戦後日本犬への愛着は日ごとに高くかつひろがつてきている。長い戦争の前後の犬とはなれた生活の反動もあろう。明日もはかりしれない不安感、有史このかた初めての日本全土への外國軍隊進駐管理下の民族意識覚醒のあらわれとしてなど―。
そのほか、原因はいくつも考えられるが、われわれ日本犬愛好者にとつて、同好者をふやすいい機會である。と同時に、この高潮期に日本犬の正しい認識と固定化への適當な指針がとられないならば、日本犬百年の将来にきわめて悪い結果を残すことになるであろう。

 

中城龍雄『日本犬の體高について(昭和24年)』より

 

犬

消滅寸前だった紀州犬も、関係者の努力で戦争を生き延びます。昭和23年


【敗戦と日本犬】

 

昭和20年8月15日、日本は敗北。以降もソ連軍との戦闘は続き、内地の惨状を対岸の火事と眺めていた満洲・南樺太・千島犬界も崩壊します。戦時中に外地や満洲へ渡った日本犬たちの運命は、今となっては誰にもわかりません。

「広義の日本犬」であったカラフト犬、珍島犬、高山犬などは、ソ連領となったサハリンや解放後の韓国・台湾の在来犬として扱われるようになりました。

 

敗戦後の内地も大混乱に陥っていました。

ペット毛皮献納運動・空襲・食料難によって犬が激減したことで、戦争末期の狂犬病発生は733頭(昭和19年)から94頭(昭和20年)へ、敗戦直後には24頭にまで抑制されました。しかし、敗戦の翌年から頭数が回復すると共に家畜伝染病が猛威を振るい始めます。

防疫体制が崩壊した中、狂犬病感染犬は爆発的に増加。ジステンパーも大流行し、せっかく戦争を生き延びた日本犬たちは次々と斃れていきました。

その損失を取り返すかのように、昭和23年から日本犬保護活動は再起動します。「東アジアでの覇権」などと背伸びせずに「日本列島エリアでの在来犬復興」を目指せばよいのですから、今回は方針も簡潔明瞭でした(島国視点の日本犬論という悪癖も生んでしまうのですが)。

曾て戰前には同好の人士で組織され、雑誌「日本犬」をも發行して其の保存と發展につくした日本犬保存會は、戰時中は一時屏息の状態にあつたが、最近有志者の間に復活の議が進められ、去三月末、中央地方の代表者が三十名も合同。

協議の結果、東大農學部教授鏑木外岐雄博士(戰前同會の副會長)を會長に推し、雑誌日本犬を復刊するになつたと云々。

 

『小鳥と犬(昭和23年)』より


秋田犬保存会に続き、昭和23年には日本犬保存会も活動を再開。疎開・出征していた愛犬家たちが戻ってくると、壊滅状態だった日本犬界も復興期へと移行します。

血の滲むような努力によって日本犬消滅の危機は回避され、戦時犬界から戦後犬界への橋渡しは成功しました。それは多大な犠牲の上で得た教訓であり、輝かしい功績でもあります。

 

しかし平和な時代が訪れると、戦時の忌むべき記憶を抹消しようとする手合いも現れました。

「ペットの毛皮供出など無かった。その証拠に日本犬が生き残っているではないか」「日本人はそんな蛮行などしない。在日外国人の仕業だ」などという恥知らずな主張。それは、日本犬保存運動の歴史に唾するのと同じです。
「日本文化を大切にしろ」と叫ぶ保守派が、日本犬を護り抜いた人々を否定する。そんな人間の歴史観を誰が信用するんですかね。
無知と無恥を晒す前に、秋田犬保存会の活動再開報告でも読まれたら如何でしょうか?
 

戦争のために万事休止の状態であり、各犬も皮となり食肉となつたが、其の中にもあつても吾々は種族の保存に苦斗を続けて来た。終戦後も食糧難は解決することなく、此れが飼育には並々ならぬ苦心にさらされて来た。間もなく進駐軍に「秋田ドツグ」として愛好され、その要望は日に日に激増し、日米親善のため我々の努力は保存のみならず、蕃殖につとめそれが直接に祖国発展の一翼として、クローズ・アツプされつつあるのです。
昭和二十二年十一月には第十一回(終戦第一回)の展示会を開催し、文部省に優良犬牌の申請をし、又第十二回展示会を昨年四月二十九日に開催して、出陳犬六十三頭に及び盛会を極め、本春、又第十三回全国展覧会をドツグタウン(大舘町の進駐軍の称)に於て開催し、秋田犬の質の向上と正しい認識を普及し、それが振興発達に努力致したいと存じます。又、近々中、大舘駅前に忠犬ハチ公の銅像の再建を図り、五月下旬に総会を開催して、新役員によって、大活躍をいたしたいとおもうのであります。会員の秋田犬愛好家が本会のために、積極的に御協力あらせられんことを、希う次第であります。


秋田犬保存会会長 平泉栄吉(昭和24年)

 

想へば昭和初年の壊滅寸前の状態から秋田犬再建の声と共に、年々向上の道を辿り、戦前相當のレベル迄いつた我が秋田犬も、あの戦争によつて大打撃を蒙つた。正に第二の危機で、よくあの大型の犬が今日の基礎を築き上げ残つてくれたと思ひ、世の愛犬家の方々へ深く感謝致すものです。實際深刻なる食糧難と、世間への気兼ねから飼育不可能であつた。その残つた極く少数の犬から、三、四年間にみる〃中に往年に劣らぬ程充實せしは、真の愛犬家の方々と共に、終戦直後秋田犬を愛好し、復興の時期を早からしめた進駐軍の好意ある援助に依るところ多大であつた。そして秋田犬保存會のいつ早き活發なる活動による所以でもあつた。
戦後数回展覧會、観賞會が催され、いづれも毎年〃飛躍的に向上して頼もしかつた。二十三年春の展覧會の如きは幾らも出陳しないだらうと豫想したが、八十餘頭も参加し盛大であつた。質的にも平均して粒揃いで、心配の程ではなく、逆に戦前の天覧會に何等劣らず優れた點もあつたと云つてよい位だつた。二十四年春の展覧會もよかつたが、質的に前年度より劣る感があつた。その原因の一つとして、戦後猛烈にヂステンパーが流行し、次々と優秀仔犬、若犬を倒してしまつたことによるかも知れぬ。


平泉良之助『秋田犬雑感(昭和24年)』より

 

秋田犬関係者だけではなく、多くの日本犬愛好家も同じ気持ちであったろうと思います。

組織的な日本犬保存運動の再興は、戦時体制下で孤立していた愛犬家にとって希望の光となりました。

某新聞が「純粋な日本犬は戦争で絶滅した」などとトバシ記事を載せた際、激怒した日本犬保存会が反論したことで「まだ日本犬が生き残っていたのか!」と人々を喜ばせます。

 

昨年末一、二の報道により、天然記念物日本犬滅亡し、全國に早や三、四種の純粋日本犬があるのみと、誤れる掲載があつた。このセンセーシヨナルな報道を、事實として受取り、日本犬だと説明しても、いや純粋日本犬はもう居らぬさうだと思ひ込んでゐる一部の人があると聞く。實情に疎い方には當然であると考へられる。
この報道の取扱方の問題は暫く措くとしても、日本犬の保存事業に専心する本會としては遺憾であり、日本犬の為にも黙過し難く、この點を明かにしておきたいと思ふ。この誤報の大きな原因は、天然記念物の指定と、天然記念物の優良章制度の混同によるものである。このことは一般日本犬愛好家の中でも多く誤認されつつあるのは、残念なことである。


日本犬保存會 渡邊肇『天然記念物日本犬の誤報に付て(昭和24年)』より

 

前回解説したとおり、文部省は純日本犬を天然記念物に指定。昭和12年より、特に優れた個体に対し「優良日本犬章」を付与するようになります。

 

何分犬は生物である以上、一定の寿命がある。今度の不幸なる戦争中は、日本犬の保存、否飼育さへ困難な時代に逢著した。本會事業も一時やむなく休の事態となつた。これとともに、本制度による下付申請も同様となる。昨年春迄には過去の受賞牌犬も老い、或ひは死亡し、今は残存するもの全國に幾頭と云ふ状態は、これこそ事實である。これが昨年來の誤報の原因であつた。この點重複ながら、今一度明瞭に申すなれば、天然記念物指定日本犬が滅亡したるにあらず、天然記念物指定日本犬中の、天然記念物の優良日本犬章受賞牌犬が死亡したと云ふべきである。文部省の日本犬保存奨励制度の誤解より、折角の保存目的を一時的にも世間を惑すやうな報道は、少なくとも我々に取つては残念であつた(〃)

 

つまり
「天然記念物優良日本犬章を付与された個体」が戦時中に死滅しただけであり
「天然記念物としての日本犬」という存在自体は維持されていた訳ですね。ややこしい。

 

生き残った和犬と共に、偽造された和犬も再登場しました。

十五年戦争と戦後復興の混乱による忘却は、戦後犬界に偽りの記憶を生み出してしまいます。最悪の遺産となったのが、戦前に騒動となったチャウチャウ交雑犬(いわゆる三河雑犬)。

全国へ拡散した三河雑犬の子孫には、戦時・戦後の混乱中に「在来の純粋和犬」へ変身してしまった系統もありました。戦前犬界の地域間ネットワークも知らず、三河犬騒動も知らない戦後世代が、「うちの地元には和犬が生き残っている=在来の土着犬に違いない」と早合点したのでしょう。

「我が県には戦前から地犬が生き残っている!郷土の誇りだ!」と浮かれる戦後世代に対し、「K県で地犬扱いされている〇〇犬は、戦前に持ち込まれた三河雑犬だぜ」と当時の経緯を知る戦前世代がツッコミを入れる悲喜劇も展開されました(戦後期のペット誌には、そういった暴露話が載っていたりします)。

文部省や日本犬保存会の綿密な調査にも引っかからず、戦後になって突然現れた地犬の話にはひとまず警戒すべきです。ボウフラのように湧いてきたんですかね、その「在來」犬は?

 

【戦時批判と日本犬】

 

明るい話ばかりではなく、戦時への総括も進められました。

国粋主義に乗じた戦時犬界への批判は、敗戦から1年経たずに噴出し始めます。その中心は日本シェパード犬登録協会から帝国軍用犬協会(および後継の警察犬協会)へ対するものでしたが、復興に必死な日本犬団体は批判合戦どころではありませんでした。
そして日本犬に関する戦時批判は、日保ではなく教育界から始まります。
残念ながら、こちらは「戦時畜犬界の総括」ではありません。軍国教育批判に、日本犬も巻き込まれてしまったのです。
彼らのイケニエにされたのが、またも忠犬ハチ公でした。昭和21年7月、民主主義教育研究会に掲載された一文をどうぞ。

 

日本人は、明治時代の國富の全部を失ひ、その上、徳川幕府時代よりも、遥かに悲惨な境遇に投げ込まれたにも拘はらず、國を挙げて天皇を護持し、それを栄誉の基としたり國の象徴だとするのだから、常識的な封建主義に非ずして、寧ろ家畜主義と云はざるを得ない。その意味に於て、八公は日本人の模範である。日本人は八公よりは利慾に迷ひ、不純なところがあるが、八公にはそれがない。恐らく八公も、飼主が「ウシー」と一聲けしかけたならば、生命を顧ずに強敵に向つて突進したであらう。楠公の銅像と八公の石像とは、精神主義日本の双璧と云ふべきである。
まさき・ひろし『忠犬八公と日本人(昭和21年)』より

 

かつて軍国教育に犬を用いたことへの反省……からではなく、戦後の教育者は「敗北してなお天皇制に盲従する愚かな日本国民」を忠犬ハチ公になぞらえたのです。
戦前のアンチ日本犬保存会派による誹謗中傷とは違い、戦後は思想闘争の道具にされたのですね。

民主主義教育への転換が生み出した、「恩ヲ忘レルナ=軍国教育」批判論。これが伝言ゲームの始まりとなり、「恩ヲ忘レルナ」すら読まずにハチ公批判をやらかす思考停止が次世代へと継承されていきます。

ハチ公批判派に戦後民主主義という「正義の味方」が加わったことで、日本犬保存会なども反論を躊躇うようになったのかもしれません。
 

犬の歴史を「戦時批判の道具」に利用した左派や、黒歴史からの現実逃避で妄言珍説を開陳する右派によって、後世へのテキストとなるべき日本犬史はアジテーションやポエムや感想文の発表会へ貶められてしまいました。

犬界側も狭い世界での内輪ウケに興じ、せいぜい会員向けの組織沿革史をつくってオシマイ。対外的な情報発信は歴史家やジャーナリストに丸投げしてきました。

しかしネットが普及した現在、右や左のセンセイがたへ市井の愛犬家側が反論できる(しかも、時系列で整理された圧倒的な量の史料を武器に)環境も整いました。大切な日本犬の歴史を、思想ごっこの道具扱いされる現状に耐える必要はありません。
反論はマスコミに任せよう、とかいう他力本願も止めましょう。戦時中に「畜犬撲滅」を煽った過去を総括しない以上、彼らも同じ穴のムジナなんですよ(連帯責任的な言いがかりに近いですが)。
愛犬家がなすべきことは、日本の犬が歩んできた足跡をありのままに記録し、次の世代へ伝えること。
兎に角これ以上、くだらぬ目的に日本犬を利用しないで欲しいのです。散々な目に遭わせてきた彼らへの、それが日本人としての贖罪の形なのです。


犬

 
我々が愛する日本犬は、ほんとうに素晴らしい犬です。
次世代へ向けて護り続けるべき、日本の宝です。
愛すればこそ、日本犬について一家言ある人も大勢いるでしょう。今さら日本犬保存会vs.日本犬協会みたいな泥仕合を再現されても困るんですけど、多様性を是として殴り合うするのが真っ当な日本犬論。
ご大層な日本犬論を開陳する前に、まずは自分が住む地域の日本犬史を発掘してみましょう。
日本犬の歴史とは、一万年に亘る種々雑多な出来事の集合体です。それは地味ながらも波乱万丈であり、47都道府県それぞれの「犬の郷土史」があります。現存の品種だけではなく、歴史の狭間で消えていった地犬たちに思いを馳せる想像力も必要です。
日本犬愛好家は、下記の文を100回朗読してから各自の信じる「国犬への途」を歩んでください。
 
永い忘却と遺棄から拾ひ出された珠玉ではあるが、それ丈けにシミもあれば瑕もある。もつと磨きが必要なのだ。それも汚れない手で、心から愛するものゝ力で。來しかたは平な歩みともいへなかつたが、まだ〃行手には幾重にも荊の道が横はつてゐる。密林も濠もそして陥穽もある。だが倦まず撓まず挫折せず、正道をきり拓きつゝ進まう。
純真な生物を相手とする世界が醜い戰場であつてはならない。われ等は野武士のあつまりではない。恰度その生物の個性美のみを反映した純真なグループであつて欲しい。
 

社團法人日本犬保存會(昭和11年)