歩兵學校デハ、毎年各聯隊カラ派遣セラレル教導隊ノ兵卒ヲ以テ犬ノ飼養主トスル關係上、犬ノ飼主ハ一年毎ニ代ルノデ、犬好キノ兵卒ヲ選定シテ居ルガ、人ト犬トノ親和ニハ少ナカラズ苦心ヲ重ネテ居ル。

訓練ノ完成シタ犬ガ新シイ兵卒ノ指揮ノ下ニ各種演習ヲ一通實施シ得ル様ニナル迄ニハ二ヶ月位ノ日子ヲ必要トシ、此間新ナル兵卒ニハ飼與ヘバ勿論、手入運動ハ其子ニ對スル如キ慈愛ヲ以テスル様ニ教ヘテ居ル。

 

陸軍歩兵学校(昭和3年)


帝國ノ犬達-歩校
軍用犬研究がスタートしてから3年目、陸軍歩兵学校教導連隊第3中隊内務班と並ぶ軍用犬(大正10年撮影)

 

【日本軍犬史の惨状】

 

我が国では、軍用犬の歴史がミリタリー雑誌で解説されるという謎の現象が見られます。

この「ミリタリー視点の軍用犬史」こそが、間違いの原因なのです。軍犬界は巨大な日本犬界の枝葉に過ぎず、日本犬界史(47都道府県および外地や満州国を含む)の知識もなしに日本軍犬史の全容を把握することはできません。

「犬の日本史における戦時期の解説」と「戦争ネタとしての犬の話」は全く異なるもの。軍用犬の歴史も「調達・管理・運用の発展史」を軸に犬界関係者が編纂すべきでした。

しかし、愛犬家たちはジャーナリストや軍事オタクへ作業を丸投げ。日本犬界史を知らない人々が軍用犬の歴史を語った結果、軍犬武勇伝や歴史批判を軸とした感想文やアジテーションが横行する惨状へ至りました。

戦時体制に協力した過去から目を背けたい犬界側の気持ちは理解できますが、あまりに無責任でしょう。

 

いきなり「ミリタリー視点の軍用犬史は間違いだ」などと主張したら、ふざけんなと怒られるだけ。歴史には考証が必要です。

犬の記録が無いミリタリー界には無理なお話だということも理解しています。

日本犬界が有する膨大な近代犬界の記録をもとに、史実を検証してまいりましょう。

 

ミリタリー界を擁護すれば、1974年に寺田近雄氏が「Gun」誌上で発表した軍用犬レポートまでは内容もマトモでした(あの時代に戦盲軍人誘導犬まで取り上げていますし)。

しかし、続く世代は先人の劣化コピーを繰り返しただけ。どれもこれも、内容、構成、見解、言い回しまでもが寺田氏の焼き直しばっかり。

1970年代の「寺田レポート」で思考停止したままの日本軍犬史は、そろそろアップデートすべき時期なのかもしれません。

 
近代日本の軍用犬史は、主力軍用犬種であったシェパードの歴史と深く関わっていました。

1899年に誕生し、1914年前後から来日し始めたシェパードが、日本人に広く認知されたのは1931年の満州事変。ドイツにおける牧羊犬としての歩みを知られないまま、いきなり軍用犬として日本デビューしたワケです。

 

改めて書きますが、シェパードは牧羊犬です。

過去から現在に至るまで、日本では牧羊文化が根付きませんでした。よって、ワレワレ日本人が牧羊犬史を感覚的に理解することは難しいのでしょう(北海道を除く)。

寺田レポートも牧羊犬への視点が欠落しており、「もともとドイツ人は狩猟民族であり伝統的に平時から犬の優性化に努力しており、全く軍犬のために生れついたようなドーベルマン、シェパードといった民族犬を有していたために戦力化できた(寺田近雄『軍用犬=主として満州事変』より)」などという間違いを広めてしまいました。

ドイツは狩猟採集文化ではなく農耕牧畜文化であり、ジャーマン・シェパードも「民族犬」どころか19世紀末に登録された新品種なんですけどね。

 

軍事分野において重要な役割を担ったのは、「狩猟」ではなく「農耕牧畜」です。

皮革や食料供給、運搬を担う牛馬はもちろん、撥水性と保温性に優れた羊毛は軍事力を左右する物資でした。何しろ、毛糸と編み棒さえあれば誰でもウール製品を作ることができるのです。ロングシップの帆布としてヴァイキングの侵攻を支え、寒さに震える兵士たちの防寒具となり、「勝利のためのニット」として人類は何千年もウールを編み続けました。

そのように大切な羊を護るために作出されたのが牧羊犬です。

家畜の番犬は紀元前から存在しましたが、あくまで外敵と戦う闘犬レベル。しかも大量の飼料を必要とする大型犬であり、貧しい牧夫にとっては赤字を垂れ流す警報システムでした。

やがて青銅器時代になると牧羊に特化した犬種が登場。羊群を制御するための優れた知能、高い作業意欲と忍耐力、チームワーク確立のための親和性を備えた「牧羊犬」は、欧州から中東、東洋へと広がっていきました。

ドイツにもさまざまなタイプのシェーファーフント(牧羊犬)が分布し、それらドイツ牧羊犬群の最高峰を目指して作出されたのがジャーマン・シェパード・ドッグなのです。

まずは、日本シェパード界のルーツたるドイツと青島におけるシェパード史から解説しましょう。

 

2

ベルリン留学中、シュテファニッツと面会した洋画家の長坂春雄(1935年)

 

ジャーマン・シェパードの作出者であるマックス・フォン・シュテファニッツは、もともと農場経営を志す動物好きの少年でした。

しかしその夢は頓挫。母親からの懇願によって、ドイツ軍人としての道を歩みます。

順調に騎兵大尉にまで昇進したシュテファニッツですが、1889年に34歳の若さで退役しました(表向きは「病気療養」が理由でしたが、当時は卑しい職業とされた女優との結婚が原因だったとか何とか)。

軍を去ったシュテファニッツ大尉は、少年時代からの夢であった動物の飼育に没頭。1897年から飼っていた愛犬「フライア」の影響により、ドイツ牧羊犬の魅力にとりつかれていきました。

退役から10年後の1899年、カールスルーエの畜犬展覧会を訪れたシュテファニッツは、自らの理想を具現化したような牧羊犬「ヘクトール・リンクスライン」に遭遇します。

 

持主のアイゼレン氏からリンクスラインを購入した彼は、この犬を祖犬としたドイツ牧羊犬の最高峰「ジャーマン・シェパード・ドッグ」の作出を決意。同年に牧羊犬の愛好家を集めて「独逸シェパード犬協会(SV)」を創設します。

リンクスラインは「ホーランド・フォン・グラフラート」と改名され、SV犬籍簿の登録第一号を意味する「SZ1」が附与されました。

騎兵将校時代にベルリン獣医学校への出向で得た専門知識を活かし、シュテファニッツは厳格なルールのもとにシェパードの繁殖普及を進めます。

 

牧畜業者だけでは規模的な限界があったため、「警察犬へ!」のスローガンを掲げて警察関係者へのSV加入運動も拡大。更なる普及をはかって軍部へ売り込むも、こちらは大惨敗に終わりました。

得体の知れぬ新種の牧羊犬など、ドイツ軍は見向きもしてくれません。1908年に公的機関が採用したシェパード48頭も、その大部分が警察犬。軍関係としてはバイエルン猟兵連隊が数頭を買ってくれたのみでした。

 

帝國ノ犬達-ホーランド 

「最初のジャーマン・シェパード」であるホーランド・フォン・グラフラートSZ1(もう一頭はマリー・フォン・グラフラート)。もとの飼主だったアイゼレン氏は、病気療養に専念するため愛犬を手放しました。

 

地道な会員獲得と繁殖活動は、SV創設から15年間続けられました。

その甲斐あってヨーロッパ各国へ人気が広まった1914年、国際関係の悪化にシェパードも巻き込まれてしまいます。

ドイツと敵対していたフランス畜犬商が「シェパードはアルザス原産のフランス犬」などと言い出し、ドイツと敵対するイギリスも「アルセイシャン・ウルフドッグ」などと勝手に改名。SVを激怒させたのです。

この騒動を「ナチス嫌悪が原因」と主張する向きもありますが、第一次世界大戦前の1914年にナチスは存在していません。アドルフ・ヒトラーもまだ無名の青年であり、ナチス総統どころかバイエルン陸軍へ入隊する前でした。

21世紀に出てきたウソ解説ではなく、騒動に巻き込まれた当時者の証言をどうぞ。

 

佛蘭西土着シェパード犬は(※第一次)大戰前、不思議にも餘り賞用されず、獨逸シェパード犬が好かれて居た。ところが大戰間に之が變つたらしく、佛蘭西の新聞雑誌は抜け目なく「彼等の」犬の奇跡的な行ひや英雄的の行爲を報じ、大統領は之に對し接吻を與へたり、又は勲章をブラ下げてやつたりしたものである。この性惡な獨逸シェパード犬は、既に大戰のずつと前から佛蘭西にとつて目の上の瘤だつたのである。
佛蘭西人の虚榮心は、世界の何處かに、而も山猿然とした野蛮人のところに、この天下の知らぬものなき「文明のトツプを切る國民」の處にあるものよりもつと良いものがあることなぞ、到底容認し得なかつたのである。抑もこの「トツプ」なるものがどんなものなのか、始めこそ何も知らなかつた我が獨逸人も、今やこの四年半の間に底の底まで識ることが出來たのである。
即ち良い獨逸のシェパード犬は佛蘭西で欠くべからざるものとなつて居たので、物の判つた上品なアマチュア連は其蕃殖を熱心に努めるし、次いで勤務犬として賞用され、又は流行物として主に大衆、即ちお妾さんから相場師、商人から新聞雑誌屋に―其内特に商人に―持て囃された。そして、どの(※フランス)社會でも、有名な警察犬又は悍威ある犬の一つが欲しかつたし、又持たねばならなかつたから、これは性惡な獨逸シェパード犬、即ちベルジェ・アルマン(Berger allemand)なんかでは、絶對に不可なかつたのである。

で、其故郷としてアルサスが發見され、獨逸シェパード犬はアルサス・シェパード犬(Chiens de berger d'Alsace)、或はアルサス狼犬(Chiens loup d'Alsace)、或は又單に狼犬(Chiens loup)、若くはアルサス狼(loup d'Alsace)にさせられて仕舞つたのである(シュテファニッツの回顧録・1934年邦訳)

 

アルセイシャン騒動の直後、第一次世界大戦が勃発。

会員数6300名規模に成長していたSVは、開戦と同時にメンバーに対して愛犬の戦時供出を呼びかけました。

当時のドイツ軍用犬は「終戦まで生き残っていたら飼主に返却してね」という前提で民間から募集したもの。献納する側も僅かな希望は持てました(これを「購買軍犬制度」にした日本軍では軍の所有物となってしまうため、飼主への返却が不可能だったワケです)。

訓練済みの優秀なシェパードを大量献納されたドイツ軍は、これらを前線へ投入。戦時を通じて献納運動は続き、1917年にはドイツ軍部もSVのボランティア活動を公認するに至りました。

SV創設から苦節18年、「軍用犬としてのシェパード」が公式デビューしたのです。

「シェパード作出にドイツ軍部が関与していた」と主張する場合、1889年のシュテファニッツ退役から1899年のホーランドとの邂逅、1914年のドイツ軍シェパード正式採用へ至る25年間をもとに、何年にどのような形でドイツ軍が関与したかも併せて説明すべきでしょう。

 

犬

山東省青島で撮影されたドイツ人警官と警察犬

 

やがて、シェパードは東洋にも拡散していきました。

シェパードの移入先だったのが、1898年にドイツ租借地となった山東省青島。青島シェパードドッグ倶楽部は「青島のシェパードはアントシヨウウヰツツというドイツ人警察官が移入した」と由来を記しています。

このアントシヨウウヰツツなる警察官こそ、アントショヴィッツ・テオドール巡査。彼が青島へ移入した警察犬たちは現地で繁殖を重ね、やがて「青島系シェパード(青犬)」という一族を形成します。

つまり、青島のシェパードは軍用犬ではなく警察犬でした。

 

そして1914年、第一次世界大戦勃発から3か月後に青島攻略戦が始まります。SVのシェパード供出運動は欧州戦線向けが精一杯であり、開戦時の青島にいたシェパードは青犬だけでした。

日英連合軍とドイツ軍の戦闘終結後に来日し始めたシェパードも、やはり青犬だったのです。

※青島攻略戦終結後、アントショヴィッツは治安関係者として取調べを受け、大阪俘虜収容所へ移送されます。釈放後は家族の待つ青島へ戻り、警察犬係に復帰しました。

 

日本へ渡った青島系シェパードたちは、日本軍犬界の黎明期を支えました(日本で一番有名な軍犬「那智」「金剛」姉弟も、青島生れの青犬です)。
青犬の存在を知らないと、「青島攻略戦で来日したシェパード」の由来も分からなくなってしまいます。

 

私は一九一四年頃第一次世界大戦が勃発し、日本も連合国の一員として対独宣戦を布告し、青島を攻略したころ、日本に来たドイツの捕虜が、いわゆる青島犬と称せられる旧型のドイツ・シェパード犬をつれているのを見たことがあり、これらのうち少数のものが当時の日本軍人や一部の民間人に飼われたようです(日本シェパード犬登録協会・有坂光威『シェパード犬の歴史的展開』より 昭和45年)

 

このように、目撃者の有坂氏ご本人が「ドイツ本国産ではなく青島系シェパードだった」と証言しているんですけどね。

「大正時代の日本人にシェパードの識別ができるのか?」と言われても、有坂光威騎兵大尉(有坂鉊蔵海軍造兵中将の次男)は陸軍屈指のシェパード専門家。自前のシェパード研究団体を設立し、シュテファニッツの著作を邦訳し、その知識を乞われて帝国軍用犬協会から日本シェパード犬協会にヘッドハントされ、戦前・戦中・戦後をとおして軍民両方のシェパード界を知る人物でした。

 

帝國ノ犬達-カール・ミュラー 

帝国軍用犬協会メンバー時代の有坂光威大尉と蟻川定俊氏(両名とも帝国軍用犬協会の体質を嫌って日本シェパード犬協会へ転籍)、中央のドイツ人男性は一楽荘犬舎が招聘したカール・ミュラーDSV公認訓練士。

写真の三名は、戦後シェパード界の復興でも大きな役割を果たしました。

 

しかし、昭和12年の青島在留邦人一斉退去事件を機に青犬は壊滅。ドイツ直輸入個体で箔付けしたいシェパード関係者も「青犬は雑種だった」などと黒歴史抹消に励みます。

有坂大尉の証言も、背景を掘り下げることなく「青島攻略の戦利品」という短絡思考で受け取られただけ。こうして、青犬および青島シェパード界の存在は忘れ去られました。

ヨチヨチ歩き時代を支えてくれた恩を仇で返すこの仕打ち。

青島犬界を知らない日本軍用犬史は、「主力犬種の来日経緯すら分からない」という惨状にあります。スタート時点から大事な部分が欠落しているのです。

日本の軍犬はボウフラの如く湧いて出たのではありません。軍隊が民間犬界・獣医界の発展と歩調を合わせ、資源母体と調達システムの構築、運用管理のノウハウ蓄積を重ねてきた、その「背景」を知る必要があります。

 

【軍用犬の登場】


西洋の戦では、紀元前から戦闘犬が活躍していました。彼等の姿は、遺跡に刻まれたレリーフや絵画に記されています。

武装や装甲を施された大型のモロッサー達は、隊伍を組んで敵の騎馬を撹乱し、兵士に襲いかかりました。命令に忠実で、組織的にも動ける猛獣の群れ。近接戦闘主体の当時、それら戦闘犬は「動物兵器」以外のナニモノでもなかったでしょう。

 

さて。
それでは、我が国で犬を軍事利用し始めたのはいつ頃からなのでしょうか?

実はですね、よく判りません。
確かに犬の軍用利用はされていたのですが、西洋のように白兵戦用の戦闘犬から発達した訳でもないようです。記録上は、いきなり伝令犬や斥候犬として登場していますので(桃太郎のお供やしっぺい太郎を除く)。
書物に記された有名な伝令犬が、甲陽軍鑑に出てくる太田三楽齋の犬。
以下、Wikipediaより抜粋(2010年時点の編集内容)。

 

北条氏康は資正に対する報復のため、何度も武蔵岩付城、松山城に攻め寄せた。しかし、常に太田側の援軍が現れ、北条軍は撤退を余儀なくされた。実は、資正は軍用犬を飼いならして活用していたのである。訓練させた犬を数匹、城に置き、敵が攻め寄せてきた場合には書状を入れた竹筒を犬の首に結び付けて城外に放ち、味方と連絡を取り合っていたのである。北条側が配下の風魔一党に命じて人間の使者を捕殺しても、犬の使者までは完全に捕殺できず、常にその軍事行動が太田側に筒抜けになっていたのである。これは日本史上の「軍用犬」の起源とまで言われている

 

斥候犬については、太平記に出てくる畑時能の愛犬“犬獅子”が記録されています。
鷹巣城からの夜襲を繰り返した時能は、所大夫房快舜・悪八郎の両名を引連れて敵陣へ忍びこむ際、犬獅子に守備の様子を偵察させていました。

 


帝國ノ犬達-畑時能

 

様々質を替て敵の向城に忍入、先件の犬を先立て城の用心の様伺ふに、敵の用心密て難伺隙時は、此犬一吠て走出、敵の寝入夜廻も止時は、走出て主に向て尾を告ける間、三人共に此犬を案内者にて、塀を乗越、城の中へ打入て、叫喚て縦横無盡に切て廻りける間、數千の敵軍驚騒て城を被落者は無りけり、夫犬は以に守禦養人といへり、誠に無心禽獣も酬徳の心有にや

 

絵と文・暁鐘成『犬の草紙(嘉永7年)』より

 

驚く事に、かなり高度な使い方をしていますね。当時から犬の能力を正確に見極め、訓練・運用できた人々が居たのでしょう。
以降、幕末に至るまでの状況は不明です(太平の世が続きましたから)。

日本が近代国家への道を歩み出した明治時代、軍馬を中心とする軍用動物も西洋化・近代化を遂げていきました。「戦場の犬」は、明治元年から2年間続いた戊辰戦争で再登場します。

陸軍中将の三浦梧樓は、奇兵隊時代の思い出をこう振り返っていました。

 

戊辰の頃の兵隊は、兩刀を帶して、鐵砲を擔いだものだ。ダカラ銃劔の効用は全く認めぬ。「立派な兩刀があるのに、這んな切れもせぬ銃劔を付ける必要がない。唯邪魔になるばかりだ。」と言つて、非常に嫌つたものだ。銃劔ばかりではない。彈藥でも多く持ちともがらぬ。豫備藥は勿論のこと、成るべく彈藥を減して呉れとの頼みだ。

其言草が面白い。

「決して敵には負けませんから、何うぞ餘計に持たせて下さるな。」と言ふのだ。彈丸彈藥は鐵砲の生命だ。何故此必要のものを邪魔にするかと思ふと、成程ソコは旨く考へたものだ。敵陣の背後の樹林の陰などに忍び寄り、不意にワツと叫んで、逐つ拂ふので、彈丸を多く遣はんのが自慢だ。

「今日何發打つたか。」

「十發打つた。」

「ソンナに打つ奴があるか。」と言つた調子だ。

ソコで我輩は考へた。此れは犬に脊負はせて、戰場に遣るやうにするに限ると思つて、屈竟の犬を二三匹飼ひ馴らし、此れに彈丸を背負はせて、戰場に連れて往つた。我れながら名案だと思つて居つたが、イヤハヤ鐵砲がヅドン〃と鳴り出すと、犬奴其處へシヤガンだ儘で、些つとも動かぬから、丸で役に立たぬ。大に笑はれたよ。

 

熊田葦城編『觀樹將軍縦横談(大正13年)』より


明治10年に勃発した日本最大の内戦・西南戦争でも、西郷隆盛につき従った「黒毛」と「カヤ毛」が知られています。まあ、この二頭は単なるペットでしたけれど。
それから時代は進み、日本で軍用犬の正式研究が始まったのは大正時代に入ってからのこと。
“軍用犬”なるモノを知らなかった日本陸軍は、大正3年の青島攻略戦時にドイツ軍の使っていた軍用シェパードを入手。大正8年、第1次大戦の戦訓を元に軍用犬の研究が行われた結果、日本陸軍は軍用犬の制式配備を決定シタノデアル。

……等と解説されていますが、実際はちょっと違います。


西洋の軍隊が犬を使っている事実は第一次大戦前から知られていました。我が国で「近代的軍用犬」の報道記事が現れるのは明治中期、日清戦争の前後あたり。

明治27年に発行された雑誌を見ますと、ドレスデンでテストされた軍用犬の記事が幾つか紹介されています。
 

犬ヲシテ能ク軍用コナサシムルヲ得ベキ結果ヲ得タリ。而シテ右ノ試驗ヲ受ケタル犬ハ、各兵營ト外營ノ間ニ急速一定ノ往復ヲナシテ書信ヲ齎(もたら)シ、且ツ彈藥運搬ノ用ヲ辨シタル由ナルガ、此方法ニ由リテ運搬シタル装彈々藥筒ノ數ハニ百五十箇ニシテ、無装彈々藥筒ノ數ハ三百五十箇ナリシト云フ。

 

中央獸醫會『軍用犬ノ試驗(明治27年)』より

 

同年、ドイツ軍はイギリスから牧羊犬(エアデールテリアという説も)を輸入、軍用化テストを試みていました。ドイツの軍用犬といえばシェパードやドーベルマンですが、この時点でドーベルマンは品種として未公認、獨逸SVがジャーマン・シェパードを作出するのも4年後のこと。
そういえば、明治27年はルイス・ドーベルマン氏が亡くなった年でもありますね。

【接触期・明治の軍用犬】


西洋の軍用犬部隊と遭遇し始めた時代、日本陸軍の駐屯地にはマスコット犬が棲みついていました。ペット扱いされていた彼等が、そのうち「主人」の日本軍兵士と行動を共にするケースもあった様です。

 

日本全國十三個師團何れの兵營へ行つても、見賜へ、必らず五六頭の犬が棲つてゐる。別に飼主のあるでもなく、又誰れに慣れたといふでもなく、犬そのものが軍隊そのものに慣れてゐるのである。
自分が初めて兵營に入つたのは、今から十五年以前のことであるが、―今も尚軍人として滿洲の北部に敵と対峙してゐるので、―その始めて兵營生活に移つた當時は犬についてこんな感じがした。兵營には多くの犬がゐるが、恐らく飼つてあるのではあるまい。炊事場には多くの殘飯殘肴があるからそれを喰はんとして付近の犬が寄り集つて來るのであらうと。
が、これは全く考へ違ひであつた。

其實犬なるものがこの勇壮活發なる軍隊の動作を好むので、何處からとはなしに集り來り、終に軍隊の犬となつてしまつたのである。

彼の勇ましき行進喇叭を吹くときはドンナ旨い物が前にあつても必らず駈けて來る。そして前進する軍隊の先登に立ち、さも愉快らしく得意然として恰かも嚮導でもなすかのやう、尾を振り頭をもたげ、勇氣凛々軍隊に付纏うて行く。幾日幾里の行軍と雖も、少しも屈する色なく付随するのである。唯少しく不思議なのは、大部隊には付纏はないことで、主に中隊以下の小部隊に付纏ふのであるが、其理由はまだ確かめ得ない。


出征第四軍後備歩兵第二十二聯隊第三中隊 稲垣盛人大尉の証言より(明治38年)

 

我が国で、最初に軍用犬の研究に取り組んだのが大島又彦陸軍中将(後の帝国軍用犬協会長。当時の階級は中尉)。西洋の軍用犬部隊に関する詳細なレポートを、明治29年に記しています。
日露が対立した明治37年になると、我が国でもロシア軍用犬に関するニュースが報道され始めました。日本との開戦を前に、ロシア軍はイギリスやドイツから軍用犬の専門家を招聘。エアデールテリアを中心にした軍用犬チームを編成します。

 

日英同盟で日本寄りの立場だったイギリスの軍人が、なぜロシア側に協力したのか?それには、当時のイギリス軍用犬界の複雑な事情が影響しています。

カンタンに説明すると、「無理解な上層部に愛想を尽かした英軍ハンドラーが、自分のエアデールテリアを評価してくれたロシア軍の許へ馳せ参じた」という構図でした。これが巡り巡って、イギリス軍および日本軍のエアデールテリア採用へと繋がったのは後年のお話。

日露戦争に従軍した日本軍は、最前線でロシア軍用犬部隊と遭遇しました。

高度に訓練されたロシア軍の軍用犬部隊は、鉄道警備や負傷兵救助で大活躍。軍馬の育成すら儘ならなかった日本軍(馬匹去勢法の励行も日露戦争で停滞しています)は、馬と鳩と犬を使いこなすロシア軍の戦術に驚愕します。

日本軍も少数の犬を帯同していたのですが、これらが軍事用だったのかペットだったのかは不明。日露戦争に従軍したペットとしては、桜井忠温の愛犬「ダル」が有名ですね。

帝國ノ犬達-日露戦争
『戰時畫報(明治37年)』より

 

日露戦争が終わり、本格的な訓練を受けた公的機関の犬が軍事作戦に使われたのは明治末期のこと。

ただし、実戦投入されたのは警察犬でした。

 

明治43年、山岳民族の抗日運動に苦慮する台湾総督府蕃務本署は、対ゲリラ戦用として11頭の警察犬を購入。訓練を開始します。
翌年、先に訓練を完了した4頭の警察犬は、武装蜂起した眉原社掃討作戦に投入される台中庁警察隊へ配備(うち発情した1頭は訓練所へ逸走)。

密林での行動を警察犬に察知され、得意のゲリラ戦を封じられた眉原社は為す術もなく潰走します。

 

帝國ノ犬達-台湾軍用犬

大正3年5月17日、バトラン蕃地討伐作戦のため台北停車場を出発する臺湾守備歩兵第一聯隊本部第五及び第六中隊。
この犬は偶然写った野良犬かペットだと思っていたら……。

帝國ノ犬達-台湾軍用犬
5月25日、山岳地帯を踏破し、バトラン蕃地奇莱主山南峰に到着した歩兵第1連隊と軍旗。月末より、同連隊とサカヘン社との間で激戦が展開されました。何と、この作戦にワンコがついてきてます。

 

これを高く評価した台湾総督府は、大正2年から警察犬の配備を拡大。神戸から猟犬の訓練士である田丸亭之助を招いて調教にあたらせます。

 

余は大正二年一月、臺灣總督府の嘱託により、臺中東勢郡内の斗欄抗に軍犬訓練養成所を設けた。その時の軍犬なるものは臺灣在來の犬を始め、ポインタやセタの雑種、或は日本犬に類したもの、狆紛ひなど種々雑多なものを集め、一頭として純血のものはなかつた。

それは當時の臺灣ではどうしても、その様なものしか手に入れる事が出來なかつたからであつた。軍犬訓練所は斯る劣惡なる犬種を集め、その數無慮三百餘頭を収容して、一頭につき使丁、即ち今で云へば犬ボーイが一人つく。從つて其數も數百人を雇ひ、外に獸醫が一人と云ふ大規模なもので、余の部下には別に警部一人、信號兵交代にて四五人も居て、犬の食料には毎日黄牛又は水牛を一二頭宛屠つて、それにあてると云ふ始末であつた。
訓練は總て實地訓練で、毎日午前七時出發して山林地帶に入るのであるが、その隊は犬一頭に付き歸順蕃(※日本側に従った山岳民族)一名、兵士一名、巡査一名を以て一組とし、それ等の組を數十組つくつて、各組は標識旗を掲げて嶮阻なる山をよじ登り、密林中に分け入つて活動するのである。

訓練は先づ最初に、犬に蕃人の足跡追及を教へる。但し、訓練の時の相手の蕃人は歸順蕃であるから、犬が彼等を猛烈に襲撃する時は恐れをなして逃げ出すので、訓練手たる巡査や兵士が適當の時犬の襲撃を止める。
即ち二、三分鬪へば呼子を吹いて犬を呼び戻すのである。
犬が手許に戻つて來たならば、腰に下げた竹筒の中から肉片を取出して犬に與へるのである。犬は常に空腹にしてあるので、その呼子が鳴ると一散に駆け戻るのである。
斯くして數十組の犬隊が同様の訓練を行ひ、足跡追及が成功すれば次ぎの訓練にかゝる。次ぎは、蕃人を變つた場所に潜伏せしめ、足跡が無くとも、その蕃人を探し出す訓練をなすのである。
これは恰度雉子の飛込みを獵犬に探さす様なもので、犬は嗅覺を極度に働かせて、隠れた蕃人を探すのである。

ところがこの訓練に都合のよい事には、蕃人は赤い着物を着、臭氣の強い煙草を喫むので、犬はかなり早く彼等を發見する。そして犬は蕃人に向つて猛烈に襲ひかゝる。訓練手は犬に追付きて四五十間手前で呼子を吹く。
しかしその間、相當の時間を費すが、潜伏する蕃人は犬の襲撃を懸命に防いで、呼子の鳴る迄は決してそれを止めない。
この訓練は午前に一回と午後に一回で止めるが、何分犬が野良犬であるから、これだけの訓練に二、三ケ月の日數を要する。
そして、いくら訓練しても見込みのない犬は、どし〃逐放して、新たの犬を訓練にかゝる。尤も犬を逐放するには非常な困難が伴ふ。それはいくら逐放しても四五日の中には犬の本能によつて、訓練所へ戻つて來るからである。
そして新たな犬を召集する時は、各地から巡査が犬を連れて應召して來る。犬が訓練所に入ると、何れもそれを空腹にして置き、訓練の時肉を少しづゝ與へて、餌で釣つて訓練するのである。
訓練を終了した犬隊は實戰に加はり、軍隊の先頭にて蕃人の攻撃を防ぐ。その後方では數臺の機關銃隊がこれを援護し、後續部隊はその後方でどし〃道路を開拓して行く。道路を拓けば戰はこちらの勝利である。
この理蕃には當時一千二百萬圓の豫算が通過し、五箇年間に一千万圓を費したが、餘り成績擧らずして戰は屢々不利であつた。それは、何分蕃人は密林中を自在に出没して、前軍が攻撃に成功したと思つても、後續の部隊が襲撃されて、身首處を異りにして居ると云ふ事も度々であつた。
また或時の如きは、生蕃の襲撃に備へて數十里の間鐵條網を張りめぐらし、それに強力の電流が通じて居たが、生蕃等はどうして覺へたか、それに枯竹の梯子を渡して乗越えて來た事があつた。
そして肝心な生蕃がそれに掛らず、時々野猪が電流にふれて死んで居る事があつた。しかし或時、生蕃が鐵條網の張つてある、川の中を潜つて忍び込まんとして、その生蕃の頭髪が電流に触れて死んで居るのを見た事があつた。

 

田丸亭之助『回顧録(昭和11年)』より

帝國ノ犬達-台湾軍用犬
6月、バトラン蕃サカヘン及びマヘヤン社、タロコ蕃シカヘン社と交戦後、セラオカフニの渓底で露営する第2守備深水大隊及び鈴木隊。
ここでも犬が行動を共にしていますね(これらの犬が軍用犬なのかは不明)。同連隊はその後も各地を転戦し、台北に戻ったのは8月23日でした。

【黎明期・大正の軍用犬】

大正時代は、日本陸軍が手探りで實地研究に取り組み始めた時代です。

日露戦争で遭遇したロシア軍用犬を、日本軍で唯一評価していたのが陸軍歩兵学校でした。大正2年、陸軍歩兵学校は欧州軍用犬の調査を開始。直後に始まった第1次世界大戦の戦例を参考に、大正8年から実地研究に着手しました。
当初は外国文献を頼りに試行錯誤が重ねられます。習志野に抑留されていたドイツ軍俘虜や、警視庁警察犬係だった荻原澤治警部からの指導も役に立ちました。
3年に亘る研究期間は、偶然にもシェパードやドーベルマンの来日時期と重なります。これら優れた使役犬種を入手した歩兵学校は、軍用犬の能力を確信する事となりました。

【研究期・戦前の軍用犬】
関東大震災による停滞を経ながら、歩兵学校では軍用犬の本格配備に向けた訓練・運用マニュアルの編纂、マスコミへの宣伝活動、陸軍演習への参加といった根回しもおこなわれました。
最も困難だったのが軍上層部の説得です。軍馬の知識しかない彼らに、犬の軍事利用など理解できません。ヨーロッパの戦線を視察してきた臨時軍事調査委員会の軍用動物レポートも「児戯に等しい」と一蹴される始末。日本軍上層部の軍用犬に対する無理解は、昭和20年の敗戦まで続くこととなります。
昭和3年、日本初のシェパード愛好団体である日本シェパード倶楽部(NSC)が発足。陸軍歩兵学校の軍用犬研究班メンバーはNSCに入会し、最新の訓練知識を学びます。NSC側も、陸軍に採用して貰うことでシェパードの普及促進に繋がると考えていました。
双方の利害が一致した事で、歩兵學校軍用犬研究班のレベルは急速に向上します。

【発展期・戦時の軍用犬】
昭和6年の満州事変では3頭の軍用犬が初めて実戦投入され、以降は配備頭数も拡大。翌年の第一次上海事変や熱河作戦でも同様であり、陸軍犬の活躍を見た海軍軍需部も軍用犬の配備に動いています。
昭和8年、民間適種犬の登録窓口として社団法人帝国軍用犬協会(KV)が発足。これによってシェパード、ドーベルマン、エアデールの大量調達システムが完成します。
昭和10年までに歩兵学校の軍用犬研究も完成。同時期に歩校軍犬育成所と関東軍軍犬育成所が正式に認可され、実戦段階へと移行していきました。ドイツを範とする歩校は伝令犬重視、満洲国での国境警備や対ゲリラ戦に従事する関東軍は警戒犬重視の方針であったといいます。

KVに続いて満洲軍用犬協会(MK)も発足し、満洲国での資源母体構築にも力が注がれました(運営資金確保のため、なぜかドッグレース事業へ走ってしまいますが)。

同時期にはシュテファニッツの著書が邦訳され、シェパードに関する知識も大幅に向上しています。シェパード作出者による「ジャーマン・シェパードは牧羊犬ヘクトール・リンクスラインを祖犬として作出した。最も重視される用途は家畜の監視である」という証言によって、日本で流布していた「シェパードはオオカミと交雑したウルフドッグである」「軍事目的で作出された品種である」というウソは一掃されてしまいました(翻訳者は、前出の有坂光威大尉です)。

 

着々と実戦経験を積んでいた日本の軍用犬ですが、予想を越えて戦線は拡大していきました。

昭和12年の第二次上海事変より、日本陸海軍は軍用犬を大量投入。南京侵攻へ至る前に、充分な訓練を積んだベテラン軍犬班はあっという間に底を突いてしまいます。
二週間程度の促成訓練を受けた素人軍犬班が目立ち始めるのも、実は緒戦の段階から。日本軍犬の理想と現実は、あまりにもかけ離れていました。

 

戦地における軍犬の運用は、伝令任務と警戒任務の二つに大別されました。

孤立した部隊を救うため戦場を駆けた伝令犬と、ゲリラ掃討で無辜の民衆に牙を剥いた警戒犬。日本軍犬の相反するイメージは、ここから来ています。
戦時を通して広大な戦線に多数の軍犬班が配備されたものの、全体での情報共有や人材育成はなされませんでした。これが日本軍犬の限界でもあったのです。

中国軍も同様で、戦前に発足した伝令犬・伝書鳩部隊「南京交輜學校特種通信隊」は日本軍南京侵攻によって壊滅。再建には相当の苦労を要していました。

 

それ以外の国々は、日本軍を遥かに凌駕していました。

満ソ国境に配備されたソ連軍用犬部隊は関東軍の越境偵察を阻み続け、張鼓峰事件では日本軍の夜襲を察知して多大な損害を与えます。太平洋戦争が始まると、米軍も軍用犬班を投入。情報共有化によるスキルアップに努めたアメリカ軍用犬部隊は、後発組ながらあっという間に日本側を追い抜いてしまいました。

太平洋戦線の日本軍犬班は、その能力を発揮できないまま各個撃破されていきます。戦場へ辿り着く前に、輸送船もろとも撃沈されてしまった軍犬も多数にのぼりました。

【崩壊期・戦争末期の軍用犬】
戦況悪化と敗戦により、日本軍用犬界が終焉を迎えた時代。
深刻な軍需原皮不足に陥った昭和19年末、厚生省と軍需省はペット毛皮供出を全国の知事宛てに通達。これを受けた全国の行政機関では、翌年1月から多数の犬猫を殺戮しました。
資源母体たる日本犬界が壊滅した結果、その基盤の上に成り立っていた日本軍用犬班も共倒れとなります。

残存していた民間シェパードと飼主を動員し、民間義勇部隊「国防犬隊」が結成されたのも昭和20年のこと。本土決戦は、民間のペット頼りとなっていたのです。

 

昭和20年8月、日本は敗北しました。

敗軍には、軍用動物を帰国させる余裕などありません。軍馬や軍犬たちは戦地に遺棄されるか、殺処分されるか、運が良ければ返納式を経て中国軍へと引渡されました。
国内に残留していた軍犬たちも、管理者たる日本軍が消滅したために殺処分されるか市場へ放出されます。こうして、膨大な数の軍用動物が犠牲となりました。

【復興期・戦後の軍用犬】
戦後復興と共に犬の軍事利用が再開された時代。

北海道には相当数のシェパードが温存されており、日本シェパード界は戦後数年で全国の支部を復活してしまいます。資源母体が復活したことで、極東米軍・フィリピン軍・台湾軍も日本でシェパードを調達していました。
昭和25年、武装組織である警察予備隊が発足。警察予備隊は、更に保安隊へと改編されます。保安隊では、日本シェパード犬登録協会にハンドラーの教育を依頼して「保安犬」の配備に着手しました。
保安隊が陸上自衛隊へ再編された後、警備犬配備は縮小。やがて陸自で廃止された一方、海上自衛隊や航空自衛隊では配備を続けています。
将来へ向けて、日本の軍用犬史は編纂され続けていくのでしょう。

以上、日本軍犬史の概略でした。
ここから先は、明治~戦後にかけての日本軍用犬史を詳しく述べていきます。