靖国神社の遊就館前広場には、馬、鳩、そしてジャーマン・シェパードを象った銅像が並んでいます。
それぞれの正式名称は「戦没馬慰霊像」「鳩魂塔」「軍犬慰霊像」。日本が軍用動物を使っていた過去を、このような形で記すのも意義がある筈です。

靖国軍犬像で語られる「軍国日本を象徴する犬」「侵略戦争の走狗」が国産の日本犬ではなく、ドイツの牧羊犬であった理由を探る一助にもなるでしょう。

 

勘違いされやすいのですが、戦時中の靖国神社は軍犬の慰霊などしていません。

靖国神社に軍犬像が建立されたのは1992年(平成4年)のこと。このブログで紹介する犬の慰霊碑の中でも、新しい世代に属します。

当然ながら、この碑は戦時史跡ではなく、犬を戦地へ送り込む為のシンボルでもありません。つまりは「戦後の動物慰霊」の範疇であり、「戦時中の軍犬慰霊」とは別物です。
碑文にある「軍犬の偉勲を永久に伝える」には彼らがどのように運用されたのかを知り、「その忠魂を慰めるため」には、静かに手を合わせましょう。

帝國ノ犬達-軍犬慰霊碑4
2009年3月20日の軍犬慰霊祭にて(この日は生憎の雨模様でした)。

 

【靖国神社と犬の関係について】


いっぽうで、「慰霊のあり方はコレでいいのか?」と問い続けることも大切です。靖国軍犬像の下に軍犬の遺骨が埋葬されている訳でもなし、あくまで象徴的なモノですよね。
あの像についてアレコレ論じている人々が、どの犬を対象としているのかもサッパリ分かりません。
「陸軍の犬」という狭量なものなのか、「海軍の犬」や「満州の国益のため働いた、満鉄や華北交通や満州国税関の警備犬群」も含めるのか。

 

 

画像は横須賀海軍軍需部の軍用犬。当然ながら、日本海軍も犬を配備していました(日本シェパード犬協会の浅田甚右衛門理事は、東京第一陸軍病院へ失明軍人誘導犬ボド号を寄贈した人物でもあります)。

 

地域はどうでしょう?慰霊の対象は「日本列島から出征した犬」限定ですか?だとすると、我が国は「外地(南樺太、朝鮮半島、台湾など)から出征した犬」や「満洲国政府や満鉄の犬」を別途慰霊する必要があります。

そもそも、靖国軍犬像を建立したのは関東軍出身者。ルーツである満州国が消滅した以上、軍犬慰霊の責任も日本が引き継ぐべきなのです。

しかし「日本国」だと責任の所在が曖昧になるため、「とりあえず靖国神社」という流れで落着したのでしょう。

 

 

幟旗に見送られ、満州へと出征する日本陸軍の犬。……ではなく、満州鉄路総局が日本で購買調達した鉄道警備犬の写真です。

「日本から出征した犬」は、陸軍の犬だけではありません。

 

帝國ノ犬達-朝鮮 

KV朝鮮支部の第七回展覧会風景(昭和14年)。内地のみならず南樺太、朝鮮半島、台湾にも地域犬界が存在し、そこからも多数の軍犬が出征しました。

日本犬界は地域犬界の集合体なので、「国家と犬」を語る前に「地域と犬」を知る必要があります。

 

靖国神社と犬が結びつくのは戦後になってから。靖国神社宮司の筑波藤麿は、戦時を通して日本シェパード犬協会(JSV)の会長をつとめていました。

もともと筑波藤麿は熱烈な愛犬家にして大の軍隊嫌い。

「合併を強要してくる陸軍省および帝国軍用犬協会(KV)への対抗策として、皇族出身の筑波侯爵をJSVのトップに据えた」というのがJSV会長就任の流れでした。そして筑波会長はお飾りの前宮様ではなく、防波堤となってJSVを護り抜きます。

リベラル派のJSVが靖国神社軍犬慰霊祭を支えてきたのは、そのような経緯もあったのでしょう。

敗戦によってKVが消滅した後も、筑波会長は戦後シェパード界復興に関わり続けました。

※ただの民間愛犬団体が皇族を招聘できた理由は、KV名誉総裁の久邇宮朝融王(もと日本シェパード倶楽部メンバー)が仲介してくれたからです。激しく対立したKVとJSVでしたが、トップ同士は皇族同士のよしみで仲が良いという奇妙な構図にありました。

 

帝國ノ犬達-靖国神社 

戦前の靖国神社にて、境内をうろつくワンコ

 

軍犬の慰霊対象は、陸軍犬や海軍犬や外地犬界や満州国犬界にまで及びます。

……そこまで細かく言われても困るので、「軍用犬という漠然としたイメージ」で妥協するしかありません。静かに冥福を祈るには、それでよいのでしょう。
問題は、声高に軍犬慰霊を論じている人々です。論じる以上は一歩踏み込んだ調査をしているかと思ったら、右も左も「漠然としたイメージ」で思考停止したまま、美化・罵倒・カワイソウという感想文を叫び続けております。

近代日本のエリアを地図上で俯瞰できないゆえ、犬の近代史も島国視点から脱却できない。外地犬界や満州国犬界に至っては存在すら認識できない。

満州国犬界を知らないまま、満州国をルーツとする靖国軍犬慰霊碑を論じる姿は滑稽そのものです。

 

この像が靖国神社に存在する以上、歴史論争の対象となるのは仕方ありません。しかしその前に、像の背景について少しは調べなさいと。

いくら小難しい文章で飾り立てようと、満州軍用犬協会や満州第501部隊を無視した靖国軍犬像論に価値はありません。

慰霊と歴史観の区分が曖昧な靖国神社において、軍犬像をテーマに戦時犬界を語るのは事程左様に面倒なのです。安易に関わらない方が無難でしょう。

犬
「軍用犬の慰霊碑を建てる民族は日本人だけ」とかいう薄っぺらな作り話も、そろそろ止めたら如何でしょうか(ハーツデール・ペット・セメタリーの第一次世界大戦軍犬記念碑。ちなみに現存しています)。

【軍犬慰霊像建立の経緯】

数ある「戦後の軍用動物慰霊碑」のうち、逗子の動物愛護慰霊之碑、靖国神社及び新潟護国神社の軍犬慰霊碑は、もと関東軍の軍犬育成所員らが戦後に奉納したものです。
その総数は多かった日本の軍用犬ですが、「戦場で活躍する日本の軍犬部隊」など妄想の産物。実際は、小規模な「軍犬班」が分散配置されるレベルに終始しています。
但し、日本陸軍には「軍用犬部隊」と呼べる規模の組織が幾つか存在しました。
ひとつが、千葉県に設置された「陸軍歩兵学校軍犬育成所」。
もうひとつが、満洲国の遼陽にあった「関東軍軍犬育成所(平時通称号は満洲第501部隊。終戦時は満洲第13990部隊)」。
いずれも教育・研究を目的とした機関であり、育成所の犬が直接戦闘に参加する事はありません。

 

帝國ノ犬達-歩兵学校軍犬育成所 

陸軍歩兵学校軍犬育成所玄関前で記念撮影する軍犬兵たち(千葉県にて)

 

帝國ノ犬達-関東軍軍犬育成所 

関東軍軍犬育成所で教育中の軍犬兵たち(遼陽にて)


これらの軍犬育成所は、陸軍各部隊から派遣された軍犬取扱兵に基礎教育を施す役目も担っています。両施設はそれぞれ独自の教育方針や訓練規範を掲げていました。
ドイツを範とする歩校育成所は伝令犬重視。
大陸での戦訓を採りいれた501部隊は警戒犬重視。
また、大正時代から軍犬研究を支援し続けた歩兵学校に対し、関東軍は軍犬育成所をお荷物扱いしていたり(一時は廃止も検討)と、軍犬に対する評価の差も見られました。

 

 

日本人の想像を絶する酷寒の満州において、関東軍自慢のハイテク通信機器は凍結で次々とダウン。しかしローテクの伝令犬たちは雪の中を駈け回り、通信の維持に貢献しました。

 

そして昭和20年、歩兵学校軍犬育成所は空襲で焼失。関東軍軍犬育成所もソ連軍侵攻によって放棄されます。直後に八路軍が進駐し、収容されていた軍犬達は中国兵が接収していきました。
これらが人民解放軍軍犬のルーツとなったのかどうかは不明。戦前から南京交輜学校特種通信隊(伝書鳩・伝令犬チーム)を運用していた蒋介石軍と違い、共産軍はこの分野で大きく出遅れていましたから。

 

帝國ノ犬達-黄瀛

日本陸軍歩兵学校軍犬育成所と蒋介石軍特種通信隊(中国軍の軍鳩・軍犬部隊)による、最初で最後となった日中軍用犬関係者の交流会風景。同部隊の指揮官は、日本陸軍士官学校出身で日本シェパード倶楽部会員だった黄瀛氏(我が国では詩人として著名な人物です)がつとめていました。

昭和12年の日本軍南京侵攻により、特種通信隊は壊滅。黄瀛も漢奸(親日派)として迫害されました。


敗戦直後、501部隊の軍人は海城へ移動後に武装解除され、シベリア抑留となります。いっぽう、501部隊から置き去りにされた軍属(民間人所員)たちは、駐屯する中国軍やソ連軍と交渉を重ねながら帰国までの日々を過ごしました。
昭和23年になってシベリアから帰国した501部隊出身者(4名が未帰還となりました)は、新潟県に事務所を構えて満州に消えた軍犬達を悼むための慰霊碑設置運動を開始。
彼らが最初に目を向けたのは、那智・金剛・ジュリーが眠る逗子の地でした。

 

軍用犬忠魂碑

遼陽軍犬忠魂碑 。もともと、軍犬慰霊碑は靖国神社ではなく満州国の遼陽に建立されていました。


日本で最も有名な軍犬といえば、「那智」と「金剛」ですね。
昭和6年の満州事変で戦死したこの姉弟は、昭和10年に小学国語読本の教材となったことで知られています。
奉天独立守備歩兵第二大隊の軍犬「那智」「金剛」「メリー」。そして三頭の戦死後に補充された「ジュリー」は、歩兵学校軍用犬研究班出身である板倉至大尉の愛犬でした。
同年11月27日に板倉大尉が戦死した後、ジュリーは大尉の遺族と共に日本へ渡り、翌年2月に逗子で病死します。
その死を哀れんだ逗子小学校の生徒たちは、ジュリーの墓を建てようと募金活動を開始。これに賛同する人々の寄付金により、「忠犬之碑」が建立されました。
戦死した那智・金剛の遺骨(とされるもの)も独立守備隊から逗子へ送られ、ジュリーと共に埋葬されます。

因みに、板倉大尉の愛犬四頭のうち日本から出征したのはメリーだけ。中国山東省生れの那智・金剛・ジュリーは、異国日本の地で眠ることとなりました。

「当時の中国にシェパードがいたのか?」と思われるかもしれませんが、実際は国際都市上海とドイツ租借地青島を有する、東洋におけるシェパードの玄関口。日本は後発組です。

 

犬 

20世紀初頭、山東省青島で撮影されたドイツ人警官と警察犬。アントショヴィッツ巡査が移入した青島のシェパードは警察犬の系統で、戦前の日本シェパード界では「青犬」「青島系」と呼ばれました。

これら青犬は大正3年の青島攻略戦を機に来日、日本シェパード界の揺籃期を支えます(昭和10年度の小学国語読本に掲載された「那智」「金剛」姉弟も青犬です)。

しかしドイツ直系で箔付けしたいシェパード関係者は、ドイツ直輸入個体が増えると共に青島犬界の否定に走りました。昭和12年の青島在留邦人一斉退去事件を機に、その記録すら抹消されてしまいます。

自ら記憶喪失へ陥った結果、青島攻略戦を起点とする軍事視点の日本シェパード史が生れたワケです。

 

逗子忠犬像は、もともと軍犬ジュリーを弔うためのもの。

しかし、この碑は戦時を通じて軍犬報国運動のシンボルと化した挙句、戦争末期の金属供出で撤去されてしまいました。那智・金剛への称賛やジュリーへの哀悼など口先だけで、結局はリサイクル資源扱い。
「逗子忠犬像」は、戦時の軍犬慰霊を悪い意味で象徴するものなのでしょう。

ジュリー1
陸軍省恩賞課によるジュリー慰霊像「忠犬之碑」除幕式風景(逗子延命寺にて)。
特に戦功を挙げた訳でもないジュリーのため、陸軍から表彰までされる騒ぎとなりました。

哀れなジュリー達のため、元関東軍軍犬育成所員は慰霊碑再建運動に取り組みます。
那智・金剛・ジュリーと関東軍軍犬育成所の接点ですが、実は殆んどありません。板倉大尉のかつての上官が同育成所の所長だった、程度の繋がりですか。そもそも、501部隊が設立されたのは彼らの死から四年後ですし。

そして昭和33年、「動物愛護慰霊之碑」が逗子に建立されました。戦意高揚に利用された「軍犬の墓」は、ペットの共同慰霊碑へ生まれ変わったのです。
現在、戦後の逗子で生涯を終えたペットたちは、ジュリーと共にこの地で眠っています。
逗子の慰霊碑再建から30数年後の平成4年、靖国神社と新潟護国神社にも軍犬慰霊碑が建立されました。

【軍用動物の慰霊とは】

軍馬、軍犬、軍鳩といった軍用動物を大規模運用していた日本軍。戦時中、内地・外地・満洲には、それらの慰霊碑や墓碑が数多く存在しました。
戦地に散った愛馬や愛犬を弔うもの。
動物達の活躍を讃え、更に戦地へ送り込む為のもの。
兵器実験の犠牲となった動物を慰めるもの。
設置の目的も様々です。
当時の在日外国人からは「慰霊碑を建てるカネがあるなら、生きている軍用動物の待遇改善に使え」という尤もな意見も出されていました。
しかし、軍用動物の犠牲が続出していた戦時下のこと。そのような理屈だけでは片づけられない事情があったのでしょう。日本人道會や動物愛護會らが牽引してきた日本の動物愛護運動も、やがて軍部が後押しする軍用動物愛護へと姿を変えていきました。
※この事実を「無かったこと」にしたがる動物愛護家もいますが、むしろ日本動物愛護史の一面として捉えるべきです。

軍用動物の慰霊は、愛玩動物の慰霊とは違います。国費で調達された軍馬や軍犬は、日本軍が運用管理する所有物。当然ながら兵士のペットではありません。
だから、その慰霊行事には「国家の意向」が介在しました。
動物の犠牲を悼むと同時に、動物を戦地へ送り続ける事への免罪符的な意味もあったのでしょう。
体裁上、戦死した動物は丁重に弔われ、不足した分は補充される。その調達~管理の流れの中で、「戦時の軍用動物慰霊」が存在したのです。

馬 

進軍する日本の軍馬たち。騎兵隊の「乗馬」と輸送隊の「駄馬」の違いを象徴する写真です(ロバも混じってますけど)。


さて。
軍用動物の幅広い用途を考えると、その慰霊方法も様々です。
……今更ですが、当ブログでは「動物兵器」ではなく、日本軍の正式名称である「軍用動物」を用いますね。
日本軍が規定する軍用動物は、馬・鳩・犬・象・驢馬・騾馬・馴鹿・駱駝。その他、食用の豚や牛や家禽、実験用の鼠や兎や猿も「広義の軍用動物」でした。

軍用動物の分野は、戦闘・通信・運搬・警戒・捜索・実験・食用・皮革など広範に亘ります。軍馬を例に挙げると、騎兵隊の「乗馬」は戦闘用(動物兵器)ですが、輜重隊の「駄馬」や「輓馬」は荷役用、陸軍獣医学校の馬は実験用、軍馬補充部の育成馬は訓練すらされません。
それら多様な任務を「動物兵器」という言葉で一括りにする事は出来ないのです。

日本軍犬も同じこと。
対敵任務にあたる警戒犬と、支援任務にあたる伝令犬や負傷兵捜索犬。管理上の部隊犬・予備犬・育成所犬。その種別は多岐に亘ります。
それら「戦時の軍用動物慰霊」には、戦地に散った動物の慰霊もあれば、銃後で働いた動物、兵器実験や兵食用に使われた家畜の慰霊もありました。言い出すと切りがないので、「戦後の軍用動物慰霊」では馬・犬・鳩の像を代表として設置しているのでしょう。
戦前のジュリー像は、前述のとおり軍犬報國運動にも利用されました。
戦後の靖国軍犬像は、純粋に「慰霊」を目的とする碑ですね。
しかし。例によって例の如く、その辺の区別ができない人々によって、軍犬像も靖国論争の巻き添えを食うことが少なくありません。

【捻じ曲げられた軍犬慰霊】

愛犬家には理解し難いことですが、世の中には犬に戦争問題を押し付けたがる人々が存在します。
「日本国の為に犬は戦ったのだ!」とか
「日本軍犬は戦争犯罪に加担した!」などと
上っ面のイメージだけでトンチンカンな主張をしている手合いがソレです。

酷い部類になると、秋田犬とシェパードを区別できないのか「忠犬ハチ公はファシズムに利用された」などという妄想を垂れ流す手合いも珍しくありません(同時期にスタートした文部省の日本犬保存運動と陸軍省の軍犬報国運動を混同しているのかも)。

どうしてもイデオロギーを絡めたければ、軍犬史は軍国主義、秋田犬史は国粋主義の文脈で語りましょう。

それらを混同するからハナシが混乱するのです。


戦争や国家の概念どころか、自分の置かれた状況すら動物には理解できません。自ら志願して入営し、戦地へ出征した軍用動物はいないのです。

犬は犬でしかないのに、軍犬が働く原動力は「愛国心」や「戦争の大義」だったと本気で思っているのでしょうか?

日本陸軍の軍犬教範に明記されているとおり、それは軍犬兵に対する「思慕の情」でした。要するに、主人の命令通り働いただけの使役動物。

戦争の主体はあくまで人間です。小学生じゃあるまいし、動物を擬人化して戦争を語る愚も大概にしてください。

帝國ノ犬達-軍犬報国 

陸軍省が大量のシェパードを戦場へ送り込んでいた頃、軍需原皮確保を急ぐ商工省や戦時食糧難を予測した農林省は、犬革の戦時統制を画策。「贅沢は敵だ!」を標語に掲げる国民精神総動員運動によって、耐乏生活を強いられる一般市民も隣近所の愛犬家を非国民と罵りました。

戦争遂行のため、犬を好き勝手に利用したのは人間です。状況を理解できない動物へ責任転嫁するのは止めましょう。

話の前提として。
戦地へ赴いた犬の働きを評価したり、戦争に犬を駆り出した愚行を批判するのは真っ当な態度です。
正反対の立場であっても、犬達の犠牲を悼む心があるからこその称賛や怒りなのでしょう。

それとは似て異なるのが、「あの戦争」への美化や批判の道具として軍犬像を利用する人々。
1.歴史批評のネタとして靖国軍犬像を取り上げたものの

2.日本犬界史の知識が無いゆえ速攻でネタ切れになって

3.犬そっちのけでオノレの御大層な歴史観やポエムや感想文を開陳し始める

……という様式美を毎年8月15日に披露している右や左の人たちのことです。

犬に興味が無いなら、最初から犬の話をしなければよいのですよ。

まあ、日本軍犬史については他所でも論じられます。
靖国軍犬像に関して一番大切なのは、「戦争の犠牲となった犬の死を悼む」という設立目的でしょう。ソレを無視してナニをやってんだか。
か弱き者への憐憫の情を持たない連中が叫ぶ「愛国」だの「反戦」だのには、賛同したくもありません。

世の愛犬家は覚えておきましょう。
「日本国の為に犬も戦ったのだ!」と美化したり
「殺人犬を祀るなんて許さん!」と批判する人々のご同類が、
戦争の時代に「犬を戰地へ送れ!」とか
「無駄飯を食むペットは毛皮にしろ!」と声高に喚いていたのです。
いつの日か、それが繰り返されるかもしれません。

慰霊碑

【靖国の軍犬慰霊祭】

それでは日本軍犬に関するお話を。
軍犬慰霊像の台座にある「軍犬慰霊碑建立由来」と書かれたプレートには、以下のような碑文が刻まれています。

 

昭和六年(一九三一年)九月満州事変勃発以降、同二十年八月大東亜
戦争終結までの間、シェパードを主とする軍犬はわが将兵の忠実な戦友
として第一線で活躍し、その大半はあるいは敵弾に斃れ、あるいは傷病に
死し、終戦時生存していたものも遂に一頭すら故国に還ることがなかった。
この軍犬の偉勲を永久に伝え、その忠魂を慰めるため有志相はかり
広く浄財を募りこの像を建立した

 

平成四年三月二十日 動物愛護の日

 

これを鵜呑みにした人が「戦地から帰った軍馬や軍犬は一頭もいない」などと解説しているのを見かけますよね。
碑文に書かれてあるのは「終戦時生存していた」軍犬が帰国できなかったという意味。
実際には、15年に亘る戦争の中で何頭もの軍犬が戦地から帰国していました。広島県の似島には、帰国軍用動物の検疫所も設置されていましたし。

 

犬 

第二次上海事変に従軍し、各地を転戦。昭和14年に故郷仙台の飼主宅へ戻された軍犬フリーダ。凱旋部隊と共に帰国した軍犬は何頭もいました。

彼らについて碌に調べもせず、「一頭も帰国していない」と片付けるのは簡単でしょう。日本軍犬史を悲劇のストーリーに仕立てる上で、帰国軍犬の存在は都合が悪いのかもしれません。
だからといって「お前たちは存在しなかった」と言い放つ態度は酷過ぎます。


ただし、敗戦時に1頭も帰国できなかったのは事実。
戦地に消えた犬達の行方は、今となっては誰にもわからないのです。

軍犬慰霊碑3
いつもは静かな境内に人が溢れかえる8月15日。ドッグフードや水が供えられていました。

大晦日
こちらはお正月の深夜3時頃。この期間、軍犬像の前は24時間おでんの屋台と食事コーナーになります。
年越しで上野から明治神宮へ歩く途中、眠くなったのでちょっと休憩。

軍犬像に注目が集まるのは8月15日だけですが、本当の軍犬慰霊の日は3月20日(動物愛護の日)。
靖国神社の軍犬慰霊祭も、動物愛護の日に開催されています。
※2012年から4月の軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭に変更となりました。

軍犬慰霊祭

320

軍犬慰霊祭

軍犬慰霊祭
式典会場設営の様子

軍馬

軍馬

軍鳩

軍鳩
軍犬慰霊祭当日、軍鳩像にはトウモロコシ、軍馬像にはニンジンも供えられます。
参列されているのは畜犬団体関係者、偕行社関係者、銅像製作者など。

軍犬慰霊祭
多くの人が像に手を合わせる8月15日と違って、軍犬慰霊祭に関心を向ける人は殆んどいません。

軍犬慰霊祭

軍犬慰霊祭

軍犬慰霊祭
以上、2007年3月20日開催の軍犬慰霊祭の様子。

何年か前の軍犬慰霊祭では、カナダから来たという老夫婦の姿がありました(東京観光の途中、たまたま靖国神社へ立ち寄ったとのこと)。

私も並んで座っていましたが、慰霊祭に関心を示す日本人は皆無。毎年8月15日に軍犬像を熱く語っている人々は、その姿すら見せません。

「彼らは犬の像の前で何を祈っているのか?」と熱心に質問しながら、そのご夫婦だけが最後まで見学されていました。
異なる国、異なる宗教から見た軍犬慰霊祭はどのように感じられたのでしょう?