或時、少女がエアデールの幼犬と庭で遊んでゐた。この二ツのものは、夏の木蔭の下に天然が現はした大なる調和の中に一緒に融け込んでゐた。
少女が頭を擡げれば小犬も頭を擡げる。
少女が後を向けば小犬も後を向く……。
小犬は小首を傾げて熱心に少女を見つめてゐた。
ふと、少女は芝草の上に伏した。小犬も亦伏した。この光景を見てゐた私は、それを利用して“伏セ”を訓えるやうに少女に告げた。
少女は“伏セ”といひながら同様な動作を繰り返した。小犬も伏した。
これを數回繰り返すことによつて、小犬は一通り“伏セ”を覺えてしまつた。

 

陸軍歩兵大佐 今田荘一『エアデール・テリアの再檢討』より

 
帝國ノ犬達-エアデール
日本陸軍の制帽を被るエアデール(昭和11年)

微笑ましい描写から始めましたが、エアデールテリアといわれてもピンとこない人がいるかもしれません。流行の犬種になったこともないし、知名度はどうなんでしょうか。
但し、ある年代の人々は“人語を解する不思議犬”として覚えがある筈。
電気グルーヴの「DS Massive」という曲にも登場するアレです。あのトントンがエアデールテリア。

冒頭の今田大佐は、日本エアデール界の先駆者として活躍した人物。大佐クラスに専門家を擁するだけあって、日本陸軍もエアデールテリアを軍用適合犬種に規定し、「A犬」と呼んで運用しています。
既に多様な犬種が輸入されていた当時、どのような経緯でこの英国犬が日本軍に採用されたのでしょうか。
エリート街道まっしぐらのシェパードやドーベルマンと違い、軍用犬としてのエアデールには紆余曲折がありました。

 

【エアデールの来日】


エアデールテリアが来日したのは明治末期頃と思われますが、はっきりした事はわかりません。外国航路などを経て朝鮮総督府が入手し、それから本土へ上陸したのでしょう。
しかし、日本人とエアデールが最初に出会ったのは明治37年にまで遡ります。それも、敵同士として。

例え知名度は低くとも、この大型テリアは幾つもの戦争を経験してきた犬でもありました。そして、彼等と戦場で対峙した最初の敵が日本人だったのです。

別項の日露戦争編 ・第3部で述べたとおり、ロシア軍は対日戦において軍用犬部隊を実戦投入しています。そして、その軍用犬部隊の中には、イギリスから輸入された数十頭のエアデールテリアが含まれていました。
犬達の訓練を担当したのも、同じくロシアに招聘されたイギリス陸軍将校。
しかし、日英同盟を締結していた当時のイギリスは、日本寄りの立場をとっていた筈です。
英国漁船を日本軍水雷艇と間違えて撃沈した挙句、救助もしないで遁走したバルチック艦隊などは、行く先々でイギリスから妨害を受けたりしていました。
そんな中、どうしてこの英軍将校はロシア側に協力していたのでしょうか。

さて。
イギリス軍といえば、歴史と伝統を誇る世界有数の軍隊として知られています。
しかし、偏屈・頑迷・保守的かつ明後日の方向へパンジャンドラムの如く迷走する事でも有名であり、軍用犬に関してもそれは同様でした。
20世紀初頭、ドイツ、フランス、ベルギー等の欧州各国は軍用犬の配備運用を始めていましたが、英軍だけは無関心を貫きます。愛犬国家の意地としてワンコを戦場へ連れていきたくなかったのか、単にヘソ曲りだったのか、理由は不明。
そんな中で、英陸軍少佐リチャードソン(Edwin Hautenville Richardson)は、エアデールテリアの能力に注目していました。
ウィルフレッドホーム氏により猟犬として作出され、エアー渓谷(Airedale)地方でカワウソ猟に使われていたこの大型テリアは、嗅覚や知能の高さから、1892年には警察犬として採用された実績があります。
元来動物好きだったリチャードソンは、優れた素質を持つエアデールを軍用犬として利用できないかと考え、1900年頃に自案を上奏しました。
しかし、英陸軍当局は「このパッとしない外見の犬を採用したら沽券に関わる」とでも思ったのか、少佐の提案を完全に無視。
それでも少佐はめげませんでした。
私費を投じてハーロウにケンネルを設立、夫婦でエアデールの繁育を開始します。やがて彼の地道な努力は実を結び、軍関係者から犬の購入や訓練の依頼が舞い込み始めました。
皮肉にも、そられは英軍からではなく、外国軍隊からのものだったのですが。

やがて、少佐にエアデールの能力を実証する機会が訪れました。
1904年、極東の地で大日本帝国とロシア帝国が激突した日露戦争です。

対日戦に備えて、ロシアはリチャードソンとその犬達を自国に招き、軍用犬部隊の編成を開始します。
開戦前より、ロシア軍勢力圏には特殊任務を帯びた日本軍人や軍事探偵が潜入。
明治37年12月になると、第2軍秋山将軍配下の後方攪乱部隊である第1挺進隊(永沼秀文中佐指揮)と第2挺進隊(長谷川戌吉少佐指揮)が騎兵第8聯隊、廣島第5聯隊、習志野第13、14聯隊より選抜され、翌年からロシア軍の背後で破壊工作を展開しています。
前線のロシア軍にとって、兵站の要である鉄道警備は重要任務となっていました。

日本側による破壊活動を阻止する為、ロシア軍は鉄道守備に2個師団を投入。リチャードソンの犬達も警戒任務に当ります。
実際、永沼秀文中将が「松花江その他の鉄橋とか鉄道の重要建造物とかも好目標でありますが、そこには非常に多数の守備兵がをつて近接することも出来ぬといふ情報もあるのです」と後年になって証言しているように、ロシア側の厳重な警備は、日本側後方撹乱作戦の阻害要因となっていたのは確かな様です。
ただ、永沼挺身隊を苦しめたのはロシア軍用犬よりも現地の野良犬の方だったらしく、夜襲を仕掛けようとした際に付近一帯の野犬達が大騒ぎして困り果てたという記述もありますね。

 

帝國ノ犬達-日露戦争
明治37年、日本で報道された負傷兵捜索訓練中のロシア衛生犬。
大正時代には「リチャードソンが満洲で訓練したエアデール」などと解説されています。

また、エアデールたちは警戒任務のみならず負傷兵捜索任務にも使われていました。日本軍の射程圏内で行われる負傷兵の捜索は非常に危険であり、代わりに犬を使った救護法が採用されたのでしょう。
下記の記事を読む限りでは、その運用に於いて試行錯誤の段階であったようですが、後年になって負傷兵捜索任務の主力となる救助班の誘導についてもこの時既に試みられています。

 

沙河に於ける露國軍は多く犬を飼養せり。是等の犬は戰闘後負傷兵を捜索するに非常の働きを現はせり。殊に荒野、森林、絶壁等に於て其の効用於て其の最も多し。
彼等は牧羊犬の一種にして英國少佐リチャードソン氏の訓練に係はるものなり。犬は其の脊に赤十字號を施せる包を負ひ其の中には繃帯及『ブランデー』と水とを容れたる小瓶を携ふ。負傷兵を發見せば犬は負傷兵をして(若し能ふべくんば)件の包を解かしめ其の内容物を使用せしむ。

若し又負傷兵にして歩行するを得ば、犬は野戰病院の位置に之を導き、若し又歩行する能はざるときは捜索兵の處に行き之を報道す。其の怜悧にして忠實なる点は彼の有名なるセントバーナードの犬と比較して毫も遜色を見ず(ネヴァ紙)

 

高粱中に隠れた負傷者落伍者を發見するのに七頭の犬程成功したものはない。その中殊に英國の犬は最も利巧であつた(露國参謀ペルシドスキー)

 


リチャードソン以外に、犬を日露戦争へ送った別のイギリス人がいたとの記録もあるそうです。

 

ホーランド・バックレー氏といへば、一八九四年同志と共に、ザ・サウス・オブ・イングランド・エアデールテリアクラブを創立し、エヤデールテリアの改良のため尽した大功勞者であることは既に御承知のことであり、又同氏の著『エヤデールテリヤ』といふ本の序文に、『私は日露戰爭當時日本軍のために五十頭のエヤデールテリヤを送ることを世話した……』と書かれて居ることも御氣付きと思ふが、わが國に於て既に犬を軍用に使用する事に着眼して居たことがハツキリ判るのであるが、それにしてはあまりに遅々たる發達ではないかい。
(中略)
エヤデール界の兩権威が敵同志にエヤデールを供給して居るのは面白いが、日本に來た五十頭の勇士はその後如何なつたのであらうか。
(中略)
戰勝國日本はホーランド・バツクレー氏に如何なる敬意を表されたであらうか。軍用犬を餘り重要視しなかつたことは事實であるし、又當時同じエヤデールを使用した日本で餘り役立たなかつたとの事であるならば、犬のわるきにあらず、使用する人が未だ犬を充分理解して居らなかつたのではないか。

 

安達一彦『ほつかいどうだより(昭和8年)』より

 

バックレー氏の話が本当なのかどうか、資料が見つからないので分かりません。
日露戦争には、リチャードソン以外のイギリス軍人も参加していました。その中のひとり、観戦武官として戦場に派遣されたのがハミルトン。
彼の任務は、日本軍に従軍しながら戦闘の状況を本国に報告することでした。
明治37年8月30日、孟家房附近を移動中の彼は、1頭のエアデールテリアを発見します。そのエアデールは野犬と格闘したらしく、怪我をしていました。こんな場所にエアデールが棲息する筈がなく、おそらくは部隊からはぐれたロシアの軍用犬だったのでしょう。
何たる偶然か、イギリス人とイギリスの犬が東洋の地で出会ったのです。
ハミルトンは彼に「ロスキー」と名付け、其の後は戦地で行動を共にしました。彼こそが、後のサー・イアン・ハミルトン将軍だったりします。

 

露軍は西比利亜鐵道の全線を警護する爲に多くの犬を使用したるが、鐵道の切斷されさりしは一は之等の犬の補助與て力ありしなり。
(中略)
日露戰爭に於て露軍に犬を供給したるは前に述べたるが如く英國のリチャードソン氏なり。氏は戰爭後露國赤十字社總裁たる皇后マリー陛下(※マリア・フョードロヴナのこと)より感謝状と共に高貴なる勲章を拝受し、又皇帝陛下よりは金剛石入の金時計を贈られたり(陸軍歩兵学校)

 

ロシア皇帝直々にお褒めの言葉と金時計をいただき、リチャードソン少佐は意気揚々とイギリスに帰国します。しかし、英軍上層部はこの事を全く評価せず、少佐と犬達は再び日陰へと追いやられました。

次なる機会は、イギリス植民地での対ゲリラ戦にて訪れます。
当時、イギリスの植民地であったインドでは、山岳民族のアボール(Abor)族による英国人殺害事件が度々発生していました。これに対し、インドに駐留する英軍グルカ連隊2000名は北部山岳地帯アッサム丘陵に進撃、アボール族討伐作戦を開始します。
1911年(明治44年)に計画された作戦では、幾多のツアンポー峡谷探検隊を阻んできた峻険な地形と、山岳戦に長け、トリカブトの毒を塗った矢で武装したアボール族相手にかなりの苦戦が予想されました。
作戦開始にあたり、グルカ連隊では数ヶ月に渡って準備が整えられます。
その中で、密林地帯での索敵・警戒の手段として、前衛尖兵隊の先頭に軍用犬を配置する案が出されました。
進撃時は犬達を前衛部隊の斥候として索敵させ、防御の際は敵の接近を警戒察知させれば、地の利を活かして戦う敵に対抗できると考えたのです。
上層部に掛け合っても埒が明かなかったのか、グルカ連隊は本国のリチャードソン少佐に協力を依頼。やがて、インドに2頭のエアデールテリアが到着します。

帝國ノ犬達-グルカ部隊
アーバン・ウィルソン少佐に伴われたアボール族討伐隊前衛尖兵隊のエアデール

リチャードソン少佐が派遣したこの犬達は、同年11月7日よりグルカ連隊討伐部隊での斥候任務を開始、アボール族の伏撃を察知しては戦闘を有利に導き、夜間は歩哨の監視を補助して活躍しました。

 

十一月七日の衝突前に、前衛に伴はれて居た一匹の犬は、アボールを前にして、時宜を得た警戒を與へてくれた。犬は歩哨兵と共に、使用された。そうして夜中も尚怠らず奉仕をした。そのために、歩哨は、犬を少しく休憩させんがために、犬を鎖に繋ひで置いたほどである

 

リチャードスン少佐の送った軍用犬を連れたガーカ(グルカ)隊の斥候は厳重なる警戒に任じた。軍犬は相變らず成功を齎らすことに毫も失敗しなかった。彼は敵兵に発見せらるゝに先つて敵の斥候を發見し、機を失せず前衛に報告し以て戰勝に契機を與えた

 

英国印度軍ガーカ聯隊が、山嶽地帯に篭る數萬の賊軍“ボーア(原文ママ)”の討伐に行き悩み、訓練したこの犬を英本國より態々招致してこの特種戦場に於ける苦闘を有利せしめたのも大戰前一九一一年のことであつた。
これは多分、現代的軍用犬として實戰に使はれた涵養であつたのでらう(今田荘一)

 

 

奇しくも同年10月、台湾総督府の警察犬4頭が同様の作戦に投入されていますが、その話については警察犬の頁にて。

エアデールがアボール族討伐作戦で使われた事については本国の新聞でも報道されたらしいのですが、今回も英軍上層部は少佐と犬達を無視。リチャードソン氏はこの事が相当不満だったようで、著書の中でこのように記しています。

 

余は本問題を時々當局に具申せり。警察に於ては相當の理解を有し、田舎の警察に於ては犬を巡察に用ひながら、余の具申は一向に採用せられざりき

 

しかし、彼はエアデールの訓練を諦めませんでした。
少数ながら、彼を支持してくれた人々がいた事も支えになったのでしょう。

 

私は軍用犬の効果なるものが、未だ充分に世間に認められず、そうして私は如何にして、速かに之を認めさすべきかを焦慮して居た時に、私は尊敬すべき賓客を私の訓練所に迎へた。一人はフレンチ伯であり、他の一人はローサ將軍であつた。
フレンチ伯は私の事業に對し非常に激励の辞を與へ、幾多の困難に打ち勝つて努力せよと言ふことを、呉々も言はれたのである。此激励の言葉は私の感銘して永久に忘却し難きところである。
私は私の爲したる軍用犬に就いての事業が、多少にしても國家に貢献するものありしとしたならば、夫れは之れらの激励の力が、與つて力あるものであることを信じて疑はぬのである(リチャードソン)

 

1914年5月、ロシアのサンクトペテルブルクで軍用・警察犬の大演習が開催されます。

「余は大戰勃發三週間前露國に在りて、他の二名の獨逸人と共に是等の軍用犬の審査員を勤めたり」とあるように、リチャードソンも審査員としてロシアに招かれました。セメノフ競馬場に集結したロシア軍用犬部隊は、彼が訓練したエアデール達の子孫、ドイツから輸入されたシェパードといった犬種で構成されており、機関銃の牽引、負傷兵捜索といった演習内容を披露。

日露戦争から10年、ロシアは軍用犬先進国へと成長を遂げていました。

この直後、第一次世界大戦が勃発します。
開戦時に英軍が配備していた軍用犬は、リチャードソンが訓練した1頭の歩哨用エアデールテリアのみでした。ノーフォーク連隊第2大隊に所属する此の犬は、部隊と共にフランスへと渡った後、エーヌの戦闘で榴弾により死亡したとあります。

 

大戰の第一日において、私は歩哨犬の献納を見ん事斥けられた。併し私は之に屈せずして、赤十字犬として、犬を使用すべき事を勧告すべく、努力せんことを決心した。

 

リチャードソン『英國戰線の軍犬(昭和5年)』より

 

リチャードソン少佐自身も、ロシアから帰国して僅か3週間後の1914年8月、衛生隊の一員としてベルギー戦線へ派遣されます。現地に到着した少佐は、自分が訓練した衛生犬の「実戦テスト」を行う極秘計画を立てていました。
上が認めないなら己で実証してみせる迄、と開き直ったのでしょうか。
ロシア軍の演習を見て、焦る気持ちがあったのかもしれません。
残念ながら、ドイツ軍の攻勢によって此の計画は失敗。アントワープから退却してきたベルギー軍の混乱に巻き込まれ、少佐の部隊も撤収する外ありませんでした。

 

兎に角私は數頭の訓練した、赤十字犬を英國赤十字協會に提供した。幸に之は受納されて1千九百十四年の八月の早く、此の犬は白耳義に送られた。それと共に私も亦白耳義に送られたのであるが、その時未だ英國の軍隊は、白耳義に入つて來て居ない。そのため白耳義人は獨兵の侵入を怖れて、争つてブラツセルから逃げ出そうとして居た。

私もとう〃ブラツセルから逃げて犬と共に、オステンドに來てしまつた。そのため私は親しく犬を使用する機会がなかつた(リチャードソン)

 

しかし、この事は他部隊の知るところとなり、彼に軍用犬の相談を持ちかける者が現れました。1915年頃の戦場写真では、各種軍用犬に混じってエアデールの姿も見られるようになります。

 

日を重ねるに随つて、私は多くの将校から、軍用犬に就いてさま〃の質問を受けた。私はそれらに對する答としては、エヤー・デールを軍用犬として使用せよと勧告した。私は又若干の犬を白耳義戰線に送つて、軍用犬の効果を實験すべきと言つてやつた。

 

帝國ノ犬達-フランス軍用犬
歩哨任務中のフランス軍エアデールテリア。第1次世界大戦にて。

 

事態が大きく動いたのは、1916年になってからの事。この年の冬、第11師団司令部付のリチャードソンに対して「個人的な相談」が持ち掛けられます。
それは、英軍野戦砲兵連隊所属の一将校からのもので、「前線の着弾観測班と後方の砲兵中隊間の連絡を行う伝令犬を訓練して欲しい」という依頼でした。

 

こうして、エアデールの「プリンス」と「ウルフ」に2マイルの距離を正確に往復する為の訓練が開始されました。同年夏、2頭は野戦砲兵連隊第56大隊指揮官ウィンター大佐の個人名義で購入されます。
大隊に配属されたプリンスとウルフは、砲兵陣地間の伝令任務で目覚ましい活躍をみせました。

帝國ノ犬達-伝令用エアデール
第一次世界大戦にて、伝令任務に就くイギリス軍のエアデールテリア。

 

近衛野戰砲兵第五十六旅團より近衛野戰砲兵第十一師團司令部へ送信せるもの。
ヴイシエーテ・リツヂとの對戰中、第五百四十九號の書信を送るに方り、予は二頭の傳令犬を使用した。一頭は前線の連絡將校に付属して居り、一頭は前線の觀測所に付属して居た。
この犬は夜暗を利用し交通壕の中を通過して誘導せられたる後、攻撃開始せらるゝや、暗澹たる煙、彈幕を通過して前進、一頭は午前十時四十五分に後方の旅團司令部を放たれたのであるが、午前十一時には前線の師團司令部に到着して居た。他の一頭は午後零時四十五分に放たれて、午後一時に師團司令部に到着した。
二頭の犬は煙幕を潜つて突進をしたのである。距離は四千ヤード、此の間に於けるあらゆる通信機關による通信は、全部失敗に歸して居た。此犬のもたらした通信のみが、成功を示したので、即ち此戰に於て師團司令部が、後方の旅團司令部より、受取つた最初の通信となつた。

 

プリンスとウルフの働きを高く評価したウィンター大佐は、軍用犬制式採用についての申請を行います。勝手に軍用犬を配備し始めた前線部隊に押し切られる形で、英陸軍上層部はリチャードソン中佐に対し、軍用犬配備に関して幕僚との協議を行うよう命じました。
苦節16年(たぶん)、中佐の努力が実った瞬間でした。

 

本件其他の重要な通信傳達勤務に於て、二頭の決定的に良結果を得たる事こと竝砲兵連隊長Winterの建議とは、當局をして軍隊に傳令犬の供給機關を建設することを和めて審議せしむるに至れり。玄に於て、余は陸軍省War Officeより其審議に當るべく命令せられ、余の理想に一致する官立軍用犬學校を設立すべき設計を早出を得たり。余の滿足は筆舌に尽くし難し

 

リチャードソン『British War Dogs』より

 

めでたしめでたし。
……で終わる訳が無く、ここからイギリス軍用犬部隊の大混乱が始まります。

今迄何の準備もしていなかったのに、突然「軍用犬を配備する」と決めても、いち将校が私的に訓練していたエアデールだけでは必要数を揃えられる筈がありません。

慌てた英軍は、手当たり次第に犬を掻き集めました。それこそ、使役犬種であれば猟犬だろうが牧羊犬だろうがお構いなしに。
第一次大戦の英国軍用犬が「役立たず」「番犬レベル」と酷評されているのは、まさにこれが原因でした。

1917年、英陸軍はハーロウにあったリチャードソン中佐の私設ケンネルを買い上げ、軍用犬訓練所を設立します。続いてショーブリーネスとバルフォードにも軍用犬訓練所が完成、本格的な訓練が開始されました。
訓練を受けた犬達は、続々と戦地のケンネルへと送られます。
各部隊に設置された軍曹管轄のケンネル48頭の犬を16名の軍犬兵が管理)は、旅団司令部から派遣されてくる担当者への引渡し場所となっていました。頭数不足を補う為、イギリス国内のドッグズホーム(廃犬の保護施設)から様々な犬が調達されます。
バーミンガム、マンチェスター、ブリストルの畜犬団体からも犬の寄付を募り、英国の一般市民にも献納の呼びかけが行われました。
集められた犬達は、伝令犬・歩哨犬・番犬の三種に大別して訓練を施されます。
これらの中で、比較的優秀な成績をあげたのがコリーとラーチャーでした。しかし、デリケートで手入れも大変なコリーは軍用向きとは言えず、一時的に使用されたに止まっています。
日本陸軍によるコリーの解説に「英國軍用犬ノ一部ニ使用セラレ」とあるのは、この時の事を指したものです。

第一次大戦に於いて、西部戦線へ送られた英国伝令犬は計18犬種340頭にのぼりました。
コリー 74頭
ラーチャー 70頭
エアデール・テリア 66頭
シープドッグ 36頭
レトリバー 33頭
アイリッシュ・テリア 18頭
スパニエール 11頭
ディアハウンド 6頭
ウェルシュ・テリア 5頭
ブルテリア 5頭
セッター 4頭
グレーハウンド 2頭
エスキモー犬 2頭
ダルメシアン 2頭
べドリントン・テリア 2頭
ポインター 2頭
ブルドッグ 1頭
ホイペット 1頭

……ブルドッグに伝令任務が務まったのでしょうか?

帝國ノ犬達-エアデール
第一次大戦中のドイツ軍エアデールテリア。敵側のドイツ軍も、シェパードに加えてエアデール等を配備していました。

泥縄式で配備された英軍用犬達は、僅か5週間の速成訓練を経て戦場に送られますが、SV(獨逸シェパード犬協会)式の高度な訓練を受けたドイツ軍用犬とは質・量共に段違いの低レベルでした。しかし、前線の英軍部隊からは「独軍斥候に拉致される歩哨がいなくなった」等、チラホラと軍用犬の功績が伝えられ始めます。
1917年になると、イギリスの軍用犬訓練所に大勢の人々が押しかけるようになりました。

 

シユーブリーネの軍用犬學校は、漸次著名となつて來た。聯合軍は勿論、中立國に属する多數の將校も亦此の學校を参觀して來た。一千九百十七年の夏に至つて、之等の参觀者が餘りに多くして、私共の犬に對する訓練課程を乱される事が、稍著明となつて來た。依つて、學校は一時之らの参觀者を拒絶したほどである

 

1918年、英軍はリチャードソン中佐に軍用犬の運用状況について調査を命じました。中佐が赴いたのは、彼の訓練した犬達が派遣されたケンメル高地争奪戦の現場。
聴き取り調査の結果、伝令犬ボグザー、ジム、ロケット、ショック、プリンス等の功績が伝えられ、英軍上層部は軍用犬の配備を公式に認めました。

帝國ノ犬達-英軍エアデール

 

一九一八年十一月、休戰は宣せられぬ。
而して、是に先立つて師團攻撃の訓令下り、其訓令中に歩兵大隊は攻撃に際して傳令犬を携行すべきことを明記せられたり。事業は之を以て中止するに到れり。
静に顧れば、永い間の難儀、苦鬪、明かなる輕蔑、實際上の障碍、管理者の不始末等數え來れば積る感も數々なれども、無數の人命を救助せること及救助事業の一般に認めたる満足を以て凡てを忘れん。

 

E・H・リチャードソン 『British War Dogs』より

 

英軍に於ける一連のドタバタ騒ぎについて、日本シェパード倶楽部の中根栄理事はこのように書いています。

 

リチヤードスンの戰前からの努力に依るエーヤデールのケネルが、他國軍に依つて有効に利用せられたるにも係らず、大戰の末期に至る迄、自國軍の當局に於て認識せられなかつたことを、返す返すも遺憾するものである。それと同時に、我々はその轍を踏まないやうに、深く警めねばならぬ(昭和8年)

 

「我々は」とあるのは、日本もエアデールテリアを軍用犬として配備していた事を意味します。

 

「田舎の海岸へシェパードとエアデールとを連れて行つたので、土地の人々がシェパードを見て、アレが軍用犬だとさゝやきあふ聲が聞こえるが、エアデールを、アノ毛がモジヤモジヤした犬は何んだ、といふて軍用犬とは凡そ縁のないものゝやうに思つてるらしい」

安達一彦『ほつかいどうだより(昭和10年)』より

帝國ノ犬達-軍用エアデール
戦地へ送られる日本軍エアデールテリアと民間ボランティアの輸送要員。

エアデールテリアといえば「万能犬」と称される程に優れた資質を持った犬ですが、当時のエアデールテリアに対する認識は「モジャモジャした犬」だった様ですね。今でもあんまり変わりませんけど。
まあ、戦場を駆ける軍用犬のイメージとしては、モジャモジャ犬より精悍なシェパードの方が見栄えも良いでしょう。

我が国には幕末あたりから在留外国人のペットとして小型テリアが持ち込まれました。大正初期にはエアデールテリア、昭和に入るとワイヤーヘアードテリアなど中・大型のテリアも来日し、複数の愛好団体が設立されています。
来日したテリア達の大部分は愛玩用であり、作業犬として使われたのはエアデールテリアくらいのものでした。
もっとも、その用途は警察犬や軍用犬。

「日本のカワウソ猟でもエアデールが使われた」とかいう記録があったら面白いのですが、全く見当たりませんね。
 
エアデールテリアの来日時期はハッキリしませんが、大正3年には公的機関の史料に登場しています。
 
「警察犬の應用は逐次發展せんとし、朝鮮總督府飼養の獨逸種(※イギリス産です)エーデール、テリヤ(原文ママ)は其後繁殖増加し、同府警務總監部は内地警察よりの懇請を容れ、長野縣竝に宮城縣に各牡牝一頭宛を分與せられたり。
而して曩きに北海道廳に於ても一頭のテリヤを飼養訓練し、警視廳も亦たコリヤ種、プードル種各一統を飼養し、斯道に經驗を有する萩原警部補之れが訓練に従事せらる。
然るに傳聞する處によれば、更に某氏が米國産ブラツト種(※ブラッドハウンド)警察犬を寄贈したるものありと、同廳が斯界に一大飛躍を試みんとする蓋し遠きあらざる可し」
仙台地方裁判所判事 設樂勇雄『警察犬の試驗(大正3年)』より
 
……何故に長野と宮城と北海道と東京だったのか。

朝鮮総督府から警視廳へ寄贈されたエアデールでしたが、警視庁警察犬は大した実績を上げられないまま大正8年に廃止されてしまいました。

 
警視庁が大正元年に採用した「バフレー(ラフコリー)」「リリー(レトリバー雑種)」「スター(グレートデーン)」に続き、追加配備された警察犬がエアデールテリアのリキヤ號とメリー號でした。


警視庁が警察犬を廃止した大正8年、日本陸軍歩兵學校は軍用犬の研究に着手。翌年にはエアデールテリア1頭の寄贈を受けます(この個体は老犬だったため、その年のうちに返却されてしまいました)。
大正10年には陸軍獣医学校がリチャードソンの著書を翻訳し、同年から歩兵学校でも2頭のエアデールを再購入。
こうして、エアデールテリアの本格的な訓練研究が開始されたのです。

陸軍でこの犬について熱心に研究していたのが、今田荘一歩兵大佐です。
歩兵学校が軍用犬研究を開始した大正8年、今田少佐(当時)は大隊長としてシベリアに出征していました。
ある日、今田少佐はセミョーノフ将軍率いるザバイカル軍団を訪問します。目的はロシア軍用犬部隊の視察でした。
もっと正確にいいますと、ボルゾイを貰いに行ったのです。
さすがのロシア部隊もボルゾイは配備しておらず、要求は却下。それでも「犬をください」と食い下がる日本軍将校に与えたのがエアデールテリアでした。
以降、今田さんはエアデールテリアの研究にのめり込みます。

 
当時、今田少佐の大隊はボリシェビキ軍との熾烈な戦闘を展開していた筈。

その一方で趣味全開のやりたい放題。ロシア人から犬を貰ってきた大隊指揮官を見て、周囲はどう思っていたのでしょうか。
たぶん、「また例の病気か」と諦めていたのかもしれません。
後にKV軍用犬訓練所長を務め、戦後もエアデールに関する権威であった大佐の人物像について、日本シェパード犬協会の中島元熊理事は著書の中でこう記しています

「滿洲の一角に青年下士官が關東庁の某部隊に居て、参謀本部の命で、蒙古領内スンガリー沿岸の物資その他の軍事の調査を爲すべく、著者(中島元熊)が其蒙古語の通譯兼案内者として、この青年將校と馬を湖北の原野に進める事となつた。
旅程其他の打合せをなすべく一日訪問すると、盛んに横文字の犬の雑誌を見せて、スタンダードがどうの、此種犬はどうのと説明して聴かされた。
著者が當時蒙古から黑の獵犬(細狗:シーゴー)を連れて來たのを見て、是は珍しいグレーハウンドだ是非くれよとの事で進上した。
旅行數ヶ月の任務を終つて決別、爾來二十幾星霜を重ねた一昨年、犬の雑誌ドッグに同姓同名で堂々たる論文が掲載されてあつた。
早速著者が舊知の人か否かを照會したら貴下が御尋ねの人に間違ひない、自分も其後貴下の消息を氣にかけて居たとの返事が來た。
此往年の青年將校はエヤデールテリヤの権威、今田荘一大佐殿であつた。
同氏は三十幾年來科學的に犬の研究家である。そこらの駆け出しの犬通共とは桁が違ふ、眞の大家である。
同氏は西比利亜に駐屯中、白狼の仔をロシヤ人獵師より手に入れ一匹日本へ携れ歸へられたとか」
中島基熊『シエパード犬の飼ひ方(昭和11年)』より

大正時代に研究が重ねられた結果、昭和になるとエアデールは軍用適合種として認定されました。
英軍とは違って、日本陸軍にはすんなりと採用されたエアデール。しかし、日本には強力なライバルが存在しました。
ドイツからやってきたシェパードとドーベルマンです。

日本の軍用犬は圧倒的多数をシェパードが占め、続いてドーベルマン、一番少ないのがエアデールでした。
戦地からの報告書でも「エーヤデルテリヤは事後の補充著しく困難となりしため、頗る僅少の數を用いたるに過ぎず」とあります。
余りに軍用犬らしからぬ外見と飼育頭数の少なさにより、シェパードに比べて影が薄かった様ですね。

帝國ノ犬達-エアデール

軍人や警官以外でも、この犬を愛好する人々はいました。
昭和に入ると全国各地でエアデールの同好会が設立され、品評会を開催するなど活発に活動しています。
イギリスから優秀な種牡犬も来日し、日本のエアデール愛好家も増加しました。
しかし、帝国軍用犬協会の設立と共にエアデール連盟は合併されてしまい、KVエアデール部としての軍犬報国活動を余儀なくされます。

全日本エーヤデール・テリヤ倶樂部聯盟廃止に付聲明

代表者 今田荘一 白石春雄

我々の倶樂部聯盟は、エーヤデール、テリヤ種の普及と改良進歩を期する爲に、微力ながらも今日まで邁進して参りました。
今尚日淺くしてその成績の見るべきものはありませんが、東京大阪の兩地を中心として漸次會員の數を増加し、又他の地方に於ても新に倶樂部を設立し、聯盟に加入せんとの準備進捗中のものもあり、且又犬種の改良にも應分の成績を擧げつゝあることは我々の欣幸とする所であります。
是れ偏に大方の御同情の然らしむる所と深く感謝する次第であります。
顧みますれば、我軍犬界は昨年來勃然として長足の進歩發展を來たしました。それと同時にこれが統制上に於ては大に混沌たるものがあつたことも事實であります。
然るに今や陸軍當局の指導と、帝國軍用犬協會の努力に依りまして、統制の基礎が確立し、我々の向ふべき所が大に明になつて参りましたことを、我々は衷心感謝するものであります。
それと共に我々の倶樂部聯盟の存否に就ても大に考慮すべき秋であらうと思ひます。
抑我々の倶樂部聯盟は今日迄も他と對立すべき組織のものでなく、從つて我々倶樂部員は軍用犬協會にも自由に加入し、又犬籍登録の如き國家的統制を要する重大な事業は倶樂部として之を行ふことを避け、一に最高機關たる帝國軍用犬協會に頼ることにして居ります。
是れ即ち事實上帝國軍用犬協會に協調する所以であります。
如此ではありますが、更に我々は協調の趣旨を一層鮮明ならしめんが爲、茲に倶樂部聯盟を解くことになりました。
然しながら、各倶樂部は今少時らく之を存續し、一般軍犬界の統制を阻害せざる範圍に於て、鞠躬如として本種の繁榮の爲に努力したいのであります。
蓋し本種は不幸にして我國に於ては眞に発芽の状態に在りますので、少くも當分の間、尚少なる單位に於て之を培ふを便とするからであります。
否、かくすることに依りて、我軍犬界の本畑に對し準備的の貢献を齎らし得るものと信ずるのであります。
茲に本誌を通じて、叙上の趣旨を洽く大方に聲明し、軍犬界各位の御諒解を仰ぐ次第であります。
何卒本種の愛好家各位は正統に於て軍用犬協會に御協力の傍、我々倶樂部に對しても御同情あらんことを祈る。
昭和八年六月十日」
 

戦争へ向かう当時の日本で、エアデールは軍用適種犬としての運命から逃れられなかったのでした。
ちなみにドーベルマン愛好団体も同じ運命を辿りますが、シェパード偏重の帝国軍用犬協会に対してD犬部会員は度々反発。

それを横目に、A犬部会員たちは「やっぱりエアデールは可愛いねえ」などとノンビリ語り合っていました。

今田荘一歩兵大佐や築山博一砲兵大尉などは、本場イギリスから情報を入手し、エアデール発展に役立てようとしています。
両人が問合せたのが、前編に登場するR.H.リチャードソン英陸軍中佐。

「英國駐在武官である友人に、此頃彼地から手紙を寄越しましたのを更に同官より小生へ轉送して來ました。
御参考に掲げます。

軍用犬に就き照會を受けたる處、文意を十分熟讀せる後、リチヤードスン中佐(大戦當時の指揮官)は之に關する最大の權威者なるを以て、中佐の所見を求むるの結論に到達せり。
リ中佐は「犬と共に四十年」及「軍用犬、其訓練と管理等」の著書を有す。
茲にリ中佐の言を引用し、且照會事項に關する文献を繙讀の上、返答することゝせり。
1.軍用として訓練せる犬の概数
目下不明なり。大戰時軍用犬學校を出たる犬と數千頭に達せりと稱せらる。
2.軍用犬の訓練等をなす陸軍の學校は今尚ありや。
軍用犬學校は戰爭終息と共に廃止となれり。
3.飼育者の從はざるべからず法規ありや。
ない。
4.政府は飼育者より軍用犬を求むるや。又政府自らの飼育によるや。

英國政府は獨立せる飼育所を有せず。有事の際に軍用犬學校の如き特設飼育所及新聞廣告等により犬を集むるに過ぎず。斯して設立せる學校は、大戰終了と共に廃止となれり。

5.政府は軍用犬に特有の技能を有する飼育者に補助を與ふるや。
否。
6.エヤデール種以外に如何なる種を使用するや。

(中略)
終りに臨み、『リ』中佐は軍用犬に關し訓練及編成の一定方式の確立に、日本當局の希望あらば報酬を得て勤務したき旨申出でたり」
(築山生『英國の軍犬(昭和8年)』より

最後の一行には驚きました。
日露戦争当時、中佐はロシア軍用犬の訓練を担当していたのに、この頃は日本への協力もOKだった様です。
帝国軍用犬協会では、ドイツからシェパード訓練士のカール・ミュラー氏を度々招聘していますから、もしかするとリチャードソン中佐の訪日が実現していたかもしれませんね。

帝國ノ犬達-エアデールテリア
●関西のエアデール愛好団体にて、衛生任務訓練中の写真。

どちらにせよ、軍用犬熱が高まっていく当時の日本で、少数派のエアデールテリア愛好家は肩身の狭い思いをしていました。
NSC(日本シェパード倶楽部)創設者の日本電報通信社重役の中根栄はこれを憂い、下記のような事を書いています。

 
「今や非常時、國民の口々には軍犬報國が叫ばれてゐるではないか。

然るに世人はエーヤデールを如何に見てゐるか?この犬の能力を、シエパド種のそれに劣るとでも考へてゐるのか?
それともシエパド種よりも飼い難ひとでも思つてゐるのか?
一寸見た外貌が、國民的趣味にぴつたり合はないとでも言ふのであるか?(昭和9年)」

残念ながら、日本軍では「エアデールはシェパードに劣る」と評価されていました。
エアデールを使う現地部隊からの報告では、「雪を嫌うので冬季戦には役に立たない」「除雪した道しか歩こうとしない」という意見が多く見られます。
歩兵学校軍用犬班では、妙高山麓での雪中演習の際にエアデールの使用を諦め、シュナウザーを代役に立てたこともありました。
 

帝國ノ犬達-エアデール出征

●本願寺から陸軍に献納されたエアデールテリア、フレッシュブラザー號。

因みに、前線での状況はこんな感じ。

「エアデールは體質的に抗病力が極て強い。訓練も入り易い。
訓練の施していない新犬を各部隊に配賦してもそこの犬取扱兵(短期服役の関係上、技術幼稚)で訓練することが出來る。
ドーベルの方は、訓練士の手にかけなくてはむづかしい。
エアデールは嗅覺が良く、傳令用には良いが、一般に小さくて警備犬として襲撃力に物足らない。

他犬種に優れた立派な齒を持つてゐるから咬力は強いがサイズが小さいので敵を引き留めるだけの力が足らない。
又小さな愛嬌者であるから部隊の一般兵士たちは愛玩犬的に可愛がるの結果、折角の訓練も壊してしまうこともある。前線からはエアデールを頻りに希望してくる隊もあるが、全然希望しない隊もある」

関東軍軍犬育成所 嘱託 大西与四郎(昭和15年)

「愛玩犬的に可愛がる」とある様に、愛犬家の指揮官がいる部隊などではマスコット扱いされていました。
中には、激戦地へのエアデール投入を極力避けて居たとの記録まであります。

「○○部隊のマスコツトと言へば、あゝあの軍犬かと言はれる程人氣者エアデール・テリア種のロビー號と島號。彼等の出生地は日本の東と西。ロビー號は當時三歳の牡犬、島號は同一歳半の牝犬でやんちや盛りである。
昭和十四年七月召されて同じ戰線に御奉公する様に成つたのであつた。
彼等は人間と同じ様に赤タスキを掛けて征途に就き、七月○日○○地に上陸、○○部隊に軍犬としての第一歩を踏み出したのであつた。

それからは毎日々々雨の日も風の日も尚又百數十度の炎天下も前戦進出を目標に教練が始められたのであつた。當時はまだ犬舎と言つても充分でなく、同じ犬舎に二頭乃至三頭が入れられたのだつた。
したがつてロビー號島號は犬種が同一である爲め言ふまでも無く同じ犬舎に暮らす事となつた。それで又擔任者も同じの渡邊一等兵である。

彼は軍犬に取つては日淺い兵隊であつたが、やさしい理解ある人間だつた。
併し教練と成ると自分が充分知らない爲め相當無理な要求をした。自分の訓練技術が上達するにつれて無理な要求も次第に少くなつて來た。
與餌の時などは他の軍犬より上等なのを食べて居た彼等は入隊と同時に部隊の人氣者に成つて居た爲め、擔任者以外の者まで彼等の爲めに色々な物を與へて呉れる事が多かつた。
或時なぞ、部隊長殿までロビー號島號の爲めに肉類を求めて來られる事さへあつた。
數ヶ月して彼等軍犬等にも前戰進出の命は下つた。他の軍犬等はそれ〃任務に就いたが、なぜかリビー號島號には前戰進出の命が下らなかつた。
それは可愛いマスコツトを前線に出すにしのびず、留守隊に殘した部隊長殿のやさしい親心からだつた。
しかし擔當者の渡邊一等兵は言ふに及ばず、ロビー號島號に取つては實に殘念な事だつた」

『歸還軍犬兵記(昭和16年)』より
 
兵士から可愛がられるだけならば幸せだったのでしょうが、彼らが働くのは戦場でした。中国兵にとってはエアデールも憎き日本鬼の手先、伝令任務中の彼等に容赦なく銃弾を浴びせます。
昭和9年3月20日、倉永部隊所属の軍犬スター号(田口滋氏献納のエアデールテリア)は、「神勇」「朝緑」と共に、寺婁頭西北方山の山岳要塞攻撃に参加するも、伝令任務中に戦死します。
同年5月8日、スターの遺骨は倉永部隊と共に名古屋へと帰還しました。
※ドーベルマンの朝緑も同部隊と共に凱旋帰国しますが、再度出征した昭和12年に戦死しています。


帝國ノ犬達-ゴッド號葬儀
●日本軍エアデールテリア「ゴッド」號の葬儀。中央はゴッドの遺影。

昭和9年7月16日、中国吉林省での作戦中に被弾戦死。彼の遺骨も、所属部隊と共に帰国しました。
 

「八月三十一日午前九時、所は愛知縣奥町西寶寺で第三師團留守部隊代表、加藤清氏、歩兵六十八連隊横山副官、加藤帝犬名古屋支部長、伊藤一宮警察署長を始め、豊橋、名古屋、岐阜等より一千名近くの會葬者が集り、空前の葬儀が営まれた。
正面は安置されてゐる遺骨箱には「忠犬ゴツド号 吉林省、寧安県梅林西方地区に於て戰死 昭和九年」と墨痕鮮に書かれてゐる。
これぞ奥町の五藤はつ氏より歩兵六十八連隊に献納され、四月上旬吉本部隊と共に渡滿、忠勇なる將士と共に各地に於て匪賊討伐に從事中敵彈の爲に倒れた軍犬ゴツト號の葬儀であつた」

戦場で何頭のエアデールが犠牲となったのか、詳細は不明です。

昭和20年の敗戦によって、日本の軍用犬は戦地へ置き去りにされました。
その中にはエアデール達も含まれていた筈です。
シェパードやドーベルマンと同じく、主を失った彼らの運命は過酷なものであった事でしょう。 
僅かばかりの救いとして、安岡章太郎の証言を挙げておきます。

「堀田善衛氏がいっていた上海の例があるんです。
上海にはイギリスがいたから、警察はシェパードではなくエアデール・テリアを使っていた。これを戦争中、日本の憲兵が使ったんだそうです。
日本が敗けるとイギリス人がきて、また犬をひきつぐんだ。
今まで飼っていた犬をひきつぐんだから、これはえらいさわぎになるぞ、と思っていたら
なんのことはない、実に整然とイギリスの警察に渡されたそうです」
『アニマ』掲載の対談より(昭和58年)