上の画像は、松竹歌劇女優の雲井八重子とボルゾイのジャッキ號。撮影されたのは日中戦争勃発の前年(昭和11年)です。

戦前の日本でも、ボルゾイは人気品種だったんですね。

 

ヨーロッパ方面におけるボルゾイの歴史については、書籍やネットで詳しく解説されてきました。

しかし「ボルゾイの日本史」になった途端、誰も彼も黙り込んでしまうのは何故でしょう?ボルゾイやサモエドはロシア原産の犬であり、そのロシアは北海道の隣で国境を接している国です。

欧米を眺めるのも結構ですが、自国や周辺諸国へ目を向けるのも大事ですよ。

ボルゾイはいつ・どのように来日したのか。日本のボルゾイ史をご紹介します。

 

原産地 
露西亜。もとは、ルシアン・ウルフハウンドと云はれた。十八世紀。
特長 
優美淡麗頗る氣品の高い容姿をしてゐる。ロシア産のウルフ・ハウンドで、野獸狩りに使役される。
疾走力餘りに快速に過ぎ、小獸を追ふ場合、往々獲物を追ひ越してしまふ事がある。神經質でやゝ隠遁的だが、情愛が深いので、伴侶犬として賛美されてゐる。帝政時代の露國では、此犬を用ひて狼攻めの競技を行つた。
毛質は絹の如き長毛で、平毛か波状毛の何れかである。頭と耳と足の前面は短毛で、頸毛は長毛深くしてやゝ巻いてゐる。胸と前後脚と低く垂れた尾とにも長毛がある。
毛色は白色に淡黄褐色、藍色、虎斑、又は黑色の斑點が美しく散布されてゐる。
用途
獸獵犬。今日ではむしろ觀賞犬として有名である。
大さ
大型。體高二八~三一吋、重さ七五~一〇五封度。

 

……というのが戦前におけるボルゾイの海外史です。

ボルゾイとは「俊敏」の意味。もともとロシアの貴族階級が飼育していた猟犬で、オオカミ狩りの目的で脚が速い大型品種へ改良されました。

その優美な姿からロシア国外でも人気があり、1892年には英国で「ボルゾイ・クラブ」が発足。極東方面にも、ロシア革命以前から持ち込まれていた様です。

 

豫め圍つてある狼を、定められた獵野に逐ひ放す。狼が全速力で二百碼(ヤード)遁走した頃、三匹のボルゾイに之を追跡させる。二匹が各狼の右と左に追い縋 つて、之れと並び走り、一匹が後詰めの形で後から來る。やがて二匹が狼の兩腹に跳び掛り、其足並を乱して倒すと、後詰めも走せ加つて、三匹で犬を押へる。
其處へ「お犬匠」が馬で駆けつけ、狼に猿轡を噛ませ、頸と足とを括るのである。


犬
こちらは長崎県で飼育されていたデビッド・オブ・ドロンジャー號の広告(昭和10年)。西日本におけるボルゾイやラフコリーの繁殖地は九州エリアが中心でした。
ドロンジャーの仔犬たちは、画家の橋本関雪が大量購入しています。それらが『唐犬圖』のモデルになったのでしょう。
http://ameblo.jp/wa500/entry-11718562699.html

 

それでは日本におけるボルゾイの歴史について。

「ボルゾイらしき犬」が来日したのは、明治26年のことでした。

 

今度露國皇室より我皇陛下へ献納せられたる牝牡の猛犬は兩三日前到着、主獵局より新宿なる御料地へ送り、同地に於て畜養せらるゝ由。
此猛犬は牝牡共犢(こうし)の如く大にして、其形瘠せ顔の長尖狐の如く、牝は全身毛縮み其縮毛凝りて處々斑紋をなし、一見其の猛なるを知るべく食物は鮮牛肉のみなりと府下の諸新聞に見得しが、右種類は銃獵新書にあるグレーフオンドに似たりと云へり。

 

『献納の獵犬(明治26年)』より

 

どこをどう読んでもボルゾイなのですが、当時の日本では犬種の判別も難しかったのでしょう。

宮内省新宿猟犬舎で飼育されたこのロシア犬が、その後どうなったのかは不明です。

 

ボルゾイの輸入に関する確実な記録は、大正元年のもの。当時の東京朝日新聞に、パグやイングリッシュ・セッターと共に輸入された「ロシアン・ウルフドッグ」の写真が掲載されています(これは、近代日本におけるパグ来日の記録でもあります)。
購入者は「煙草王」こと村井吉兵衛氏で、この輸入個体は大正元年開催の畜犬共進会にも出陳されました。

 

木下豊次郎
「その共進會(※大正元年の第一回畜犬共進会)は犬の數は大して多くはなかつたが、いいものが揃つてゐた。殊に向島の人で、セント・バーナードとボルゾイを連れて來てゐたのが人目を惹いた」
伊藤治郎
「あれは村井吉兵衛さんです」
木下
「恐らくボルゾイが世に出た初めてでせう」

『總合畜犬展の過去と將來を語る(昭和14年)』より

 

 

上の画像は、村井氏が大正時代に輸入したボルゾイ。

国内繁殖もスタートし、ご覧のとおり大正2年には仔犬が誕生しています。おそらくこの系統が全国各地の資産家へ散っていったのでしょう。

大正時代には、「村井家のボルゾイ」の記録がチラホラ現れるようになっていきました。

 

帝國ノ犬達-ボルゾイ 

京濱電鐵の重役中澤重雄君は、村井茂君よりボルゾーイ種『アリー(※写真の犬)』を譲り受けて飼養したりしが、先頃遂に病死せり。本邦に未だ類少なき犬種の斃れたるは惜むべし。
 

狗佛『犬の過去帳、未來帳(大正2年)』より

 

その後、1917年にロシア革命が起きると「ボルゾイは貴族階級の犬である」としてボリシェヴィキから迫害を受けました。
……という解説を見かけるのですが、日本人による目撃談も残されています。実際は「貴族階級が云々」というより、革命による経済的困窮から飼育放棄が相次いだ様ですね。
極東エリアの話になりますが、シベリア出兵時に現地取材をしていた中根栄の証言をどうぞ。

 

西比利亜のチタにはセメノフ軍(※グレゴリー・セミョーノフのコサック軍)が本部を置いて居た。在住の露人は物資欠乏のため、喰ふや喰はずであつた。犬など養ふ餘裕はないために、愛犬をどし〃外に捨てた。
ステーシヨンは、グレート・デーンや、ボルゾヰの立派なのが、食を漁つてうろ〃として居た。私はその頃電通から特派員として、此チタに特派されて居た。
今ならば、ホテルの客室に、犬を曳き入れるなどは、到底許されるべくもない事である。併しその頃は、味噌も糞も一緒の時代である。私はステーシヨンからグレート・デンのかなり大きなのを拾つて來て、私の泊つて居るセレクト・ホテルの部屋の中につないで居た。彼は私の寝臺の下にとぐろをかいて、此假りの主人をまもり顔であつた。
或時セメノフの幕僚が、此ホテルを軍司令部か何かに使用するため、ノツクもしないでえらい劔幕で私の部屋に入つて來た。グレート・デーンはいきなり猛然と、之に飛びかゝつた。幕僚はホウ〃の態で逃げて行つた。
グレートデーンの威力は、ドアに貼りつけてある、、日章旗よりも強かつたと見える。
その頃侍從武官が、出征を慰問さるゝため、此街に見えた。出征第三師團参謀長奥村大佐は、セレクト・ホテルに私を訪ねて、侍從武官のお土産として、何かいゝものを宮中に献上したいが、適當のものはあるまいかとのことであつた。私は犬はどうですかと答へた。
先帝陛下は犬がお好きであらせられたと拝承する。奥村参謀長は至極名案、併しいゝ犬があるかとの事。
私はある露人がボルゾーイのかなり立派な仔犬を持つて居る。あれを御買取りになつて、御献上になつてはと献言した。
露人は喜んで仔犬を献上した。参謀長はその御禮として麦粉の大きな袋を、兵隊二人に担がして、之を其露人の宅に届けさせた。その頃こんな大きな麦粉の袋は、見たくとも見られない時代であつた。露人の歡喜はその極に達した。育てうべくもあらぬボルゾーイの仔犬を買い取つて貰つて、生活必要品の貴重な麦粉を貰ふ、彼等の歡喜や察すべしである。
私が仔犬の世話をしてやつたと言ふ理由をもつて、その露人は、その麦粉で何かのパイを作つて、私のホテルへ持つて來てくれた。そうして日本軍隊の仁慈を呉々も感謝して行つた。私は愛犬家たるために、偶然にも仁政の橋渡しをした譯である。

 

中根榮『チタの仔犬(昭和5年)』より

 

シベリア出兵時には、ある日本陸軍将校がボルゾイの入手を図っています。ロシア軍のザバイカル軍団を表敬訪問した彼は、「ロシア軍だからボルゾイを軍用犬にしているだろう。譲ってくれ」と交渉。

「ここにボルゾーイはいない。代わりにこの軍用犬をやる」と英国産エアデールテリアを貰って帰ってきた彼は、その魅力にとりつかれて熱烈なエアデール愛好家へ転向。

この変わり者の青年将校こそが、エアデールテリアの権威・今田荘一歩兵少佐の若き日の姿でした。



昭和8年に撮影されたボルゾイ

世界へ広がったロシアンウルフドッグは、1936年に「ボルゾイ」と改称され、ロシア国外での流通量も増加します。
しかし、戦前の日本ではアフガン・ハウンドと並ぶ高価な希少犬でした。サモエドと違い、ロシアと国境を接する南樺太や満州国経由での輸入記録も見かけません。

ロシア革命後、満州へ亡命したロシア人たちがボルゾイを連れて来たかどうかも不明。ロシアから満州へ持ち込まれたハルピン系シェパードなど、革命におけるロシア犬界と日本犬界の交流はあった筈なのですが。

 

ボルゾイ

 

戦前における有名なボルゾイのブリーダーだったのが、長崎県の麻生一郎氏。

何で九州にボルゾイが?と思われるかもしれませんが、戦前の洋犬は横浜、神戸、長崎といった国際港を中心に上陸していました。

関東大震災で国際港横浜を有する関東犬界が壊滅した後、国際港神戸を有する関西犬界が台頭。さらに、南樺太から台湾まで各地域犬界の勢力が群雄割拠する状況だったのです。

それらの中で、九州犬界はボルゾイ(長崎県)とラフコリー(鹿児島県)の一大繁殖拠点となっていました。

 

帝國ノ犬達-晴雲 

映画『晴雲』のスチルより、女優の栗島すみ子とボルゾイ(昭和8年公開)

 

我が国のボルゾイは、南樺太で国境を接するロシアではなく、ヨーロッパ経由という遠回りで輸入されることになります。

昭和に入ってその頭数を増やし、関東や九州のブリーダーが蕃殖した個体も流通していきました。
志賀直哉や橋本関雪がボルゾイを飼育していた話も有名ですね。橋本関雪のボルゾイも、関西ではなく長崎の麻生氏から購入されたものです。

九州から関西へ移ったボルゾイたちは、宝塚にある彼の別邸「冬花庵」近くで委託飼育されていました。

 

犬を飼ひ出したのはこの二月頃からです、最初は犬の繪を描きたいと思ひ、その畫材にする積りで飼つたので、別に好きで飼つた譯ではないのですが、何事も中途半端なことの嫌ひな私は、飼つてゐる中に、段々凝り出して、近頃は私がジステンパーの状態で、繪を描くどころか、一日犬の世話で過ごすやうになりました。
今日までの約半年の間に、もう三十頭も犬を手に入れました。ボルゾイは成犬六頭、仔犬七頭まで集めました。仔犬は何れも丈夫に育つてゐますが、親犬の方は三頭まで殺して仕舞ひました(※病死させてしまった、の意味)。
その死んだ方がよい犬で、惜しくて堪らず、それに代る更によい犬を手に入れたいと思つてゐますが、何分ボルゾイは御承知のやうな犬で、さうざらにゐると云ふものでないので、却々氣に入つたものが見つかりません。ボルゾイのゐると云ふところは、もう殆んど全部見て廻りました。遠くは長崎まで行きました。

この上は海外から輸入するよりほかありませんが、寫眞では安心が出來ないので、なんとかして今一度洋行したいと考へてゐます。或は來年邊り印度に行く機會があるかも知れませんが、印度まで行けばもう五十歩百歩ですから、欧州へも廻つて來やうかと考へてゐます。この前歐米へ行つた時、今日の様に犬に興味があれば、屹度いゝものを見付けたでせうが、あの頃は全然無關心だつたので犬の記憶は何も殘つてゐません。
犬は矢張りボルゾイのやうな大型の犬が好きです。繪になるやうに思ひます。これは無論その人の好み、性格、又畫風と云うたものにもよるでせうが、私は大型の犬が好きです。そして折角飼ふなら素晴しい犬、尠くも私の制作慾を唆るやうなものが飼ひたいと思つて苦勞してゐるのですが、未だ殘念ながらこれぞと思ふものに出合せません。

 

 

こちらは橋本関雪が飼っていたグレート・デーン(昭和14年撮影)

 

グレートデンも大型で却々いゝものです。これも素敵な奴を揃へたいと探してゐますが、容易に見當らないものです。
何分短期間に三十頭も飼ひましたから、その中にはいろいろのものがゐます。小型の愛玩犬も飼ひました。日本犬では柴犬を飼ひましたが、これがどうもテンパーを持つて來たらしく、間もなくボルゾイが次々と死にました。又變つた犬ではダツクスフンドも飼ひました。
今日ではもう犬が傍にいないと、なんとなく手持無沙汰のやうな物淋しさを感じて、成るべくそばに置くやうにしてゐますが、澤山の犬をさう一緒に置く譯にも参りませんし、彼等の健康のためにも相當の場所が入用なので、一部は京都に残してありますが、他は大阪郊外のいたみの別邸の方に置いてあります。そして、そこへも時々出掛けて犬と親しんでゐます。

京都では自分で犬の世話をやります。どうも人まかせでは思ふ通りになりません。朝は自分で曳き運動もやります。
 
帝國ノ犬達-ボルゾイ 
橋本関雪が愛犬を預けていた犬舎


かく犬を語る畫伯の顔には、最早往年の畫壇の反逆兒の面影は全然なく、帝室技藝員、帝院會員に相應しい温容が溢れるのみであつた。

 

橋本關雪『ボルゾイがぞつこん好き(昭和10年)』より

 

ボルゾイ倶樂部の設立を報じる記事(昭和10年)

 

ボルゾイの愛好家は次第に増え、昭和10年には愛好団体「ボルゾイ倶樂部」も結成されます。繁殖は戦時中も続けられますが、戦況の悪化と共にその姿を消してしまいました。

資産家の愛犬は邸宅の奥へ隠匿されていたため(飼育登録調査に巡回した警察官が、「お金持ちの家には、警察署へ登録されていない洋犬がたくさんいる」と驚く程でしたから)、戦争末期の本土空襲はともかく、昭和19年末のペット毛皮供出運動は回避できたのかもしれません。

日本でボルゾイの姿が再び見られるようになったのは、戦後しばらく経ってからのことでした。

 

映畫の都―、ハリウツドの女優達が最も可愛がる犬はと云へば、ボルゾイであることは誰しも認めて居る事實であるが、実際彼ボルゾイは其程優美な姿の持主である。
我國でも蒲田あたりの美しい人達(※松竹蒲田撮影所のこと)の中に、此種を愛養して居る人が相當にあるとか。名古屋の鈴木壽園氏や福岡の田口氏、横濱のラツセル氏等が愛育して居られるボルゾイは、我國に於ける此種の覇権を握つて居るものと傳へられるが、一般にコリーと同様今一息人氣が立たないやうである。
随てコリーに就て述べた不平は、此種の場合にも主張すべきである。
 

淺黄頭巾『昭和八年の犬界を顧みる』より

 

明治時代から戦後まで、仮想敵国として対峙し続けた日本とロシア。残念ながら、ボルゾイは両国をつなぐ架け橋になり得ませんでした。