フランセス・ホークス・キャメロン・バーネット。通称バーネット大佐夫人。
新渡戸万里子と共に、日本動物愛護運動の母ともいうべき人物。日本の文化を愛し、熱心に学んでいました。
※念の為ですが、『秘密の花園』『小公女』の作者であるフランシス・ホジソン・バーネットとは別人です。
あと、これは2年くらい前に書いた記事の再編集版です。

帝國ノ犬達-紫式部
コスプレ中のバーネット大佐夫人(大正10年)

彼女が初来日したのは日露戦争真っ只中の明治37年、新婚ほやほや17歳の春でした。
それから3年後に帰国するも、大正4年、8年に再来日しています。
明治・大正の日本で暮らした彼女は、当時至る所で見られた動物虐待行為に心を痛めていました。
捨て犬・捨て猫の横行、路上で撲殺処分される野犬、炎天下で酷使される荷役馬、そして廣井辰太郎率いる動物虐待防止会以外の愛護運動が殆ど存在しないという事実。

勿論、当時から動物を愛する日本人はたくさん居ました。
行政によるツバメやカエル、山椒魚や海亀(棲息地や産卵地)などの保護活動は明治時代から一部地域で始まっていましたし
大正時代には鳥獣保護區や禁猟期間の順守、巣箱の設置や雷鳥の保護(登山家が面白半分に殺しまくっていました)も狩猟団体が積極的に取り組んでいます。
まあ、これらは資源の確保や益獣の減少を防ぐのが目的で、厳密な意味での動物愛護とは違いましたが。
動物愛護を組織的な運動として定着させるには、当時の日本人だけでは無理だったのです。



大正14年、在日アメリカ大使館付武官バーネット大佐夫人として再来日した彼女は、私財を投じて日本人道会の新渡戸万里子(メアリー・パターソン・エルキントン)達と共に動物愛護運動を展開していきます。
動物愛護週間の提唱、野犬安楽死用炭酸ガスチャンバーを警視庁に寄贈、捨て犬の里親探しや荷役馬用の飲料水槽設置、警官や児童への動物愛護教育。その活動は精力的かつ多岐にわたります。
日本の畜犬団体関係者も、夫人から怒られないよう飼育マナーの向上に気を遣っていました。
「老いたシェパードは狼に戻る」という迷信を信じて愛犬を射殺してしまった人などは、激怒したバーネット夫人からこっぴどく説教されたとか何とか。
彼女の行為は西洋的価値観の押し付けだったかもしれません。
しかし、皇族・警察・マスコミ・畜犬団体・教育機関を巻き込んで、日本に動物愛護運動を定着させたことは事実です。

 

25年もの長きに亘り、日本で暮らしたバーネット夫人。
昭和4年、チャールズ・バーネット大佐の異動によって日本を離れる日がやって来ます。

日本は私の心の故郷だと思ひます。
私はお國の方、特に夫人の方には非常な親しみを持つてゐます。
そして多くの方々の御助力で日本人道會の仕事を續けて参りましたが、幸ひ寄付金が集まつて麻布新堀町の獸醫學校の中に犬のビルデイングが建てられました。
もうほとんど出來上がつてゐます。
これは私の『心の殘り』です。
私が動物愛護の決心をしたのは、實は昭憲皇太后様のおかげで、私が日本に來て間もない頃、青山御所前でぼく殺されやうとしてゐた野犬を助けた事がたま〃昭憲皇太后様の御耳に達し、『親切な婦人である』との有がたいお言葉を賜はつてからのことです。
私は昭憲皇太后様の御声は常に心から去らず、御一年祭の時にはわざ〃桃山陵に参拝のため日本へ参つた事があります。
二十五年といへば随分長いもので、最初來朝の頃、日光で私共の所へ遊びに來た子供等は結婚し、その子供等が遊びに参る位ですからね……(昭和4年の東京朝日新聞より)

 

昭和4年10月8日、日米協会主催による送別会が開催され、多くの人が彼女との別れを惜しみました。同月19日、バーネット夫人は長崎から米軍艦グラント号に乗り込み、帰国の途へつきます。
そして、二度と日本へ戻ることはありませんでした。

彼女が愛した日本は、2年後の満州事変を契機にアメリカと対立。同時期には東京オリンピック誘致活動で飼育マナーの改善がはかられるものの、昭和12年の日中戦争勃発で全ての努力は無に帰しました。
国際的に孤立した日本は昭和16年に真珠湾を攻撃。太平洋戦争へと突入していきます。

帝國ノ犬達-バーネット夫人
イラストと歌/フランセス・H・C・バーネット。漢字では「富蘭勢須」なんですね。