多事なりして今年……。五六人集まつてクラブの相談をしてから滿五年となつた。今は四百の會員となり、今年はじめて展覧會で内地産のみの審査を行い、訓練會も本式にやつた。訓練所も堂々たるものが新設され、登録犬も近く千頭になる。會報も立派なものが連續して居る。
單獨犬種の團體として東洋に我がNSC一つあるのみとと云ふ譯だが、まだ輸入犬と合同審査を爭ふまでには一、二年はかゝる。
訓練會も基礎訓練ではなく、高等訓練競技まで進まねばならぬ。訓練所も第二、第三と全國的に十箇所も出來ねば自慢にならぬ。
世の愛犬家がシエパードを知り、NSCを認識するに從つて、益々發展するものであらう。兎もあれ今年はNSCとしては新らしく多年希望せしものが實現せしkとで御同慶の至りである。


中島基熊『黒狼荘より(昭和7年)』

 

大正時代は陸軍歩兵学校および一部の愛犬家のみが飼育していたシェパード。
その名称も獨逸番羊犬、ポリスドッグ、ウルフドッグ、アルサシオンなどと大混乱していました。シェパードを見慣れぬ多くの日本人も、「ヌクテ(朝鮮狼)だ」「狼犬だ」「キツネの一種に違いない」などと勘違い。
日本犬種自体が消滅しかけていた昭和初期、立耳の大型犬はとても珍しい存在だったのです。

帝國ノ犬達-NSC

混沌としていた昭和3年、日本シェパード界に大きな転機が訪れます。東京在住のシェパード愛好家同士が集まって、日本初のシェパード同好会が発足する運びとなったのでした。

こうして同年2月26日に誕生したのが「日本シエパード倶樂部(NSC)」です。
 
現在では「日本シェパード犬倶楽部」という誤記が定着しているものの、画像の通り団体名に「犬」は付きません。
間違った名称が広まったのは、冒頭の中島氏が『愛犬の友』誌へ寄稿した戦前シェパード犬界回顧録が原因。記事中で「日本シェパード犬倶楽部」と誤記されたのが、拡散してしまったのです。
NSC設立の経緯も記されているので、一部を引用してみましょう。
 
私が昭和二年当時大森山王台に住んでいた時、毎夜半にブルとシェパードを運動につれて出ていたところ毎夜のように将校マントを着た人と出会うのが同じ犬を運動する中根栄氏(電通編集長)であった。
また近所にシェパードを持った渡辺彦氏がおり、同氏はSVの会誌を持って大いに先輩ぶっていて、三人が毎日のように犬談会合を重ねる内に愛好同志の会を作る相談がまとまり同志を募ることとなった。
私はさっそく歩兵学校に飛んでゆき、民間のシェパード犬の愛好飼育家を調べたところ、三菱造船の登原氏がハルピンからきたという牡を歩兵学校の牝に交配したこと、慶応大学の先生久保盛徳医博が熱心家とわかった等々で、昭和三年二月中旬に『新鋭のワン君木に登る犬』として朝日新聞のニュース記事として中根氏が出して一般に呼びかけ、二月二十六日に内山下町の政友クラブに同好者の会合となり、ここに具体化し、二十幾人で発会式をあげた。
これがわが日本シエパード犬倶楽部の団体のうぶ声の第一声をあげたのであります。
 
中島基熊「わが国シェパード犬の生いたち(昭和34年)」より
 
この誤りは、昭和26年に「日本シェパード犬クラブ」という同名団体が新設されたことが遠因です。同団体は中島氏が主宰しており、執筆の際かつてのNSCと名前を混同してしまったのでしょう。
なまじ記事の内容が優れていただけに、戦後世代の愛犬家はコレを基礎テキストとして引用しまくり、次世代のライターたちもそれを継承しました。
だから何だ、という話ではありますが、日本シェパード界のルーツであるNSCの名前すら間違えている事実はどうなんですかね?
それは戦後70年間、誰もNSCの史料を検証していないという意味ですし。他の証言まで信用できなくなります。
 
NSC発足と同時に、獨逸牧羊犬の日本呼称は「ジャーマン・シェパード・ドッグ」に統一されました。これによって、名称の混乱も解決。わざわざ「シェーファーフント」などと格好を付ける必要はなくなったのです。

私がごちゃごちゃ書くよりも、関係者によるNSC設立の経緯を載せた方がよいでしょう。

【NSC発会式】

「歐洲大戰争の際、ドイツ軍の衛生隊に用ひられ、薬品その他の運送をして同盟軍の心膽を寒からしめた軍用犬アルサシヤン・ウルフドツグはその後「シエパード」と云ふ名稱で歐米各國の愛犬家の興味の中心となり、最近日本にも相當輸入され、千葉歩兵學校の十二頭をはじめ全國に約二百頭あり、殊に京濱地方には外人の飼養者が多い。
日本での愛好家はドイツ・クラブのフランツ・メツカ氏、東邦電力技師渡邊繁三氏、フオード技師ラインケル五洋商會主渡邊彦氏をはじめ三井高修、中村博吉、中根榮、朝倉文夫、久保博士等の諸氏が愛好家だ。
最近そのシエパード通の一人、慶大醫科教授久保博士の主唱で、その普及改善を計るための同好クラブが出來る事になり、二十六日内山下町政友ビル内五洋商會内で發會式を開くはず。
同會ではアマチユアーの入會を歓迎す(昭和3年2月)」

「ことの起りは大森付近に住んでゐた渡邊彦、中島基熊、中根榮氏等が犬の運動などで顔馴染となり、同好者のクラブを作らうぢやないかと云つたのがきつかけで、當日は中根氏が司會し、前記三氏のほかには久保盛徳、亀谷徳兵衛、寺田香苗、南謙吉、伊藤藤一、塩田秀重、伊藤義節、岩波義忠等の諸氏が集つて、理事長に久保盛徳氏、理事に中根榮、中島基熊、渡邊彦の諸氏が推された。
永田秀吉氏は既に塩田氏とシエツエルフンド聯盟を組織してゐたが、間もなくシエパード倶樂部に合流して理事に就任した。
私は過去を追ふことを好まぬ一人である。
であるからNSCの過去を追ひ求めることも、餘り好まぬのであるが、某君が「追懐録も一寸いゝものだぜ」と、扇動する儘に、NSC創立時の思ひ出を一ツ二ツ書く事にする。
中島(基熊)君が大森に住んで居た。渡邊彦君も大井の住人。此中島君と言ふのが、ブルとシエパードの先覺者。當時青島からおそろしいリング・テールの牡のS犬を取り寄せて愛育して居た。
渡邊彦君は滿洲に居た時に買つたものだと云ふ、素晴しいグレー・ハウンドと、シエパードを持つて居た。
渡邊君はシエパードについては、メンバーの中では古いフワンの一人である。同君はシエパードの書籍については相當コレクシヨンを持つて居る。
中島君と、渡邊君と私は、住所が近かつたから、毎夜の様に集つては、犬の話に夜をふかした。渡邊君の厳父が「あんなによく犬の話が續くものだね」と、感心をされた位である。
その中に、中島君が久保博士がシエパードのオーソリチーである事をどこからかきいて來た。

「犬も一匹持つて居る。迚も獰猛な奴で六尺もある煉瓦塀を飛び越えて徒らに吠えて居やがる」と、中島君がよく徒らに報告したものだ。ところがその久保博士を慶應の教授と言ふことも、博士と言ふことも、ちつとも心得て居らぬ。非常に若く見えるものであるから、僕が中島君に「久保さんは慶應の先生か、学生か」ときいたことがあつた。すると中島君は「あれは学生かも知れぬぜ」と答へた程に、僕らは久保博士を若く見たものである。ところが豈圖らんや久保さんは醫學博士で、加藤醫博の高弟であると云ふ事がわかつて、中島君と二人顔見合せて大に赤面をした譯である。
一番最初久保博士のお宅へお訪ねした時に、おそろしい立派な座布團の上に座らされた事を記憶して居る。

久保博士はその時既に一匹のシエパードを持つて居られた。大した代物ではない様に拝見したが、中島君の所謂「獰猛な奴」で迚もよく吠えて、其犬は今尚久保博士の番犬として愛育されて居ると思ふが……。
兎に角久保博士はその様にかなり古いシエパードのフワンであつた。外に久保氏はコリーを一匹飼つて居られた。そのコリーがチヨイとした芸當をやつた。久保氏はその芸當が大分得意であつた。僕らが御訪問した時は「一寸やつて見ますかな」と言ひ乍ら、そのコリーに「持つて來い」位のところをやらせて「どうです」と博士は悦に入つたものである。
「クラブを作らうか」「よし作らう」と言ふ様なことで、渡邊彦君と中島君とが、久保博士に持ち込んだ。
「やりますかな」と言ふ様な事になつて、此NSCが生れたのである。
電氣クラブで最初の會合を開いたのであるが、東京朝日新聞が此の企を大変大きく取扱つて下さつた。そして十五六人と集まれば結構と思つて居たのが、三十何人と言ふ多數集まつて、そうして此NSCが出來上つた。
三菱の登原剛蔵氏もその時に参會されたので、理事の一人として就任されたのである。
第一回の展覧會は上野で開かれたが、その時上野に博覧會があり、その會場内でNSCの展覧會を開く事になつたのである。博覧會の方と打合が済んで居たにも拘はらず、明日が展覧會と言ふ前日に理事が行つて見たところ、會場の設備がちつとも出來て居らぬ。どうしたのだと博覧會側を責めたところ、「實は演藝場の舞臺を利用して、そこで君らの展覧會を開くつもりであつたが、芸人の方で僕らの神聖なる道場を四ツ足のために汚されては困ると言つて、舞臺を使用する事を許さない。大に困つて居るのだ」と言ふのだ。
「そんな事をして居ては間に合わはぬではないか。早く設備をしてくれたまへ」と談判をして、漸く博覧會の入り口にその會場を作つたのであつたが、殆んど徹夜でいろいろと世話をして、辛ふじて翌日に間に合つたのである。その時の審査はメンバーの互選であつた。
其次から新宿の精華女學校の校庭で博覧會を開いたが、入場者はいつも五百人から七百人あつた。
不思議な事にはNSCの展覧會に雨の降つたことは一度もないので、之は全く天佑と思つて居る。
又上野での第一回の展覧會を開いた時に、千葉の陸軍歩兵學校から軍用犬班が派遣されて、實演を見せて下さつた。それ以來陸軍は常にNSCに援助をされて、シエパードの發達のために、巨大なる努力を與へられた。此事は、われらNSCのメンバーの感銘して居るところである。
南(謙吉)、伊藤(藤一)氏らが理事として御就任になつてから、NSCは著しく發展をした。
永田君がその後理事として就任されたのであるが、之らの新らしき力のある人々の努力により我NSCは今日の發展を見たのである。
われらは今日深く此方々の會のために盡された功績を感謝する次第である。殊に永田君は繁劇なる仕事に携はつて居らるゝにも拘はらず、クラブのために努力してクラブの血統書の基礎を確立されたのである。
此成績はわれらのNSCメンバーの永久に忘れ能はざるところである。
不思議なる事は、クラブ創生の時代からメンバーが一向に小言を理事者に言はれぬ事である。
兎に角一年に十回と言ふ會費を拂つて居て、今でこそ相當なサーヴイスも受けて居るのであるが、創立當初は貧弱なる待遇より受けて居なかつた。
それでもメンバーは決して小言一ツ言はず、クラブの存在を指示して居られた。之はクラブのメンバーの素質が上品である。即ちメンバーの凡てが紳士的であるためで、理事者殊に初代の理事者が大に感謝して居るところである。
おそらくこんな品のよいクラブのメンバーは他には多くあるまい。
之は特筆して可なるところである。
今の犬界のイデオルギーは確實にシエパードに存在する。
此イデオルギーがいつまでつゞくかは、われらには豫言が出來ぬ。しかしシエパードが形の美よりして、之に併行して作業犬としての本質美に進んで來た事において、われらはシエパードの生命は容易に盡まぬと思ふ。
倶樂部創立時における、シエパードの仔犬の値段と、今日の仔犬の値段とを比較しても、仔犬の値段が餘り下つて居らぬ。われらはS犬の仔犬の値段の餘りに高い事を呪つて居る。モツト〃安價にして、貴重品の範囲より脱して、大衆的にならねばならぬと希ふて居る。
併し仔犬の値段が一向に下らぬことは、一面よりしてS犬の價値が一向に下らぬ事をも証拠立てゝ居るのである。此くて犬の生命は長いとも言ひ得る。
クラブが一回も寄付をして貰はなかつたことも、他のクラブとして誇るべきものである。審査を厳正にしたために今までの展覧會の審査に對し、多少でも刺激を與へたことも此クラブの誇るべきものであつた。
之らの特色は、會勢發展と共に、いよ〃之を濃厚にしたいと思ふ」
あるメンバー『NSCの思ひ出(昭和7年)』より

【黎明期のNSC】

中根榮・元NSC理事
NSCの(帝國軍用犬協會との)合體當時の人は誰がゐましたつけね。
大橋道夫
もう一寸前のt頃をお話願ひたいですが、軍用犬協會が生れる様になつた氣運といひますか、その辺からお話願つたら昔の犬界の状勢がよくわかるのではないかと思ひます。
田島庄太郎・元NSC理事
KVの生れる機運と云ひますか、其の以前には使役犬の團體と云ふのはNSCが牛耳つてゐたもので、NSCは創立當時から大を爲すまでには中根さんあたり非常に骨をおられてもので、あの當時の會報はガリ版でやつたですね。その當時の事は中根さんに聞いた方がいい。
中根
昭和七年かでしたかね。
碓氷元・元NSC
もつと前だ。僕の所には會報の十八號からあるよ。それが昭和五年だから。
関谷昌四郎陸軍獣医正
出來たのは昭和三年だつたでせう。
碓氷
もう九年になりますね。あの當時の會報を見ると、田島さんと僕とは同じ月に會員になつて居りますね。
大橋
新宿の精華女學校で、あすこで第一回の展覧會をやつたですね。
中根
第一回も第二回、第三回もあすこでやつたですよ。そのために宮殿下もゐらしつた様な譯で、却々光栄ある場所ですよ、あすこは。
大橋
NSC創立當時の會員の數はどの位でしたか。
中根
最初に日比谷の電氣倶樂部で發起人會を開いたが、今名古屋に行つてゐる鈴木文四郎君とかが非常に乗気になつてやつたのですが、大した人も來ないだらうと云ふので小さい室を借りたのですが、七十何人か來て、驚いて椅子等を持つて來て、その節創立したのです。
それから久保君が理事長になつて、一番最初に上野に何だかの博覧會が開かれてゐる時に三十何頭可出陳があつたが、審査員がゐなくて互選でやらうぢやないかと云ふ事になつて、投票をしてやつた事があつた。それから第二回が新宿の精華女學校でやつた。
兎に角その頃のNSCと言ふものは幼稚なものであつた。それでも會長には伊藤博邦公を推戴してゐた。
その後會員は漸次増加してなか〃會勢は振つたものであつた。それから段々會員が増えて三、四年もした時は二百人位になつてゐたが、合併をした當時は幾人位だつたかな。
田島
合併した時は、五百人位でしたよ。

帝國軍用犬協會「協会の歩みし道を語る(昭和12年)」より

初期のNSC展覧会の様子は、下記のようなものでした。後年のKVやJSVの展覧会と比べ、なんともユルい内容。いい加減すぎてケンカが起きております。

「NSCは結成三ケ月後の五月十七日、上野博覧會場内で第一回展覧會を開いた。シエパード犬單獨の最初の展覧會で、出陳犬も僅か二十頭足らずと云ふ少數であつたが、その主なるものは渡邊(彦)氏のボブ、塩田氏のアスター、亀谷氏のドルフとアダ、寺田氏のパシヤ、幼犬では三島氏のリリー、中根氏のナナ等で、審査は行はず、會員の人氣投票により渡邊氏のボブが最高點を占めた。

ところがこの投票が問題となり、亀谷、塩田、寺田の三氏は脱退して日本ポリスドツグ協會を新に設立するとのパンフレツトを出す等の騒ぎがあつた。
 

昭和四年

NSCの第二回展が四月三日新宿精華女學校校庭に催された。出犬數は前年の約倍の三十頭程で、塩田氏のアスター號に最も人氣があつた。
 

昭和五年
四月三日、NSCの第三回展は前年と同じ新宿精華女學校々庭に催された。出陳犬三十六頭中の八頭が入賞し、中でも杉浦氏のチヤムが最も傑出してゐたが、このチヤムは本名ヂヤステイ・オブ・ピカーデイと云ひ、のち武田流策(隆作)氏が入手して大に宣傳した
しかしながら從來のシエパードはアメリカ系統か上海、青島産か、或は船員の連れて來たものを無條件に有難がつてゐて、血統證なども甚だあいまいのものが多かつたのであるが、この年に至つてSVの堂々たる賞歴をもつた世界的種牡が二頭まで渡來した。
その一頭は東京塩田秀重氏が入手したラツソー・フオム・デル・レツケであり、今一頭は神戸森本元造氏の輸入したピツツオ・フオム・カーレンベルグであつた。森本氏は當時まだ少壮氣鋭、S犬に對する大なる野心に燃え、苦心惨憺の揚句、獨逸SVに直接文通してピツツオ入手に成功したもので、今日ではなんでもないやうなものゝ、その當時にあつてはSVに直接交渉するなど實に破天荒の企てであつた。
氏はビツツオに續いてデイタ・ダハイム、ベツチナ・アルトマーク等の名牝を矢継早に輸入し、本格的の蕃殖に志したが、これも當時としては一頭地を抜いてゐた。
とにかくこの年に、獨逸シエパード犬輸入の道は開かれ、後年の輸入犬全盛時代を現出したのである。
尤も滿鐡は内地より一足お先に同年春獨逸から三十五頭と云ふ大量のシエパードを購入して、大連と撫順に配置したが、これ等の犬は船旅五ケ月を費して七月大連に陸揚げされた。途中九頭が仆れ、大連に無事上陸したのは二十六頭であつた。これは直に警備に使用するのが主なる目的で、種犬は從であつたが、買入價格も一頭二百圓乃至五百圓であつたと云ふことである。
この年に我國最初のシエパードの本である亀谷徳兵衛氏の「シエパード犬の見方と訓練」が公刊された」
『日本シエパード犬の發達小史(昭和16年)』より

NSCが牧歌的な同好会で有り得たのは昭和5年まで。
翌年の満州事変によって、日本シェパード界は大きく変貌していくのです。

(次回に続く)