イングリッシュ・ブルドッグとフレンチ・ブルドッグの日本史を纏めてよいのかは疑問ですが、とりあえず一緒に解説します。

戦前はフレンチブルの飼育頭数が少なすぎて、イングリッシュ・ブルドッグの日本名が「ブルドッグ」で統一された経緯もありますし。

当ブログでは、イングリッシュ・ポインターとジャーマン・ポインターの日本史を一括したり、マルチーズとプードルの日本史を併記したり(当初はふたつが混同されていたので仕方ありません)、ラブラドル・レトリバーを日本レトリバー史から外したり(ゴールデンやラブの来日記録が見つからないので)、戦前に来日していたベルジアン・シェパードを日本シェパード史に加えなかったり(希少犬すぎて日本シェパード史に全く関与せず)、その辺の基準は自分でも曖昧です。

そんな感じでブルドッグの日本史をどうぞ。


ブルドッグ
大正時代に撮影されたブルドッグ

 

昭和2年に来日していたフレンチブルドッグ

 

フレンチ・ブルドツク
拂蘭西産のブルドツクで、英國のブルドツグを小型にしたものである。此縮小犬は、單に型態が小さいばかりではなく、種々の點で原型とは餘程趣を異にしてゐる。
先づ第一に原型よりよく引緊つて、遥かに恰好が良い。
第二に全體の感じが原型に見る鈍重で武骨な所がなく、輕快で飄逸である。
第三に頭部面部に皺が少く、鼻も原型程變態的に壓縮されてゐない。
第四に耳が蝙蝠耳で、原型に特有な耳端折れ返り、耳の内側を露す所謂ローズ形ではない。
用途は主として鑑賞愛玩に在るが、遉に原型の血を受けて大擔勇敢だから、番犬としても優れてゐる。

稍圓味ある前額は皮膚が緩んで皺を作る。
下顎強く方形で、上方へ反つてゐる。
鼻短く鼻孔が廣い。
上唇は両側へ垂れて下唇を蔽ふ。
咽喉に頸袋がある。
前脚離れてつき、短く強い。
尾は直なると巻いたのとある。
毛質は美しく滑かな短毛で光澤を放つ。
標準體重は小振りのものでニ二封度(ポンド)以下。

 

『最新流行犬百種(昭和8年)』より

 

【明治時代のブルドッグ】

 

ブルドッグが来日した時代は古く、大正15年に「ブルドックソース食品株式会社(現在のブルドックソース株式会社)」の社名がつけられたのも、ブルドッグの流行が関係していたそうです。

輸入記録が現れるのは明治初期のこと。当初は神戸港から上陸、西日本を中心に広まったようです。

既にブルドッグ=闘犬のイメージが伝わっていたらしく、明治10年に宣教師と共に徳島県へやってきたブルドッグ「パン」と「タイガー」は地元闘犬家からつけ狙われました。
ある日、パンは主人の留守中に襲撃され、死ぬまで悲鳴を上げなかったことに感心した人々が土佐闘犬と「タイガー」を交配したとか何とか(ブルドッグは「ハネ」という名で、生まれた土佐犬がパンとタイガであるという説もあります)。

土佐闘犬作出の過程は無軌道・無秩序すぎて、ブルドッグが交配された話も真偽は不明です。愛玩犬であるブルを闘犬扱いする日本人の悪癖は、その後の時代まで続きました。

 

ブルドッグは明治時代から有名な品種でした(明治42年の『冒險世界』挿絵より)

 

明治時代の45年間をかけて、ブルドッグは勢力を拡大。明治天皇が飼養していた犬の中にもブルドッグがいたほどです(大正天皇の宮内省猟犬舎飼養リストには出てこないので、皇室における明治以降の飼育状況は不明)。

 

其中佛國産ブツク・フアウンド(佛名シヤン・ド・ガスコヌユ)といふのは六百圓で御買上になつたもので、今では此種のものが四頭居る。此種の犬の特色は常に狩獵者の近邊にあつて、鳥を探知するのを得意とする。

他に英吉利セツター(佛名エパニエル・フランシエー)七頭で、ゴルドン・セツター一頭(ポインターにて山邊馳走に適す)、アイルス・セツター二頭(水邊に適す)、黑樺犬(露國セツター)二頭及び故兒玉大將の献上にかゝる蒙古種一頭、英國動物園長献上のブルドツグ牡一頭(獨逸のビスマーク公の顔に似て居る犬にビスと云ふのがあつて、それに類しては居るが、之れは鬪犬種である)等が居る。

 

『陛下の御獵犬(明治40年)』より

 

明治時代には散発的に輸入されていたブルドッグも、大正時代~昭和初期にかけて流行の品種となります。

その経緯について、輸入が先行していた西日本エリアでは纏まった記録が見つかりません。後発組である関東方面の記録が中心なんですよね(関西犬界は個人的な活動が多いようで、ネットワーク化に積極的だった関東犬界の記録が残りやすいのです)。

関東のブルドッグ愛好家による談話が残されていますので、ここにご紹介しましょう。日本のブルドッグ史に興味がある人にとっては、とても貴重な証言です。

※関東大震災で国際港横浜を有する関東犬界が壊滅し、日本犬界の中心が国際港神戸を有する関西へ移ったエピソードがこの談話でも触れられています。


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大正時代のブルドッグ

 

座談會『ブルドッグの華やかなりし流行のあとを語る(昭和9年)』より

白木正光(犬の研究社編集長)
皆様の前でかう申上げるのは失禮かも知れませんが、我々犬の雑誌をやつてゐるものでも、とんとブルドツクの噂を聞きません。各犬種の公平な發展を望む見地から甚だ遺憾のことで、これは皆様に一奮發お願ひしたいと思ひます。
中島基熊(日本シェパード犬協會)
理想として各犬種の發達は望ましいが、實際は無理な註文ですよ。
白木
ともかく今の犬界人はブルドツクの智識に乏しいと思ひますから、まづ日本で流行した歴史から始めていたゞきませう。
鶴見孝太郎(日本テリア研究會)
それは伊藤さんの領分だ。
伊藤治郎(日本コリー犬協會)
それでは私から簡單に日本にブルドツクの流行した歴史を申上げますと、相當古いもので、彼のセツターやポインターが人氣を博したのは歐洲大戰後(※第一次世界大戦のこと)ですが、それ以前に既にブルドツクは全盛を極めてゐて、セツターやポインターが下火になつてからも、なほブルドツク丈けは騒がれたものです。當時は雑種でもブルのかゝつたものと云ふと喜んで買つたもので、犬の話となると、大抵ブルと決つてゐました。

此の犬が何時頃日本に渡つたか、明確な記録はありませんが、關東で純粋のブルドツクの最初のものと思はれるのは、明治三十六、七年の頃、有名な闘犬師で、横濱の小林八十八氏の飼つてゐたフエーモスと云ふ牝犬です。これは白地にレモン班があり耳も尾も切つてありました。
このフエーモスの他に、神戸から來た總虎毛の小型な犬も居ました。これをフレンチ・ブルドツグといつてゐましたが、後に私が廿圓で買ひ取りました。これが私のブルを飼ひ出した最初です。

その頃、横濱山下町の英國海軍病院に、當時としては優秀なブルドツクが數頭飼はれてゐました。この仔犬が各方面に散つて、明治四十年頃、山手百五番にはドクターといひ、ボストンテリアのやうな斑のある立派な牡が居り、終始馬車の後に従いて走り歩いてゐました。ドクターの名は海軍病院から出たからだと云ふことでした。又山手ニ百十六番のライジングサン社長デビス氏邸にも、白地に黒斑の牡が居て、ドクターに次ぎ立派なものでした。尚この地に總虎毛の牝が一頭居ました。

一方京濱間に初めて汽車が開通した時、その運轉をしたといはれる人で、俗にサツマと稱された太つた爺さんが大の愛犬家で、ゴールドン・セツター、プードルなどを飼つてゐたが、この人がドクターの仔の總虎毛の牡を飼ひ、その牡と、當時鎌倉方面で唯一のブルドツクと稱された車夫で犬好きの猪俣伊三郎氏の牝タケ……この犬は一見グレートデーンの雑種といつた白地に黑斑のある犬でしたが……と、その頃廿歳位の私や、横濱で犬では最も古顔の入江隆平氏が肝煎りでコツクやボーイに話して交配させ、その結果數頭の仔を得ました。これ等が鎌倉に擴がり、私も横濱へ二頭持つて歸りました。日本人の間にブルドツクが擴がつたのは主にこれの系統です。

 

帝國ノ犬達-入江隆平

こちらがブルドッグを取り扱っていた横浜の畜犬商・入江隆平氏(大正期の撮影)


それから明治四十五年頃にはブルも相當の數になり、外人の持つて來た立派なものが日本人の手に入つたりして東京へも連れて來られ、當時羽振りのよかつた堤の婆さんや益田太郎氏等が、ブルを買ひに入江の處へ出入りしたのもその頃です。
又東京では赤坂在住の某外人に、白地に両面薄虎毛のボーレーと称する牡がゐましたが、これは今迄に見たことのない鼻の短い、口先の好い、體格も立派な犬でした。このほか三田聖坂の石田千之助氏もドクターの仔で總虎毛の牡と虎斑の牝を飼つてゐました。

 

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大正時代のブルドッグ

 

【大正時代のブルドッグ・震災前後】

 

伊藤
しかしブルドツクが目立つて改良されたのは、明治四十五年頃、鎌倉へ優秀な總虎毛の牡牝一番が外國から來て、この系統が四、五頭になつてからです。その牡をジヤツキーと云ひましたが、いろ〃折衝の結果、横濱遊郭の金田楼が買ひ、數年間は關東一のブルとして非常に繁栄し、各共進會では最高位を占める、交配料も五十圓といふ、當時としては比類のない高價なものでした。東京ではその時分闘犬が流行して、ブルの血の入つたものは引張凧の有様でした。

その頃東京神田の福岡長平氏が外國から優秀なブルの番を取りましたが、牡はブラウン斑、牝は虎斑で、これの仔に立派なものが數回生れ、それ等が常に店頭の街路樹につないであつて、多くの愛犬家を垂涎させたものです。一方古川虎之助氏が十萬圓のブル牡を取寄せたといつて盛んに新聞に書いたのもその頃です。
中島
何年頃のことです。
鶴見
たしか大正二年頃でした。
伊藤
さやう。上野の静養軒で初めて共進會が開かれた大正二年の直前のことで、その共進會には、福岡氏の輸入犬に其仔の牡一頭、小林八十八氏の有名な闘犬で、大型な白斑の牡も出陳されました。かやうに明治四十年頃から大正二、三年頃はブルの全盛期で、當時はブルの血の交つたものならどし〃賣れ、猪俣などはやたらに牝を連れて來てブルをかけ、その仔が盛んに賣れて行く有様で、これが第一期のブルドツク全盛期です。
勿論初期のブルドツクは、普通耳を截り、尾を切り、口鼻部も伸び、今日見る純血ブルドツクとは體型が大分異なつてゐて、恰度ボツクセル(※ボクサー)と云つた感じのものでした。
鶴見
大正三、四年頃だつたと思ひます。森律子さん(※女優。益田太郎冠者の作品に出演)が歐羅巴からの歸りに益田太郎氏(※劇作家の益田太郎冠者)への御土産として、一番のブルドツクを英國から連れて來たことがあります(※森律子は、他にパグとプードルも連れ帰りました)。

何れも白地に薄虎斑の、これまでに見たことのない優秀ブルでした。この犬を見物に、當時中学生だつた私は、十圓なにがしの寫眞機を持つて、品川御殿山の益田氏の大邸宅へずう〃しくも押かけたものですが、大層歓迎されてそれからといふものは、益田氏が新しい犬を輸入する毎に、わざわざ撮しに來いと通知が來て、撮しに行つたものです。益田氏邸には、ブル二頭の他にグレート・デーンやボルゾイが震災前まで飼はれてゐました。
伊藤
この大正四年頃、船乗りが總虎の良いブルを持つて來て、これは横濱の犬屋の鈴木仙之助氏が買受け、その交配で大變儲けたと聞きました。その後歐洲戰爭のため一時輸入が止つてやゝ下火の觀がありましたが、大正六年頃に横濱のサツマ屋大津宗八郎氏が耳切りトミーといつて鳴らした總虎の牡、又 電氣商田邊氏が總虎毛のネレー牝を輸入したほか、洗濯屋のチヤメ、横濱浅野嘉平治氏はトミーの仔で一腹のトツピーとケツパーを買ひ、このうちケツパーは、 當時東京に居て日本中の優秀ブルを全部集めると豪語してゐた吉田雅邦氏が、千圓で買ふなど再び活氣立ちました。吉田氏は更に輸入犬牝クイーンをも浅野氏から譲受けました。
一方福田梁水氏が耳切りトミーを東京へ迎へ、東京でもメキ〃同好者が増えました。
中島
吉田雅邦といふのは、現在日本犬を十八餘頭も飼つてゐる小田急沿線喜多見の多摩川農場の吉田亀龍氏のことです。
伊藤
震災後一向消息を聞きませんが、矢張り犬を飼つてゐるのですか。それから大正七年頃本牧に居た守安清氏、この人は高橋是福さんの奥さんの弟さんです。この人も熱心なブル黨で、相當なブルを三匹飼つてゐましたが、中でも總虎の牝は優秀なものでした。
その後大正十年頃、氏は加奈陀から總虎毛のチヤンピオン・ベシービセロイ牡と、矢張り總虎毛のこれに相當する優秀な牝スターを輸入し、ブル界に一代センセイシヨンを起しました。これが我國に輸入された最初のチヤンピオン・ブルドツクです。
斯うして吉田、守安、大津、浅野の諸氏がブルドツク熱を煽つた爲め、その頃ブルドツクはポインター、セツターと共に高價に賣買され、關東大震災に遭つて、獵犬は衰えてもブルドツク熱のみは一層盛んになつた程です。それ以降のことは鶴見さんの方が詳しい。
鶴見
大震災で折角復興の出鼻を挫かれ、ブル界の中心は名古屋以西に移つた感がありましたが、翌年の大正十三年六月、ジヤパン・ケンネル倶樂部(※現在のJKC とは別の団体です)第五回共進會が開かれて、約四十六頭出犬され、ブルはセツター、ポインターに次ぐ出犬数で、横濱小林誠宰氏の輸入犬牡ローズ、同浅野 喜平治氏の牡トツピー、藤澤加藤清重氏の牡不二、王子轟能七氏の牡ドウ等の他、大したものではないが三頭出ました。
以上のほかに横濱大津宗八郎氏の牡ダイヤ、これやチヤメとネレーの間に出来た仔ですが、これなども大正十一、二年頃の優秀犬で、今日までの代表的かけ牡であり、現在の内地産ブルドツクの多くに、その血が含まれてゐます。又その頃、豪州から輸入されたダイキと云ふ犬が福田梁水氏の所有になり、その仔のソルネスボーイは國産犬のナムバー・ワンとしてトツピーと共に、かけ牡の仕事を随分しました。
サツマ屋の第三世トミーが震災直後のかけ牡として活躍したのもその頃です。そしてこの仔が主に横濱と東京に擴がりました。
越へて大正十四年の春五月、ジヤパン・ケネル第六回共進會が、上野の畜産博覧會々場に催されました。出犬總數九十二頭の中、ブルドツクが十七頭出陳されて第二位となりました。この時の優秀なものは、先づ守安氏のローゼス・サンで、これは世界一のブルドツクといはれたアイリツシユ・アラウンドの孫で、英國から輸入したものでした。それから、加奈陀から輸入した伊藤氏のパシフイツク・ホワイト・ラスカル二世、また伊藤さんが加奈陀から輸入し、本邦の久保重五郎氏のものとなつたハイボーン・デフイアンス、これは呼名をバスターといひました。
その他、三島臺蔵氏の加奈陀輸入犬ベシー・ビセロイ、玉乗りの江川大盛館主清水亀太郎氏が米國から輸入したハンバーストン・ゴールドストン、大津宗八郎氏の加奈陀輸入犬バシー等。
内地産としては、大津氏のトツピー、高塚薫氏のベデー、土田三喜太郎氏のトトラ、福田氏のソルネスボーイ等でした。このほかブルの愛犬家として知られた人に前川太郎兵衛、増田鑛太郎、中島基熊、山崎繁諸氏がありました。
伊藤
このうち前川、中島、増田、福田、山崎氏等は最も熱心な研究家であり、久保、土田、浅野氏等は飼育者です。
鶴見
當時の面白い話の一つは、大正十四年の秋ギブソン・グレーグといふ豪州人が二十頭の犬を連れて遥々豪州から犬を賣りに來たことです。
この中にはブルドツクが數頭ゐましたが、當時優秀な種牝が不足してゐたので久保氏がシヨラとメダの二頭を手に入れ、その他の犬も高價に賣れたので味を占め、翌年も亦二十數頭の犬を連れて來ましたが、此時は殆んど買手がなく、芝浦で競賣をやるなど散々でした。
斯様に米國、加奈陀等から優秀ブルドツクが續々輸入され、更に豪州からグレーグ氏の來朝によつて刺激された吾ブルドツク界は益々活況を呈し、それまで犬界の王座に君臨してゐた英セツターや英ポインターをノツクアウトして、斷然犬界の王者となりました。この頃から福田梁水氏の活躍時代で、以降は中島さんから……。

 

【ブルドッグ愛好団体誕生】

 

中島
大正十四年四月に、福田梁水氏が主宰する大日本ブルドツク倶樂部が創立されました。そしてその集りには、會費一圓で抽籤によつて一頭にはブルの仔を與へたものです。第一回の時は、素晴しいブルが出ましたが、第二回の時は犬をバスケツトに入れて置き、抽籤して一頭に當つた人がそれを開くと、馬の頭みたいな長い顔のブルが出ました。これに嫌氣が差したか、第三回からは人が集まらなくなつて了ひました。ブルドツクの單獨雑誌が出たのもこの時が最初のやうに記憶してゐます。
伊藤
あの頃はバスターが一番活躍しましたネ。
鶴見
大正十五年三月、バシーとデデーの二頭が加奈陀から輸入されましたが、兩方とも眞白の優秀犬で、バシーは大津氏、デデーは尾形春吉氏の處へ行き、種牡として大いに貢献しました。
伊藤
同じ頃、浅野氏のホワイト・ウオンダーも有名でした。
鶴見
その年の七月、前川太郎兵衛氏が中心となり、鹿島登善氏、清水亀太郎氏、久保重五郎氏及私共が發起人となつて、東京ブルドツク倶樂部を設立し、東京ブルドツク界の統制を計ることに努めましたが、不幸にして、これも數ケ月で解消しました。
私共の反對派とも云ふべき福田梁水氏の一派、中島基熊氏、富田數雄弁護士、秋山亮特許弁理士、河合榮三郎氏、久松敏定氏等が十一月日本ブルドツク倶樂部を再興し、立派な機關雑誌「ブルドツク」第一號を發行しましたが、これも自然消滅となり、その後は群雄割拠の形で、東京側では福田派、高塚派、久松派、守安派が互に優秀犬の作出に努め、横濱側では伊藤派、大津派、浅野派又互に優秀犬の作出に努力し、京濱相呼應して大いにブルドツク界のために氣勢を上げた爲め、關東のブルドツク界は著しく發達して、正に第二期のブルドツク全盛期を現出しました。
この頃、關東から關西方面に賣れて行つたものは並物で百圓以上、少し良いものは四、五百圓といふ良い値のものもありました。斯ういふ値段は、當時では到底他の犬種に見られぬ豪勢なものでした。當時、米國及び加奈陀では、吾國と同様に英國からも盛んに輸入し、チヤンピオン・ブカニア、チヤンピオン・ミラボンサイド・チヤレンジヤー、チヤンピオ ン・タフネル・ラウンテツト、チヤンピオン・ボルトニア・バリスター、チヤンピオン・ヘフテイパトリシア、チヤンピオン・グロリア・サブリクレツトなど、 米國各地の共進會で、盛んに覇を争つたものです。
伊藤
その中、ヘフテイ・パトリシアは、鶴見氏が使者となつて、わざ〃米國まで行き、前川氏のために連れて來ました。
鶴見
吾國のブルドツクの歴史といふと、大體こんなものです。
中島
昭和二年の四月、上野に萬國博覧會が開かれた時、同會場で日本最初で而も最後のブルドツク單獨の共進會が開かれました。これは主に久保氏と私がやつたもので、出陳犬は四十頭あり、廣場の両側にづらりと列べたものです。恐らくこの時がブル流行の絶頂でしたろう。
鶴見
その年の十月一日、中央畜犬協會主催第十一回共進會にも、ブルドツクが三十二頭出陳され、近來にない盛況でした。この時のブルドツクは、単に數が増加したばかりでなく、その質に於ても著しい進歩改良の跡が見えてゐました。
中島
私はホワイト・ナイトといふ、純白の素晴しい奴を、福田氏と共に輸入したが、この犬は途中ポートサイドで斃れてしまひ、それから斷然ブルをやめてシエパードに轉向しました。これを殺したのは、全く美人に死なれたやうな氣がしましてナ。

 

【我が国のブルの体型推移】

 

伊藤
震災前のブルは、ドツピーにしろケツパーにしろ、體は大きくなく、形が崩れてゐました。その後體は小振りでも、鼻がつまり、下顎が長く巻上つて、身體の作りも、背や肩、腰のハリが變つて來ました。又耳もローズでなければいけないといふことになり、耳も揃ひました。
中島、鶴見、大津の諸氏が轉向して、只今はブルも衰退してゐますが、前川氏だけは、今でも優秀なブルを十頭近く飼つて居ます。一方水野氏と私は協力して東洋ブルドツグ倶樂部に立籠り、孤軍奮鬪してゐます。ブルドツク衰退の原因と思はれるのは、この犬種はシエパードのやうな使役犬でなく、愛玩犬である爲め、骨董趣味的には良い味がありますが、現代とは背馳するのではないかと考へます。
それに非常に難産で、良い仔は體が大きい爲め特に難産で、これをしくじると親仔共に殺すことがあります。更に飼育費の相當かゝること、暑さに弱くて夏は苦しむことなどが挙げられます。
鶴見
ブル一頭の費用でワイヤーが十頭は飼へます。
白木
食物は如何なものをやりますか。
伊藤
主に肉ですが、それも生肉をうんとやらぬと體が太らぬし、艶も出ません。前のお産の話ですが、ブルは何うも仔を育てることが拙手で、身體の下敷にして殺すことが屢々あります。
中島
早い話があの顔では仔の臍の緒を切つたり舐ることも出來ますまい。それに交配させるにも非常に骨が折れます。
伊藤
何しろ、玄人が三、四人がゝりでやるのですから……。
中島
私の今やつてるシエパードなんか、前にブルのお産と交配に骨折つてゐたせいで大變樂です。

 

【ブルに多い病気】

 

白木
水野さん、ブルドツクの病氣についてお話し下さい。
水野
難産なのは、佝僂病が原因してゐるんぢやないかと思ひます。あの特殊な骨格では、骨盤に無理があります。從つてお産も樂ではない筈です。佝僂病になると、餌付が惡くなり、ヴイタミンBが不足勝になります。又太らせやうと生肉を與へる爲め、皮膚病に罹り易い處があります。但し、ヂステンパーには強く、滅多に罹りません。これは體力が良いからでせう。
中島
榮養の良いせいもありませうが、非常にブルは我慢力が強い。
伊藤
體の太い犬には佝僂病が多いやうですが、ブルは體を太らせる必要上、どうしても佝僂病に罹るのです。
水野
ブルに皮膚病が多いのは脂肪が多く、皮膚の厚いためではないかと思ひます。
伊藤
又ブルには特別な體臭がありますな。
鶴見
ブルは心臓が弱いが、これは心臓を圧迫するやうなコンデシヨンが要求されるからで、心臓が強いやうでは優秀なブルドツクとはいへません。それから五、六歳になると、夏よく日射病でやられます。
伊藤
原産地の英國でブルの出來初めは、牛殺しに使はれたものですが、英國ではこれが禁じられた爲め、鬪犬に用ひられ、それも禁じられて、千八百五、六十年の頃から愛玩犬となつて今日に至つたので、日本人はブルを見ると喧嘩犬だといつてゐますが、これは間違です。成程、耳を引張つても痛がらぬ點など、昔の喧嘩犬時代の大擔、剛情は性質は殘つてゐますが、ブルは決して喧嘩犬ではありません。
水野
皮膚が弱いといふ點で、母親に何ら皮膚病がなくても、仔が不思議にアカラスに罹つたりするのは、隔世遺傳か何かあるのではないかと思ひます。
鶴見
バンクーバーから、初めてブルドツクを輸入した頃は犬が不足してゐたゝめ、盛んに近親交配を行ひ、親仔がけを殊更やつた爲めに、皮膚が弱いと云ふ説もあります。且つ元祖犬キングスグレー・マンゴーワー系の犬は大體弱いのです。

 

【ブルドッグの将来】

 

水野
兎に角、交配とお産と佝僂病の厄がなければ、割合樂なんですがなア。この間のお産なんか、十四時間もかゝりました。
中島
産婆役はお通夜の形で、前の晩から詰めかけ、酒盛りでも開いて待つてゐる始末です。
水野
餘り長くかゝると、後から出る仔が窒息して死んでしまひます。
中島
前に私の處で、一匹は生れたが、後がどうしても出て來ないので、震動を與へて見たらと、リヤカーに乗せて走つたこともありました。
鶴見
散歩に連れて歩いて、二三町行くと、お産をしたのがあります。
水野
お産を楽にする爲めに整形手術も考へましたが、後から出て来る仔がつかえますから、實行出來ません。
中島
伊藤さんが震災に逢つて家がなく、外人某氏の愛妾と壁一重の家に住んでゐた頃、お隣で大喧嘩が始まつた原因といふのは、押入れから大鼾が聞えるので、テツキリ、女が他人を連れ込んだものと思つて、旦那がいきり立つたのです。ところが何ぞはからん、その鼾の正體は、壁一重隔てた伊藤さんの家の、押入れに入れてあつたブルドツクの鼾だつたといふ。いかにもブルドツクにして相應しい逸話があります。
鶴見
そんなことがあつたのですか。これは初耳です。
白木
生れてからの注意を簡單に。
伊藤
ブルドツクは、あのやうに歯が食ひ違つてゐますから、食物の食べ方が非常に乱暴で、従つて未消化から失敗することがあります。
水野
駆蟲剤にはサントニーが無難のやうです。
白木
最後に、東洋ブルドツク倶樂部の將來の抱負と云ひますか、現時のブルドツク界の衰退をどうして挽回されるお考へですか。
伊藤
現在は會員に活氣がありません。中には他犬種に轉向しようとしてゐる人もありますが、一方思ひがけない地方から同好者が現はれて來ます。そこで私は水野さん等と協力して自給的戰法を取り、先づ水野さんの處(小石川區大塚窪町)に事務所を置き、私自身で書いたものを謄写版で刷つて會員に配り、内地のブル及び歐米のブルの本場の事情を報告し、そしてブルの隆盛を再びもり返させようと思つてゐます。
中島
私は東洋ブルドツク倶樂部の會員ではありませんが、ブルドツクを隆盛させるにはまづ會員諸氏が誌上あたりを利用して、半頁宛でもよいから毎月ブルの寫眞をのせるか、或はデパートあたりの屋上で、この秋ブルドツクの觀賞會を開くのがよいと思ひます。
一昨年の中央畜犬の共進會の時など、ブルが三十頭も出てゐたゝめ、これに刺戟されて以前ブルをやつてゐた人が再び始めたといふ事實もあります。總ゆる機關、機會を利用して宣傳することが一番大切だと思ひます。
白木
雑誌のことはとにかく、觀賞會には賛成です。僅少の費用で出來るんですから是非やつていただきたいものです。
では、これで閉會といたします。有難うございました。


闘犬種と勘違いされつつ、日本人に愛されたブルドッグ。しかし、流行が去れば飽きられてしまうのも他品種と同じでした。意外にも、戦前の段階で衰退していたんですね。
日中戦争が始まってもブルドッグは流通していましたが、昭和15年を最後に海外との畜犬輸入ルートは途絶。国内繁殖個体は流通を続けたものの、ブリーダー自体が少ない不人気犬種は姿を消していきました。

太平洋戦争へ突入した昭和16年、ペット商カタログに掲載されたブルは高価な希少犬と化しています。僅かに残ったそのブルたちも、戦争末期の日本で消滅。

フレンチブルなど、戦時中には全く記録が見当たりません。

 

帝國ノ犬達-ミカドケンネル

昭和15年のペット商カタログより。太平洋戦争の前年になっても、ブルドッグは高値を維持していました。

 
そして敗戦から5年後のペット雑誌を見たら、既にブルドッグの姿がありました。戦後復興期に畜犬輸入ルートが復活したことで、日本のブルドッグ史は現代へと繋げられたのです(進駐軍兵士がペットとして持ち込んだケースもあった様ですね)。
 

犬 
犬

昭和25年9月12日、ハワイから横濱に到着したモイリーリちゃん。来日の翌月に出産しています。