昔から日本人にも愛されてきたポメラニアン。

しかし、ワレワレは自国のポメラニアン史に関して何も知りません。通説では「ポメラニアンが来日したのは1961年(※昭和36年)」となっていますが、実際は大正時代の飼育記録があるんですよね。

たとえば下の写真とか。


帝國ノ犬達-ポメラニアン

 

こちらは大正2年に撮影された奥田謙次氏の愛犬「リカ」。スピッツにも見えますが、キャプションには「ポメラニアン」とあるので仕方ありません。

撮影から20年後に再利用された結果、この写真はサモエドとも間違われたようです。

 

ある關西の畜犬研究所の出版となつた名犬寫眞は實に其の努力には感服するけれ共、グリフオン・ブラツセル種を單にグリフオン種となし、サモイデ種とポメラニアン種を間違えたりした處は實に研究の幼稚さを世間に發表した様で、眞少し御研究あつたらと思ふ。實際、十數年前の寫眞帖から引き抜いた、結果斯う云ふ事になつたのだらうと思ふが、然し畜犬界も相當進歩發展してゐる事だ。非常なる注意と研究を要することと思ふ。

 

畜犬雑話(昭和5年)より

 

近代日本に「ポメラニアンらしき犬」が現れたのは明治時代に遡ります。

しかもそれは、後に大正天皇となる皇太子・嘉仁親王の愛犬でした。

 

旭川で、殿下(※嘉仁親王)に献上した二匹の犬は、日露戰争前、北カラフト守備隊の露國將校が飼つて居つた純白の名犬であつた。

豆犬とも稱すべき小型の犬で、身長僅かに一尺あまり、毛の長さ八寸、父(横地長幹旭川連隊長)はポーランド産の狆だと申してゐました。

如何なる經路で此犬が旭川に來たのかは不明だが、或日父が市内を散歩していると、奇麗な仔犬が二匹チヨロ〃歩いてゐるのが、犬好きの父の眼にとまり、直ちに其飼主に交渉して手に入れたとの話を聴いて居る。父は此狆を非常に可愛いがり朝夕懐に入れて愛撫した。時には左右の掌上にのせ、世界一の小さな名犬だと戯れてゐた。毛が深いので夏期になると如何にも暑苦しさうに見えるので、頭部を除き、全身の毛を短く刈り込んだので、小さなライオンの姿になり、旭川ではライオン犬だと評判された。

 

福原八郎『横地鬼將軍と動物愛護』より 横地碌夫氏の証言

 

……明治時代にも犬をサマーカットしてたのね。

当時の南樺太エリアにいた長毛で純白の犬といえば、サモエド型カラフト犬が該当します。しかしサモエドと小型犬ではサイズが違いますし、ポーランド産ということはホワイト系のポメラニアンだったのかも。

 

明治41年の陸軍第七師団旭川大演習を天覧した嘉仁皇太子は、上原勇作師団長から「横地連隊長の小犬」の話を聞き、実物を見せて貰いました。その可愛らしさと敏捷さを褒める皇太子に、横地連隊長は「御意に召されましたならば、二頭とも献納申上げたう存じます」と申出ます。

「二匹ともいなくなつたら、お前の子供達が定めし淋しがるであらう。夫れは氣の毒だ」と遠慮する皇太子に、「子供等は愛犬が殿下の御側にあがりまして出世をするのを無上の光榮として非常に喜んで居ります」と答えたため、献上が決定。

「ソーカ、ソレナラ二頭とも東京に持ち歸り、一頭は御母君(※美子皇后なのか柳原愛子なのかは不明)に御土産に献上しやう」ということになったのだとか。

皇室へ献上された「ポーランド産の狆」について、その後の消息は不明です。


ポメラニアン来日の確実な記録は大正時代のもの。我が国にパグ、ボルゾイ、パピヨン、シェパードなどが渡来し始めた時期と重なります。大正2年に撮影された、冒頭の「リカ」もそのうちの一頭でした。
私が言っても信用ゼロなので、大正時代に輸入されていたポメラニアンの記録をどうぞ。

 

犬

●大正11年11月(関東大震災の前年)開催の畜犬共進会リストより。ポメラニアンのピーアン號が出陳されています。

この入賞リストに並ぶコリーは殖産興業政策による緬羊事業の導入、ポインターやセッターは西洋式スポーツ・ハンティングの拡大、ブルドッグやブルテリアは愛玩犬として、既に明治時代から普及していた品種でした。

※同時期に来日したフレンチ・ブルドッグは昭和初期に姿を消し、全国規模で流行が続いたイングリッシュ・ブルドッグ=ブルドッグのイメージが定着しました。

 

続いてご紹介するのは昭和の記録。

1934年(昭和9年)の撮影なので、通説にある1960年代から30年近く遡ります。他の個体も載せていますが、面倒なので「ブログ内検索」にて探してみてください。

帝國ノ犬達-ポメラニアン

 

こうして輸入がはじまったポメラニアンは、「希少ながら有名な愛玩犬」となりました。

戦前の解説は下記のとおり。

 

原産地

獨逸
特徴
四方へ延び廣がつた美しい長毛、些細な物音をも聞洩すまいと鋭く欹てる可憐な耳、小賢しげにきらきらと輝く黒水晶のやうな小さい眼、これこそ袖珍愛玩犬の尤物として大方の稱賛を博してゐるポメラニアンである。もと獨逸の北部に於て、多くは羊の番犬として、至る所に飼育されてゐた三十封度(ポンド)もある大型の犬が、犬種改良家の手にかゝつて、形態と色合とに幾多の人爲的淘汰を施された結果、遂に今日の如き小型の觀賞犬に變化したものだと云ふ。頭の恰好も面差しも耳の立てやうも、凡て狐に似てゐる。毛は二重で、下毛は柔かき和毛、上毛は眞直で光り閃めく長毛である。尤も頭と顔と耳の毛とだけは柔くて短い。頸毛は特に豊富で、長い直毛が多量に房々と肩の上・胸の前を蔽ひ隠してゐる。臀部もコリーの如く飛節まで長毛に包まれてゐる。尾も亦長いすく〃と伸び廣がつた毛で包まれ、それを背上に横へてゐる。毛色は白色、黑色、薄鳶色、濃き鳶色、藍色、海狸色、クリーム色、白色に有色の斑あるもの等がある。
用途
愛玩犬
大きさ
小型の小。體高五~八吋、重さ七封度内外。それ以下小型、以上大型に分けて觀賞される。

 

『新流行犬百種(昭和11年)』より

 

日中戦争前にはポメラニアンのブリーダーも現れますが、昭和10年に警視庁が飼育登録した東京エリアのポメラニアンは僅か20頭のみ(同年に登録された他の小型愛玩犬は、日本テリア5316頭、フォックステリア877頭、狆261頭、コッカースパニエル111頭、スコッチテリア64頭、マルチーズ53頭、ダックスフント15頭、トイプードル7頭、ボストンテリア、グリフォン、スピッツが各1頭。流行が去ったフレンチブルやパグは東京から消滅といった状況でした)。

そのような希少犬ながら愛好家は絶えることなく、昭和12年の日中戦争勃発後も国内繁殖個体が流通し続けます。

 

しかし戦時体制下になると、軍需皮革の調達を急ぐ商工省や戦時食糧難の到来を予測した農林省の官僚が「国家の役に立たない愛玩犬は毛皮にすべき」と主張しはじめます。

それと前後して「贅沢は敵だ」を標語に掲げる国民精神総動員運動がスタート。耐乏生活を強いられた一般市民の間でも「この非常時にペットを飼うのは贅沢である」という同調圧力が高まりました。

昭和16年の太平洋戦争突入以降、日本犬界は更に衰退。ペットの登録数が減少するのと同時に野犬が激増していきます(近隣住民の白眼視に耐えかね、飼育放棄されたペットが相次いだのです)。

そんな中、愛犬家はポメラニアンの飼育を続けました。小型愛玩犬は屋内へ隠しやすく、飼料も少なくて済んだのです。

昭和18年までは飼育記録を確認できるのですが、翌年には飼料不足、ペット毛皮献納運動、本土空襲と最悪の状況へ陥ります。こうなると、個人の努力ではどうすることもできません。

たくさんの犬が犠牲となった戦争末期、ポメラニアンも姿を消してしまいました。

 

●昭和18年11月15日、東京亀戸の犬猫病院で狂犬病予防注射を受けたポメラニアンたち。受診から一年後、厚生省と軍需省(旧商工省)は全国の知事へ畜犬供出を通達。多くのペットが毛皮目的で殺処分されました。

画像のポペー、太郎、次郎、三郎たちは、東京大空襲や畜犬献納運動を生き延びることができたのでしょうか。

 

昭和20年の敗戦を経て、洋犬の輸入が再開するのは昭和25年前後から。ポメラニアンの輸入も早速再開されています。

「1961年(昭和36年)が初輸入」説は、戦後に限った話でも間違いなんですよ。

 

犬
敗戦から4年、昭和24年に輸入されたポメラニアン

 

15年戦争と、それに続く10年間の戦後復興期。

暗く辛い時代の記憶とともに戦前犬界は忘れ去られ、「ポメラニアンの初来日は1961年~」と流布される現状へ至りました。

それを聞いた愛犬家たちも、「ああ、戦前の日本にポメラニアンはいなかったのか」と思考停止してしまいました。

戦前のポメラニアンは、「お前たちは存在しなかった」と切り捨てられたのです。

ポメラニアンを真に愛する者によって、いつか日本のポメラニアン史が再調査されることを願います。