著者 古川日出男
発行 文藝春秋
2005年

 

帝國ノ犬達-クドリャフカ
上はクドリャフカの切手。何故かルーマニア製。
下はKV(社団法人帝国軍用犬協会)のシンボルマーク。

 

西へ向かって、見知らぬ道を走り出す。
行き先が何処なのか、其処に何が待っているのかは分からない。
西から北へ、北から南へ、東に戻って再び北へ。
複雑に分岐し始めた道の上で時折立ち止まり、現在地点を確認する。
自分は今、何処に居るのか?何処へ向かっているのか?

やがて現れるのは、北へと続く一本の道。
ふたつの道は少しずつ混じり始め、やがてひとつに合流する。
終着点は近い。ゴールには、いったい何が待っているのだろう?

しかしその先は、濃霧に閉ざされていたのでした。

 

そんな感じの小説、古川日出男著「ベルカ、吠えないのか?」。
私もカッコイイ表紙につられて購入いたしました。
読了後の感想は皆さん大体同じだったらしく、文庫本化の際にはオマケが追加されております。
最初からそうすりゃいいのにねえ。結局2冊とも買ってしまったではありませんか。

 

 

世の中に、犬を題材とした小説はゴマンとあります。
犬を擬人化したものや人間の視点から描いたもの。
犬を犬として扱い犬の視点から描いたもの。

 

この小説は場面によってソレが目まぐるしく変化します。ついでに、読み進むにつれて犬の数もどんどん「殖えて」いきます。
この犬がどこかへ行ったと思ったらあの犬が現れて、その犬が死んだと思ったら子孫がバトンタッチして他の犬と出会ってまた殖えての繰り返し。

 

また、舞台が過去と現在と西と北と東と南と地下と地上と宇宙を行ったり来たりしますから、いきなり読むと頭が混乱するかもしれません。
古い地球儀とメモ帖に各々の犬名と移動ルートを書き込んでいけば、その辺を整理するのに役立つかも。

時代背景については、作者の解説を読めばOK。ベトナム戦争やソ連軍アフガン侵攻、米ソの宇宙開発競争、ソ連邦崩壊なども調べれば、作品をより楽しめます。

 

帝國ノ犬達-ベルカ、吠えないのか

キスカ島を占拠した日本軍。「アリューシャン攻略詳報」より 昭和17年

 

二十世紀は二つの大戦が行われた世紀だった。
いわば戦争の世紀だった。
しかし、同時に、二十世紀は軍用犬の世紀でもあったのだ。
何十万頭ものイヌが最前線に立ち、そして一九四三年、その島では四頭のイヌが忘れられた。
島にはいまや名前がない。
日本軍は撤退して、日章旗の類いも持ち帰られ、そこはもはや鳴神島ではない。

古川日出男著「ベルカ、吠えないのか?」より


そう、20世紀は軍用犬の世紀でした。
軍用犬自体は紀元前から存在しますので、別に20世紀がスタートラインではありません。正確には、軍事用の犬達が火力中心の戦争へ適応を遂げた世紀です。

 

人類は、20世紀に入って僅か十数年で長射程の大砲、戦車、潜水艦、飛行機、毒ガスといった新兵器を発明。続いてジェット戦闘機や弾道ミサイルや核兵器を作り出し、更には宇宙空間にまで進出してしまいます。
この時代、戦争の様相は劇的に変化しました。

 

それまで牙を武器にしていた戦闘犬も、近代戦になって用済みとなります。
銃や大砲で戦う時代に、犬の格闘能力など無用の長物。戦闘犬など不要だったから、日本軍は土佐犬(闘犬)ではなくシェパード(牧羊犬)を採用したのです。

戦闘犬に代わって登場したのが、嗅覚と聴覚と脚力と頭脳を武器とした近代的軍用犬。
20世紀における軍用犬は、様々な支援任務をこなす「汎用性」が徹底的に追求されました。

 

しかし、「20世紀の軍用犬」を語るこの小説でも戦闘犬のイメージは強烈です。犬が牙を剥いている表紙からしてそうですし。
まあ、フィクションなのでどーでもいい事ですけど。

 

20世紀における軍用犬史。
それは、世紀を跨いで戦われたボーア戦争から既に始っています。以降、この世紀を通して軍用犬は夥しい数の戦争に投入されました。

世界に目を向けると範囲が広過ぎるので、話を日本関係に限定しますね。


日本人が初めて西洋の軍用犬に出会ったのも20世紀最初の年。義和団の乱に出兵した際、ドイツ軍が配備する軍用犬について報道されています。
以降の半世紀、日本の軍用犬史は大正の揺籃期から昭和の最盛期を経て、敗戦による終焉へと至りました。
それを年表にしてみましょう。

 

明治26年、ドイツ軍用犬(軍用運搬犬)のレポートを邦訳

明治37年、日露戦争でロシア軍の軍用犬部隊に遭遇
明治44年、台湾総督府が山岳民族鎮圧作戦に警察斥候犬を投入
大正2年、日本陸軍歩兵学校が外国軍用犬の情報収集を開始
大正3年、第一次大戦で各国が軍用犬を大量配備、青島攻略戦によりシェパードが来日
大正8年、欧州大戦の戦訓を元に、歩兵学校が軍用犬の三期研究に着手
大正12年、日本軍の演習に軍用犬が初参加。関東大震災で研究が停滞
昭和3年、日本シェパード倶楽部と陸軍歩兵学校が共同研究を開始
昭和6年、満州事変で軍犬を実戦投入
昭和7年、上海事変の戦訓により、日本海軍が軍犬の配備を開始
昭和8年、帝国軍用犬協会が在郷軍用犬の登録業務を開始
昭和10年、歩兵学校および関東軍の軍犬育成所、満州軍用犬協会の設立を正式認可
昭和11年、東京にて、日中両国の軍用犬関係者が最初で最後の交流会を開催
昭和12年、日中戦争勃発により陸海軍が軍犬を大量配備
昭和13年、関東軍が地雷探知犬の研究に着手
昭和14年、陸軍省医務局が失明軍人誘導犬の運用を開始
昭和16年、太平洋戦争開戦。日米両軍が軍用犬を投入
昭和17年、日本陸海軍がアッツ島とキスカ島を占領
昭和19年、本土決戦に備えて民間義勇軍犬隊「国防犬隊」発足、KVが活動停止
昭和20年、敗戦により日本の軍用犬班は消滅。出征していた犬は戦地へ遺棄

 

「ベルカ、吠えないのか?」のストーリーは、昭和17年のアリューシャン攻略作戦から始まります。
最初の主人公たちが、鳴神島(キスカ島)にいた4頭の軍用犬。


 

キスカ島とアッツ島は、アリューシャン列島に属する北の小島です。
小説では「鳴神島」と「熱田島」の呼称が使われていますね。これらは、あくまで非公式のものでした。
そもそも、内閣地名改称協議会の承認を得ていませんし。

 

昭和17年、日本陸海軍はミッドウェー海戦と呼応して北太平洋へ侵攻。両島を占領しました。
「アメリカの領土に上陸した」という示威行為以外、戦略上は何の価値もない小島です。即座に撤退すべきという現地報告書も出されますが、無能無策な軍上層部は越冬を決定。おそらく、ミッドウェーの惨敗を誤魔化したかったのでしょう。

当然ながら、米軍は冬が終わると共に両島の奪回作戦を開始します。翌年5月30日にはアッツ島守備隊2600名が全滅し、唯一の補給線である潜水艦も次々と撃沈。キスカ島にも危機が迫りました。


残るキスカ島守備隊を救出するため、決行されたのが「ケ號(乾坤一擲の頭文字)」作戦。
7月29日13時40分、救出艦隊は濃霧を突破してキスカ湾へと突入しました。
3日前にはレーダーの誤反応を日本艦隊と勘違いして砲弾を撃ち尽くした米封鎖艦隊が一時撤収していた上、救出艦隊に遭遇した米潜水艦が味方と見誤ってスルーしてしまうなど、奇跡的な偶然の積み重ねで作戦は成功します。

 

こうして、キスカ守備隊は北の孤島から去っていきました。
4頭の軍用犬を残して。

 

そうとは気付かないアメリカ・カナダ連合軍は、凄まじい空襲と艦砲射撃を加えてからキスカ島へ上陸。濃霧による同士討ちで多数の犠牲者を出しながら島の奪回に成功します。
しかし、彼らが発見したのは無人の日本軍陣地と犬だけでした。
それが、日本海軍の「正勇」、日本陸軍の「勝」と「北」、そして米軍キスカ島気象観測班の「エクスプロージョン」です。

 

因みに、「正勇」、「勝」、「エクスプロージョン」は実在の犬なんですよ。
キスカ守備隊の記録より、陸軍の勝と海軍の正勇についての証言を↓

 

将校は殆ど予備役で初めての応召者もあったが、下士官、兵は既に支那戦線に従軍し者もかなりあり、当時としては比較的若い平均二十才半ばの者を主とした総員二百名近くの中隊である。変わり種としては軍用犬にと警務筋から貰い受けたシェパードの『勝』号がおり、部隊中が可愛がっていた。
「キスカ戦記」より、北守独立野戦高射砲第32中隊長 陸軍大尉平松清一氏の証言

 

同年兵の高杉正勇兵曹長が、高杉砲台長から司令部勤務となり、それまで甲板士官を勤めていた私と交代、私が二○名ほどの部下を指揮する高杉砲台長になった。高杉君は陸軍から貰ったとかいうシェパード犬を子犬の時から飼っていて、自分の名前の正勇をそのままこの子犬の名前にして“正勇号”と呼んでいた。私は大きく育って、もう一人前の若犬になっていた“正勇号”を、高杉君から譲り受けたのである。
5警高杉砲隊長 海軍兵曹長水島忠一氏の証言(〃)

 

キスカ島に何頭の軍犬がいたのか、全てが正式の軍犬だったのかは不明です。
平松大尉の証言によると「勝」はシェパード。海軍対空砲陣地で撮影された仔犬時代の写真を見る限りでは、「正勇」もシェパードですね。
「北」は北海道犬ではなく、千島列島産のカラフト犬との証言もあります。キスカ守備隊の写真で確認できるシェパード以外の犬は、純白および斑の2頭。このどちらかが「北」なのかも。

米軍キスカ島気象観測班と共に写真におさまるエクスプロージョンは垂れ耳の仔犬で、写真からは品種を判別できません。


日本軍が上陸後、エクスプロージョンはどうなったのでしょうか?もしかしたら、「陸軍から貰った」という正勇が鹵獲されたエクスプロージョンを改名した犬だったのかもしれません。

凄まじい攻撃に晒されながらも生き残ったキスカの軍用犬達。記録によりますと、彼等は米軍とともにアメリカ大陸へと渡り、やがて子孫を残したそうです。

 

 

小説における史実はキスカ奪回作戦まで。
ここから先は、虚実綯交ぜのストーリーが展開されていきます。

 

「降伏」を拒否する勝は、上陸して来た敵を地雷原へ誘い込んで爆死。
残る3頭は米軍と共に海を渡り、その子孫達は半世紀に渡って拡散し、邂逅し、対峙していきます。
キスカ島からアラスカ、メキシコ、ハワイ、ソ連、朝鮮半島、中国、ベトナム、アフガンへと散っていくキスカ島の血族。
その居場所を確認する為、作者は何度も問いかけます。

 

「イヌよ、イヌよ、お前たちはどこにいる?」

 

装備が色々とチグハグですが、1980年代のKGB国境警備隊みたいな感じで。

 

ナンダ、人間?

「おれはお前を、これで」と夜間照準器を指して、言った。「見た。お前が地下から這いだすのを、お前が地中から生まれるのを。そしてお前は、月を見ている」

アア、コノ異界ノ、案内人カ?

お前は涙にかき曇る視界で、考える。

「つまりお前だ」と人間は囁きつづける。「宇宙から降りてきたイヌの、対極で、しかも無縁ではない。そしてお前の、その体型……お前は純血だな?お前は純血の、シェパードだな?年老いてもいない。むしろ若い。仔犬の時期を卒業したばかりだ」

ナア人間ヨ、とお前は言う。ココハ巨キナ、不思議ナ世界ダ。

「不思議な……お前はアメリカの犬か?」

オレガココニ来タ。

「米軍が密偵としてトンネル網に放ち、迷ったのか?違うな。お前の態度はあきらかに、違う。ならば中国のイヌか?四年前に人民解放軍が支援したという、例の部隊のイヌか?いや……どちらでもいい」

オ前ガココニイタ。

「おれがここにいて、お前がここに現れたのだ」と人間は言う。名前のない犬よ、お前よ、同じことをその人間が語ったのだ。ベトナム語でも中国語でも、英語でもない、ロシア語で。

「来い。お前を拾う。お前の子はベルカかストレルカに、なれるか?」

KGB将校は手をさしのべて、お前は、うぉん、と吠える。

「ベルカ、吠えないのか?」より

 

この小説において、もうひとつの柱となるのが「大主教」なる元KGB将校とベルカの物語です。

新たに登場するのは、1957年に衛星軌道へ打ち上げられたライカ犬に始まり、東西冷戦が生み出した、宇宙犬ベルカとストレルカの血族を擁する“警備犬飼育購入委員会”。
闇の戦争へ投入されるKGB国境警備軍特殊部隊“S局”の赤い犬たち。
これらベルカの血族は、キスカの血族とストーリの各所で出遭いを重ねていきます。

 

氷原での苛酷な試練を経て、アラスカからソ連へ辿り着いた橇犬「アヌビス」。
死闘が展開された北ベトナム軍地下陣地で、米軍犬DEDと中国軍用犬の間に生まれた「名無し」。
母犬の仇討ちの為、主人と共にアフガニスタンでソ連軍との戦いに身を投じた「ギター」。
キスカの血族はひとりのKGB将校を介してベルカ達と交り合い、その末裔は、ソ連崩壊後のロシアを舞台とした血塗れの闘争を展開していくのです。

 

地球を東西に分けての、二つの血族の物語。もしも主人公が人間だったら、この小説は大長編となったでしょう。
しかし、そこは世代交代が早い犬のこと。各犬のエピソードは短く纏められています。

 

運命に翻弄されながら生き、子孫に代を譲り、あっけなく死んでいく犬達。淡々と描かれる彼等の生と死。

それに我慢できないのか、作者は所々で脱線します。


心打たれるアイスの仔とシュメールの出会い。
グッドナイトの壮絶な最期。
いきなり始まる東西首脳の冷戦コント。
クールを装っていても、やっぱり読者をウルウルさせたりニヤニヤさせたかったのでしょう。

 

クドリャフカ

1957年、スプートニク2号で宇宙へ打ち上げられたライカ犬「クドリャフカ」

 

お前らは視線を感じた。
シュメールとその子供たちよ、お前らは感じた。米墨国境地帯にいて、だから宙を仰いだ。
同時に数千頭が同時にふり仰いだ。
一九五七年十一月三日、北海道犬の北の胤から生まれた血筋の三○○○頭と七○○頭と 三十三頭が、ジャーマン・シェパードのバッドニュースの血筋に列なるニ○○○頭と九○○頭と二十八頭が、共産圏/資本主義圏の線引きを無視して地上のいた るところに散らばりながら、同時に蒼穹を見上げていた。

「ベルカ、吠えないのか?」より

 

作中で特に印象的だったのは、地上の犬達が一斉に空を見上げる“イヌ紀元ゼロ年”の場面。
ここを読んでいた時、昔聴いた「宇宙犬ライカ」という歌を思い出しました。“宇宙開発の為、人類の英知が導き出した答えは、たった一匹の犬を殺すことだった”という内容の、スプートニク2号に乗せられたクドリャフカを悼む歌。

懐かしさに検索してみたら、上田現は亡くなっていたんですね。
今度、コリアンドルを聴きながらこの小説を読み直してみようかしら。

 

ベルカ・ストレルカ
1960年、スプートニク5号に載せられて軌道を周回したストレルカとベルカ。ストレルカの仔はアメリカのケネディ家に寄贈されました。

 

死んだカプロンの子供は、救い手の腹部にすがりついて、救い手のシェパードは、乳房を含むことを許していた。「おお、おお……」と怪犬仮面は呻いた。その光景にびりびり打たれた。奇跡だ、本物の奇跡だ、と確信した。ハワイから大海原を漂流してきたイヌが、ここサモアで、僕の分身の子供を救助したのか?思わず地面に膝をついて、シェパードにむかって十字を切りつつ言った。

「この恩義は、一生忘れない!」

誓いは立てられて、守られた。一九七五年十二月二十一日、シェパードがメキシコ入りを果たす。メキシコ・シティに到着して、北緯二十度のイヌとなる。グッドナイトだ。ついに巨大なアメリカの外側に出た。

「ベルカ、吠えないのか」より


そういえば、この作品には人間も登場します。
但し、老若男女を問わずどいつもこいつもロクデナシばっかり。そもそも、登場人物には名前すら与えられていません。

我々人間は、勝手気儘に犬を利用し、譲渡し、虐待し、酷使し、迫害し、殺し、殺され、挙句は食べられてしまう存在として描かれています。
偶にマトモそうな人間が出てきても、結局は飼育を放棄したり逮捕されたり。
ヒロインの少女も性格最悪品性下劣、可愛げのカケラも無し。
大主教に至ってはナニを考えているんだか。

「この恩義は、一生忘れない!」と誓い、最期まで犬に対して誠実であろうとした人間は怪犬仮面くらいですか。
麻薬王というパパの職業に悩み、代償行為としてプロレスに励みながら家業はしっかり継ぎ、奥さんに裏切られて愛犬に縋り、雷撃のセント・バーナード蹴り(&犬固め)で平然と人の命を奪いながら犬の母性愛に涙し、その復讐の為にムジャヒディンへ身を投じたマフィア。
サモア人兄弟も含めて、怪犬仮面が登場しなかったら小説のイメージも随分違っていたでしょうね。
そして、キスカの血族とベルカの血族はアフガンの地で再び邂逅するのでした。

 

犬は、優れた能力を有する人類最良の友です。そして、傲慢かつ気紛れな人類との共生を選んでしまった愚かな動物でもあります。
ヒトはヒトであり、イヌはイヌ。
異種の生物が理解し合えると思うのは幻想なのかも。

 

優れた犬物語がそうであるように、この小説も両者が共存することで生じる悲喜劇をキッチリ描いています。
「愛と涙の感動物語」だけでヒトとイヌの関係を片付けようとする。
「善と悪」という幼稚な基準で人と犬の歴史を判断する。
そのようなニンゲン側の思い上りこそが悲劇の原因なのかもしれません。

 

宇宙犬
ソ連の宇宙犬と犬用与圧スーツ


キスカ島から繋がる物語は、現代のロシアへ追いつく直前に途切れてしまいます。
それと共に、大主教とベルカ達の物語も暴走開始。犬たちのクロニクルは、東映ヤクザ映画まがいのドンパチへと一転します。
ヤクザ・ロシアンマフィア・チェチェンマフィアが入り乱れての殺し合い。しかも、戦う相手は元KGB国境警備軍将校に率いられる特殊戦闘犬の群れという、殆んどマンガのような展開です。今までも東西冷戦や地理の知識がないと追いつけなかったのに、ここで更に突き放されるとは。

そもそも、こんな騒動を引き起こした大主教の目的や狂気の原因がさっぱりわかりません。
S部隊解散における惨劇への復讐なのか、迷走する祖国への制裁なのか。
日本人少女を誘拐して犯罪組織同士を戦わせ、某大統領と繋がる者たちを暗殺していく理由は?
ソ連崩壊前後の経緯が故意に削られている為、読者は置き去り状態にされたまま成り行きを眺めるしかないのです。
何が始まったんだ?
何で戦ってるの?
唖然としている間に、犬に狩られて人間側全滅。

 

帝國ノ犬達-PV
パトロール中のKGB国境警備隊員。隊員の帽子や肩章が緑色なのは、KGBの兵科色が緑だから。彼等の正体は、色で見破ることが出来るから安心です(何が?)
まあ、スパイ要員は変装してますけどね。
ソ連の絵葉書より、1963年

 

さて。
かつて大主教が所属していたKGB(ソ連国家保安委員会)について。
CIAと並ぶスパイ機関としてのイメージが強いKGBは、国境警備軍や特殊部隊を保有している一大軍事組織でもありました。
ソ連の軍事は、国防を担当するソ連軍、国内治安を担当する内務省軍、国境警備を担当するKGB軍の3本柱で構成されていた訳です。
その国境警備軍では、長大な国境線の監視に警備犬を使っていました。配備が開始されたのはKGBの前身であるGPUやNKVDの時代。
日本軍や満洲軍用犬協会関係の記録を読むと、満ソ国境で目撃される“ソ聯ゲー・ペー・ウの國境警備犬”が頻繁に登場します。ソ連への越境工作を展開していた関東軍は、敵軍用犬に対抗する臭気撹乱剤も開発していました。
このソ連国境警備犬は、越境者の監視・追跡が主任務です。GPUがKGBに再編された後も、それは変わりませんでした。

 

では、作中で大主教が指揮していたような国境警備軍の特殊戦闘犬はいなかったのでしょうか?「ブランカ」とか「マスター・キートン」に出ていたような奴が。

 

KGBの特殊部隊としては、第七局所属の「アルファ」が有名ですね。小説に登場するS局の所属部隊としては、「ヴィンペル」が存在しました。
これらKGB第一総局や第七局の特殊部隊とは違って、「国境警備局のスペツナズ」については謎のまま。8月クーデターを取材した本に、ベールイドーム襲撃部隊のひとつとして“国境警備軍特殊部隊”が登場するものの、真偽は不明です。
「S局」の犬達は、古川日出男さんの創作なのかもしれません。

 

1991年の8月クーデター失敗以降、ソ連KGBは西側メディアへの情報公開に踏み切ります。
いくらグラスノスチといえど、KGB職員のお姉さんが「ここは射撃訓練室でーす」などとルビヤンカ内部を案内して回るなど、冷戦時代には考えられなかった対応でした。
その一環として公表されたのが、アルファ部隊の宣伝ビデオ。謎のベールに包まれていたKGB特殊部隊の姿が、これによって明らかとなりました。

そんな事はともかく。
このビデオ映像には、アルファ部隊所属の戦闘犬がチラッと登場します。写っているのは、KGB隊員と共に屋内突入訓練をおこなう1頭のシェパード。
実在してたんですねー、KGBの戦闘犬。

 

……あの犬の名前、ベルカだったりして。

 

AFB(旧KGBで現FSB)のベルカ掃討部隊っぽく。

 

鑑札番号46と鑑札番号113が死ぬ。ベルカの兄弟と姉妹が死ぬ。ストレルカが吠える。
老婆が早口にロシア語でまくし立てる。退きなさい、退きなさい!
ストレルカとベルカと三頭がいて、一分後には、ストレルカとベルカと一頭になっている。鑑札番号44と鑑札番号45が死ぬ、殺される、ストレルカは吠えつづけている、ベルカは見ている。
敵が変わった。
敵はイヌの蜂起に気づいている。

もはやイヌはこの都市では透明ではない。

人間たちはいきなりイヌに発砲する。

ベルカは見ている。展開しはじめた数十名の集団の装備を。マフィアではない。ジェット型の抗弾ヘルメットをかぶり、迷彩服を着込み、折り畳み式のストックがついた突撃銃を握っている。その外見がマフィアとは異なりすぎる。
「ベルカ、吠えないのか?」より

 

複雑に広がった犬達の壮大な物語は、現代のロシアへと収束し、最後の破局へと向かって突っ走ります。

キスカ島の一族と交じり合った宇宙犬の末裔たち。
かつて共に戦った「S」の部下。
誘拐されたヤクザの娘。
奇妙な絆で結ばれた彼らは、大主教の指揮下で戦争を開始します。
機能が麻痺した都市で展開される、人と犬の市街戦。
犯罪組織と犬の殺し合いを横目で眺めながら、新生ロシアはKGBの亡霊を抹殺する為に動き出しました。

 

犬が銃を持つ人間と互角に戦えるのは、奇襲が通用する間だけです。敵が標的を確定した時点で、犬達は狩る側から狩られる側となりました。
破壊と殺戮の果てに、犬達の物語はラストを迎えます。

 

仲間たちが殲滅されていく中、ロシア連邦保安局の包囲を突破したストレルカとベルカが目指した北の海。
霧の向うにあったのは、第二のキスカ島だったのでしょうか。

 

犬の足跡をメモし、現在地点を確認しながらの読書もコレでオシマイ。
それまで地球儀で辿ってきた犬達の軌跡が途切れたとき、漸く気付くのです。
衛星軌道へ打ち上げられたクドリャフカの視点から、自分がソレを見下ろしている事に。

 

犬
それからお前たちは海を渡るだろう。
それからお前たちは、二十世紀を殺す。
霧の内側の島にイヌだけの楽園を築きあげて、それからお前たちは、 二十一世紀に宣戦布告をするだろう。

「ベルカ、吠えないのか?」より

うぉん。