一昨日、會報を受取りました。平日、方方へ出歩いて、杭州や上海で、とろ〃してゝ、とんだ浦島太郎です。
上海で犬の本を澤山(四五冊のみ)求めてきました。雪のふる日の居室にて目をとほしてをります。中根氏(※日本シェパード倶楽部の中根榮理事)の本を求めてきました。五月色をした小型の本。きつといゝ本だと思ひます。
今年はいろ〃と面白い仕事があるので、イキごんでをります。上海へはおひまの節、御越し下さい。小生は休暇をしても、上海へお伺ひいたします。南京から上海までは僅に九時間(夜汽車を利用して土曜から日曜へかけてもよし)で、日本の汽車でしたら、五六時間の里程でせう。
是非ともいらつしつて、程氏(※デニス・チェンこと程貽澤氏。戦前に有名だった上海のシェパード犬ブリーダー)その他の連中とおはなしになつて下さい。
東京へは是非とも行きたいと思ひ乍らも、仕事の關係上當分はだめでせう。むさし野の冬枯れした風景はいゝことと存じます。經堂へは自動車學校や、呉といふ人を訪問した時に行きました。
來週邊り杭州へ行きます。公用を利用して、テンペラを描きに行きます。クリスマス頃の上海へも踊りに行きたいものですが、こちらは正式の休暇がないので、不可能でせう。中根さんにお合ひの節よろしく御鳳聲下さい。
私の隊の軍犬班(※蒋介石軍特種通信隊)も、近々開始されました。とても玉石混交で、おはなしになりませんから、不惡。
貴方の文藝春秋の犬の文學を拝見いたしました。康蔵或の犬の消息は、その後四川の内亂でさつぱり友人が知らしてくれません。
ロシヤの突撃犬も、もう少し詳細に知りたいと思ひますが、「攻撃する犬」はもつと早くから現はれるべきです。
中華民国軍軍政部・南京交輜学校特種通信隊長 黄瀛『N大人へ(昭和8年)』より
【黄瀛についての概略】
中国軍の将校だった黄瀛(こうえい)は、高村光太郎、草野心平、サトウハチローらと親交があった詩人として有名です。
一般的な彼のプロフィールは下記のとおり。
黄瀛は、重慶師範学校長黄沢と日本人教員太田喜智の間に生まれました。幼い頃は重慶で暮らしていましたが、父の死によって日本へと転居します。
母の故郷千葉県で尋常小学校を卒業後、関東大震災に遭遇。止む無く中国へ戻り、山東省青島の日本人中学校へ転入します。この頃から詩作にのめり込んでいた黄氏は専門誌への投稿を始め、日本の詩壇でも名を知られるようになっていきました。
しかし、青島は日本の詩人達と交流するのに甚だ不便な場所です。黄氏は「東大進学を目指す」と母を説き伏せて再び日本へ渡ります。
高村光太郎と出会ったのもこの頃でした。光太郎の紹介で文化学院に入学した黄氏ですが、詩作に耽って結局中退。母の意向によって官費留学生となった彼は、改めて日本陸軍士官学校へと進みます(恩師の与謝野晶子からは反対されたとか)。
陸軍士官学校を卒業した黄瀛氏は、中野の「軍用鳩調査委員会」へ配属されて伝書鳩に関する知識を蓄積。
同時期にはまだ無名だった宮沢賢治の才能を高く評価し、わざわざ賢治の実家を訪問しています。既に病床にあった賢治は、彼に対し宗教の話ばかりしていたそうですが。
自分の進むべき道について、日中の間で揺れ動いていた黄瀛。昭和5年、蒋介石の指導力に期待した彼は、中国国民党軍への入隊を決意します。
入隊後も詩作を諦めなかった彼は、尊敬する魯迅とも交流していました。大陸でも充実した日々を送っていたのでしょう。
しかし、魯迅を警戒していた中国軍の特務機関は、自軍将校との関係を問題視します。叔父の何将軍から魯迅との決別を忠告された黄瀛は、詩の世界から離れざるを得ませんでした。
日中が武力衝突へ突き進む中、彼に残されたものは鳩だけ。「鳩を愛する詩人」の人生は、父の国と母の国の狭間で翻弄され続けたのです。
以上、黄瀛に関する文学界の解説はこのようなもの。
それでは、犬界の史料をもとに愛犬家・黄瀛のお話をしましょう。
【黄瀛と日本シェパード倶楽部】
昭和11年、日中両軍の軍用犬関係者座談会に黄瀛が参加した時の記事。これが最初で最後の交流となりました。
翌年、日本軍は黄瀛の活動拠点である南京へ侵攻します。
文学界だけではなく、日本犬界にも黄瀛に関する記録がたくさん残されています。
「ハトはともかく、何でイヌなの?」と疑問に思われるかも知れません。実は、中野軍用鳩調査委員会以外にも黄瀛の所属した組織がありました。
それが日本シェパード倶楽部(NSC)。
現在の日本シェパード犬登録協会や日本警察犬協会のルーツともいえる団体であり、それぞれの前身である日本シェパード犬協会(JSV)や帝国軍用犬協会(KV)はNSC出身者によって設立されました。
NSCが発足したのは昭和3年のこと。
日本に牧羊犬シェパードを普及させようとしたNSCですが、しかし日本の牧羊業界は小規模かつコリーやケルピーの独占状態。
警視庁も直轄警察犬制度を廃止しており、唯一の「大手就職先」だったのが、大正8年度に軍用犬を配備した日本陸軍だったのです。
ドイツ式の最新訓練理論を学ぶため、日本陸軍歩兵学校もNSCへ接近。両者の交流により、日本シェパード界は飛躍的な成長を遂げることとなりました。
黄瀛がNSCに参加したのも、似たような理由だったのでしょう。
NSC会員名簿に掲載された黄瀛。
満州事変後の史料なので、黄瀛は中国移住後もNSCに在籍し続けていたことが分かります。画像のとおり、この時点から南京の軍政部特種通信隊で軍用犬の訓練に着手していますね。
陸軍軍犬班員として日本シェパード犬協会へ戦況を報告していた大井守雄、帝国軍用犬協会メンバーとして北海道犬界の実情を伝えた安達一彦、朝鮮犬界でソウルケネルクラブを率いた花房英一もNSC出身でした。
(「日本シエパード倶樂部會員名簿・昭和7年度」より)
【黄瀛と特種通信隊】
蒋介石軍での文学活動を諦めても、彼には鳩と犬がいました。日本陸軍とNSCで学んだ知識を活かし、黄瀛は南京の陸軍交輜学校内に「軍政部特種通信隊(「特殊」ではなく「特種」表記)」を創設します。
日本軍に占領された南京の交輜学校
黄瀛研究者は「伝書鳩を飼育する部署」と牧歌的なイメージ演出に終始していますが、実際の特種通信隊は伝令犬と伝書鳩による戦場通信の研究を担っていた部隊です。
携帯通信機器が発展途上だった時代、最前線での通信はローテクの伝令が主流でした。第一次世界大戦で華々しく登場した野戦電話や無線通信といったハイテク機器は、対候性や機械的信頼性、電源の確保、更には砲爆撃による断線といった問題が続出。一時的な退化がはかられたのです。
しかし兵士による伝令は犠牲が大きく、図体が大きな騎馬伝令も集中射撃を浴びるだけ。目立たない携帯通信手段として、前時代的な伝令犬と伝書鳩は復活しました。
通信文書を携えて後方陣地へ発進する日本軍伝令犬(第二次上海事変にて)
陣地間に構築された補助臭気線(臭いの連絡ルート)を往復する伝令犬は、狙撃の標的となりました。
画像は昭和13年の鳥畦山包囲突破戦で、唯一生き残った伝令犬ドルフ號。高橋部隊の軍犬班員たちは、戦死したギンベル、アルド、トッパ、ビービー號の遺骨を抱いています。
ハイテク機器に頼れなかったのは中国軍も同じこと。交輜学校内には犬舎が設けられ、伝令犬の蕃殖・訓練に取り組んでいました。
MK(満洲軍用犬協会)をハブとする満州国犬界とは別途に、中国の近代軍用犬史は黄瀛によって始まったのです。
※当時の中国にシェパードがいたのか?と思われるかもしれませんが、国際都市上海とドイツ租借地青島を有する、東洋におけるジャーマン・シェパードの玄関口でありました。
20世紀初頭、山東省青島で撮影されたドイツ人警官と警察犬。青島へ移入されたシェパードは「青島系シェパード」という系統をつくり、大正3年の青島攻略戦を機に日本へ渡来しました。
【黄瀛と南京犬界】
この記事を書くにあり、黄瀛に関する書籍やサイトに目を通してみました。
当時の犬界・鳩界事情でも載ってないかな?と期待したのですが、収穫はゼロ。南京時代の黄瀛については「軍隊生活でも鳩を愛し続けた詩人」という薄っぺらなストーリーばかりが語られています。
彼らが幼稚なイメージ操作に時間を浪費した結果、「犬界人・鳩界人としての黄瀛」の記録は見落とされたまま散逸してしまいました。日本犬界には、軍政部特殊通信隊教導隊長としての黄瀛を知る手掛かりが残されていたのにね。
残念な話ですが仕方ありません。詩の世界では史実よりイメージ戦略が大事なのでしょう(「軍用犬部隊の詩人」より「鳩を愛した詩人」の方が世間のウケも良いですからね)。
その癖、彼らは日本鳩界から黄瀛の記録を発掘しようともしないのです。お前も鳩を愛せとはいいませんが、鳩と向き合わない者に鳩を愛した詩人の心情を理解できるのでしょうか?
鳩の歴史を粗末に扱いながらハトがハトがと喚き散らす二枚舌を見ると、「イメージ戦略」などと腐したくもなりますよ。
愛犬家としても、たいせつな犬の歴史をポエムの道具扱いされては困ります。犬を粗末に扱ってきた黄瀛研究家に協力する義理もないですし。
「犬を愛した詩人」とかいう陳腐なイメージ戦略も可能ですが、まずは一人の愛犬家としての心情に寄り添ってみましょう。
※ここは犬のブログです。
昭和7年10月16日付の、黄瀛から中島NSC理事へ届いた書簡。特種通信隊専用の便箋があったんですね。
文中の「軍協」とは帝国軍用犬協会(KV)のことで、ちょうどNSCとKVの合併騒動が持ち上がった時期でした。
それでは、日本犬界に記録されている南京時代の黄瀛について。
昭和7年の第一次上海事変では、前年の満州事変に続いて日本軍犬が実戦投入されました。いっぽう、戦場では中国軍と行動を共にするシェパードの目撃例も相次いでいます。チイナー・スポイル號など何頭かは日本軍に鹵獲されたものの、これら中国軍用犬に特種通信隊が関与していたかどうかは分かりません。
日中の対立により、蒋介石軍将校である黄瀛がどのように過ごしていたのかも「詳細は不明」とされています。
しかし犬界側の史料には、同時期における黄瀛の動向が記されているんですよね。
「詳細不明」どころか、特種通信隊時代の黄瀛はNSCの犬友たちへの近況報告を続けていました。
軍人の文章は簡潔明瞭であるべきなのですが、黄瀛はここでも詩才を発揮……し過ぎて、ナニが何やらよく分らない文章となっております。もしかしたら、作品発表の場としてNSCを選んだのかもしれませんね。
彼がNSCへ書き送った便りの一部を掲載してみましょう。
★中島基熊君へ
YH(※黄瀛のペンネーム)は怠けてをります。三十六號の會報に於ける記事拝讀致しました。實は小生も蒙古犬にはそんなに百パアセントの興味無之、御忠告深謝致します。尚、蒙古犬に非らざるも西安から一種特殊の犬を産し、小生の想像からすれば多分蒙古より傳來せしものに非らずや?一寸競犬の如き體型を有し、あまり聡明でないが、鼠を取る藝があるとのを、小生現在叔父から一頭ありがたく(原文傍点)頂うてをります。目下、さかんにシエパードと一しよに訓練してをりますが、てんでシエパードとは比較になりません。でも、走らしたら流線形の如く決して誰にも負けません。そのうち南京へ戻り、スナツプする時がありますからお目におかけしませう。
昭和7年に南京から届いた黄瀛の写真。グレイハウンド型の西安犬は満州在来の細狗と酷似していますが、近い系統なのでしょうか?
尚、苗族の犬については今、手もとに寫眞がありませんが、寫眞で見た生蕃犬(※台湾山岳民族の猟犬)の如く小型で、所謂天來の聡明さを持つてをります。雲南にゐるフランスの駐在武官やドイツの宣教師がひどく愛してるとの由、折があつたら詳細を明らかにして見たいと思ひます。
西蔵マスチフは最近の康蔵の紛争に西蔵軍に從つて奮戰したとの由、何れ木曾義仲の火牛式のものでせうが、『軍用犬史』の一頁ものでせう。要するに蒙古犬は大正の初め一部の人々にとてもさはがれましたが、實質の問題に於てK・Oされました。
だが、YHは今單に蒙古犬に限らず、軍用の意味に於て、愛用の意味に於てシエパードの代用、補助に適するものをしきりに心がけてをりますれば、今後ともいろ〃御教示下さるやうに此處にこの一文を艸します。
敬具。
★華北の旅
六月以來、華北の地を轉々と歩く。或は古典的な牛車に、或は馬に、火車に、北方の天地は南の水に比してあまりに大陸的で、この天邪鬼の避暑旅行としては可成に面白い。だが、この面白い旅でYHは犬に吠えられて閉口した。白昼なら相當逃げる(?)餘裕もあるけれど、夜道に吠えられては進退窮まることも少くない。おまけに部落部落には土匪の爲の望楼が必らずある。月夜に犬に吠えられ、部落の壮丁に透撃でもやられちや、をしまひだ。その犬が石ころのやうに道ばたにころがつてるから始末がわるい。私達はこの夜の犬群には可成なやまされた。
だが、白日の旅は高粱の風に揺られ、地平線、落日のくるめき、等等原始的な土地を歩くのは相當面白い。もしも、YHにして文才があれば、副島二郎がつゞつた大陸横斷記の如く油然とかきしるすが、をしい哉左の印象をつゞるのみ…(順次不同)
1.浦口
眼にひるがへる河を隔てた首都のたそがれの風貌!北方の匂ひ!
2.蛙阜
軍隊の市場!雑色の市街―驛についてYH等の装甲車は月の光に青い。
3.得州
丘は戰に疲れた人々の霊を放りぱなしにする。太陽の眩しさ、熱した余等の特別列車。
4.南宿州
鳳仙花の咲く城市。少婦らの美しき散歩。客機の旗、日が照り雨!
5.明光
丘の上の部落。防匪用の望楼。鐵橋をわたるたくましき人ら!
6.臨城
石炭の町―第三路の桃色の憲兵、カーキ色の中央の憲兵。孫美瑤の追憶。
7.鄒県
日ぐれの孟子廟の蝉の聲!夕方の銃聲。ふるへてるんではない、七夕際。
8.兗州
貧しき兗州府!胡弓を引かせて、唄はせてイヤになる。客機の臭蟲の總攻撃。
9.曲卓
聖府―オレに用はない。砂地、進む度に太陽がきつい!孔廟の幾何學的建築。
10.済寧
小済南。運河、軽便鐵道に近い鐵道。文化の二字を記して原つぱに建てた標札。
11.曹州
行かない先きからミ力を感じる。ラフホ地方、土匪の産地、羊の群れ!
12.大沃口
川に泳ぐ兒等!急流!怪物の出るといふ洋館。土匪、紅槍會と黒槍會の争ひ。燕子石。
13.恭安
山はそびゆる市街の後に…。農園、二ケ月ぶりで女学生美はしからず。洋人逍遥―軽井澤!
14.白馬山
秋の石山、秋の空、柿の部落を過ぎ行けば、歌歌の紅姑娘が逃げまはる。
15.済南
五世紀以來見ぬなつかしの市街。七年ぶりで會ふ妻をもらつた中學の同窓。庚申倶楽部で踊らせられしらぬふり裡と話す日本語。
★犬飼ひ鳩飼ひのなやみ
七月、旅行先きより南京へ公用にてかへれば、東京の公使館附武官補佐官の話ありて、YHまぐろの刺身やおでんを思ひだして棚に牡丹餅しきり心動く。これはYHの食慾ならず、新刊の書籍をよみ、永年住みし東京に立ちかへるをあに拒絶せんや。この件すら〃とまとまりてYH心躍り、参謀本部にても適任を得たりとよころぶ。
されど、人生は水沫の如し。軍政部にてYHの後任なしにつゝぱなして、YHの二期上の甘君(※が赴任)となる。
こゝに於てYHは犬飼ひ、鳩飼ひの悲しみを痛感す。されどYHならずとも同郷甘君東渡して好評續々の由、他人事ならずYHひそかによろこぶ。甘君よ!願はくばその日常を以て人に接せよ!敬祝健康!
★消息
友人の井伏鱒二が、犬のことを小説にかいたのを圖らずも讀んで朗らかだつた。井伏君の小説の中の野良犬は夜通し吠えて近所から結局お手數をもらふといふ段になるが、岸田國士の戯曲の犬に至つては大いにあばれまはつて始末に終えないが、文學上犬をしる人はこの他川端康成、室生犀星等がある。YHはシエパードの出てくる朗らかな童話を、プランしてから長いこと筆にしない。こんなことはきつと誰かゞ役目を果してくれるだらう?
×
YHの犬の中でニーナが秋にお産をすると、犬がゝりの隊附から手紙をもらつた。YHは犬を放りぱなしに旅に出てから百日も方々をうろついてゐる。どうか、その頃までに南京へかへつてニーナの安産のお手傳をしたいと思ひ乍ら、中秋名月をYHは見上げてゐる。
×
YHの隊の犬のスナツプをそのうちお送りしませう。別にいゝ系統を引いた名犬もゐないが、開設間もない軍用犬班としては、可成つくした犬である。ひまがあつたら、中根さんが軍用犬クラウ(※中根榮NSC理事の著作)を翻譯して一般に讀ましたいと思ふが、旅先きにゐてはその日に追はれておちつかなくて困る。
(昭和7年)九月十五日中秋名月 山東にて
【黄瀛と帝国軍用犬協会】
日中の狭間で翻弄された黄瀛。
そして黄瀛が所属するNSCでも、大きな変革がおきていました。
昭和6年9月18日、満州事変勃発当夜に関東軍奉天独立守備隊の軍犬「那智」「金剛」「メリー」が戦死。続いて同年11月27日、三頭の飼主であった板倉至大尉も戦死します。
板倉大尉は陸軍歩兵学校軍用犬研究班の出身で、関東軍から招聘される前はNSCメンバーとしてシェパード訓練法を学んでいました。
板倉少佐(戦死後特進)の戦死を報じるNSC会報。これを機にNSCは親軍路線派と同好会維持派に分裂、のちにNSCを脱退した伊藤藤一は帝国軍用犬協会を、相馬安雄(新宿中村屋社長)はNSC消滅後に日本シェパード犬協会を設立しました。
NSC消滅後にKVへ合流した中根榮は「NSC分裂時に忠臣蔵の大石内蔵助を演じた」とか何とか、意味深な発言をしています。
まだ戦死者が少なかった時代、「国家に命を捧げた主人と犬」は大々的に報道されました。それを機に、NSC内部でも親軍路線への転換を巡る抗争が始まったのです。
「NSCメンバーであった板倉大尉の遺志を継ぎ、シェパード登録団体として軍犬報国運動へ注力すべし」という改革派の伊藤藤一らに対し、中根榮や相馬安雄といった保守派は「NSCは同好団体であるべき」と抵抗。
改革を断念した急進派はNSCを一斉に脱退、陸軍の後押しでKV(社団法人帝国軍用犬協会)を設立します。このKVは、民間シェパードを調達資源母体としたい軍部と、愛犬を「大手就職先である軍部」へ売却したい飼主の仲介窓口として組織されました。
KVとの合併を報じるNSC会報最終号とKV会報創刊号(昭和8年)
NSCの有する犬籍簿と会員を狙うKVは、荒木貞夫陸軍大臣の仲介(ほぼ強要)でNSCを強制合併。この乱暴狼藉に憤ったNSC保守派はKVへの合流を拒否し、新たにNSK(日本シェパード犬研究会)を設立して反撃の機会をうかがいます。
更にKV名誉総裁の久邇宮朝融王(KVの親玉ですが、元NSCメンバーでNSKのシンパ)から皇族同士のよしみで筑波藤麿侯爵の会長就任を仲介してもらい、NSKを発展解散したJSV(社団法人日本シェパード犬協会)を発足させます。
筑波会長が防波堤となったことで陸軍の恫喝も通用せず、KVとJSVは日本シェパード界の主導権を巡って激しく対立。戦後犬界に禍根を残してしまいました。
NSC東京本部がやからしたKV合併騒動。NSC地方支部のメンバーは「相談もなく勝手な事やりやがって」「我々はKVへ移籍するのか?」「払った会費は?」「NSC犬籍簿は帝国軍用犬籍簿へ登録変更となるのか?」と大混乱へ陥っています。
海の向こうの黄瀛は、NSC消滅をどのように眺めていたのか。NSKやJSVへの連絡も途絶え、それを知る手がかりも失われました。
軍人である彼が、JSVではなくKVへ接近したのも必然であったのでしょう。KVに合流した旧NSCメンバーを介し、黄瀛とKVのつながりも生まれています。
日本陸軍と帝国軍用犬協会による、蒋介石軍特種通信隊来日歓迎会の席上にて挨拶する黄瀛隊長と李家駒少校。
日本側で参加したのは、司会進行をつとめるNSC出身の中根榮理事、帝国軍用犬協会副会長の坂本騎兵少将、陸軍歩兵学校軍犬育成所教官の三重野・柚木崎両大尉をはじめとしたKV関係者。
翌年勃発した日中戦争で、この関係も崩壊します(昭和11年10月22日撮影)。
【黄瀛と上海シェパード界】
黄瀛は著名なブリーダーであるデニス・チェン(程貽澤)とも接触しており、上海シェパード界の貴重な記録となっています。
しかしデニス・チェン氏の対応は期待外れなもので、犬舎の実態も黄瀛の求めるレベルにありませんでした。南京犬界と上海犬界の断絶は、第二次上海事変まで続いた模様です。
NSC登録のアレックス號。このように、上海デニスケンネルの犬は日本にも渡っていました(昭和7年撮影)
デニスケンネル
デニスケンネル(※デニス・チェン氏の犬舎)ヘ行きました。
上海へ。
僕と軍犬班の班長と副官と。
僕はデニスケンネルに長いことあくがれてましたが、行つて驚いたことは恐しくブルヂユア精神のみち〃したことだつた。僕はよい犬が何十頭ゐたところであんな飼い方をよしとしない。程貽澤君も上海では有名なスポーツ愛好家ときいてたが何故犬にトレニングさせないのか?
市街のまん中に設備の限りをつくした溫室的な犬舎。
わけのわからない管理者のわけのわからぬ犬の招待。
僕は近代名犬の父母となる犬の肥肉を嘆じかへつた。
それに貽澤君よ二度もはる〃約束をして行つたのに
顔を見せないのは少しくいけなくはないか
僕らはギヤングに非らず
僕らは少しは語らうと思つて行つたのだ
それに不愉快な面を二つ三つ出して
展覧會の繪の案内見たいな御招待は實にイヤだ
〇
デニスケンネルの犬は幸福過ぎる
そして僕の皮肉で云ふならば、ふとつた犬は概して小膽だ!
犬を解放してトレニングに参加させるべし
まはりのとりまき連中をはらふべき
君のケンネルの建て増しは犬をソクバクする
わけのわからない連中に君もかこまれるべからず
犬とても君同様だ!
〇
デニス・チエン・クン
君と君のいゝ犬達のために
また語る機會のくるまで
敬祝健康!
緑蔭犬院へ行つた時の印象だ。
Y・Hは惡口を云ひたくなはないが、事實第一回の訪問で僕のあこがれはシヤボン玉となつた。かかるが故に僕のウツプンは即ち程君の低下人(デーシヤレン)へのウツプンで、程君は多分こんなことはしらぬらしい。而して僕のこんな氣もちはそれらの犬情には一寸も及ぼしてやしない。最後に恐しくをさまつてる中國牧羊犬の會に僕は出來るならば盡力したいと思つてる。蕪言ばかり列ゐたが、程君と二人きりで話して見たいと思ふ。
上海犬印象
僕はバスの中でほゝゑんだ。マリーロオランサンの畫のやうないとこは不審がつた。
「犬携帯おことはり」
上海は南京よりうれしかつた
僕は窓から舗道を犬と歩く人々を見乍ら、心の中で。
〇
シエパード君は云ふ。
特殊中國人は彼等の生命財産の爲に僕を
徳國人(※ドイツ人)は平凡に僕を
英美人はステツキと同じやうに僕を
フランス人は僕を見向きもしない
僕は誰よりも我國人が好きだ
僕の友達は、みんな、我國人はいゝ友達になれると云つてるよ。
それはミスターY・H
上海といふところと僕らの心象と
我國人と……
フランス・タウンで、澤山のシーンを、ごらんになつたでせう?
〇
水上生活者と犬猫の共同生活を知つてる
と、同じやうに僕は寶祐里で鴉片吃煙者がシエパードをつれてゐるのを見た。
犯罪に犬を使つたロンドンの惡漢もあれば
犬を見張りにつかつて、サイコロをふる連中も、上海にはゐる。
僕は高級車の中に小姐と一しよにのつてるシエパードをちらつと見た。
實用的に犬を使用してる上海市民よ!
あまり彼らをして疲勞を覺えしむる勿れ!
〇
ウソやインチキを巧みに使つた犬の商賣人が多い。
これがために某國公使館付海軍武官は僕に云ふ
「一夏僕は彼のために實際ナヤんだよ、君」
近代の結婚難は犬にまで長い尾をひく!
〇
吠える犬は強くない
霞飛路でぶつつかつた大きな犬
シエパードの血かそかなる犬
おばけの話
犬の血をおばけの出さうなところへぬつてをくと、お化けも出ないさうな。
犬とおばけ。
Y・Hはナンセンス屋ではない。
ペンがしらぬ故に足をつけずにこれでをしまひ。
黄瀛『Y・H雑談(昭和7年)』より
デニス・ケネルが有するドイツ直輸入個体は、青島系シェパードが多勢を占めていた日本シェパード界にとっても垂涎の的。昭和12年の第二次上海事変を前に、程貽澤に見棄てられた(彼が抗日運動に身を投じたため、犬たちは飼い殺し状態となっていました)デニス・ケネルの救済に動いたのは、NSCの後継たるJSVでした。
しかし、JSVメンバーの中村氏がデニスケンネルへ向かおうとする直前に日中両軍は交戦を開始。デニス氏の愛犬たちは戦火の上海へ消えました。
突然の移轉後、其所在知れず當地の犬好連を悲觀させて居ましたデニー・ケネル。偶然の機會から發見致しました。
先月十九日所用にて外出中、元デニーケネルの犬ボーイに逢ひ、嫌がるのを無理に同行を求め新移轉先に行きました。二、三月頃の移轉だつたと思ひますが、當時四十頭も居た犬達も皆死に絶へて殘つて居るのはエリツク、1928ジーガー トリツクス(アーマンの父)、牝Lowe(1932牝二席)の三頭丈け。エリツクは老ぼれて後躯がフラフラでしたが、流石頭部から胸にかけては昔日の名犬時代の俤を充分とどめて居る様に見受けました。
トリツクスはポリツプ病で腰が立たず、多分もう生きては居ますまい。牝犬Loweは未だ可成り元氣でしたが、この犬大勢と共に居た當時さ程感心する程の犬と思ひませんでしたが、先日見た時には、こんな素晴らしい犬が居たのかと驚く程堂々たる犬らしい犬で、今日迄に見た牝犬の中で一番よい様に思はれました。
何分にも犬舎は暗室に近い様な部屋で太陽の光線はおろか、日中でも犬舎には電燈無しでは犬の居るや否やを見別けられぬ様な所にて大部分の時間を過ごして居る有様ですから、エリツクは勿論元氣なLoweも永くは持ちますまい。
犬に對する愛等全然ありません。
餘りに酷いので拙宅に預かつてやらう。充分可愛いがつてやり、若しチエン氏が犬を見度いと言ふなら何時でも連れて來やるからと話してやりました。チエン氏の母は是非頼むと言つて居ましたが、肝心のチエン氏が青島に行つて留守なので手紙で問合せるから暫く待つて呉れ。返事が來次第知らせるからと別れて來ましたが、全く涙の出る様な思がしました。
その後二、三日してから例の事件(第二次上海事変)が突發しましたので、私も近よる事を遠慮して居ますが、近々今一度出かけて行つてエリツク丈けでも拙宅に連れて來て何うせ永くは無い命ですから出來る丈けの事はして、安らかに死なせてやり度いと思ひます。
今のまゝでは死んでは名犬の末路として餘りに惨め過ぎます。S犬党としての私とて黙つて見て居る事は出來ません。何れ近々にデニーケネル終末記でもものにして會報に出し度いと思つて居りますが、不文者の事とて中々纒りません。
中村芳太郎『上海便り(昭和12年)』より
南京特種通信隊としても優秀なシェパードを入手するチャンスでしたが、同部隊が上海で活動した形跡はありません。当時の黄瀛は民間ブリーダーの支援どころか、自身が「漢奸(親日派)」として身の危険に晒されていたのです。
帝國軍用犬協會第一軍用犬養成所を視察する黄瀛・李の兩氏。案内役は中村所長(昭和11年10月24日撮影)
【黄瀛と日中戦争】
日中開戦前、黄瀛は何度か軍用鳩買付のために来日し、旧友たちと再会しています。また、昭和7年7月には東京の公使館付駐在武官補佐官として日本赴任の話までありました(結局、他の人物が赴任)。
昭和11年、黄瀛は部下の軍犬隊附少校李家駒氏と共に来日。10月22日には、日本陸軍歩兵学校軍用犬育成所や帝国軍用犬協会メンバーとの意見交換会に出席します。
日中間での軍用犬に関する技術交流も議題に上っていますが、この頃すでに、両国の対立は深刻なものとなっていました。
翌年夏に盧溝橋事件、続く第二次上海事変と、日本陸海軍と中国軍は全面戦争へと突入していきました。
中国で漢奸狩り(親日派の処刑)が頻発していた9月、「黄少将が処刑されたと」の報道がもたらされます。日本の詩人達は、黄瀛の情報を求めて奔走しました。処刑のニュースは幸いにも誤報と判明したのですが、その後、彼の消息はぷっつりと途絶えてしまいます。
※余談ですが、黄瀛と対談した歩兵学校軍犬育成所の三重野信大尉は盧溝橋事件の場に居合わせました。その際に「軍犬を支給されなくて残念」と嘆く便りを書き送っています(後日、負傷のため内地送還)。
日本陸軍トップクラスのハンドラーに、実戦で犬を支給しなかったとは。結局、日本軍に軍犬の本格運用をする意志やシステムは存在しませんでした。
日本軍侵攻により放棄された南京交輜學校特種通信隊犬舎(昭和12年)
第二次上海事変に投入された日本軍は、中国軍の要塞地帯によって大損害を蒙ります。日本陸海軍の軍犬達も、凄まじい市街戦の中で多数が戦死しました。
同年10月、日本軍の杭州湾上陸によって中国軍は潰走。それを追って、日本軍は南京へと侵攻します。
南京の中国陸軍交輜学校を占拠した日本軍が見たのは、もぬけの空となった特種通信隊の犬舎でした。日本軍占領後の南京にはシェパードらしき野良犬がうろついていたため、特種通信隊の犬たちは犬舎から逃げ出したのかもしれません。
こうして黄瀛の部隊は壊滅しますが、捕虜の尋問記録によると国民党軍は軍用犬部隊の再編成に着手していたそうです。しかし、それに黄瀛が関わっていたのかどうかは分かりません。
上海市街戦で戦死した日本海軍陸戦隊の軍用犬墓地(当然ながら、日本海軍も犬を配備していました)
いっぽうの日本軍も惨憺たる状態でした。
戦線の急拡大によって、開戦前から訓練を積んでいたベテラン軍犬班はあっという間に払底。内地からは、KVを介して購買調達された民間シェパードたちが続々と出征し始めます。
まだ緒戦の段階だというのに、わずか二週間ほどの促成訓練を受けた「素人軍犬班」が最前線へ投入されていきました。戦争初期は凱旋部隊と共に帰国していた軍犬達も、戦況の泥沼化と共に大陸へ留め置かれます。
満洲事変から敗戦時まで、満州や中国で犠牲となった日中両軍の軍犬については数すら判然としません。太平洋戦線の軍馬や軍犬に至っては、戦地へ辿り着く前に輸送船ごと撃沈されていきました。
日中開戦以降、内地での軍犬購買会は全国へ拡大していきます。因みに、民間シェパードの出征は「軍部による強奪」ではなく、あくまで「KVを仲介窓口とした軍部と飼主の合意に基く売買契約」でした(購買価格が低く、売却拒否となったケースも多々あります)
内地犬界の状況も同じこと。
軍需原皮の供給不足により、「皮革配給統制規則」をさだめた商工省は昭和14年に野犬犬皮の統制をスタート。食糧難の到来を予測した農林省も「ペットに回す食料は無い。駄犬は毛皮にすべきである」と主張します。
それに便乗した政治家は食糧不足の責任を犬へ転嫁し、広報役のマスコミは「畜犬撲滅」を唱え、「贅沢は敵だ!」を標語に掲げる国民精神総動員運動に扇動された一般市民は近隣の愛犬家を非国民と罵り始めます。
日本国民は「軍部や警察に犬を奪われたカワイソウな被害者」ではなく、耐乏生活の鬱憤晴らしに犬を迫害した「戦時体制の加担者」でした。
太平洋戦争突入以降は海外からの畜犬輸入ルートも途絶し、ペットの飼育頭数は激減。やがてJSVも活動休止へ追い込まれ、彼らを圧迫していたKVまでも昭和19年末に活動停止します。
同年には厚生省・軍需省の指導による畜犬献納運動がスタート。全国各地でペットが殺戮される中、愛犬家や愛鳩家は國防犬隊や國防鳩隊(いずれも郷土防衛の民間義勇部隊)へ身を投じて本土決戦に備えました。
敗戦を待たずに近代日本犬界は崩壊したのです。
【黄瀛の戦後】
やがて敗戦が訪れ、中国戦線や満洲国に取り残された日本軍犬たちは共産軍が接収。
出征していたメンバーの復員とともに、JSVは北海道に残存していたシェパードを基礎に活動を再開しました。そして、敗戦から僅か5年で全国各地の支部を復活させてしまいます。
元KVメンバーは新たにNPD(日本警察犬協会)を設立。戦後日本のシェパード達は極東米軍のみならず台湾軍やフィリピン軍の資源母体ともなり、大陸を睨む防衛ラインへ投入されました。
繰返すように、戦時を総括すべき日本犬界は戦争末期に崩壊。たいへん都合がよいことに、歴史を改竄する余地が生れたのです。
戦後復興期の混乱に乗じ、愛犬家達は「すべて軍部に強要された。我々は被害者だ」「戦前に日本犬界など存在せず、日本のペット文化は戦後に進駐軍が持ち込んだ」と黒歴史抹消に励みます。かつては「畜犬を撲滅せよ!」と体制側の施策を代弁していたマスコミも、その過去を巧妙に隠しつつ戦時体制を断罪する側へと華麗に転身。
上から下まで一致団結した努力の結果、戦後犬界は記憶喪失に陥りました。
ワレワレ日本人は、自国の犬のルーツすら辿れなくなったのです。要するに、犬の歴史を軽んじる点では愛犬家も黄瀛研究者と同レベルですね。
偉そうに批判できる立場ではありません。
日本犬界史ですらこの有様。南樺太、朝鮮半島、台湾の外地犬界史、日本犬界の双生児たる満州国犬界史、敵対していた中国犬界史に至っては存在自体が認識されていないのです。
黄瀛と犬を辿る調査が、如何に困難かお分かりでしょう(黄瀛と鳩の場合はどうなんですかね?)。
詩や鳩の世界はともかく、犬界史における黄瀛は「NSCとKVをつなぐ人物のひとり」として記されるべきです。日本シェパード史の場合、NSC消滅に端を発するNSK・JSV対KVの仁義なき抗争が軸となるので、その辺から物理的距離をおいていた黄瀛の立ち位置は興味深いんですよ。
◆
中国と日本の間に生まれた黄瀛は、戦後になっても苛酷な人生を歩む事となります。
戦争を生き抜いた黄氏は、戦後の南京にて草野心平と再会。蒋介石の軍事顧問となった辻政信参謀と接見したり、漢奸と見做されていた李香蘭が日本人であると証言し、帰国に協力したのも黄氏でした。
日本敗戦後は蒋介石と毛沢東による国共内戦が再開され、主導権の奪い合いは共産軍の勝利で終結。蒋介石は台湾へと逃亡します。
国民党軍少将だった黄氏ですが、家族を見捨てて自分だけ台湾へ脱出することは出来ません。彼は共産党によって拘束され、重労働の刑に処せられました。共産党へ転向するも、今度は文化大革命で指弾され、11年に亘る拘禁生活を送ります。
出獄後は日本文学の教授となり、何度か再来日もされていたとか。
波乱の人生を歩んだ詩人は、2005年に亡くなりました。