帝國ノ犬達-関東軍軍犬育成所

千葉県の「陸軍歩兵学校軍犬育成所」と満州国の「関東軍軍犬育成所」は、共に軍用犬研究やハンドラー育成の中心を担った機関です。日本軍で「軍用犬部隊」と呼べるのは、この2つくらいでしょう(他は「軍犬班」レベルの規模)。

「大正3年の第一次大戦を機に研究を開始し、昭和6年の満州事変で実戦デビューした」と解説される日本軍犬。しかしそれは順風満帆どころか、惨憺たる状態からスタートしたのです。

 

日露戦争でロシア軍の近代的軍用犬部隊と遭遇した日本陸軍は、この新たな軍用動物に着目。
大正2年(第一次大戦前)に陸軍歩兵学校が設立されると同時に、欧州・ロシア軍用犬部隊の調査レポートを編纂します。更に同年から始まった第一次大戦を研究しながら、大正8年度には3年間に亘る軍用犬研究をスタート。

その後も陸軍演習への参加やマスコミへの宣伝に努めたものの、軍馬の知識しかない陸軍上層部の理解は得られませんでした。

結局、日本の軍犬は満州事変勃発まで日陰の存在だったのです。

アテにならぬ軍部と違い、民間の青島シェパードドッグ倶楽部(TSC)や日本シェパード倶楽部(NSC)は歩校への手厚い支援を惜しみませんでした。両団体からもたらされる最新のドイツ式訓練理論によって、陸軍の軍用犬研究は飛躍的に発展したのです。

 

満洲国の状況も日本と似たり寄ったり。満州事変で実戦投入した軍犬班について、関東軍では「当時の運用は失敗」と総括しています。

軍の編制外に置かれたまま、ハンドラーの教育施設や昇進制度や犬の調達窓口すらもなく、守備隊全体での情報共有や改善策も放置状態。独立守備隊6個大隊に計150頭もの軍犬を配備しながら、その運用管理システムを確立できなかったのです。

 

軍犬資源を満洲国内で賄えないため、関東軍は山東省青島や日本で犬を調達する羽目になります。しかし内地ではシェパード・ブームによって犬の価格が高騰中。当然ながら一獲千金を狙う詐欺行為も横行していました。

 

内地犬界とのパイプを持たない関東軍は、設立されたばかりの社団法人帝国軍用犬協会(KV)へ軍犬購買を依頼します。しかしKV側にも目利きできるメンバーは未だ少なく(そのような人材はNSCの後継団体である日本シェパード犬研究会へ集っていました)、悪徳ペット商から不適格犬ばかり売りつけられるという失態をおかしてしまいます。

 

セパードはどこだ事件 

●大失敗に終わった内地での軍犬買上風景。帝国軍用犬協会ではこれを反省し、厳しい審査基準を設けた「軍犬購買会」での調達へ移行します(昭和8年3月)

 

大枚はたいたあげく駄目犬ばかり送り付けられて激怒した守備隊側は、内情をマスコミへリーク。軍犬調達システムの改善を公然と要求しました。

こういった諸問題に対し、独立守備隊軍犬班指揮官の貴志重光大尉は腹心の宍戸軍曹と共に専門訓練機関の設立を画策。遼陽郊外にあったロシア軍旅団司令部跡地を確保し、昭和8年8月に軍犬育成所として機能移転しました。

当初は予算もなく、犬用の暖房施設は病犬舎のみ。職員もペチカで暖を取っていたそうです。

この施設が正式認可されたのは12月24日のことでした(公表されたのは翌年2月)。

 

 

奉天独立守備隊軍犬班。起立している将校が貴志大尉、列の先頭が宍戸軍曹。

 

滿洲事變と共に〇〇獨立守備隊に軍犬班を編成して當面の業務を處理したるも、事變の推移と守備隊の實情とに鑑み軍犬の補充育成教育訓練等の廣汎なる業務を徹底せしむるためには守備隊より獨立せしむるを有利と認め、昭和八年十二月二十四日始めて當所を遼陽に開設せらる。次で昭和九年五月十五日編成を改變して〇〇守備隊司令官の隷下に入り今日に至れるも、固有の使命たる軍犬の生産、育成、訓練、補充並に軍犬取扱基幹員の教育に関する事項に就ては直接軍司令官の指揮を受く。
所内業務分担は前期の任務を遂行するため庶務、経理、訓練、育成、衛生の五係となしあるも、目下各部隊軍犬班要員の養成急を告ぐるの實情に鑑み、軍犬取扱基幹員の教育は最も重要なる任務となし、所員を挙げて之を擔當しつつあり。

関東軍軍犬育成所『滿洲に於ける軍犬事情』より 昭和13年

 

同時に軍犬資源の「満州国産化」を進めるため、内地の軍犬報国運動を満州国にも広げる必要がありました。

そして昭和9年2月24日、遼陽軍犬育成所と並行して軍犬調達窓口である社団法人満洲軍用犬協会(MK)の設立が認可されます。以降、MKをハブとして関東軍、満州国税関、南満州鉄道株式会社による満州国犬界ネットワークが拡大していきました。


帝國ノ犬達-歩兵学校軍犬育成所
陸軍歩兵学校軍犬育成所入口に整列するハンドラー候補生(千葉県)

帝國ノ犬達-関東軍軍犬育成所
関東軍軍犬育成所の教官と訓練生たち(遼陽)

 

ある程度の予算もついたことで、軍用犬研究や各部隊から集められたハンドラー候補生の訓練も本格化します。
歩兵学校軍犬育成所では一貫してドイツ式を手本とし、伝令犬など支援任務を重視。関東軍軍犬育成所は抗日ゲリラ掃討の戦例をもとに、警戒犬を重視した訓練方針をとっていました。
昭和13年頃からは地雷探知犬の研究や満蒙犬軍用化テスト、犬車(兵員運搬車)開発などの変った試みにも取り組んでいます(「地雷探知犬はベトナム戦争で登場した」とする解説もありますが、関東軍の地雷探知犬が実戦配備されたのは昭和16年前後のこと)。
満洲国の軍用犬研究は、現代人が想像する以上に発展していました。

 

 

育成所から巣立っていったハンドラー達は満洲各地で大活躍……、とはいかないのが日本軍のダメなところ。

調達や訓練システムが確立されても、肝心の運用思想は三流以下でした。日本の軍犬班は「犬を連れた歩兵」に過ぎず、情報共有や支援も後回しで、さらには部隊長の気分ひとつで新設・解散させられる脆弱な存在であったのです(日中戦争や太平洋戦争の軍犬班も同じこと)。

対する諸外国はどうだったのか。満ソ国境で対峙していたソ連軍用犬を例にあげましょう。

昭和13年、満ソ国境地帯を視察した関東軍軍犬育成所のレポート『東部國境守備隊軍犬普及巡回教育實施報告』には、現地部隊からの悲痛な訴えが寄せられました。

 

ソ軍が國境の警備に軍犬を使用しあることは從來各方面よりの諸情報に依り之れを認識する所なりしも、國境守備隊の編成以來其の國境監視隊、國境偵察班、監視哨下士哨巡察等に於てソ軍軍犬を目撃し、情報偵察監視等の障碍物の一つたることを体験するに至りて、より最早現地將兵の間に軍犬の必要なるを認識せざるものなし。
又ソ兵逃亡者の言に依り國境線脱走上警戒犬は最大なる障碍たることを異口同音に聴取しあり。尚特務機關憲兵隊、又國境部隊の使用する密偵の總ては悲鳴を擧げて曰く「犬のために國境線の突破不可能なり。まご〃して居れば必ず警戒兵に捕獲せらる」となし、咆哮せらるるや直ちに逃げ歸るを常とす。
密山特務機關長の談に依れば「密偵の使用上犬の威力に関しては全く處置なしである。犬には負けた。之れからは密偵の使用は警備小哨ザスターワの配置粗なる興凱湖以東の地域を撰ぶか又は山上の監視哨の無き所を通過するか、監視哨間の間隙巡察通過後の隙を窺ひ突破するの外なし」となし、犬を全く嫌遠しあることは事實なり。
倉茂部隊長の如きは敵軍犬誘惑法に関する積極的研究に着手し、虎頭憲兵分隊長は憲兵の勤務に軍犬を必要とすべき意見を上司に上申すべく企圖せられあり.
関東軍軍犬育成所『第四 教育實施成績 其ノ一 軍犬ノ必要性ニ對スル一般ノ認識』より抜粋

 

後年のレポートでも同様の問題が提起されているので、関東軍上層部は対策してくれなかったのでしょう。軍犬の運用思想については、軍犬訓練スクールによって組織化・情報共有化を確立していたソ連軍のほうがはるかに上手でした。

 

【関東軍軍犬育成所について】

 

昭和20年の満州国崩壊により、満州国犬界の記録は失われました。

しかし幸いにも、満洲国の関東軍軍犬育成所、満鉄警戒犬訓練所、満州国税関監視犬訓練所については幾らかの史料が残されています。

満州軍用犬協会によると、関東軍軍犬育成所の犬と軍犬兵たちは、下の写真のような環境で訓練を受けていました。

 

帝國ノ犬達-関東軍軍犬育成所
●関東軍軍犬育成所正門に佇むワンコ(関東軍軍犬育成所史料より)

 

関東軍軍犬育成所 

●繁殖用の分娩犬舎

 

関東軍軍犬育成所

●飼育ケージ(成犬舎)

 

●移動式犬舎の講習を受ける関東軍軍犬基幹要員。

 

千葉県と遼陽の軍犬育成所には、多大な労力と費用が投じられました。しかし、歩兵学校と違って関東軍は軍犬を全く評価せず、昭和12年には育成所の廃止論まで出ています。

それを救ったのが育成所の軍用犬たちでした。

昭和13年、チチハルで関東軍の冬季演習が開催されます。閉鎖の瀬戸際に立たされた軍犬育成所は、選りすぐりの伝令犬をこの演習へ投入しました。

 

対ソ戦を見据えて大陸の厳しい冬に慣れるための演習でしたが、待ち受けていたのは関東軍の想定を上回る極寒。演習部隊が持ち込んだ通信機器や車両は次々と凍結し、各部隊は通信途絶状態に陥ります。

しかし、育成所から派遣された伝令犬たちは寒さをものともせず演習地を駆け回り、部隊間の連絡網維持に貢献しました。苛酷な状況下では、ローテクがハイテクに勝ることを実証したのです。

結果、育成所閉鎖案は撤回されました。


 

●関東軍軍犬育成所でも、冬季戦の研究を重視していました。

関東軍育成所は昭和16年10月より「滿洲第501部隊」と改称され、西八里庄に再移転。昭和20年、「滿洲第13990部隊」へ戦時改称となった直後に満州国崩壊を迎えました。
軍属を除く所員は海城への移動命令を受け、そこで武装解除されてシベリア抑留となります。
育成所の犬たちは中国八路軍によって接収されました(この時に接収された日本軍犬たちが、人民解放軍軍犬部隊の源流となったのかどうかは分りません。取り組みは蒋介石軍の方がずっと早く、日中開戦前から軍鳩・軍犬部隊「南京交輜學校特種通信隊」を編成しています)。
関東軍から置き去りにされた民間人職員たちは、満州の主導権を巡って争う八路軍、国民党軍、ソ連軍と交渉を重ねつつ帰国の日を待ち続けました。ソ連軍撤退と八路軍進駐によって悪化した日本人への略奪行為も、国民党軍進駐後は沈静化したそうです。

民間人職員は昭和21年、シベリア抑留の501部隊員は昭和23年に帰国(抑留中、4名のかたが亡くなりました)。
やがて彼らは、戰時金属供出で失われた軍犬慰霊碑の再建や満州国に散った軍犬の慰霊碑設置運動を開始しました。

そして昭和38年に再建されたのが逗子動物愛護碑(軍犬ではなくペットの慰霊碑として再建)。平成4年には靖国神社と新潟護国神社にも軍犬慰霊碑を建立しています。

満州国が消滅した以上、満州国の犬たちの慰霊は日本が責任を負うべきという事でしょう。

靖国軍犬像のルーツは満州501部隊であり、その満州国犬界を知らずに靖国軍犬像を論じるのも間違いなのです。