帝國ノ犬達-赤頭巾2

赤帽さんはお祖母さんを揺りおこさうと、ソツト毛布をとつて見ますと、あの優しいお祖母さんが、ついに見たことのない、それは〃恐い顔をして、頭巾を目深に被つて寝て居らつしやいました。
赤帽さんは、まだ狼だとは氣がつきませんから、不思議で堪りません。
そこで
「お祖母さん、何といふ今日は長い耳なの」
「お前のいふ事が皆聞ゑるやうに」
「何といふ今日は大きな眼なの」
「可愛らしいお前がハツキリ見ゑるやうに」
「何といふ今日は大きな手なの」
「お前を澤山抱いて上げやうと思つて」
「何といふ今日は恐ろしい大きな齒なの」
「お前を喰ひ殺さうと思つて」
と、いふより早く狼は愍然(かわいそう)に、いきなり赤帽さんに飛びついて、パクリ〃と食べてしまひました。

 

百島操訳 グリム御伽噺『赤帽さん(明治24年)』より


赤頭巾1
上2枚ともシャロッテ・シュトゥンプ夫人撮影の赤頭巾。狼を演じているのはシェパードです(1925年)

かつて我が国に棲息していた二種の狼は、明治時代に相次いで絶滅してしまいました。

彼らがどのような動物だったのかは諸説紛々なので、一体どれが正しいのかよく分りません。科学的な調査すらされずに絶滅してしまった故、日本産狼の生態は謎に包まれているのです。

 

幸いにも、僅かながらの標本や記録が現代へ伝えられました。それらのお蔭で、21世紀においてもオオカミ談義ができるワケです(オノレの拠り所を理解していない研究家の中には、感謝するどころか「剥製の出来が悪い」など放言する向きもありますが)。

地域によってオオカミ、ヤマイヌ、狼交雑犬、山中の野犬などが混同されていたものの、オオカミ自体は実在しました。解剖学的にニホンオオカミと野犬が異なる動物であったことは、「奈良県鷲家口のニホンオオカミ」を剥製にした金井清が記しているとおり。

 

 

マルコム・アンダーソンと共に最後のニホンオオカミを得た状況を、金井清は『日本で捕れた最後の狼(昭和14年)』にて回想しています。

その詳細は「日本の狼史・其の3 ニホンオオカミ絶滅」の回で取り上げましょう。

 

「帝國ノ犬達」は近代日本犬界史のブログですから、オオカミの話は範疇外。「犬の歴史は狼史のオマケ」みたいに勘違いしているオオカミ研究家とも関わりたくありません。

だったら何でオオカミの記事なんかを載せるのかといいますと、近代日本犬界が日本産狼研究のスタート地点だからです。

昭和初期の日本犬界で始まった「消えゆく和犬のルーツを探る」という試みが、「そもそも和犬とは何か?」「まずは古代の犬骨から調査しなければ」「ところでイヌとヤマイヌとオオカミは違う動物なの?」と深堀りされる過程で在野のオオカミ研究は始まりました。

いっぽう、明治時代の動物学者はニホンオオカミの研究を敬遠。「オオカミを捕えたから調べてくれ」と持ち込まれる動物がどれもこれも野犬だったため、お前らいい加減にしろとキレてしまったのです。

「学界での生物学的なオオカミ研究」と「犬界での民俗学的なオオカミ研究」が併行していた経緯もあり、ここでは「日本犬界とオオカミの関係」を取り上げます。

 

【ニホンオオカミとは】

 

その昔、我が国にはニホンオオカミとエゾオオカミが棲息していました。統治下にあった朝鮮半島のヌクテを含めて「日本産狼は3種いる」説も当時はありましたが、現在では通用しません。

オホカミ、オホカメ、豺(サイ)、山犬、ホロケウ、オオセカムイ。様々な呼び名や伝承が残されているように、昔の人々は彼らに親しみ、畏れ敬っていました。

山岳信仰の対象であり、送り犬のような怪異でもあったオオカミですが、「野生動物としての日本産狼」は研究がなされないまま絶滅してしまいます。

富国強兵・殖産興業へ邁進する明治日本において、エゾオオカミやニホンオオカミは近代化を阻む害獣でした。神通力を失った彼らは、絶滅しても困らない存在へ格下げされたのです。

満州国や朝鮮半島への移住者がオオカミと遭遇したり、日本列島にも大陸産オオカミの輸入(毛皮含む)が続けれらたため、「まだ満州国や外地や動物園にたくさんいる動物」という認識でしたし。

 

帝國ノ犬達-山犬

 

日本産狼はハイイロオオカミの亜種です。もともとニホンオオカミの先祖(絶滅)はユーラシア大陸に棲息しており、その一部は日本列島が大陸と地続きだった時代に渡来しました。

やがて最終氷期後の海面上昇によって日本列島が大陸から切り離された後、長い年月をかけてニホンオオカミへ変化していったのでしょう。

いっぽうニホンオオカミの先祖から分岐したイヌは東アジア一帯で飼育されていましたが、オオカミから何万年か遅れた約8000年前に「縄文犬」として日本列島へ渡来。既に大陸とは日本海や宗谷海峡で分断されていたため、縄文人と共に船に乗ってきたのです。

東アジアの犬たちは他エリアの犬と交雑を重ねますが、その影響が少なかった辺境の日本列島に「ニホンオオカミと近い原始的な系統」、つまり日本犬が残されました。

 

中型野生獣のニホンオオカミと小型の家畜(現在の柴犬サイズ)である縄文犬は、自然界と人間界に棲み分けていました。縄文犬は人間の生活圏内へ埋葬されているのに対し、獲物であるオオカミの骨はゴミ捨て場(貝塚)から散乱状態で出土しています。

人間にとって生活の友であったイヌと、自然界の脅威であったオオカミ。この敵対関係は古代から近代まで続きました。

自然科学が発展した明治時代まで存在していたのに、害獣であったニホンオオカミの生態はきちんと記録されていません。

この空白がニホンオオカミ像をアヤフヤにしてしまいました。

 

鹿を追って季節ごとに移動していたエゾオオカミと違い、ニホンオオカミに関しては「巣穴を掘っていた」「いや、営巣には自然の地形を利用していた」「長距離移動していた」「特定エリアに定住していた」などと、地域によって証言もバラバラです。

オオカミ信仰で有名な秩父における記録は下記のとおり。

 

彼れが十八歳の時(※嘉永元年・1848年)の事、一日近所の者が大久保の谷奥三ツ澤へ蕨取に行つた所、大きな岩の下に狸が子を生んで居る所を見たので早速歸つて其事を彼れに知らせたので、猪虎は行つて見と夫れは狸の子ではなく山犬の子であるから、好し〃親ともに手取にして遣らうと考へ、雨の降る一夜、狼退治に着手し、先づ現場に行つて見ると子ばかり三匹圓くなつて寝て居るから、彼れは大擔にもそれを抱へて寝て居ると、稍や暫くして親が遣つて來て人の居るのを見て容易に近寄らない。遠巻きに彷徨つて居る許りで何うしても銃を向ける事が出來ない。

餘儀なく少し立ち離れて見て居ると、親は何時の間にか寄つて來つ、二疋の子を喰ひ殺し、銃を向けるが早いか何處かへ逃げて了つたので、止むなく殘りの一ツを銃殺したと云ふ。

 

秩父御嶽山の猟師・井上虎蔵氏(通称猪虎)の記録「希代の老獵人・シシトラの半面を髣髴す(大正3年)」より


「巣穴には棲んでいたが、それは自然にできた岩窟である」という折衷説もあります。

 

棲處は如何、夏冬棲息の方法を異にすると云ふのは何かの間違ではなからうか。總体穴居する者ではあるが、決して自分が之れを掘るのではない。

深林中自然に在る穴若くは凹窩に棲息するもので、夜に入るや、彼れは其の棲處を出で、最とも注意深く恰かも盗み足と云ふ工合の歩調にて、其の食餌たるべき動物を漁るのである(常山獵夫『狼に就て(明治34年)』より)

 

このように、さまざまなニホンオオカミの姿が伝えられています。どれが正解ということでもなく、ニホンオオカミは各地域で独自の系統や習性を維持していたのでしょう。

雪深い東北から温暖な九州まで、地形や気候による生息環境の違い、獲物の分布、人里との距離などが影響し、体格の大小や体毛の色や長さ、行動形態に地域差があったのかもしれません。

長い年月の間にオオカミと野犬が入れ替わったりして、地域や時代ごとに「オオカミ」「ヤマイヌ」と呼ばれた動物も違っていたと思われます。全国共通の特長として、「狼には水かきがある」と記されているのも興味深いですね。

 

共通の特長といえば、獲物を追跡する「送り狼」「送り犬」の伝承も有名です。

この習性は日本産狼だけではなく、中国の狼でも同じでした。例えば、魯迅の作品にも送り狼が登場しています。

 

四年前に彼は一度山下で狼に出遇った。狼は附かず離れず跟いて来て彼の肉を食おうと思った。彼はその時全く生きている空は無かった。幸い一つの薪割を持っていたので、ようやく元氣を引起し、未荘まで持ちこたえて来た。これこそ永久に忘られぬ狼の眼だ(魯迅『阿Q正伝』より)

 

魯迅が送り狼の知識を得たのは日本留学中だったのか、もともと中国に送り狼の伝承があったのか。世界各国のオオカミにも似たような話があるのかどうか。

オカルト界隈で「怪異」として語られる送り狼ですが、むしろオオカミ研究の分野で扱うべきでしょう。

ちなみに、送り狼が発生する原理については明治時代に解明されていました。

 

彼れ餓(うえ)に迫るや殆んど其の注意力を喪失するので、或は日中徘徊することもあれば、或は人に危害を加ふることもある。甚しきは新瘞を發掘して人の屍体を喰ふこともある。

が、彼れ決して人を好んで害する者ではない。普通の場合なれば却つて自から避くる様にして居るけれども、餓に迫ると遂に忍ぶことが出來ないのであらう。併し彼れは直ちに人を襲撃する者ではない。先づ尾行して其の不注意不用意の點を捜索し、其の隙に乗じて之れを襲撃するのである。

世間に「送り狼」と云ふのがある。是れは決して狼が親切に人を送る譯ではない。

其の人に尾行しつゝ不注意不用意の點を捜索して、乗ずべき隙のない内に其の人が人家に近くので、遂に諦めて去つてしまふのである。

僕の郷里は越後で、一面には峯巒連綿として國境にまで達する守門の山脈があつて、他方には日本三大河の一なる信濃川が越後の中原を横ぎつて居る。

ソコで冬期積雪山野を蔽ふて、數尺若くは丈餘に至るや、彼の狼は到底山間で食を求むることは出來ない。爲めに殆んど毎夜の如く信濃川の川原に出懸けて來るので、僕は之れを捕つたことはないが能く其の影を見、其の聲を聞き、其の足跡を認めたことがある。随つて人を害したのを聞ことも度々であつたが、僕の地方では夕狼は恐るゝに足らないとして在る。と云ふ者は、夕は大抵彼等が川原を指して行くからである。

だが終夜川原を漁つた結果、充分の食餌をも得ることが出來ないで、空腹を抱えつゝ山へ歸るのに出會へば、必ず害せらるゝのである。

以つて彼れが容易に人を害する者でないと云ふことを知るに足るであらう。

若しも人が馬に騎るか或は犬を伴つて居る時は、彼等先づ人を襲ふ前、馬若くは犬を攻撃するのである。我が國では狼の被害に關して著しい事實を聞かないが、歐洲にては非常な損害を與ふることがあるさうだ。

 

常山獵夫『狼に就て(明治34年)』より

 

餌を求めて山から下りてきたオオカミが、途中で遭遇した人間を狙っていたワケですね。しかし、どれもこれも単独行動の「一匹狼」なのは何故でしょう?群れから疎外され、餌の確保に困窮した個体が送り狼と化したのかもしれません。

獲物の周囲を跳ねまわったり、食べもせず埋めて隠そうとしたりと、妙な習性も伝えられています。

 

中にも人々の猛獸として最とも恐るゝは狼なり。
或る日のことゝか、守門の麓に於ける農家の一老婆、所用ありて隣村に行きけるに、遂ひに時を移して、黄昏の頃、歸途につき、雪空の物寂しき原道にかゝるや、何處より跡をつけたるものか、背後を顧れば一頭の狼あり。
老婆の喫驚、言はん方なけれど、若し逃げ去らんか、彼れの爲めに喰付かるゝは明かなり。
止むなく度胸を据えて立止りたるに、狼は暫時之れを凝視するよと見るや、一躍して老婆を飛越え、更に亦た飛返し、數回其の頭上を跳躍し居りたるが、老婆は此處なりと獨り合點しつゝ、積雪の上に倒れて死を擬ねたるに、狼は恰かも之れを疑ふものゝ如く、鼻もて五体の處々を嗅ぎ居りたるが、遂に安心したるものか、後肢を以て老婆に雪を懸け、やがて其の全く埋めらるゝを見澄まし、彼れは其の友を呼ぶべく、後方に取つて返したり。
此の隙に乗じ、老婆は跳起きて一目散に逃去り、九死に一生を得たりとは、今日も尚ほ同地に於ける寒夜爐邊一話柄となり居れり。

 

『口傳に遺れる動物奇談(明治40年)』より 

 

【エゾオオカミとは】

 

いっぽう、北海道におけるオオカミと犬の関係はどうだったのか。エゾオオカミや北海道犬という、日本列島でも異質の動物が共に暮らしていたエリアです。

もちろん北海道犬は家畜化されたエゾオオカミではなく、アイヌ民族の猟犬として北海道へ渡来しました。

オホーツク文化時代の北方犬とは骨格自体が異なり、隣接する樺太エリアでニヴフやウィルタが飼育するカラフト犬とも交雑しないまま、少なくとも江戸時代から存在していた事だけは確かです。

北海道における縄文時代や続縄文時代(稲作が伝来しなかったので「弥生時代」は存在せず)の犬骨は出土例が少なく、「縄文犬と弥生犬」の構図は通用しません。そもそも、津軽海峡を隔てた青森県で出土する縄文犬と北海道側の繋がり自体がよく分らないのです。

 

岐阜大学の田名部雄一氏は「弥生犬が渡来しなかった北海道には縄文犬が生き残り、それが現在の北海道犬となった」という説を唱えました。しかし樺太から南下する北方犬と本州から北上する弥生犬の狭間で、どうすれば縄文犬が生き残れたのでしょうか。

田名部説では、北海道犬界と樺太犬界との交流も失念しているみたいですし。

 

北海道沿岸部で犬の数が増えるのはオホーツク文化時代になってからで、まずは樺太方面から「北方犬(カラフト犬の先祖?)」が渡来しました。発掘されるのは解体跡のある若犬の骨が中心なので、食用犬だったのでしょう。

幅広い吻部と強靭な顎をもつ大型の北方犬は、やがて北海道にも定着することなく姿を消しました。

 

田名部説後のDNA解析データによると、北海道で出土する犬骨は弥生犬の影響も受けていたことが判明してます。そもそも北海道犬が縄文犬の子孫なら、柴犬サイズの小型犬だった筈ですよね?何で中型犬なの?

「北海道犬のルーツは縄文犬ではなく、古代~中・近世あたりに本州やロシア沿海州から渡来した犬の子孫である」という可能性も否定できません。
なので、樺太や北海道エリアについては、「ニホンオオカミ・ヤマイヌ・和犬」論とは別個で語るほうが良いでしょう。

 

エゾオオカミの場合、幸いにも(?)駆除活動にあたった外国人による生態観察記録が残されました。前述の体色の変化を含め、興味深い内容です。

北海道の狼は手に負えない獣ではあるが、目標になる獲物のある限り人間にとって危険はない。その当時、冬の数ヶ月間、彼等は専ら非常に豊富にいた鹿を喰って活きていた。夏中の彼等の食物は主として馬肉だった。充分に生育した狼は七十ポンドから八十ポンドの重量があり、大きな頭と、恐ろしい歯牙で武装された口とを持っている。
一般に極めてやせていたが、筋肉はすばらしくたくましかった。毛の色は夏の間は灰色であるが、冬になると灰色がかった白色になり、毛は厚く且つ長くなる。足跡はその大きさですぐわかる。一番大きな犬の足よりも三倍か四倍の大きさがあり、その形はよく似ているが爪はぐっと長い。足の大きいお陰で狼は深い雪の上を速いスピードで走ることができるが、追われて逃げる鹿はそういう深い雪の上ではすぐに疲れてしまう。鹿は雪さえなければ簡単に敵を振り切って逃げることができるのである。
彼等が獲物を追うのは普通一匹か二匹でやるのであるが、屢々四匹か五匹、或はもっと多くの狼が一団となって通ったあとも雪の上に見ることがある。その分布は島中に広く散らばっているのが普通で、一カ所に固っているということは殆どなかった。

 

エドウィン・ダン『我が半世紀の回想』より

 

【ヤマイヌとは】

 

ニホンオオカミの呼称は「オオカミ」だったり「ヤマイヌ」だったりします。ヤマイヌがニホンオオカミと同じ動物だったのか、別種のオオカミだったのか、犬とオオカミとの交雑犬だったのか。今となっては知る術もありません。

 

日本在来のウルフドッグについて存在は確認されていないのですが、DNA解析において、ニホンオオカミと柴犬は近いという報告があります。もちろん柴犬がニホンオオカミから進化したワケではなく(体格が全く違いますので)、どこかの時代で柴犬の先祖とオオカミが交雑したのでしょう。

ヤマイヌに関する当時の解説はこちらを。

 

日本産狼には二型あり、一はかなり大型で毛色が灰色に黑ずんだもの、これは明治以前既に姿を消したもので單に狼と呼ばれた品種であり、他の方は少し小型で明治の末頃まで甲州地方に棲息したもので、今日残る話題の主は大抵この品種である。
毛色は灰褐色で村人から柴犬、ヤマイヌ、時に狼と呼ばれたものである(中村勝一)

 

生体が現存しない以上、エゾオオカミ、ニホンオオカミ、ヤマイヌの区別には混乱がみられます。

狼をニホンオオカミ、豺をヤマイヌとする説もあれば、戦前の『内外動物原色大圖鑑』ではエゾオオカミをヨーロッパ系の「おほかみ」、ニホンオオカミは朝鮮狼の亜種「やまいぬ(豺)」と分類。「現今にては、殆ど稀に見る位である。毛は筆を製するに利用せられる」などと解説しています。

いっぽうでエゾオオカミを「豺狼」、ニホンオオカミを「狼」、それ以外の犬っぽい動物を一括して「山犬」と呼んでいたケースもあり、更には山中に棲息する野犬群も混乱に拍車をかけていました。

山に棲む野犬群がヤマイヌと称され、それがオオカミと間違われているのだとする動物学者の主張がこちら。

 

西比利亜地方に棲む眞の狼は豺狼の字を以てし、又日本に在るものは狼の字を以て表示すべきを至當とす。先きに明治十七年頃、岩手縣にて盛んに狼狩を行ひたれば、其頭蓋を斬り取り頸より上部のみを大學に送らしめたる事あり。右の狼を見たるに斑點の赤犬にして一同は思はず哄笑したる畸談あり。

又博士(※動物学者の石川千代松)が三州豊橋を旅行せし時、恰も好し路上見世物師の狼なりと聲も嗄れん許りに客を引き居たるより、試みに覗き見たるに是れ又山犬にして例の狼と稱し居るものに寸分違はざりしと。

(中略)

山犬も豺狼の如く性獰惡にして群をなす時は山家に近づきて人畜を害することあれば、山犬を以て眞の豺狼に間違へたるものならん云々と云へり(時事新報・明治41年)

 

とにかく、近代日本では「国内に複数種のヤマイヌがいる」との認識はあったんですね。
それ以前、中・近世の日本人も「豺」と「狼」と「犬」は別種の動物だと認識していました。「区別できなかったんじゃないか」的な説も見かけますが、1789年(寛政元年)の図譜ではきちんと分類してありますよ。

帝國ノ犬達-豺狼
江戸時代の豺(やまいぬ)と狼(おおかみ)の解説図。竜や大蛇も実在の動物扱いしている本なので、内容は鵜吞みにできませんが。

 

帝國ノ犬達-犬

同書より、江戸期の犬たち。 土着の(けん:和犬)、九州へ帰化していた獒犬(ごうけん:唐犬)、長毛の農犬(のうけん:ムク犬)に分類されています。これらに狆が加わりました(いずれも『訓蒙圖彙大成(寛政元年)』より) 

 

 

 

『畫本巻(刊行年不明)』では狼、豺、獒犬(大型犬)、狆(小型犬)、和犬とその仔犬(えのころ)が区分されています。

 

オオカミとイヌが区別されていた証拠として、両者が闘った記録も残されています。

下記は1800年代、土佐でのお話(この地域には多くのオオカミ譚があります。「捕鯨が盛んだった四国では、血肉に誘引されたオオカミが沿岸部へ現れていたのでは?」などという説もありますが、推測の域を出ません)。

弘化の頃、香美郡東川村の内九重山分に住せる山中氏(方今は山内氏と改む)の先代に九郎内と呼ぶ人あり。同村一部落の小庄屋を勤め居りしが、家に手飼の闘犬あり、太白と呼び中々勇猛にして普通の雄犬は二匹一度に懸りても到底敵せぬ逸物であつた。或時九郎内は太白をつれて山路を越へしに、俄かに何物かに臆したる體にて居らずなつたが、同村道家部落の北政の麓に斃れ居た。その屍體を見れば噛疵無數にあり、さては狼の所爲ならんと、其儘一夜試みるに、翌朝は上の林中に曳入れて半を喰ひ盡しあり。早速勢子數多を雇入れこの山を巻狩りせしに、大なる狼飛出たるを九郎内が覘ひの一發にて倒した。かくて其の死骸を改めるに、耳の後に微かな犬の噛疵が残されていたのみと(水野爪渓筆記)

 

実際にニホンオオカミと遭遇した人は少なかったことでしょう。ただし、イヌとは別に「オオカミ・サイ・ヤマイヌ」なる野生動物が各地に棲息し、存在を認識されていた事だけは確かなのです。

 

赤頭巾

 

【山に棲む野犬】

 

もっとも、これは山間部の住民や学問好きな人に限った話。

全国一律の教育制度は無かった時代は、知識の偏在により「豺狼とは何か」の定義も各地でバラバラになってしまいました。

オオカミと犬を明確に識別していた地域もあれば、山に棲む野犬を豺や狼と呼んでいた地域もあった筈。これが「ニホンオオカミ像」の混乱を招いているのでしょう。

加えて、中・近世の日本には異形の犬たちが渡来してきます。それが「唐犬」や「南蛮犬」。

彼らの存在は、戦前のニホンオオカミ論にも影響を与えていました。各地に伝わる狼の護符も「あれはオオカミではなくグレイハウンドを描いたものである」と言い出す人が現れたり。

誰だそんなヨタを抜かした奴は!といいますと、日本犬の権威であった高久兵四郎氏です。

 

昭和5年に高久氏が提示した「グレイハウンドの護符」。外貌の似たグレイハウンドや細狗らしき南蛮犬や唐犬は、中・近世の日本にも渡来していました。

 

三峰山の御札はグレー・ハウンドの畫であると書いた。然るに浪華獵仙氏の「○□△録」に三峰山のお札が載せて有つた。和犬の如き姿をして居る犬の畫が載せられてあるが、三峰山の御札は關東地方の人は知つて居るが、時代によつて變つて居る。

此處に掲げたのも三峰山の御札であるが、三十年前の御札は、此の畫のものよりも一層グレー・ハウンドに似たもので有つた。勿論浪華獵仙氏の載せたのも三峰山の御札で有るが、今私が載せたのも同じく三峰山の御札で、盗難除けに門に粘つて有つたのを貰つたのである。古い爲めにウマく取れないで殘念であつた。

此畫に依つて見ても、此れは日本犬では無い。西洋人に見せたら定めし、アイリツシ・ウルフ・ハウンドに類するものと思ふであらう。以前のは一層顔が長く、腹が巻き上り、尾は細く長く、毛も長いからグレー・ハウンド若しくはデーア・ハウンドに彷彿たるものであつたので、私は犬の起源に書いたのである。而して、此耳の垂れた型の方が古いのである。徒に奇矯の事を並べ、詐巧虚偽を以て讀者を煙に巻いたもので無い事を御斷り申して置く。

 

高久兵四郎『筆責に就て(昭和5年)』より

 

こちらが高久氏言うところの「グレイハウンド護符」の実物。自宅の書庫を漁ったら出てきました。

 

満洲で牧畜業に携わっていた高久氏は、家畜を襲撃するオオカミと対峙した経験もあり、現地の細狗(グレイハウンドと酷似した内モンゴルの猟犬)も目にしています。国粋主義的で視野の狭い和犬愛好家と違い、洋犬にも造詣が深い人物でした。

しかし、古来の山岳信仰と南蛮犬を結びつけるのはちょっと……。

いくら功労者であっても、これ以上の混乱はカンベンしてくれと思う次第であります。

グレイハウンドや細狗の来日に関しては、「日本のオオカミ史」ではなく「日本の洋犬史」として捉えるべきでしょう。

 

日露戦争終結後、戦地の第四軍から皇室へ献上された細狗。もっと古い時代、これら異形の渡来犬たちがオオカミと誤認されていたのでしょうか?

 

グレイハウンド云々はともかく、ヤマイヌと呼ばれた獣の多くは完全に野生化したイエイヌでした。彼らは明治時代にも残存しており、「山中の野犬群」として北海道や東北から九州にかけた全国各地で記録されています。

明石原人の発見で知られる直良信夫も、幼少時代を過ごした大分県で「ハシカ犬」と呼ばれていた野犬群に遭遇。その生態について書き残しています。

 

野犬と称せられるものには、少くとも二つの型があるやうである。一つは、先祖代々から、山野に棲息してゐて、全く野獸の域にあるものと、ごく最近人手を離れて、止むなく野生に歸つたものとの二つである。

野犬狩は主として市街地で行はれてゐるために、街道では所謂野犬の姿もめつたに見かけられなくなつたが、一度山野に足を入れると、今日でも尚此の種の野犬が見られる。明治初年以來ロシヤ文化の急激な注入をみたオホーツク沿岸の北海道には、これらの外來文化に附帶して入り込んだ家犬と、北海道土着犬との間に、相當雑婚が行はれ、一方に於いて北海道土着犬としての價値を落すと共に、他方人に追はれた野犬が、著しく多くなつた。之等の野犬は、本來の野生をよび戻して山野に伏し、その多くは、代々山林の大樹の根元、岩蔭等に穿孔して棲家をつくり、日中はめつたに出歩く事なく、夜が來ると數頭若くは十數頭も群をなして人里を襲ひ、人家の臺所や鶏舎に出入して家禽を加害し、或る時は、又牧場に至つて仔牛や仔馬を斃すのを仕事としてゐるのである。しかし親牛や親馬はその厄に會ふ事はなく、人も亦、まだ害せられたといふ話は聞かないが、一晩に數十羽の鶏のやられる事などに思ひ及ぶと、羆の害と共に、相當考慮しなければならない問題であり、從來人には加害しなかつたとしても、狂犬病豫防の目的からすれば、なるべく早く、此の種野犬の撲滅は決行さる可きであらうと思ふ。

 

直良信夫『北海道に於ける狼と野犬(昭和14年)』より

 

大分のハシカ犬を駆除したところ、かつて行方知れずとなった直良信夫の愛犬「チョマ」の遺骸も混じっていたとか。「山中の野犬」の正体は、迷い犬や捨て犬で構成された雑多な集団だったのでしょう。

 

こちらは静岡の狼護符。山中の野犬を誤認したのか、「斑模様のオオカミ」は他の史料でも散見されます。

 

続く明治時代、政府は教育制度の統一による「国民の知的水準の底上げ」を推進。一部の人間が書物・口伝・体験で得ていた動物の知識も、義務教育制度などによって情報共有化されました。

野生動物を見慣れた地域だけでなく、都会に住む尋常小学校の生徒ですら、イヌとオオカミを(知識上は)区別できるようになったのです。

 

『小學博物教授法 動物之部(明治16年)』より

 

【記録されたニホンオオカミ】

 

知識は共有化されたものの、実際のオオカミ研究は無いに等しい状況でした。ですから、本格的な調査が始まった時点(昭和初期)で、彼らの姿は古い時代の証言や文書、そして残された絵画や標本を元に推測するのが精一杯。

全国から断片的な情報が集められたのは幸いでしたが、断片ばかりの結果「各個人の独自解釈」が乱立する原因にもなってしまいます。

各地に伝わるオオカミ像の一部をどうぞ。

 

島根のオオカミ

私の小さい時に、冬になると狼が餌をあさる爲に山の奥から河ぶちを傳つて下つて來る。其の走ることの速いといつたらない。凄い月の夜など獨で田舎道を歩いてゐて狼にでも嘯られると、すくみ上るようである。或る時村の庄屋の下男が狼を生捕つて縛つておいたが、どうしたはづみか狼が縄をきつて遁出して大騒ぎであつたことがある。其當時女は夜外にでる時に縫針を倒にして髪に刺して出たものである。これはかう云ふ譯で、狼が人を食はうとする時には、人の後からこつそり追従て來て、突然頭の上を飛び越す。人がびつくりしてゐる處を又飛びこす。かようにして二三度飛びこして人のど胆を抜いておいて、弱つた所を喰ひ殺すといふ習慣があるさうな。そこで針を倒に頭に刺してゐると、飛び越す度に狼の腹に触る。狼の腹は大層薄いものだから、二三度跳び越す中にきつと破れてしまふと云ふのである(天野雉彦 明治42年)

 

大阪のオオカミ

柏原の或る人の語られしには、山路を通行する時山犬に逢うは珍しからず。彼(オオカミ)は人の來るを知れば逸早く身を隠すを常とすれども日没よりは遁隠せずして人の彼が前を通過するを熟視すれ共飛びかかる事はなし(但病に犯され居るもの、或は身に傷を負いをるものは狂氣の如く人を傷うなれ)。無事なるものは唯人を傷う患いなしと父母より教えられ、先輩よりも聞伝へて承知はしながらも彼が熟視の前を一人通過するは快よきことなしと云々(中村勝一)

 

群馬の送り犬

送り犬(※送り狼のこと)は山の夜道などに一丈位離れて後をつけて來る相だ。草津の鐵砲打ちで狼などは取れる人だが、何も持つてゐない時に出會つたので、おどしてやらうとまがり角の石の影にかくれてゐて、大聲でどなつて飛び出したら、狼は度胸のよいもので犬つくばひに道の真中にかまへこんだと云ふ。それにはこちらが恐しくなつて後づさりした。そして人の姿が見えなくなると、笹薮の中にはいつてしまつたといふ。俗に送り犬につかれたら『草鞋の紐を結ぶな』と云はれてゐるが、紐を結ぶと飛びつくからだと云ふ。村の入口迄送つて來るとかくれてしまふと云う。

 

六里ヶ原のオオカミ

夜暗くなつて馬をひいて通ると、馬が馬方の袖の下に首をつつこんだ。「お客さん狼がゐるんだ。おれの方の馬もさうだ」と馬方同士互ひに云つたと言ふ。

 

山犬の姿

今から六十年程前、池に下りるヲシカモ(ヲシドリ)を取りに行つた時、小屋の側を山犬が通つたのを見た。痩せてゐるが犬よりも胴が長く、背も高く、四肢や尾も長い。口先も犬より長いので、口も大きいやうに見える。全身灰色で雪につけた足跡も犬より大きかつた。

 

山犬の歯

山犬の齒をおろしてのむと、リウマチスに効くといふ。山犬の齒は犬と違つて齒並が亂杭になつてゐる(※厄除けや民間薬の目的で乱獲されたことが、狼の絶滅につながったという説もあります)

 

いずれも金子總平『上州草津の狼談(昭和10年)』より

 

このように数多くの目撃談や民間伝承は残っているものの、リアルタイムで実物の日本産狼を調査研究した記録はごく僅か。
ニホンオオカミを調査した人物としてはシーボルトが有名です。

狼
戦前のオオカミ護符。武蔵御嶽神社のイラストは、現在と比べてヒゲが短めで尻尾もふさふさしていません。

三峯神社のオオカミは斑模様ですね。

 

他の事例としては、上野動物園での飼育記録もあります。
上野動物園で飼われていた豺(サイ)は、岩手県産の牝でした。生前の様子などは記されているものの、残念ながら写真はナシ。
この雌狼が死んだのは明治25年6月24日で、死因はフィラリア症とされています。死体を剥製化する前、東京農科大学によって解剖調査が行われました。

ニホンオオカミを科学的な見地から調べた貴重な事例なのですが、何故かオオカミ関係の書籍やサイトからは黙殺されているんですよ。

参考までに、当時の解剖記録を載せておきますね。

 

豺牝 
年齢四歳許全身茶褐色ニシテ黑毛雑生 岩手縣下ニ於テ捕獲。
既往症
本年六月二十三日、農科大學教授勝島仙之介及雇外國教師ヤンソン(※ドイツ人獣医学者ヨハネス・ルードヴィヒ・ヤンソンのことです)上野動物園出張、本畜ヲ診スルニ、榮養不良被毛光澤ヲ失シ、眼球陥没全身痩削腹部膨大下垂シ、呼吸困難ニシテ疾速、倦怠不振、起臥ニ懶ク食慾減少鼻端濕潤ス。聴診、打診、觸診、檢温、檢脈、血液鏡檢査等ヲ行ヒ、以テ病性ヲ審定セント慾スルモ、野獸元ト人ニ昵レズ平常看護餌ヲ給スル人ヲモ尚噬マントス。况ヤ外來偶々之ニ接スルモノオヤ動物ヲ柵ノ一隅ニ窮逐シ、柵隙ヨリ手ヲ進メ、細心翼々手ヲ腹ニ加ヘ、僅ニ其腹水ナルヲ知ルヲ得タルノミ。

然ルニ病畜ノ全態ヲ察スルニ恰モ家犬ノ心臓絲狀蟲病(※フィラリア症のことです)ト一般ナリ。抑モ本邦産豺ノ本邦固有ノ犬ニ於ケル均ク、是レ野猪ノ家豚ニ於ケルガ如キ關係ヲ有スルモノゝ如シト雖モ、比較的解剖ヲ爲セシコトナキヲ以テ此ニ之ヲ斷言スルヲ得ズ。唯々彼ト同属ニシテ骨格体形慣習嗜好皆ナ相均キヲ以テ之ヲ視ルニ、家犬ニ寄生スル絲狀蟲モ亦豺ニ寄生スルナキヲ得ズ。於是心臓絲狀蟲病ト假診シ、豫后甚ダ不良、死期近キニ迫ルモノト斷定ス。
翌廿四日須藤助教授往テ診ス。諸徴前日ニ異ナラズ。
斃死ノ時日
明治廿五年六月廿四日夜斃死。翌廿五日午后一時屍体ヲ農科大學ニ送リ來レリ。
屍体視檢
全身痩削骨立、被毛光澤ナク且脱シ易ク腹膨大打厭スルニ液體ノ波動ヲ呈ス。皮膚蒼白腹ノ下面ニ當ル部ハ淡青色ヲ帶フ。眼球陥没、結膜白蒼、角膜晴朗、鼻粘膜蒼白、肛門半バ開キ其周邊ノ毛絨帶黄褐色惡臭アル液便ヲ以テ汚染ス。
皮下
皮下脂肪層消失、筋肉光澤アルモ菲薄淡色多液ニシテ緊密ナラズ、静脈ハ多少充實ス。
腹腔
腹膜下脂肪消失、腹膜汚惡蒼白色ヲ呈シ赤黄不透明ノ澄液性滲漏液ニ一五○グラムヲ容レ、柔軟黄白色ノ纎素塊液面ニ浮ビ、雲片状ヲ爲ス。
胸腔
赤色澄清ノ漿液一五○グラムヲ含容ス。
血行器
右ノ心房室大ニ擴張シ凝血ト絲狀蟲トヲ以テ充填シ、蟲數三十六内雌蟲二十八個雄蟲八個、雌雄共ニ成熟シ、長キハ三十センチメートル、短キハ十センチメートル許ニ達ス。蟲体白色光澤アルモノ過半ナリト雖モ、中ニ就テ或ハ黄色ナルモノアリ。或ハ赤色ヲ帶フルモノアリ。或ハ体ノ中線ニ沿テ黑色ヲ呈スルモノアリ。或ハ纎素塊ニ由テ二個相結束スルアリ。

而シテ二個ノ絲狀蟲二本ノ啑索ニ數回纏絡シテ之レヲ結束シ互ニ相糾錯シテ弁尖ノ間ヲ通過シ更ニ蟠延シテ心房中ニ突出ス。一個ハ既ニ生活力ヲ失ヒ、黄色ニシテ多少壓扁シ、一個ハ白色ニシテ半身光澤ヲ保チ半身光澤ヲ失シ所謂半死半生ノ状ヲナス。僧帽弁ハ肥厚渾濁シテ閉鎖全カラズ。心ノ左室ニハ凝血充填ス。上行大静脈ニハ十五ノ成熟雌蟲、一個ノ成熟雄蟲ヲ存ス。雌ノ最長ナルモノ三○センチメートル、雄ノ長サ十一、五センチメートルニ至ル。腎静脈及精系静脈膨大怒張シ、前者ノ直径一センチメートルアリ。下行静脈ニモ亦蟲ヲ發見セリ。左右頚静脈ニハ各々一個ノ雌蟲ヲ容ル。右肺ノ四葉ニ分布スル肺動脈ノ枝ニハ六個ノ雄蟲八個ノ雌蟲アリテ、血路ヲ填塞(寄生蟲性血塞)スルヲ見ル。左肺葉ニ至ルトコロノ分枝ニハ蟲存在セズ。肺動脈ノ内膜ハ肥厚シ、粗糙ニシテ粟粒大ヨリ小豆大ニ至ルトコロノ黄色顆粒(疣状動脈裏膜炎)諸處散生若クハ簇生ス。
消化器
胃ハ長方形ノ大肉片七八個ヲ容レ、粘膜淡石板色ヲ呈シ、淡黄色ノ粘液ヲ被ムルコト多ク、常ニ比スレバ褶襞大且密ナリ。幽門括約筋部ニ胡桃大ノ石アリ。其色暗褐色其形不正菱状其面平滑ニシテ稜角ヲ具ヘズ。詼筋部陥没シテ凹窪ヲ生ジ、石ハ其窪中ニ嵌入シ、石ト窪ト其形密ニ相稱フ。腸粘膜ハ腫起シ、淡石板色ヲ呈シ、諸處亦斑ヲ呈シ、褶襞ヲナスコト常ニ比スレバ大且密ナルガ如シ。十二指腸ハ多量ノ胆汁ト粘液トヲ被ムリ、幽門ヲ去ル一センチメートル許ノ處ニ潰瘍アリ。榛實大ニシテ殆ド正圓形ヲナシ邊縁肥厚隆起シ亦斑點ヲ潮シ、腸壁ヲ穿透シテ腹膜腔ニ開通ス。其他細白色毛様ノドクミウス蟲及白色ノ毛絨粘液ニ混在ス。肝臓ハ死后變色シテ帶褐藍色ヲ呈シ、硬固ニシテ纎素ノ菲膜ヲ被ムリ、之ヲ剥ゲバ表面粗造顆粒状ヲナスヲ見ル。又斷面ヲ檢スルニ間質増加肥厚小葉ノ實質部黄色ヲ帶ビ中心静脈膨大スルヲ見ル。
呼吸器
咽喉粘膜充血腫起シテ粘液ヲ被ムリ會厭軟骨ニ於テ殊ニ著シ、扁桃腺モ亦充血腫大ス。肺ノ右葉ハ不全脾變ヲナシ水ニ投ズレバ水面下ニ浮フ。
泌尿器
腎臓充血増大シ、其斷面ヲ檢スルニ皮部黄色ヲ呈シ體部輝アリテ白色ノ纎條ヲ現ハス。左腎ノ體部ニ豆大ノ嚢腫アリ。澄明液ヲ含容ス。
死因
前記剖檢諸徴ニ因テ察スルニ加答兒(カタル)性腸胃炎、腸潰瘍、肺脾變、肝臓間質炎、腎臓嚢腫及充血、「ドクミウス」肺動脈疣状裏膜炎、寄生蟲性血栓、心臓弁膜閉鎖不全、心臓絲狀蟲、腹水、胸水等ノ諸症併發又ハ續發シ全身爲メニ衰弱羸痩スルコト甚シ。然レドモ死因ハ血行障害ヨリ來ルトコロノ窒息ニアルモノトス。

※原文の表記や句読点を一部修正してあります。

 

秋山直三『上野動物園飼養豺剖檢記事(明治25年)』より


帝國ノ犬達-ニホンオオカミ
私が所有しているニホンオオカミの絵です。明治かそれ以降の新しい時代のモノ(なんとなく構図が似ているので、「月下吼狼圖」の模写かもしれません)。

日本産狼の口端には図のような黒い毛があった為、「耳まで裂けた大きな口」に見えていたという話もあります。また、「山犬には水掻きがある」という伝承も存在しますが、「蹴爪である」との見解も。

 

【消えゆくオオカミ】

 

神の使いとされる動物は数あれど、「神そのもの」であったのがクマとオオカミです。

かしこき(賢く、畏き)獣であったクマとオオカミは、知能と攻撃力の高さから神格化されたのでしょう。和人・アイヌ民族を問わず、人々は狼を山岳信仰の対象としていました。

ただし、和人の狼信仰は比較的新しい時代のもの。疱瘡治癒の願掛けとして江戸時代あたりに定着した様です。中国語の影響を重視する山下藤次郎は、「オオカミの語源を安易に大神と結び付けるな(『物名語源考(昭和14年)』)」と古来信仰説を批判していました。

 

いくら信仰されようと、現実のオオカミは野生の肉食獣に過ぎません。餌がとれなければ、遠慮なく人里を襲撃していました。

蝦夷地では「餌場」たる牧場の進出が近代まで遅れたこと、餌のエゾジカを追ってオオカミが移動し続けていたこともあって、エゾオオカミが人畜を襲うのは稀だったとか。

反対に、ニホンオオカミによる被害は江戸時代から頻発(特に東北地方)しており、牛や馬、さらには弱者や子供が犠牲となっています。庶民だけではなく、牧(軍馬の牧場)を襲撃するオオカミは為政者の敵でもありました。被害が出るたび、お伺いをたてる形でオオカミ駆除が実施されています。

その中心となったのが猟師でした。

 

帝國ノ犬達-武蔵

箱根山でオオカミを退治する宮本武蔵・関口弥太郎コンビ(「宮本美勇傳 全(明治22年)」より)


当時の猟師やマタギは、領主の免状を得て狩猟をしていた人々。かわりに獲物の一部を献上する事で、「お上」とは緊密な関係にあったのです。

彼らは「封建社会から解放された自由人」などではなく、為政者の厳しい管理下に置かれていました。日本がたくさんの領地に分割され、刀狩りによる庶民の非武装化が進められていた当時、何百梃もの猟銃を所持する集団が放置される筈もありません。

獲物を追って他領へ侵入したマタギが捕えられ、死罪となった記録もあります。逆に、特別な許可があれば境界をまたいで猟をできましたし、ルールさえ守っていれば「お目こぼし」もして貰えた訳です。

 

生類憐みの令が施行されていた時期も、それ故にオオカミ退治は継続されました。しかし全国一斉に駆除された訳ではないので、種族全体への影響は少なかった筈です。

 

帝國ノ犬達-赤頭巾
近藤敏三郎訳『グリムお伽噺(明治43年)』より

食物連鎖の頂点に君臨し、自然界のバランスを維持する存在であったオオカミ。互いの境界を侵さぬことで、日本人や和犬とオオカミは長い間共存してきました。
怖ろしい野獣たちは、同時に山の神の眷族であり、田畑を荒らすシカやイノシシを退治してくれる益獣として、畏敬の対象ともなっていったのです。

その関係は、江戸時代あたりから崩れ始めました。
都市部の建設資材を求めて大規模な森林伐採が始まり、自然破壊は悪化の一途を辿ります。やがて明治時代になると、日本は急速な近代化へ邁進。

生息環境が狭まる中、国策としての畜産事業拡大、高性能の猟銃と洋犬(セットで家畜伝染病も)の渡来などによって、人と狼は敵対するようになりました。

 

【オオカミ観の変化】

 

日本人にとって「野生の狼」は物語の中の存在と化し、その物語によって「狼=狡猾で凶悪な野獣」のイメージも定着します。
それに貢献したのがグリム童話、特に「赤ずきん」の物語でした。

 

そんな恐いものながら、これが又極めて子供と縁が深い。そして極て御目出度いものである。何故と云ふに子供の好きなお伽話には狼の話がざらにある。日本で翻譯せられた一番最初の西洋のお伽話は獨乙グリムの七匹の羊の話であつた。譯者は呉文聴さんで、丁度廿一年程前(明治20年頃)のことであつた。是は出版物として出た者だが、さほど世に行はれなかつた。

(中略)

獨乙では非常にもてはやされる噺ださうである。其翌年上野(萬年)博士が譯されたのがやはり此談。そして巖谷小波先生がお伽芝居の脚本にかきおろされて、兎に角不完全ながらお伽芝居といふものを初めてやつた時の脚本がやはり此齒ぬけ狼。其時オオカミを演つたのが私であつたが、其當分可愛ゆいお友達が顔さへ見れば狼、狼といつて、狼といふのが僕の變名になつてしまつた。小學校の八學年の第二番目に排列せられたものも狼の話で、これは少女と狼と題してお伽芝居の脚本にかきおろし、お伽の吉例だといふので昨年お伽倶楽部の三周年記念日に演じた(天野雉彦・明治42年)


赤頭巾
●近藤敏三郎訳『グリムお伽噺(明治43年)』より

 

明治時代に邦訳された『赤帽さん』は、グリム童話版(猟師による救済と、見知らぬ他人を信用しないという教訓が追加されたバージョン)に沿った『赤ずきん』として日本に広まります。

そのストーリーは皆さんご存知の筈ですが、念のため紹介しておきますね。

 

 

今日はお花さんの誕生日。御馳走を拵えたお母さんは、一里半ほど離れた森に住むお婆さんへおすそ分けを持っていくよう、お花さんに頼みます。

 

「お母さん!私一人でお婆さんの所へ行くの。まア本當に嬉しい事ね。お婆さんは嘸(さぞ)私を可愛がつて下さいませうね」

「アゝさうとも〃。だがね花ちやん、あの野原には質の惡い山犬が出ると云ふから、お前決して道草を食つちやいけませんよ。若しも山犬に出られやうものなら、夫れこそ食ひ殺されて仕舞ひますよ。いゝかね、夫れぢや此のお重をさげてね。御病氣のお見舞を申して、お母さんからも宜敷く申したと云つて下さいね」

「ハイ私屹度さう申しますわ。そしてねお母さん、日の暮れない内に皈つて來ますよ」

「アゝ早くお皈りよ。夫れに今日は大層暑いから、あの帽子を被つてお出な」

と、お母さんはお花の好きな、緋羅紗の帽子を用意してやりました。

 

ここだけペロー童話集と同じ赤帽子。

 

お婆さんの家へ向かったお花さんですが、途中の野原に咲き乱れる花に目を奪われ、さっそく道草を始めてしまいました。

その様子を森の中から眺めていたのが、件の山犬です。この山犬は、たまに村へ降りてきてはニワトリや魚を盗んでゆくので、皆から怖れられていました。

「よし、いゝ物を見つけたぞ。あの女の子を欺して食べてやらう。アゝどんなに甘からう。さう思ふともう咽がゴロ〃鳴り出したワイ」

 

とつぜん森の中から現れた山犬を見て、驚いたお花さんは逃げ出そうとします。

しかし、山犬は優しい声で呼びかけました。

「お花ちやん〃、私が來たからつて、そんなに怖がらなくてもよいでせう。私は決して食ひ付きもどうも致しません。さア此方へいらつしやい。一所に遊びませう」

馴れ馴れしい山犬の態度に、お花さんもつい騙されてしまいました。そして、「もっと花がたくさんある場所へ行きましょう」という誘いに乗ってしまいます。

 

お母さんに聞いて居りますから、充分用心して居ましたが、實際山犬に逢つて見ますと、夫れ程怖いものでもなく、却つて親切にして呉れますので、今では丸でお友達の様になつたのです。

 

山犬は、どんどん暗い森の奥へと向かいます。

心細くなったお花さんは、「お婆さんの家へ行かなければならない」と山犬に告げました。すぐにお花さんを食べようと思っていた山犬は、それを聞いて計画を変更します。

エツ、お婆さんが御病氣ですつて。ぢやア早くいらつしやい。私は用事があるから、もう貴方と遊ぶことは出來ません。夫れでねお花さん、若しも貴方が一時も早くお婆さんの所へ行き度いと思ふのなら、之からこう右の方へ出て、夫れから又左へ曲つて、夫れから又右へ曲つて、夫れから又左へ廻つて、夫れから又右へ曲ると直ぐに行かれますよ。

お花さんが遠回り(原作ではピンの道と針の道)している間に山犬はお婆さんの家へ侵入、ひとくちで食べてしまいました。お婆さんに化けた山犬は、布団をかぶってお花さんの到着を待ちかまえます。

 

 

迷いに迷ってようやくお婆さんの家へ辿り着いたお花さん。しかし、病気で臥せっているお婆さんの様子がどうも変です。布団から顔だけ出して、その声や目つきも山犬のよう。

 

「さう云へばお婆さんの口も變だワ。耳までも裂けて、そして獣の様な牙が出て居ますのね。ちつとの間見ない内に、かうも變つたんですか」と云はれてお婆さんは、又もや笑ひながら、「オゝ此の齒か。之はお前を食べるに都合がよい爲めだよ」

「エツ、お婆さん!」

「お前を食べるのだよ、お前を!」

「エツ!お……お婆……さん……」と、お花は餘りの事に、ワーツと泣き出しましたが、お婆さんはもう平氣なものです。

「お花さん、お前は馬鹿だね。私を知らないのかい。山犬だよ、山犬だよ。お前の好きなお婆さんは、此の山犬が食つてしまつたのだ。けれどもお婆さんだけでは、物足らないから今度はお前を食ふのだよ」と、今が今迄お婆さんの風をして居た山犬は、忽ち其本性を現はして、泣き叫ぶお花をば、頭から呑んでしまひました。

 

胃袋内の被害者が巻き添えにならぬよう、山犬を猟銃でぶん殴る猟師さん。

 

満腹になった山犬は、横になってぐうぐう眠ってしまいます。そこへ、一人の猟師が通りかかりました。彼がお婆さんの家を覗いたところ、何と山犬が寝ています。

 

「ハテ變だぞ。あの山犬奴、こゝのお婆さんを食つたのだらう。さう思へばオゝ誰も此の家には居ない様だな。待て〃己が何とかして仇を討つてやるから」

猟師が山犬の眉間を猟銃で殴りつけると、山犬は一声ウオーッと叫んで息絶えてしまいました。しかし、その腹だけはムクムクと動いています。

「變だぞ〃、まだ生きてるのかしら。生きてりやア、早く腹を裂いて助け出さにやならぬ」

山犬の腹をナイフで切り開くと、中からお婆さんと女の子が出てきたのでビックリ仰天。二人を介抱した猟師は、お花を自宅まで送り届けてやりました。

 

・教訓

お花さんはお母さんの言付けに反いて、道草を食つたばかりで、こんな目にあひましたが、之に懲りて此の後は、お母さんの仰しやることを、ハイ〃と云つて、よく聞くやうになりましたとさ。めでたし〃。

 

木村小船編『森の狼(大正3年)』より

 

以上、和風赤帽さんでした。フランダースの犬と違い、明治期に原作通りの邦訳→大正時代に日本風へ改変という妙な流れとなっております。

 

狼

『Rotkäppchen(1914年)』より

 

グリムの噺の中にも狼に關する噺は随分ある。又彼の動物を自由自在に話に使つたイソツプ物語の中でも、狼の話は十二もある。それが皆羊の皮を被つて騙したりなど、狼は凡て敵役に廻つてゐる。西洋では狼が化けると云ふことになつてゐて、丁度日本の狐の役廻をも勤めてゐる。日本では今でも田舎へ行くと、泣く子は狼に遣るぞと嚇して子供の泣をとめさせる。どちらにしても狼は子供の恐がるものになつてゐる。其の狼が何故澤山に子供の話、お伽話の中に用ゐられてゐるのであらう。イソツプ物語に用ゐてある動物の多くが皆人間に接近したものか或はよく特徴の知れ易いもので、人が其性癖を知るに都合よいものから採つてある處から考へて、是れも又同一単位に考へることが出來よう(天野雉彦)

 

畏怖の対象から害獣へ、そして物語の悪役へと転落していった日本のオオカミ。

そんな存在に目を向ける者もなく、オオカミ研究は暫しの停滞期へと入りました(この期間に散逸してしまった史料も少なくないのでしょう)。さらに野犬をオオカミと誤認する騒動が多発したことで、学術機関は調査を放棄してしまいました。

生態研究が進まない中、オオカミへの迫害は拡大。

最初に近代日本と衝突したのは、開拓の地・北海道に棲むエゾオオカミでした。

赤頭巾

近藤敏三郎訳『グリムお伽噺(明治43年)』より

(次回へ続く)