の颯爽たる姿が、一部愛犬家の好奇心をいたく唆りました。勿論既に映畫でそれを見、又軍犬としての殊勲の働きも知らぬではありませんが、實物を見、聞きしに勝る狼に似た犬に眼を奪はれたと云ふのが、その頃の真相であつたらうと思ひます。當時はシエパード犬を俗に狼犬もしくは狐犬と云つて珍しがつたものです(中根榮)」

この中根榮らが「日本シエパード倶樂部」を結成したのは、昭和3年2月26日のことでした。
この時から、日本における獨逸番羊犬の呼称は「ジャーマン・シェパード・ドッグ」へ統一されたのです。

(次回、「NSC創設」に続く)