那智、金剛は私の牝犬小夜丸に、青島公安局の警察犬である青島シエパード倶樂部の何回目かの展覧會に第一席の榮位を勝ち得たロード・フオン・デル・エベレスブルグを配して得たもので、其時の兄妹でまだ青島に殘つてゐるものに私の陸奥、電通増田君の摩耶、済南古澤君の榛名がある。何れも骨格の逞しい大柄の犬である。

 

青島シェパードドッグ倶楽部 淺野浩利『軍犬那智、金剛の思出(昭和8年)』より

 

日本軍犬のシンボル的存在、那智と金剛。この姉弟犬は中国山東省青島生れの「青島系シェパード」で、生涯を通して日本に上陸したことはありません。

青島のシェパードたちは日本の戦争に巻き込まれ、21世紀まで続く「偽りの軍犬武勇伝」に利用されることとなりました。

 

帝國ノ犬達-TSC

●黎明期の日本軍犬界を支えた青島シェパードドッグ倶楽部(TSC)

 

【青島のシェパードたち】
 

「日本のシェパードは青島攻略戦の戦利品としてスタートした」という解説を見かけますが、正しくもあり間違ってもいます。

シェパード来日は「青島ルート」「上海ルート」「哈爾濱ルート」「欧州ルート」と結構複雑で、

日本に最も近いシェパードの繁殖地が山東省青島であったのは事実ですが、その青島シェパード界が構築されたのは青島攻略戦よりも前のことでした。

 

三国干渉の余波で明治31年からドイツ租借地となった山東省青島。この地には20世紀初頭にドイツから警察犬が移入され、「青島系シェパード」という系統を形成していました。青島攻略戦を経て中国へ返還された後もシェパードの輸入は続き、青島公安局の警察犬は東洋最先端の実力を有するに至ります。

昭和12年の青島在留邦人一斉退去事件を機に青島系シェパードは壊滅し、再移入をはかる中で敗戦を迎えました。

つまり青島系シェパードは「ドイツ租借地時代」「中国返還後」「日本占領時代」の三期に区分する必要があるものの、日本のシェパード関係者は青島犬界史の編纂を放棄。自ら記憶喪失に陥ります。

 

青島シェパードの基礎テキストがないので、日本の軍事オタクは、「青島攻略戦でドイツ軍が配備していた軍用犬」と勘違い。偏狭なミリタリー視点のシェパード史解説を垂れ流してきました。

実際の青島犬界史は下記のとおりです。

 

青島は獨逸の租借地であつたゝめに、自然青島には早くから、此新しき犬が本國から輸入されて居た。
青島の警察に、アントシユウウヰツチ(※アントショヴィッツ・テオドール)と言ふ獨人が勤めて居る。此人は青島の獨逸の手に在る今より三十二、三年前、青島の警察署長として赴任して來た人である。此人が本國より二、三頭、シエパードを連れて來た。それが青島にシエパードの現はれた最初である。
されば青島におけるシエパードの歴史は、かなり古いのである。アントシユウウヰツチ氏は、今尚青島の警察署に在つて、シエパードと親しんで居る。
青島が支那に還附されて、一層青島のシエパードは混乱して來た。今日シエパードのフアンは、青島シエパードの語を以て、一種侮辱の意味を之に加える。要するに青島のシエパードの、系統の正しくないことを、意味して居るのである。

 

日本シェパード倶楽部 中根榮(昭和4年)

 

ドイツ製品を信奉する日本の国民性は、戦前も同じこと。

「ドイツ直系」で箔付けしたい日本シェパード界にとって、「中国経由」という事実は都合が悪かったのでしょう。日本シェパード界の黎明期を支えた青島系シェパードは、ドイツ直輸入ルートが開拓されると共に雜種扱いされてしまいます。

 

戦前・戦中・戦後を通して青島犬界の否定をはかったのが、日本シェパード倶楽部の中島基熊理事でした。

シェパード界の重鎮である彼の言説は、フォロワーたちにとって御神託も同じ。中島氏が昭和34年に発表した日本シェパード史の記事は、なまじ中身が優れていただけに次世代のライター達が検証無視で引用しまくり、「青島系=雑種」というデマが拡散されました。

 

シェパード犬が日本に初めて渡来した年代や飼主も詳らかでない。団体やその他何らの記録の確実なものがない。私が大正二年に中国山東省青島へ行った時に、ドイツ人の家で写真のような犬を初めて見た。その姿態や動作に驚ろき且つ羨望した。

もちろん何種犬かは知らない。ドイツが青島を租借地とした時に本国から十数頭つれてきた犬であった。

その幾年かの後に千葉市郊外にあった陸軍歩兵学校にきた犬は山東省の土着犬等の雑交配になるもので、現在の犬のような洗練されたものと比較すると殆んど別種の感があるが、観賞的でなく真の実用犬であった。

 

中島基熊「わが国シェパード犬の生いたち(昭和34年)」より

 

中島氏が青島系を批判し始めた頃、青島公安局はドイツからシェパードを再移入。ドイツ租借地時代の警察犬を刷新し、さらに阿片捜索犬への進化を遂げていました。

「シェパードは作業犬である」というドイツの方針に反し、品評会向けの血統整備に熱中していた日本犬界。

「シェパードは作業犬である」というドイツの方針にしたがい、警察犬や麻薬探知犬を運用していた青島犬界。

まさに井の中の蛙。周回遅れの日本犬界が、先頭集団の青島犬界を嘲笑していたワケですね。

 

青島公安局の警察犬を父に持つのが、日本軍犬のシンボルたる「那智」「金剛」姉弟。つまり、彼らも青島系シェパードでした。

日本の軍犬史を語る以上、青島犬界について知る必要があります。

今回は、青島における那智・金剛の誕生について取り上げましょう。


帝國ノ犬達-itakura
●歩兵学校アルバムより、軍用犬研究班配属の前年に撮影された板倉至中尉(前列向かって左端、ブーツを履いていない将校)。

 

【板倉中尉とTSC】

 

那智、金剛、メリー、ジュリーの主人であった板倉至大尉。
千葉県山武郡に生れた彼は、地元中学を卒業後に士官学校へ進みます。大正10年からは陸軍少尉として北海道第7師団歩兵第28連隊付に、昭和2年からは同歩兵中尉乙種軽機関銃候補生として陸軍歩兵学校へ入校しました。

 

陸軍歩兵学校は、大正元年に陸軍戸山学校の機能を分離。「歩兵戦闘法の研究及び一般部隊への普及」を目的として、千葉市天台に設立された教育機関です。その研究対象には、外国軍が配備している軍用犬や軍用鳩も含まれていました。
歩兵学校長の命令により、軍用犬の情報収集がはじまったのは大正2年。翌年に勃発した第一次世界大戦では、欧州各国軍が大量の軍犬を投入しました。それらの運用レポートを邦訳し、民間から犬の寄贈を受けて研究に着手したのは大正8年のことです。
以降、歩兵学校は日本に於ける軍用犬研究の中心的役割を担って来ました。

 

昭和5年2月、中尉に昇進した板倉氏は「初期は主として築城の研究に精進されて居たが、國軍將來の爲軍用犬の忽にすべからざるを推察せられ、特に自ら志願して(歩兵学校軍用犬係藤村高軍曹、昭和7年)」軍用犬研究班に主任として配属されます。
当時のメンバーとしては、川並密大尉(後の帝国軍用犬協会第一軍用犬訓練所長)、松村千代喜大尉(後の関東軍軍犬育成所長)、坂本傳助軍曹、藤村高軍曹らが在籍していました。板倉中尉は、彼等と共にNSC(日本シエパード倶楽部)の特別会員にも名を連ねて、ドイツ式の最新訓練理論を学びます。
NSC側もシェパード普及の為に歩校軍用犬班への協力を惜しまず、日本シェパード界と軍用犬部隊の基礎は築かれていきました。


NSCが創設された昭和3年、 歩兵学校軍用犬研究班は青島から引き揚げるドイツ人警察官から警察犬11頭(1頭70円)を購入。従来のテスト犬にこれらのシェパード群を加え、歩校の基幹戦力としました。

歩兵学校で仔犬が産まれたのは、板倉中尉が軍用犬班に配属された直後の昭和5年2月15日のこと。

それらの中で、牡の仔犬は「英智」と名付けられました。英智の育成は板倉中尉の担当となり、生後半年を過ぎたあたりから軍犬としての基本訓練も開始されます。

中尉と英智が一緒に暮らしたのは、僅か10ヶ月間でした。
その年の暮れ、陸軍第11師団(香川県)に新設された軍鳩犬班へ歩兵学校から軍用犬の送付が決定されます。この時期から、軍用動物の活用に取り組んでいた部隊もあったのですね。
保管転換となった犬は、「夏敏」、「實」、そして英智の3頭。12月25日、3頭は香川県善通寺へと旅立ちます。

板倉中尉と英智は、これが永遠の別れとなりました。

帝國ノ犬達-善通寺

●英智、夏敏、實が加わった第11師団軍鳩犬班(昭和8年)

 

英智が千葉を去る少し前の事。ある日、青島シエパードドッグ倶楽部(TSC)会員の浅野浩利氏が、青犬の仔犬を届けに歩兵学校を訪れます。

 

板倉少佐は先年私が上京した節、當地の鈴木格三郎から歩兵學校に献納される仔犬を携へて同校を訪れた時、少佐は軍犬班の將校として中尉であつたが、以前から趣味の上で手紙の往復はしてゐたものゝ、お目にかゝつたのは其時が初めてゞあつた。鈴木氏の献納された仔犬も少佐に依て訓練が施された結果、有ゆる課目を通じて優秀な成績を示し、我軍犬界切つての名犬となつて、訓練の實演を公開する場合必ず登場するホープ號がそれである。

 

浅野浩利『軍犬那智、金剛の思出(昭和8年)』より

 

帝國ノ犬達-ホープ

●板倉中尉渡満後の歩兵学校軍犬班。犬舎の表札に「ホープ」と書かれているような……(昭和6年)

 

昭和6年、関東軍独立歩兵守備隊は歩兵学校に軍用犬専門家の派遣を要請。

同年3月、板倉中尉は関東軍司令本部付へ転属となりました。直後に上野で行われたNSC第4回展会場へ渡満の挨拶に訪れた中尉は、NSC名誉会員久邇宮朝融王の御前で「軍用犬を満蒙の野で用いてみたい」と語ったそうです。

 

問題は、歩兵学校がホープを連れての渡満を許可してくれなかったことでした。困り果てた中尉は、ホープの一件で世話になった浅野氏に相談を持ちかけます。

その頃、浅野氏の愛犬小夜丸には、青島公安局警察犬ロード・フォン・デルエベレスブルグとの間に牡の「金剛」「長門」「陸奥」、牝の「高雄」「那智」「榛名」「摩耶」という7頭の仔犬が生まれたばかりでした(因みに、雄は戦艦、雌は巡洋艦から名前をとってあります)。

これらの中から、牝の那智が中尉に寄贈される事に決まりました。

板倉少佐が獨立守備隊軍犬班の創設者たる吉田定男中佐の懇請に歩校から奉天に轉任された時に、少佐はホープ號を携行したいと思はれたが、歩校で放さなかつたといふことを聞いて、幸ひ私の小夜丸に仔犬が出來たから差上げてもよい、と申送つたところ非常に喜ばれて、從來の經驗上、青島産の犬が軍犬に必要な素質を多分に備へてゐることなどを云つてよこされたりした(浅野浩利氏)


余談ですが、歩兵学校で板倉中尉の部下だった藤村高軍曹も、満州出征の際にはNSCの相馬安雄理事(新宿中村屋社長)から寄贈されたレオ号を連れて行っています。
調達窓口である帝国軍用犬協会や満洲軍用犬協会が存在しない時代、日本軍犬の配備は民間の篤志家頼り。歩校では貴重な軍犬を将兵に貸与する余裕が無かったのかもしれません。

 

●新宿中村屋の相馬社長から寄贈されたレオは、満州国で抗日ゲリラ掃討作戦に従事しました(日本シェパード倶楽部・昭和7年)

 

當時私どもに生れた仔犬は七頭であつたが、其内どうして那智と金剛とが選ばれて奉天に送られたかといふことに就ては、次ぎに述べるやうな理由があつた。

決して漫然此二頭を送つたものではないのである。

丁度生れて一ヶ月餘りを經て、初めて戸外運動に引き出した時であつた。私の宅の裏に山があつて、宅の前の道路に沿ふて左折すると、其山道に通ずる。現今では此山も切り拓かれてバンガローが櫛比し立派な道路も出來、バスまで通ふやうになつたが、當時は人家はなし、道路といつてもホンの山道で、人通りは稀なり。犬の運動には誠に都合のよい場所だつたので、私は母犬小夜丸と此七頭の仔犬とを引連れて牧羊者といふ格向で爪先登りの道を歩いてゐた。

途中休み〃宅から四、五町も來た頃に、全く豫期しなかつたオートバイがけたゝましい爆音を立てゝ疾走して來た。

仔犬は期せずして私の足許にまつはりついて驚きに戰ひたが、其内の一頭は驀しぐらに元來し道を遁げ走つた。なにしろ多くの仔犬を伴れてゐることではあり、直ぐ様後を逐ふこともならず、何處をどう遁げて行つたことかと案じながら、ヨチ〃仔犬を纏めながら、やつとのことで家まで辿り付いて見ると、豈圖らんや其犬は既に家に歸つてゐた。門の外に仔犬の叫び聲がするので出て見ると、那智獨り歸つてゐるので案じてゐたところだといふ。

此奴素敵に頭が良いぞと見込を附けて、此旨板倉少佐に通ずると、是非其犬が慾しいとの返事。那智は愈奉天行きと極まつたのであつた(浅野浩利)

 

いよいよ那智を送り出す日、浅野氏の奥さんが「那智独りで旅をさせるのが可哀想」と言い出します。

 

ところで家内は那智に兵隊さんになるのだからと、一人不感に思つて可愛がり過ぎた爲、三ヶ月經つていよ〃奉天丸の事務長に託して送るといふ朝になつて、どうしても那智獨りで海山越えて長い道中をさせることが可愛想で堪らないと云ひ出して、いろ〃と思ひ煩つた揚句の果が、いつそもう一頭献納して二頭一緒の箱に入れてやつたら、せめて途中の淋しいこともあるまいとの思ひ遣りから、道伴れに選ばれたのが性質のよく似た金剛であつた。

ホンの奉天までの道伴れの積りが、冥途の旅までの道伴れにならうとは、よくせきの因縁とでも云ふのであらう(浅野浩利)」


大連に到着した那智・金剛姉弟は、家族と共に奉天へ着任していた中尉に受領されます。二頭は、板倉家の家族同然に愛育されました。

 

この二頭は青島生れのシエパードの兄弟犬で、滿洲獨立守備隊第二大隊附の軍用犬として少佐が心魂こめて育てあげた。ときどき官舎にまで連れ歸り風呂へ一緒に入れたり、長女篤子さん(當時八歳)長男靖之君(當時四歳)も三時のおやつをソツとくれてやつたりして格別に可愛がり、父少佐の熱心な訓練を眞似て、姉弟が軍用犬ごつこをして遊んだこともあつた。

 

『忠犬“那智”“金剛”勲功物語(昭和18年)』より

 

やがて、NSCから千葉歩校に寄贈された「メリー」も奉天へ送られてきました。同年8月には3頭の成長を報せる手紙が青島へ届きます。

 

大連の埠頭には少佐自ら出迎へられ、そこから元氣で着いたから安神せよとの電報を送られた。果して少佐は私の見込んだ通り那智・金剛の注意力に富む素質を認められて、普通施さるべき基本訓練もソコ〃に専ら傳令と捜索のみを仕込まれたといふことで、大尉に昇進された挨拶状の端しに三百米突の捜索も確實になつたなど滿足の意を表されたのであつた(浅野浩利氏)

 

この便りが届いた翌月、奉天の独立守備隊は北大営兵舎を攻撃。いわゆる満洲事変が勃発します。

 

(次回に続く)