「そこで私の發案で付近の野良犬を三百頭も集め、日々牛を何頭か殺して食物に與へ、そしてこの犬達に生蕃(※台湾山岳民族の蔑称)の服装をさせた熟蕃に矢鱈に噛付かせることを教へ、その犬を警戒線に引率する事にした。生蕃は射撃に妙を得てゐるけれども、蕃銃は十間位しか届かない。そこで如何に上手にかくれてゐても、直に犬に發見されて、その後は殆んど被害がなくなつたものである。この時私の貰つた辞令は、『捜索犬調教事務を託す』であつた」
田丸亭之助 昭和9年

 

帝國ノ犬達-PH1
隘勇線警備の台湾警官隊と謎の洋犬。(明治45年・大正元年撮影)

 

日本の場合、「警察犬(けいさついぬ)」が知られるようになったのは明治後期のこと。海外の報道や文献が流入したことで、この手の知識も得られるようになったのです。

 

「明治四十一年八月の事なりき。予は英國に於ける警察犬と題して一編の談話體記事を「法律新聞」紙上に物したることあり。當時外國の新 刊雑誌を見もて行くうちに、如上の記事の眼に触れたりければ、外國には、斯る面白き制度もあるものよと、幾部分物數寄の感に駆られて之を江湖に紹介したる考なりしが、并が動機となりしか否か、其後司法警察等に関係ある専門雑誌は勿論、時として日刊新聞までが、此警察犬の事を書立てゝ、讀者に報道するに至り しは、予の聊か意外とする處にして、其後予は機會のある度毎に此方面の研究に従事せし結果、今日にては外國の制度其物に付て、多少有益なる智識を積むに至りしは、大に予の本懐とする處なり」
法律新聞記者 安東鶴城 明治45年

 

驚く事に、西洋の警察犬については子供も知っていたんですよ。

 

「犬と猫、秀吉と家康との如き對比だ。犬の怒號は三軍を叱咤する秀吉の嚮聲の如く、猫の眼光は大坂を狙ふ大御所の眼のやうだ。
彼に盗賊を嚇すの勇あれば、此に鼠を捕ふるの智がある。その勇も時に早りては兎を逸して主公のステツキを被り、その智も過ぎては魚を盗むで下女の追撃に會ふ。
家庭の両雄の優劣は判じ難いが、僕は因循なる猫将軍より快活なる犬関白を好む。其の用多く、且功大なるが爲に。
猫が芋の端を盗む鼠を捕へるのと、犬が秘蔵の衣類を盗む盗賊を叱り退けるのとは、素より同日の論ではない。雪に凍えた旅人を救ふアルプスの犬の如き働きは、僅かの寒さを炬燵の上に避ける猫共の及びも付かぬ所だ。雪の朝、車の先を引く犬も有れば、凩の夕、羊を追つて帰る怜悧な牧羊犬もある。
警察犬が犯人を追ふ爽快な様は、活動写真で大喝采を得て居るではないか。
白瀬中尉も勇猛な樺太犬によつて、軈て南極の氷上に日章旗を立てるだらう。鼠を捕るより用のない猫よ。有用なる犬を見て、愧ずる所はないか」

岡山縣児島郡 藤原律太 十四歳九箇月『特別作文・犬と猫とは何れが有用か』より 明治43年

 

子供でも知っていたのですから、警察なら尚更です。

当の警察関係者による見解は下記のとおり。

 

「古來犬の霊智妙性を人類の實用的方面に利用したるの事例は極めて多し。殊に欧米諸國に於て犯罪捜査の補助機関として犬を使用する制度の存在することは、予の久しく耳にする處にして、這ば犯罪の方法日を逐ふて巧妙を極め、其検挙甚だしく困難を感ずる。我國の現状に於て、少なくとも参考用として相當の研究に値すべきことゝ常に予の念頭に浮びたる處なり。
明治四十五年六月」
警視總監 安楽兼道

 

「近時犯罪の方法、頗る智巧を極め、随つて之れが捜査検挙、亦甚だ容易ならざるものあるは、司法警察官の毎ねに心を痛むる處なり。

曩者余官命を奉じて、欧米諸國の警察制度を調査し、其の地に於て親しく犯罪人の捜査及び警官の防衛に犬を使用するを目視し、且つ其の効果の多きに感じたり。帰朝以來公務匇忙、未だ細かに考量を其間に加ふる能はず。毎ねに持って憾と爲せり。

明治四十五年六月」

警視廳第一部長 警視法学士 太田政弘 

 

そして大正元年、警視廳はイギリスから輸入した警察犬2頭を採用。一般には「これが日本最初の警察犬である」と解説されています。

正確には、「日本列島で採用された最初の警察犬」ですけどね。

 

近代日本とは、「内地(日本列島)」と「外地(南樺太、台湾、朝鮮半島、関東州など)」を含んだエリアのこと。そちらで俯瞰した場合、日本の警察犬史は全く違う様相を呈します。

実は、警視庁が警察犬を採用する以前にも11頭の警察犬が存在していました。

まずは、台湾総督府警察斥候犬の話から始めましょう。

 

【台湾総督府の犬たち】


犬
台湾にて討伐作戦訓練中の捜索犬

日本の警察犬史は、明治時代の台湾に於いて始まりました。

明治28年より日本の統治下に置かれた台湾では、激しい抗日運動が展開されます。抗日運動といっても内容は様々であり、当初は日本の統治に対する軍事的抵抗から大陸から潜入した活動家や共産主義者による扇動へ。そして山岳民族による抗日蜂起などへ移行していきました。

 

特に酸鼻を極めたのが、山岳民族との武力衝突です。

台湾の山岳民族は、平野部に在住する「平埔蕃(平埔族)」に対して「生蕃・蕃人(高砂族。後の高山族)」の蔑称で差別されており、太平洋戦争中は日本軍と共に闘った彼等も、当初は日本人に対する敵意を剥き出しにしています。

現在ではかなり細分化されていますが、当時はタイヤル(約34000名)、サイシャット(1400名)、ブヌン(17900名)、ツォウ(2200名)、 パイワン(41900名)、アミ(45100名)、ヤミ(1700名)といった部族に大別され、中でもタイヤル、ブヌン、パイワン族はその勇猛さで知られ ていました。

元々部族間での抗争(“出草”と呼ばれる首刈りの風習が有名です)があった為に高砂族側も一枚岩ではなく、日本の統治に従った蕃社や徹底抗戦した蕃社など、その対応は様々でした。
日本の前に台湾を治めていた清国は、台湾の蕃地(山地)と平地の境界に「隘制」「隘勇線」と称する防衛ラインを構築。乙未戦争の勝利により台湾を手に入れた日本も、清国の隘勇線をそのまま引き継ぎました。

「蕃地外縁に『土牛』或いは『紅線』と称させる屯所を築き、それを連ねて『隘勇線』を設け、官費或いは住民の醵金で傭った『隘勇』と称される台湾人の壮丁を配置して蕃害を防止する(向山寛夫『台湾高砂族の抗日蜂起 霧社事件』より)」と記されています。

 

帝國ノ犬達-taiwan1

隘勇線沿いに構築された電気柵(明治45年、台湾総督府蕃務署撮影)

 

帝國ノ犬達-taiwan2

隘勇線で緊急出動訓練を行う台湾警官隊(〃)。

 

日本の隘勇線は、森林を切り開いての射界確保、電話線網や電気柵の構築、火力拠点の配置などと近代化されました。
台湾総督府は、日本側に従った「帰順蕃」に対しては寛大な措置をとった反面、抵抗を続ける蕃社に対しては徹底的な殲滅戦で抑え込みを図ります。しかし事態の沈静化には至らず、警察官や日本人入植者への襲撃殺傷事件は後を絶ちませんでした。霧社事件を含め、長年に亘る暴力の応酬によって双方には多数の犠牲者が出ています。
山砲・迫撃砲・機関銃・航空機といった近代兵器で武装した日本軍や警察部隊が動員され、度重なる討伐作戦が行われました。しかし、奇襲を仕掛けては密林に姿を消す、山岳戦に長けた高砂族相手の戦いは容易ではありませんでした。

 

「昭和五年十月の霧社蕃討伐に従軍した際、穴を掘り、掩壕を造り、銃眼を設け、我が軍の築城法に毫も違はぬ陣地を発見して、私は驚嘆してしまひました。竹槍を急坂の草の中に植ゑ、大石を棚の上に載せて落棚を設けたり、或は咬人狗、咬人猫とも云ふ毒草を路上に植ゑて防御していた昔とは格段の相違ですが、そ れでも未だ『飛行機は夜も飛べるのか』と不思議がつたりする始末です」

歩兵上等兵竹鼻清『霧社蕃討伐従軍記』より、昭和10年

 

帝國ノ犬達-台湾

 

高砂族の戦士は地形を巧みに利用し、昼間は狙撃、夜間は蕃刀を手に斬り込むゲリラ戦術で日本側を翻弄。戦闘の様子は下記のように記されていますが、実態は更に凄惨なものでした。

 

「少數にして武器亦充實ならざるべき筈の敵蕃は、此我大威力に何等恐怖するなく、數人づゝの小部隊に岐れ、山猿同様山地を奔馳するに慣れたる彼蕃丁等は、殆んど単獨戰の形式をとりて巧みに要害に散兵し、數間の近くに我れを引寄せ、狙撃をなすと同時に他の刀隊のもの飛込み來りて之れを馘首し去ること實に妙を得たり(發弾より馘首迄僅かに幾分を不過と云ふ)。其他時々我前進作業中へ奇襲を試み、我の一箇分隊即ち約一箇の小隊程を全滅に帰せしむる事さへ珍しからず。其他我が山腹もしくは崖下を通過するを計り、或仕掛けを以て、上方より一時に多數の岩石を落下せしめ大損害を加ふるの奇策を弄する等一般彼等は天嶮と地物の利を有するを以て、我が隊の悪戰苦闘殆ど名状すべからず(大正元年)」

 

【蕃人捜索犬の登場】

 

思わぬ苦戦を強いられていた日本陸軍及び台湾警察ですが、山岳ゲリラ戦への対抗手段も色々と講じられていました。
特に、明治43年の佐久間提督就任より理蕃政策に多大な予算と人員が投入され始めます。
同年9月13日、台湾総督府民政部蕃務本署は、「畜犬を飼訓して、生蕃討伐の際其の先発隊に蕃人捜索の目的に供用せん為め」として、“蕃人捜索犬”と称する警察犬の訓練を開始しました。

 

犬を採用する切っ掛けは、下記の様な出来事だったといいます。

▲奇縁の飼初
理蕃部が此有益なる捜索犬を飼育するに至れる動機は恰も四十三年春、飯島警部が隘勇線を巡回する途次、一頭の野犬尾を振つて飄然警部を慕ひ來れるより、愛犬家の警部は其儘放つに忍びず巡回を継続する内、其野犬は隘勇線の鐵条網に添うて幅三四十間宛雑草雑木を苅除せる平地より彼方の茂地に出没して駆け回り、 何物か漁り歩く様の何物にか利用し得べく見えしより、遂に茂みに隠れたる敵蕃を捜索せしめ襲來に備へんとほ思ひ附けるなり。
▲苦心の教練
恰も好し、當時理蕃部にても捜索犬使役問題起り、警部に命令下りたるより直ちに四方よりポインター及びブロードタンドの雑種犬五頭を貰ひ集め、之を隘勇線附近の小高き場所に連れ出し、當初は通行人と見れば唆し蒐けて猛烈に吠えしめたり。然るに、初めは唆し蒐けつゝありたるものが、遂には今にも咬み付き飛び蒐る様の勢にて、通行人さえ見れば吠ゆるに至りしにぞ次で十字街の曲角に連れ行き、不意に角より現はるゝ人に吠えしむる練習をなせり。其練習の卒業後は一本道に連れ出して一隘勇を変装せしめ、右手の茂地三間許り奥に隠れしめて二丁程此方より犬を放つに、犬は驀然に突進して其附近に至り、発見すると共に吟々と吠え立て怒り立つ。
斯くして漸く仕込みたるものにて嗅覚は年月を経るに従つて強烈となり、昨今は一度敵蕃を發見して吠え立つれば、間もなく帰営するに至れりと(報知新聞より、大正元年)」
 

明治43年から翌年にかけて、蕃務本署は台湾と神奈川県から11頭の犬を購入。下記は購入された犬達です。ブロート雑種とはブラッドハウンドの事でしょうか?

 

PH2

※ポケを「ポチ」、ルンを「シン」と記載している史料もあります。

 

ゴウとジャックが高価なのは、神奈川からの輸送費込の為。
購買は何回かに分けて行われた為、先ずは43年9月より、成犬ジョン、ベル、ポチ、ボス、エスの5頭に対して訓練が開始されました。
44年3月に台湾へ到着したゴウとジャック、また、未成犬のキング、ライト、タン、ルンは「生後六ケ月ニ満タザルニ依リ教習セズ」という事で、第一線への配備は大幅に遅れます。

 

これら台湾警察犬の馴犬所(訓練所)は、台中庁下東勢角支庁隘勇線牛欄坑監督所に設置されました。蕃人捜索犬教養期間は1年間とし、第1期及び第2期の修業が各々3ヶ月間、第3期の修業は6ヶ月間となっています。

 

第一期教習課目
(イ)犬舎の記憶

教養せんとする各犬は給与したる自己の犬舎を記憶せしめ、他犬の住居を侵さゞることを教習す。
(ロ)残留犬の静粛
友犬の外出に際し静粛に残留し、又は實地演習に出るの際、友犬と分離して或る場所に一時停止残留することを教習す。
「座レ」の命令にて犬の尾頭骨部を押して後脚を折り前脚を直立せしめて蹲踞せしむ。
「待テ」の命令にて犬を一定の場所に五分間乃至十分間停止静座せしめ漸次停止の時間を延長して二十分乃至三十分間宛練習せしむ。
「善シ」の言語にて以上の命令を解除す。
(ハ)指揮者に犬の随従方
常時の引率は犬を指揮者の左右膝関節後方又は側方に随従することを練習す。
(ニ)道路直進
元來犬は其の本能性をして道路を行進する際路上のみを直進すること稀れにして、常に左右側方に嗅索し、時に茅草中に入り禽獣類を追嗅するの癖を有するものなれば不知不識の間に此の癖に馴致して蕃人捜査の本能を忘却するものなれば、此の癖を矯正せん爲め、道路を直進することを練習す。
道路直進の際は犬は指揮者より二町(約220メートル)乃至三町前を進行せしむることを練習す。
(ホ)視覚聴覚に因る仮装蕃人誰何
視覚に依り仮装蕃人を發見誰何せしむる方法は異装せる仮装蕃人を設け犬を距ること二十間(約37メートル)乃至三十間屈曲せる路上又は坂路に停留せしめて、教習犬をして其の仮装蕃人に疑を抱かしむると同時に吠へ掛らしむ。聴覚上より教習せしむるものは仮装蕃人を犬の進行すべき道路に沿ひたる路傍の茅草中に潜伏せしめ、犬の前進し來るを待て周囲の草木を動揺して犬に疑心を湧起せしめて其の茅草中へ吠へ掛らしむ。
(ヘ)仮装蕃人を嗅覚上より發見
仮装蕃人を嗅覚にて發見することを練習するには、初め図に示すが如く指揮者は犬を牽引して道路を行進し、経路との分岐点に至り静かに犬の繋鎖を解き、犬を経路に向け指揮者は右手を以て指示し仮装蕃人の潜伏を暗示す。犬は其の暗示に応じて前進せんとするも左手を以て犬の頸下部に當る頸輪を押へて直に犬を放され再三侵入を暗示して充分捜索犬の気力激奮し來るを待て驀進せしむ。
指揮者は指示點にありて犬の吠聲を聴かば直に警笛を鳴して犬に復帰を命ず。
發見されたる蕃人は捜索犬の復帰するを見計ひ、携帯する蕃人臭ある臭布を地上に引き摺りつゝ逸早く遁走するが故に更に捜索犬をして之を逐跡せしむ。逐跡して仮装蕃人を發見する場合は、喧聲を上ぐれば前回の如く警笛を鳴して犬に復帰を命ず。

 


訓練

中央獣医會『蕃人捜索犬訓練圖』より  大正4年

 

第二期教習課目
(イ)銃聲馴致
捜索犬を距ること約三百米突の距離に一名乃至二名の隘勇又は仮装蕃人を置き、捜索犬に彼れを熟視せしめ指揮者は犬の頸輪を左手に押へつゝ、使嗾して犬の気合の熟するを見て、指揮者は右手を挙げて發砲者に相圖を為せば、仮装蕃人は此の相圖に依り發砲するが故、指揮者は發砲者に向て使嗾すべし。犬は其の使嗾に応じて仮装蕃人に吠掛るべく猛進すれば直に警笛を鳴して捜索犬を中途より呼戻すことを練習す。
(ロ)河川を泅泳或は徒渉して彼岸捜索
討蕃前進中河川に遭遇し彼岸の捜索の必要あるを以て之の任務を遂行せしむることを教習するにあり。此の練習は予め仮装蕃人は河川のある場所を見計ひ臭布を引き摺りつゝ、河岸に下り其の臭跡を残し河を渡渉して彼岸の茅草中又は樹林中に潜伏するを見計ひ、其の臭気を逐跡して發見せしむることを練習せしむ。
(ハ)月夜の捜索、闇夜の捜索、暴風雨時の捜索
以上三種の捜索を練習せしむるには、指揮者は先づ犬舎に行きて突習せんとする犬のみを同伴し、自己の室内に入らしめたる後、指揮者は外出の準備を爲し終わりて何事が湧起したることを犬に感知せしむることを練習す。(捜索順序前に同じ)。
(ニ)一人の指揮者に四頭の犬を牽き、同時に左右両面に各個二頭宛索進せしむることを練習す。

 

第三期教習課目
記録が残っていません。

 

結構高度な訓練内容ですが、いきなりこのレベルの教範を完成させられる訳がありません。配備前から、蕃務署では警察犬の研究をしていた筈です。
しかし、明治といえば犬の訓練教本など数える程しかない時代。想像に頼るしかありませんが、外国からの参考文献購入や専門家による指導などもあったのでしょうか。

 

【眉原社掃討作戦】

 

彼等が実戦投入されたのは明治44年のこと。この年、南投庁及び台中庁警察合同による眉原山地での抗日蜂起鎮圧作戦が開始されます。
同年春より南投庁警察隊が眉原山を砲撃、一旦は眉原社を奥地へ撃退しますが、「蕃人等は地勢の嶮を恃み、巧に隠見出没し、稍もすれば砲撃の困難なるに乗じ時々出草し凶害を逞ふし警備員に危害を与ふる事少なからざる」とあるように、それ以降も小規模な衝突は繰り返されていました。

その頃、台中庁下にある阿冷(アラン)社蕃でも不穏な動きが見られる様になります。尾形山隘勇線外での捜索行動の際、一旦銃器を引き渡して帰順の意思を示した彼等ですが、眉原社の戦いに触発され再び武器を手にしようとしていました。
眉原社の制圧には、阿冷社の動きを牽制する目的もあったのです。

 

この作戦には、555名の警察官と5頭の警察犬が動員される計画でした。
台中庁隊では、保有する11頭の中から1年間の訓練を完了したジョン、ベル、ポチ、ボス、エスの投入を決定。しかし、ボス号は妊娠している事が判明した為、直前になって作戦から外されてしまいました。

 

10月5日、眉原社潜伏地点に対して南投庁警察隊が攻撃を開始。同時に、4頭の警察犬を連れた台中庁警察隊も別ルートで出撃しました。
台中庁隊は白冷隘勇線監督所から大甲渓左岸に沿って出発、クラスワタン部落経由で檜山を占領後、姑大山支脉の峻険な高地を踏破しつつ前進。
この迂回行動は、眉原社の裏をかく為のものでした。

隘勇線正面から進攻してくる南投庁隊に対し、眉原社は激しく応戦します。その戦法はいつもの通り、山岳地帯で動きの鈍る日本隊をゲリラ戦術で撹乱疲弊させ、出血を強いるというものでした。南投庁隊の損害は大きく、戦闘によって33名の警官が殉職しています。
しかし、これは日本側の陽動作戦でした。
10月7日、眉原社の背後に回り込んだ台中庁警察隊は、警察犬ジョン、ベル、ポチを尖兵として一斉攻撃を開始します。

 

南投庁隊との戦いに気をとられていた眉原社は、完全に虚を衝かれました。

 

「七日の行動の如きは僅かに二食を取り、一食は南投隊との連絡後に得んとの勇氣と自信とを以て三頭の捜索犬を最先頭として猛進し、急遽背面を衝きたる為め、彼等の周章狼狽一方ならず家財は勿論、唯一の生命と頼める銃砲弾薬をも打捨て逃走せる如き未だ嘗て先例なき有様を呈せり。就中一笑に附したきは飯米等未だ鍋中に亦暖き飯の茶碗に盛りたる儘等、誠に其の恐怖の度著しき者ありしと」
SN生編『蕃人捜索犬』より 明治44年

 

台中庁隊は警察犬を周辺の渓谷に降ろして追撃にあたらせますが、武器を失った眉原社の戦士は密林の奥へと姿を消しました。南投庁隊との合流を急ぐ本郷部隊長は、敵掩堡附近の捜索を打ち切って前進を命じます。

 

先に「この作戦に投入されたのは4頭」と書きましたが、上記引用文中ではジョン、ベル、ポチの「三頭の捜索犬」となっていますね。
実はこの時、4頭目のエス号は発情によって任務遂行不可能と判断され、途中で教習所へ戻されてしまいました。他の資料では「ボス号は刻下妊娠の爲め使用すること能はざりき、エス号は前進中より發情の為め教養所に遁走し帰りたり」と書かれています。
いくら訓練されていたとはいえ、本能には逆らえなかったのでしょう。

 

討伐作戦に話を戻します。

警察犬係の藤山巡査は警笛で犬達を呼び寄せ、前進する部隊の先頭に配置しました。最初の交戦地点から1㎞程移動した時、左方森林中を先行偵察していた警察犬が突如咆哮。そのまま何者かを追って斜面を駆けおりていきました。
警官隊も突撃したところ、細木を蕃刀で薙ぎ倒した真新しい痕跡を発見。しかし不審者の捕捉には至らず、藤村巡査に呼び戻された3頭は、前進を続ける部隊の斥候として再度放たれます。
やがて日没となりますが、南投庁隊の現在位置は不明でした。音響信号弾を発射して連絡を試みるも反応は無く、台中庁隊は闇に包まれた密林の中を会合地点へ向けて急ぎます。
その時、1頭の警察犬が別の敵を探知しました。
前方で警察犬が吠えるのを聞いた本郷隊長は、直ちに突撃を命じます。闇の中、敵を追跡する犬の吠声は左側の谷底へと落ちて行きますが、一向に戦闘が始まる気配はありません。前進を促すかの様に戻ってきた犬の後を追い、警官隊は稜線を進みました。
その行く手に、十数軒の小屋が現れます。
捜索の結果、焚火の跡と炊事の途中で放棄された鍋、苧麻(からむし)などが入った背負籠多数を発見。台中庁隊の接近を知った住民は、慌てて逃げ去った後でした。
眉原社側は既に戦意を喪失していると見られ、この後も接敵は無いまま台中庁隊は会合地点へと到着。山麓一帯に布陣していた南投庁隊と互いに音響信号弾を発射しつつ合流します。
周辺地域から眉原社蕃の敗走を確認し、作戦を終了したのは10月7日19時30分の事でした。

 

33名の犠牲者を出した南投庁隊に比べ、台中庁隊は病に斃れた12名を除き戦死者はゼロ。警察犬を使えば、対ゲリラ戦にも一定の効果があることを証明出来たのです。

 

「捜索犬及音響信號の應用は豫て研究中に属したりしが、實際に行はれしは今回を以て嚆矢とす。而して其の成績は台中隊前進行動に於て實験せられ、而かも二つながら殆ど遺憾なきの一大良試を得たるは台中前進行動の成功と共に永久に賞揚し祝福すべく、同時に此の二大使用に依つて今後の討蕃上稗隘する所少ならざるものと思惟す(同上)」

 

奇しくも同年同時期、インド北部にてイギリス軍グルカ連隊が山岳斥候犬を使った対ゲリラ作戦を行っています(これは単なる偶然の一致でした)。1911年に台湾とインドで行われた作戦は、専門訓練を受けた斥候犬を対ゲリラ戦に投入した世界初の事例といって良いでしょう。
しかし、蕃人捜索犬の運用について、内地の軍・警察関係者の間では殆ど話題になりませんでした25年ほど後になってから、「蕃人捜索犬實地応用」として帝国軍用犬協会が取り上げた程度です。

 

大正元年には台湾警察犬の数も16頭に増加。大正2年になると、神戸から専門のハンドラーを招いて本格的な警察犬訓練が開始されました。
ヨーロッパで猟犬の訓練法を学んだ田丸訓練士は、その著書の中で下記のように記しています。


「大正2年、故佐久間台湾総督の招きで渡臺し、台中県東勢角支庁牛欄抗隘勇線に於て、係りの警部二名と共に討蕃犬の養成に努めたことがある。當時討蕃に際して最も困難を感じたのは、蕃族が密林中に隠れて討蕃隊の通過するを待ち受け、巧みに之れを射撃する事であつたから、之れに對し警察犬を採用しようといふ總督の意見に基いたのであるが、警察犬といふものゝ、半ば軍用斥候犬の性質を帯びたものであつた。予は此の訓練に着手するに當り、先ず第一に生蕃特有の体質と、彼等が常用する一種厭ふべき煙草の臭氣が衣類に沁み込んでゐる事に着目した。
依つて生蕃の着用してゐた例の赤い衣類を、隘勇に着せて化装生蕃を拵へ、第一にその足跡を追はして見た。これに成功して次はその化装生蕃を密林中に隠して着衣の臭氣により捜索せしめた處、之れも容易に發見することが出來た。
今度は帰順蕃の捜索にかゝらし、愈可能と認めたので、最後に討蕃隊に連行して真物の生蕃を予知するに至つたのである。目下其等の犬は彼の地で飯島警部が専ら使用して、相當の成績を挙げてゐると聞いている」

田丸亭之助著『畜犬標準書』より 大正4年

 

大正時代になると、台湾駐留の陸軍部隊でも高砂族討伐作戦の際に番犬を帯同し始めていました。警察犬や軍用犬の投入は一定の成果があったものの、事態が好転した訳ではありません。
台湾での抗日蜂起は明治・大正・昭和を通じて何度も発生し、犠牲者は増え続けました。

 

後藤新平による治安平定が成し遂げられた後、日本同化政策が進む台湾でこれらの警察犬は本来の犯罪捜査任務で使われるようになっていきます。

 

高雄市には警察犬協会も設立され、警察犬ビロー号などが活躍しました。




「我國には未だ此制度を採用せず、且つ亦之れを採用せんとするの風聞をさへ耳にせざれども、早晩之を必要とするの時期に到着するは言はずして明なり。
即ち警察犬の如きが前述の如く、多少世人の注意を惹くに至れるは、明かに此傾向の端緒を示せるものにして、殊に近來の如く犯罪の方法巧妙を極め、之れが捜索に頗る困難を感ずるに際しては、警察に於て何等かの有力なる補助を得るにあらざれば、決して人民保護の職責を盡くす能はざるなり。
現に彼の指紋法の如きも此處三、四年前迄は、一般世人の夢想にだに上ることなかりしも、賢明なる當局者は大に外國の制度に見る處あり。僅々一両年の中に調査を遂げて之を採用し、目下犯罪人検挙上には一大功績を挙げつゝあるに非ずや、又軍隊の方面より言ふも、近世に於ける戦術の変化は、其結果として負傷兵の蒐集と敵状偵察とを益困難ならしめ、少くとも人類以外の妙性巧智を利用して、是等の任務を補助せしむるに非る限り、實戦に當りて大に不利益の地位に立つことなきを保し難し。
我軍隊は近來に於て既に飛行機、飛行船を採用せるあり。又聞く處に依れば、我陸軍は近々自動車隊を編成して、各部隊に之を附属せしむるの計畫ありと。縦令其目的こそ差はあれ、斯くの如く世界の進運に後れざらんとする我陸軍當局者が、此際に當りて軍用犬の研究に其労を吝むが如き愚を爲すのもに非るは、吾人の信じて疑はざる處なり」
法律新聞記者 安東鶴城 明治45年

安東さんの予想は見事的中。
続く大正時代、我が国には警察犬と軍用犬が登場するのです。

 

(大正編へ続く)