ここで思い出すのが、昭和三十二年五月、ある文芸評論家が「犬は無用の動物である」と説いたことである。
その理由は、犬は人間の三倍も食べるから、犬の食料で多数の人間を養えるというにある。そして、さらに、この奇妙な論拠を強化するために、「犬は番をするというが、人間の食料をへらして与えているのでは、泥棒はますますふえる」、また「犬は愛らしいというが、実際は犬ほど卑屈な動物はない」といい放った。
もし、その通りだとすれば、われわれの祖先は一万数千年の歳月を費やして、馴化し、飼養し、改良して、わざわざ人間自身を食糧難に追い込むような、まったく無用な動物を作り上げたことになるではないか。この人は、犬が原始の狩猟や牧畜の時代に果たした大きな役割をしらないらしい。
つまり、人類の歴史を知らないのである。
人類の過去と現在を知らない人が文化を批判するのでは、危険が伴うのは当然で、少なくも、太古から、犬が人間に対してささげてきた純情と献身の一端をでも知っていてもらいたかったと思う。

 

平岩米吉『セント・バーナードの救助作業(昭和34年)』より

 

平岩さん、怒ってますねえ。さすがは愛犬王。
世の中には犬嫌いの人も多いので、いつの世もこの手のバトルは絶えません。平岩さんを見習い、現代の愛犬家も自国の畜犬史を学んでおくべきだと思います。
そうしないと、「日本の畜犬商は戦後にアメリカから持ち込まれた業種」などというウソ解説を根絶できませんから。


犬

 

上の写真は、昭和10年に撮影されたペットショップ「國際ケンネルス」の店頭写真。

並んでいるグレート・デーンと日本テリアは当時から大人気の品種でした。各サイズの犬小屋、仔犬運送用の柳行李、宅配用オートバイなども展示されています。

つまり、畜犬商は戦前から存在しました。

 

 

宗教・文化・行政・気候風土の制約も少なく、当たり前のように犬が飼える日本。現在、犬を専門に扱うペットショップは沢山ありますよね。
売られている様々な犬種や、彼らを飼育するための用具や飼料も充実の品揃え。

日本のペット界は、愛犬家にとって天国のようなものです(業界の裏事情はどうか知りませんけれど)。

さて。現代のような至れり尽くせりの環境が無かった昔の日本人は、どうやって愛犬を購入していたのでしょうか。
そもそも、我が国にペットショップが登場したのは何時頃なの?

……実は、よく分かりません。偉そうに「歴史を知るべき」とか書いといて、いきなりコレです。お恥ずかしい。

分らないなら「分からない」と書けば良いのです。体裁を気にして、ソレすら出来ない歴史解説が少なくありません。
巷のペットショップ史解説には、「畜犬商や犬猫病院は戦後に生れた業種」などというウソが堂々と書かれていたりします。その参考資料を見ると、列挙してあるのは「戦後に発行された資料」ばっかり。

歴史解説者として最悪の態度です。戦前の話をしたければ戦前の史料を調べましょう。

 

明治日本に流入したカメ(洋犬)たちは、誰が輸入・繁殖・流通・販売したの?
個人レベルの輸入や繁殖だけで、カメは全国へ普及できたの?しかも明治末期までに、在来の和犬を滅ぼしかけるほどの勢いで。
下の画像で日本軍が大量配備している大量のジャーマン・シェパードたちは、一頭一頭手間暇かけてドイツから直輸入されていたのですか?だったら国産の土佐闘犬を配備すればいいじゃない。

「戦後に進駐軍が~」と連呼するだけでは、上記の疑問に答えることはできません。すべては戦前にペット商や愛犬団体やブリーダーがいたから成立したのですよ。

 

満洲事変直後に撮影された関東軍の軍犬班。起立している貴志重光大尉(日本陸軍歩兵学校軍用犬研究班出身)と一番手前の宍戸軍曹は、関東軍軍犬育成所、満洲国財政部税関監視犬育成所、南満州鉄道株式会社鉄道警戒犬訓練所、満洲軍用犬協会などを結ぶ「満洲国犬界ネットワーク」を構築した人物です。

 

実は、戦前のペット雑誌に目を通せば畜犬商の広告が山ほど載っています。多過ぎて、全国各地で畜犬商組合とか結成していたりもします。

帝國ノ犬達-大東京畜犬商組合
戦前のペット業界団体。当時の東京だけでも、ペットショップの経営者がこれだけ居たんですね(昭和9年)

戦前の日本にも洋犬を輸入し、それらを殖やし、流通し、販売する「現地生産システム」が存在しました。
要するに、明治時代から日本にはたくさんのペット商があって、たくさんのブリーダーがいて、全国規模の犬の流通網が存在していたから、日本全国へ洋犬が広まったのです。
そうやって構築された巨大な日本犬界という資源母体を基盤に、日本軍はシェパードの大量配備を可能としていたのです。

愛犬家と足並みを揃えて発展してきたのが獣医学界とペット業界です。犬を売り、犬を治療する支援システムが確立されたことで、戦前の日本犬界は分厚い基盤を構築することが出来ました。(繰り返しますが、「戦後の日本犬界」ではなく「戦前の日本犬界」ですよ)。

帝國ノ犬達-国際ケンネル
國際ケンネルが戦前に出していた広告。取扱商品に「各種榮養飼料及ビ藥品」とあるとおり、既にドッグフードや獣医薬品が市販されていました。

つまり「日本初のドッグフードは戦後に持ち込まれた」という通説も真っ赤なウソです。

 

犬の歴史を調べる中で、私は新旧イロイロな資料に目を通してきました。
虚偽の解説に惑わされ、それを検証するのに遠回りさせられた事が何度もありました。最初は授業料だと笑っていられたのですが、騙される回数が重なると腹も立ってきます。
繰り返しになりますが、その主犯格が「犬に関するアレコレは戦後にアメリカから持ち込まれた」と唱える進駐軍論者。

 

日本犬界史における「戦後に始まった」という言葉の多くは、戦前・戦中の記録を調べていない事を誤魔化す為に用いられます。

「ああそうなのか、戦前の記録を調べる必要はないのか」と、読者を思考停止させるための呪文です。いちいち自分で調べて反論してくる読者とか面倒くさいですからね。先手を打って封じておきましょう。

……などと考えた結果なのかは不明ですが、とにかく進駐軍論者の害悪は目に余ります。戦前の犬と愛犬家の存在を全否定じゃないですか。

そうやって犬を粗末に扱う者が、犬の話をするなと叫びたくなるワケです。

まさか、日本が近代化に邁進した明治元年~昭和20年8月15日までの約80年間、愛犬家だけは一切の海外情報を遮断し、鎖国を継続していたと思っているの?「進駐軍論者」の思考回路は、要するにそのレベルなのです。
もう一度書きますが、平岩さんを見習って、犬を飼う側もその大まかな歴史を学んでおくべきでしょう。

 

【明治の畜犬商】

 

この畜犬商は、進駐軍がやってくるより43年も前に開業していました。

 

金魚や小鳥、昆虫を販売する商人は江戸時代から存在しました。当時の犬達はその辺をうろつき回っていましたし、勝手に住み着いて勝手に殖えていくだけの存在。だから、江戸の町でわざわざ金を払って売買されるのは、狆や唐犬のような希少種のみでした。
しかし特権階級の犬は違います。将軍家の鷹狩犬訓練法も記録されていますので、犬や飼育具の売買ルートも存在したのでしょういっぽうの関西では犬の飼育本まで出版されていましたから、一般庶民にもペットの需要自体はありました。

 

帝國ノ犬達-暁鐘成 

大阪の浮世絵師・暁鐘成が嘉永7年に著したペット飼育マニュアル(全6巻)。犬の斑模様をデザインしたお洒落な表紙となっています。

熱烈な愛犬家の彼は、『犬狗養畜傳』『和漢今昔いぬの草紙』によって一般庶民にペットの飼育法を説きました。犬を飼わなかった江戸っ子と違い、上方の庶民には多くの愛犬家がいたのです。

近世に培われたその土壌が、国際港神戸を有する関西犬界の発展へとつながりました。

東京視点に偏りがちですが、犬の歴史解説も地域性を考慮しましょう。日本は江戸だけではありません。


幕末の開国と共に、海外の文化がどっと流入してきました。その中には、外国のペット文化も含まれていました。高嶺の花だった唐犬や南蛮犬は、庶民が飼えるペットとなったのです。
明治の洋犬ブームを支えたのが畜犬商でした。

 

岐阜縣安八郡東前村西脇與三二君は「犬」買入の世話をなし呉れと申込まれたれバ、出入の人々にも相談せしに差當り良犬なく、此上は余の約束の犬にても送らずばなるまじきかと苦心中、猟友會幹事福岡君、今度百數十圓とかする獵犬を買入るゝ都合となり、又同君は六頭も犬を有し居らるゝより牝牡(セツター)二頭の中一頭選取を諾すとの事とはなりしに依り、余は其趣を西脇君に通知せり。
西脇君は謝禮として五十金を送らる。余は福岡君の犬の試驗に取りかゝらんとせり。此時大坂の舊友人本山彦一君(藤田組綜理)來遊、一日は海、一日は山と海山獵夫を海と山とに試驗せられんとす。

余は欣諾(寧ろ此方より進み出でゝ)一日横濱に飛び同氏の爲に一百弗餘の良銃を買得し、先づ海に出てしに余は同氏の新銃にて二射連發を試み、二鴨(一は飛切、一は游き居りしもの)を得余の新銃十番銃及二連にては五鴨と真正の都鳥とを獲、翌日は右に云ふ獵犬(ラーベと云へり)を引出し富士の裾野に行かんとせし。

 

海山獵夫『獵犬を數日間使用し其疲勞を防ぐ法(明治26年)』

 

明治時代、海外やブリーダーから犬を入手するのは斯様に大変でした。連絡を取ろうにもインターネットとか存在しない時代ですからね。
その辺の仲介役として、ペット商が登場したワケです。

犬
「外商」とあるとおり、明治中期には犬の売買がおこなわれていました(明治25年の広告より)

明治に入ると、舶来物好きの日本人たちは外国人の飼育するカメをこぞって求め、犬の飼育者は急速に増えていきました。
都市部に洋犬が定着したのは明治2年頃のこと。明治20年代までにその勢力は全国へと広がり、同時期から「畜犬商」が現れました。
カメの流行に便乗し、目端の利く商人が洋犬を扱うようになったのです。


まだペット店が少ない頃ですから、高級猟犬はブリーダーから購入することもあったのでしょう。資金に余裕のある愛犬家などは、直接・間接的に海外から欲しい犬を輸入していました。明治期に輸入されていた外国犬種としては、ポインター、セッター、コリー、グレートデーン、マスティフ、ブラッドハウンド、ブルドッグ、ダックスフント、セントバーナード、各種テリアなどが記録されています。

戦前犬界でも当時の関係者に聞き取り調査をしていますので、取り上げて見ましょう。


帝國ノ犬達-猟犬
明治創業の「大日本猟犬商會」。兄弟店である「日本畜犬商會」と並ぶ有名なペット店でした。

 

帝国軍用犬協商会(KS)理事長 伊東義節

「ではまづ畜犬商の歴史からお話を願ふとして、その方で古い鈴木さん、上田さん、西村さんから詳しい、又特に面白かつたことをお話下さい」

関東畜犬商組合 西村和介

「一番初めに犬の仲介をしたのは代議士になつた綾井さんでせうが、この人は勿論畜犬商とはいへない。その次が芹澤さん、芝の時田さんといふ順でせう」

関東畜犬商組合 上田辰太郎

「全くその時分は商賣といふ程ではなかつた。銃獵家が獵犬を註文すれば、探して間に合わしてやるといふやうな程度で、ほんの片手間でやつてゐた」

白木正光

「上田さんが商賣をはじめられたのは、いつ頃からですか」

上田

「私は十九の年からやつてゐますから、もう三十四、五年になる。丁度、日清戰争や北清事變の當時やりはじめたのです」

白木

「それはどういふ動機からですか」

上田

「もと〃犬商をしやうと思つてやつたのではなく、蠣殻町のある家から獵犬をもらつたが、それが牝で、生んだ仔を方々に分けてやつてゐるうち、三圓あげるから是非わけてくれとか、五圓あげるからといつて、くれるものはもらつた方がいゝので、貰ひましたが、そんなことが動機で犬商を初めたのです。その頃樟腦油の小林さんに大變お世話になりました。しかし、それ専門では食べられないので、犬に附属する首輪なぞ作つて賣つた」

白木

「その時分の犬はどんな犬でした」

上田

「全くひどいのばかりで、いゝのが輸入されたのは大正二年に鈴木さんのとつたバスターなどがはじまりでせう」

伊東

「タザンあたりが、はじめではないのですか」

関東畜犬商組合鈴木仙之助

「そんなことはない。展覧會は明治四十五年頃だつたか、たしか國民新聞主催でやつた」

上田

「あの時はずい分集りました。約三百頭です。あんな展覧會は近頃にもない」

鈴木

「でもほんとうにいゝ犬といふのは尠かつた。堤のお婆さんが持つてゐた餘り良くない犬が三等賞に入つたとかいつて非常に喜んでゐました」

西村

「その當時セツターは岩崎さんが飼つてゐました」

鈴木

「岩井さんもいゝのを持つてゐました。それから、池田文吉さんも持つてゐた」

上田

「それで思ひ出したが、日比谷の西郷さんも古く東郷元帥も古いセツターのフアンです」

西村

「東京で獵の古強者は何といつても本所梅森町にゐた先代の飯高のおやぢで、今の宮城のお濠で鴨打をしたのは有名な話だ」

白木

「鈴木さんと西村さんはどちらが古いですか」

西村

「いやおなじくらゐでせう。私は十代の時から今迄やつてゐる。ずい分古いもんだよ。私は何の商賣をしても續かない。なにしろ怠け者なので、朝起をする商賣はやりたくない」

白木

「犬も朝起は必要でせう」

西村

「いや、それは若い者にやらせるから平氣です(笑聲)」

上田

「犬の運動で思ひ出したが、私は子供を使つて無料で運動させたことがあります。恰度今の貸ボートと云つた制度で勿論料金はとりませんが、學校から歸つて來た子供達に犬を貸してやるのです。それが評判になつて、毎日叔父さん犬を貸して呉れと頼みに來ます。それに一時間とか二時間と時間を決めて貸すのです」

西村

「無料の犬ボーイで甘いことをやつたものだ」

上田

「犬ばかしでなく動物商としてやりはじめたのに内藤半兵衛がある。この人は古い」

鈴木

「横浜では傘屋が古い」

上田

「さつまやも古く、本業は下宿屋をやつてゐた」

鈴木

「犬の價格では堤の婆さんがバスターを千圓で賣つたのが、高價のはじめで、それから輸入が盛になつた。又仔犬は俗に小バスと云はれたものゝ仔が相當の價でうれ、大バスは當時一五〇圓と言ふ相場が立つてゐた」

上田

「その時分、木下さんがカローを飼ひはじめたのではないか」

鈴木

「私もカローとまけないものが欲しいと思つてタザンを買つたが、この二つの犬は、在來の犬とちがつて隔段に優秀なので、大正七年の展覧會には特に参考犬として優遇された。その時懸賞を發表して、タザンに掛けて生れた仔犬のうちで最上のものに五百圓を出すことにしたが、その後タザンは岡村さんに買はれてそのまゝになつた」

西村

「それでは、うんと儲かつたらう」

鈴木

「竹久のレンヂヤーが、チヤンピオンであつたが四千五百圓と言ふ高價で評判だつた」

白木

「ブルフアンも一時は盛んでしたね」

西村

「ブルは使ひ道のない割に高い。古河さんのは一萬圓といふ噂だつたが、その頃ブルで大事件が起つた。大阪の小菅さんのブルを東京の共進會につれて來て目黒で逃がして仕舞つた。逃がした方では大騒ぎしてゐるとやつこさん汽車にのれば歸れると思つたものか品川で貨車の中にもぐり込み、驛員がおどしても何時かな出やうともしないのです。

幸ひ小菅さんの犬であることを知つてゐたので、その方へ電報を打つと、更に小菅さんから逃して大騒ぎしてゐるところへ電報が來て、やつと結末がついたが、一時は全く大騒動でした」

白木

「セツターとポインターに分けるとどうなります」

鈴木

「ポインターではタザン、シヨツト、ウイツク、ジヨネツト等、人氣があり、セツターではレンヂヤーを初め徳田さんのホスター、私のレツクスなどが當時の錚々たるものでした」

白木

「グレートデンやマスチフといふ大型犬は昔からゐましたか」

上田

「昔の大型犬は非常に大きかつた。赤星さんのマスチフなどはつないでおいた自動電話を引き仆した程力が強く、これは土佐の血が少し混つてゐましたが十七貫以上でした」

関東畜犬商組合 三木犬心

「明治何年かわすれたが、その當時人力車に乗つてゐて、頭のさすれるほど大きなグレートデンがゐた」

西村

「そう〃鼻のさきから尾までが六尺餘りあつた」

鈴木

「昔も何でもゐましたよ」

西村

「それは外人のゐたせいで、横濱にはいろんな犬がゐたし、又いゝ犬もゐて、或時などは種を貰ひに外人の家へいつたものです。頼んでもくれない時は無斷でもらつてきました」

白木

「どうやるのですか」

西村

「十五番館とか四十二番館はよく行つたものです。それは夜庭に牝犬をこつそりなげこんでやるのです」

鈴木

「そのほか外人出入りの米屋があつて、そこへ遊びに來た外人の犬の種を皆で貰ふやうにしてゐました」

上田

「銀座菊谷のタフと云ふ犬もこうやつて出來たのですが、これが仔犬の時は乳母犬をつけたもので、これが乳母犬の最初でせう」

鈴木

「それよりもこのタフは八ケ月で四千五百圓に賣れたので評判になつたのです」

 

『玄人側の元老に聴く 畜犬回顧と買犬心得(昭和9年)』より

 

……黎明期はやりたい放題だな。





明治35年のペット商カタログより、当時のペット通販について記されています。


猟師や武家が独占していた狩猟も、明治20年代には西洋式スポーツハンティングとして庶民のレジャーとなります。
高性能の猟銃と共に、ポインターやセッターが続々と来日。明治20年代までに日本犬は狩猟界から駆逐され、西洋の鳥猟犬が主役の座を占めてしまいました。
西洋の猟犬を求めるハンターの需要に応えるため、畜犬商は誕生したのです。
こういったペット店に勤務する者の中から、こっそり仔犬を殖やしたり、培ったノウハウや人脈を元に獨立するケースが相次ぎます。「のれん分け」に伴って、畜犬商はどんどん増えていきました。
明治30年代になると、時田雅太郎の鳥政畜犬店、田中千禄の大日本猟犬商會、東京養犬場といった猟犬専門店が開業。ペットの流通網は、鉄道の整備によって全国へと広がっていきました。

そして、犬界が成長期を迎える大正時代が訪れます。

 

(次回へ続く)