紀元前にチベットあたりで誕生したパグは、中国を経てヨーロッパ各国で愛玩犬として飼育されてきました。洋犬なのか唐犬なのか、分類に困る犬でもあります。

「皺くちゃの顔が拳骨に似ていることから、ラテン語のパグナス(握りこぶし)が短縮されてパグとなった」などと、名前の由来についても諸説紛々。
パグや近縁のハパ・ドッグは昔から隣の中国にいたので、日本へ渡来した時期は結構早かったのかもしれませんね。

 

帝國ノ犬達-パグ
戦前に輸入されていたパグの写真

しかし、
相も変わらず、
例によって例の如く、
碌に調べていないのを誤魔化すため、
「日本には第二次大戦後に紹介された」などというウソが流布されております(2013年現在)。

パグの歴史に限らず「犬に関するアレコレが来日したのは戦後から~」という言葉を軽々しく用いている解説者は、戦前の記録を真面目に調べていません。調べていれば、イヤでもその表現には慎重になるハズ。

「戦後来日説」を主張するにしても、まずは戦前の日本にパグが渡来していた可能性から探るべきでしょう。
実は、近代・現代どころか、中世・近世あたりから「パグらしき犬」の来日記録は確認できます。たかが犬の話であっても、「パグが紹介されたのは戦後から~」などというデマを垂れ流されては困るのです。

 

世のペット関連メディアは、そんなデタラメ記事を読まされる愛犬家のことを考えてください。パグの歴史を知りたい人々が「何だ、戦前の記録は調べなくていいのか」と思考放棄してしまうのですよ。

犬を解説する側が犬を粗末に扱ってどうする。ふざけんなと思う次第であります。

解説者として何かしらの体裁が必要ならば「パグの来日時期は不明だが、輸入が拡大したのは戦後から」的な表現が妥当でしょう。イロイロお察ししますが、分からない事は「分からない」と書けばよいのです。

 

【パグの明治史】

 

幕末の開国と共に、我が国は海外のモノや知識を貪欲に吸収してきました。

家畜の分野も同じこと。長崎、神戸、横浜、函館などの国際港を介し、洋犬の大量輸入がスタートします。

舶来品が大好きな日本人は珍奇な洋犬に飛びつき、邦訳した洋書を介して飼育訓練の知識も共有されました。

洋犬ブームの勢いはすさまじく、鉄道が整備された明治20年代には全国へと普及。地域に根付いてきた和犬は、洋犬が入り込まない山間部に残存するのみとなりました。

こうして幕末・明治・大正・昭和と国際化へ邁進した日本に「一度もパグが輸入されなかった」などと考える方がおかしいのです。

 

それともまさか「日本の愛犬家は、幕末の黒船来航から昭和20年8月15日へ至る80年間に一切の海外情報を遮断し、パグを飼育せず、独自に鎖国を続けていた」とか本気で思っているのでしょうか?

「戦前の日本人には犬の知識がなかった」「だからパグの存在も知らなかったはず」などという主張も通用しません。

だって、明治時代の文献にはパグが掲載されていますし。

帝國ノ犬達-パグ

帝國ノ犬達-パグ
明治42年に出版された『いぬ(足立美堅著)』より、パグの図とその解説

 

日露戦争真っ只中の明治37年11月28日。熾烈を極めた二百三高地攻略戦において、一人の日本陸軍少尉が戦死します。彼の名は足立美堅といい、出征前には海外のペット誌を邦訳する程の愛犬家でした(皮肉にも、彼の戦地便りにはロシア軍用犬部隊と交戦したことが記されています)。

日露戦争後、彼の遺作は有志たちによって書籍化。その中でパグが紹介されているんですよね。

明治時代の愛犬家も、海外犬界の知識を一生懸命学んでいたのです。そして国際航路の拡大と共に、「書籍上で知られていた外国の犬」が輸入され始めました。

 

【大正以降のパグ史】

 

繰り返すように、正確なパグの来日時期は不明です。

近代における確実な輸入記録は大正元年のもので、同年の東京朝日新聞に「ボルゾイやセッターと共に輸入されたパグ」の写真が掲載されています(ちなみに、新聞に写真記事が載るようになったのは明治38年の日露戦争報道時から。それ以前はイラスト記事でした)。

第二次世界大戦後どころか、第一次世界大戦前には来日していた訳ですね。

 

朝日新聞には写真だけ掲載されていたので「何だコレ?村田吉兵衛はボルゾイと一緒にパグも輸入していたのか?」とか思っていたら、他の史料で詳しい記録を発見。

ボルゾイは予想通り村田吉兵衛が輸入したもの。パグについても、やはり大金持ちのペットでありました。

このパグは益田家の愛犬で、大正2年に開催された畜犬共進会に出陳されたそうです。出陳リストにはダックスフント、ポメラニアン、プードル、セントバーナード、マスチフなどが並んでおり、大正初期に来日していた洋犬種を知るにはナカナカ貴重な記録だったりします。

 

※残念ながら、この共進会で撮影されたのはボルゾイのみです

 

四月二十七日、東京畜犬協會主催に成れる畜犬共進會は青葉若葉の上野公園精養軒庭内に於て開會されたり。當日出品されたるは百餘頭に及び、殆ど各種類を網羅せるの觀あり。

先づ獵犬種に属するものにては、上田商店のスパニール種のジヨン、鈴木久太郎氏の同種のウイン等人目をひき、田丸氏のポインター數頭は専門家丈けに愛犬家の足を停めさせたり。

愛玩犬は割合に振はず、サンマー嬢頻りと批評を試みて居れり。

益田家のプードルとパツグとを立物にして數頭が主人公と共に陣取れる後には、村井一家の出品あり。ルツシヤン・ウルフハウンド(※ボルゾイのこと)の瀟洒たる姿は有繫(さすが)に美事なりき。坂を下つて番犬、鬪犬の埒に入れば、此所はまた雄大と猛烈とを競つて、牙を嚙み鳴らすも勇ましく、田岡氏のハチ(土佐)、尾州のチヨコ(土佐)、小林のタケ(英國ブル)など孰れも立派にて、猪飼氏の土佐産數頭亦優れたり。但し、雄大を極めたのは、村井氏のセントバーナード、西尾氏の同種の短毛種及、瀧田氏のマスチーフ等は兎角の批評はあれど名犬の貫目充分なりき。

 

『上野の畜犬共進會(大正2年)』より

 

上記に出てくる「益田家」とは、三井物産創業者益田孝の次男・劇作家の益田太郎冠者のことです。

益田家のパグは、太郎冠者の作品に出演した女優・森律子がヨーロッパ旅行土産として連れ帰ったものでした。

 

扨、猛烈な勢で發展して來た犬熱は、近ごろ縉紳(しんし)向の道樂として餘ほどの領域を占めて來た。

新種の名犬を輸入する點に於て愛犬家中に覇を唱へて居る益田太郎氏、今春英國から猛獸狩に使ふグレドデン種の牡牝を輸入し、日本に始て來た名犬として愛犬界の垂涎の的となつて居る外、同家のプードル、パツグの兩種は森律子が洋行中に手に入れて來たのを娶して、パツグは既に子を産み夫婦者のコリー胤も近頃四郎の子を産んだ。

又昨年同家から陛下に献上したブルテリアの兄弟カイロー君(二さい)は先頃博覧會に出品されて居たが、其當時に隣合せの犬舎に居る自分より三倍もある土佐産の猛犬と嚙合つて敵手を辟易させ、愛犬界の大評判となつたので、主人公の冠者氏は眼を細くして大得意である。

 

『獵犬(大正3年)』より

 

太郎冠者のパグは、後に大阪の知人へと寄贈されました。その後の関西犬界に子孫を残したかどうかは不明。

 

何時かも愛犬家が上流に殖えて來たといつたことから、東京益田太郎冠者氏の犬のことをも記したことがありました。當地は新町の幇間の叶丸は冠者の大の贔屓。

又この叶丸が昔からの犬氣○ひ。

さるによつて冠者秘藏のパツグ種の一匹を頂戴に及び、主君の若殿を守り育てゝゐるやうな騒ぎで大事がつてゐました處、東京からその方の犬忠義に免じ、もう一匹秘藏の犬を贈る。これは英國産の番犬で、頗る稀有の種。二十二日午前十時、梅田へ着くから受取りに自身赴くべしと冠者からの手紙。

何んでもその犬は犢(子牛)ほどあつて他の犬さへ見れば片端から喰付くよしや、人力車やタクシーに乗せても道で犬を見れば飛んで降りて咽首をガブリとやること受合ひ、その積りで連れて歸るが好いとあつて叶丸忽ち青くなりました。

千辛萬苦の末連れて戻つても例のパツグがゐます。

こいつが又利かぬ氣の奴で、いくら自分より大きな犬にでも關はず飛付く難物。どちらに怪我あつても益田さんに相済まず、第一梅田からの戻りが心配。手紙を受取つて以來、一兩日の間に叶丸はメツキリ痩せてゐます。

惡戯好きの冠者は、又當地の知人に手紙を送り、二十二日の午前叶丸が梅田から犬を連れて戻る途中の苦心をどうか素知らぬ顔で見物あるべしと通知状を發せられたさうです。

叶丸がどうして連れて歸りましたか、いづれ後聞に。

 

大阪時事『太郎冠者犬責譚(大正6年)』より

 

大正2年には、日本陸軍歩兵学校が編纂した軍用犬研究レポートの候補犬リストにも「パッグ」が掲載されています(日本軍が本気でパグを採用する筈がなく、同校が諸外国の犬種リストに参考例として記載しただけ)。

公的機関の文書にパグが取り上げられたのは、これが最初でしょう。

 

帝國ノ犬達-歩兵学校 

パグが掲載された日本陸軍の研究レポート(大正2年度)。直後に勃発した青島攻略戦を機にシェパードが来日したため、このリストに載っていた品種が日本軍に採用されることはありませんでした。

※日本陸軍が軍用犬研究をスタートしたのは大正8年度ですが、情報収集には大正2年度から着手しています。

 

その後のパグは、低空飛行状態が続きます。

座敷犬として人気だった日本テリアや狆、続くイングリッシュ・ブルドッグの大流行(大正後期~昭和初期)に圧倒されて、日本では勢力を拡大することができませんでした。

さらに、昭和に入ると新たな洋犬が続々と来日。現代の人気品種であるパグ、フレンチブルドッグ、トイプードル、ダックスフントは少数派にとどまり、愛玩品種の中心はスコッチテリア、フォックステリア、コッカースパニエル、マルチーズ、ワイヤーヘアードテリアなどへ移ってしまいます。

 

ペット商のカタログで調べたら、昭和2年に販売されていたパグを確認できました。一頭120円也。

この時期からブルドッグが衰退し、スコッチ、ワイヤー、日本犬などが隆盛していきます。後年に国策として飼育が奨励されるシェパード、エアデールテリア、ドーベルマンといった軍用適種犬も、満州事変以前の段階では軍事分野でなく一般のペットブームの範疇で捉えるべきでしょう。

……ダルメシアンって、大正時代以降も輸入が続いていたのね。

 

戦前のパグに関する証言は、他にも幾つか残されています。

「今では餘り見えないけれど、三十年前はパグの優秀なものが、東京には澤山見受けられた(『明治から昭和へ犬種今昔物語』より・昭和12年)」と日本犬協会理事の高久兵四郎が記しているとおり、大規模輸入の第一波は明治~大正時代だと思って差支えないでしょう。

しかし、戦前のペット業界でパグが流行していた形跡は一切無し。ブルドッグのように愛好団体が結成されたこともなく、当時のペット商での大規模流通や専門ブリーダーの存在は確認できません。

 

実際、近代ペット界が最盛期を迎えた日中戦争前になっても、パグは地味な存在のままでした。

昭和10年に警視庁へ飼育登録された(昭和26年以前の畜犬行政は、保健所ではなく警察の管轄でした)東京エリアの小型愛玩犬を見ても、狆261頭、日本テリア5316頭、フォックステリア877頭、スコッチテリア64頭、コッカースパニエル111頭、ブルドッグ216頭、ダックスフント15頭、プードル7頭、マルチーズ53頭、ポメラニアン20頭、ボストンテリアとスピッツ各1頭に対し、パグの記録はゼロ。

チワワやフレンチブルと同じく、関東では昭和初期で輸入が途絶えてしまったのでしょう。

 

大正12年の関東大震災によって、国際港横浜を有する関東犬界は壊滅。洋犬輸入窓口は国際港神戸・門司・長崎を有する西日本犬界へ移り「東京の人間が審査し、大阪の犬が受賞する」と揶揄される状況となります(昭和元年の港別洋犬輸入頭数は神戸、門司、横濱、長崎、大阪、小樽、敦賀、函館の順番)。

しかし、西日本エリアでパグが大流行した記録もありません。

このように希少な犬だったことは確かですが、「パグの初来日は第二次大戦後」という通説が誤りであることも同じく確かです。

パグを飼いたい人にとっては、ナカナカ苦労の多い時代だったワケですね。こんな感じで↓

 

パツグ(小型犬)

本種は原産は不明だが、久しい間和蘭に於て盛に飼育せられて同國で良種が造られてあつた。容貌やからだの格好が誠によくマステイフに似て居るけれども、性質は至つて隠順で且つ非常に聡明である。

人に反抗して咬み付くやうなことが無いから子供さん方の相手としては最も適したもので、且つ藝も非常によく覺える。教へやうによつてはどんな藝でもやり得るので、外國では此犬を用ゐて演藝などをやらせて居る。

毛も至つて短いから、抜毛のために座敷を汚したり、皮膚病の厄介を見ることが少ない。體格も骨太で頑丈に出來て居て體質も丈夫である。毛色は黑色のものと鹿毛のものと二種ある。

本種の我が國に輸入せられて居るものは至つて少く、手に入れるのは困難であるけれども、家庭の趣味的訓練犬として理想的のものに思はれるから特に擧げて置くわけである。

實は筆者も良種を得たいと思つて探して居るけれども殘念ながら未だ入手することが出來ない。同好者と相謀つて其中になんとかして本種を輸入して見やうと思つて居る。

價格は成犬で百五十圓から二、三百圓位である。

 

亀谷徳兵衛『趣味としての家庭犬の訓練について(昭和10年)』より

 

日中戦争が激化すると、軍需物資優先で高価な洋犬の輸入は制限されるようになります。そして太平洋戦争突入と共に、欧米からの畜犬輸入ルートは完全に途絶しました。

マルチーズやスコッチテリアなどの人気犬種は、輸入が途絶えた戦時中も国内ブリード個体が流通し続けます。しかし、もともと頭数が少なかったパグは現状維持すら不可能でした。

戦況が悪化した昭和19年、近代日本犬界は崩壊。戦時食糧難、米軍の本土空襲、そしてペット毛皮献納運動によって、夥しい数の犬たちが犠牲となりました。

 

流行犬種になることもなく、戦時体制突入前にひっそりと消えていった近代日本のパグ。15年間に亘る戦争と、それに続く10年間の戦後復興期の混乱を経て、日本人は戦前のパグたちを忘れ去ります。

戦後世代の愛犬家もパグの調査を放棄。「戦前の記録を調べるのが面倒くさい」という呆れた理由で「戦後に来日したことで誤魔化そう」と嘘を重ねてきました。

パグの歴史を解説する者が「お前たちは存在しなかった」と戦前のパグを黙殺したのです。

真にパグを愛する人々は、そろそろ自国のパグ史を真面目に辿ってみては如何でしょうか。海外のパグ史ばっかり眺めていないでね。