2009年3月20日、春分の日。
「動物愛護の日」でもある今日は、毎年恒例の靖国軍犬慰霊祭がおこなわれています。
11時過ぎまで神保町の古書店街をブラブラしたあと、靖国神社へ向かいました。朝から雨模様のうえ境内の桜もまだ蕾のせいか、休日だというのに人影はまばらです。

帝國ノ犬達-靖国軍犬像

いつものように自販機コーナーのベンチで缶コーヒーを飲んでいるうち、天候も回復してきました。
軍馬像の前にはニンジン、軍鳩像の前にはトウモロコシが供えてあるのは例年通り。しかし、今年も軍犬慰霊碑の前ではなく、遊就館が式典会場となっていました。

……去年は、降りしきる雨の中でテントを張っての軍犬慰霊祭でしたね。

※2012年から、軍犬慰霊祭は4月開催の軍馬・軍犬・軍鳩合同慰霊祭に統合されます。

 

帝國ノ犬達-2009

第18回軍犬慰霊祭(2009年)


正午前になって慰霊祭は始まりましたが、参拝客の中で式典に興味を示す人はごく僅か。
暫くすると、祭場のCDラジカセから「軍用犬行進曲 (正式名は軍用犬宣伝行進歌)」の演奏が流れてきました。
♪伏すも走るも命のまま 獣か人か霊妙の……。
こうして慰霊祭は滞りなく終了しました。祭場外でちょっとしたトラブルはありましたが。

さて。
残る3頭の軍用犬に逢う為、10年振りに逗子へと向かいましょう。

帝國ノ犬達-軍犬慰霊祭
軍犬慰霊祭当日、軍鳩碑にはトウモロコシ、軍馬像にはニンジンも供えられていました(2007年、第16回軍犬慰霊祭)

帝國ノ犬達-2007
通常、慰霊祭は軍犬慰霊碑の前で執り行われます(2007年3月20日)

【第四の軍犬】

その絵葉書を見つけたのは、学校帰りに神保町で古書店の棚を漁っていた時のことでした。セピア色に褪せた葉書のタイトルは「忠犬銅像」。

名前の通り、シェパード犬の銅像写真が印刷されています。
装具を身に纏っているので軍用犬の像でしょうか?何かの戦功を記念したものかもしれません。

 

帝國ノ犬達-絵葉書

 

そのまま棚へ戻そうとした時、写真のキャプションが目にとまりました。

「忠犬 金剛・那智・ヂユリーのために、逗子校生徒之を建つ  (逗子延命寺境内)」

金剛・那智?
あの、軍用犬の金剛と那智?
しかし、満洲事変に参加した3頭目の軍犬は「ヂュリー」ではなく「メリー」だったのでは?誤植?
そもそも何で、満州で散った彼らの銅像が神奈川県に?
頭の中を疑問符だらけにしながら、取り敢えず購入。確か400円くらいだったと記憶しています。

 

何か独りで興奮していますが、ここで説明しておきますと、那智・金剛・メリーとは満洲事変当夜に戦死した日本の軍用犬です。
現代に伝えられているのは、下記のようなお話。

 

 

この物語の舞台は満洲(中国東北部の呼称)です。

関東軍(もともとは遼東半島関東州と南満州鉄道附属地を警備する日本軍部隊)は、関係の悪化した張学良軍閥の排除を計画。そして満州に傀儡国家を樹立し、日本の支配下へ置こうと画策したのでした。

 

 

昭和6年9月18日夜、南満州鉄道株式会社の線路を爆破した関東軍は、それを中国側の仕業だとして柳条湖にある張学良軍北大営兵舎を奇襲攻撃。所謂「満洲事変」が始まりました。

その夜、関東軍独立守備隊の板倉という大尉が、愛犬の那智・金剛・メリーを連れて北大営攻撃に参加。部隊の先頭に立って突撃した3頭ですが、乱戦状態の中で行方が分からなくなります。



戦闘が終わった翌朝、那智と金剛は変わり果てた姿で発見されました。
敵と激しく闘ったのでしょう。2頭は幾つもの弾丸と刀傷を受け、敵兵の軍服の切れ端を咥えたまま息絶えていました。
メリーの行方は分かりませんでしたが、板倉大尉は北大営の地に2頭の亡骸を埋葬し、墓標をたててその霊を弔いました。 

軍用犬を実戦投入した最初の事例ということで3頭の武勲は大々的に伝えられ、小学校の教科書にも掲載されたことで多くの国民に感銘を与えたそうです。


満州事変の翌年に出版された『鬼軍曹ト軍犬メリー』より。那智・金剛ではなくメリーを主役にした絵本です。

さて。
店を出てから、袋を開封して謎の絵葉書をしげしげと眺めてみました。
どこからどう見ても、写っているのは単なる犬の像です。何かの手掛かりになりそうなモノといえば、像の台座に彫られた「忠犬之碑」の文字。

これが銅像の正式名と思われます。
銅像が逗子にあったという事は、那智と金剛、もしくは板倉大尉の出身地が神奈川県だったのでしょうか?

何としても「忠犬之碑」の正体を知りたくなりました。
絵葉書は戦時中のモノと思われますので、当時の軍事系か動物関係の古本に手懸りが載っているかもしれません。
そんな訳で、先ずは軍事史専門の文華堂書店へ。古今東西陸海空軍に関する書籍がずらりと並ぶ本棚から、満洲事変関係の本を購入します。
続いて訪ねたのが自然科学系専門の鳥海書房。此処も品揃えが豊富で、戦前の犬本を何冊か入手出来ました。

さすがは神保町古書店街。その辺を歩き回るだけで資料が揃います。

 

帰宅後さっそく調べてみたのですが、中根榮(電通重役。「盲導犬」という日本語を考案した人です)の著書に「逗子忠犬銅像」の写真を発見。あまりにあっけなく見つかったので、ちょっと拍子抜けしました。
そこには、忠犬銅像建立の経緯が書いてありました。

中根さんによると、逗子に建てられたのは満洲事変で死んだ2頭(及び神奈川で死んだ1頭)の慰霊碑で間違いないそうです。
板倉大尉は、那智・金剛・メリー以外に「ジュリー」という軍犬を飼っており、この犬だけは9月18日の戦闘に参加しなかったらしく、4頭の中で唯一生き残りました。
同年末に大尉が戦死した後、遺族は残ったジュリーと共に奉天から帰国。教師だった鎮子夫人は逗子の学校に赴任が決まり、ジュリーも一緒に神奈川へと転居しました。
その翌年にジュリーは病死してしまい、遺骸は逗子延命寺の裏に葬られます。
逗子小学校の生徒達は、ジュリーの為に墓碑を作ろうと募金活動を開始、やがて多額の寄付金が集まりました。
そこで、ジュリーと共に僚犬の那智と金剛も合祀した忠犬慰霊碑の建設計画がたてられ、銅像が完成した昭和8年7月に除幕式が行われます。
同年9月には奉天から那智と金剛の遺骨も届き、3頭の犬達は逗子の地で眠る事となったのでした。
この銅像を撮影したのが、「忠犬銅像」の絵葉書だったのです。

 

【逗子にて】


ジュリーの像は現在どうなっているのか。
何としても、この目で確かめなければ。

次の日曜日、例の絵葉書を持って駅へと向かいました。川崎で京浜急行へ乗り換え、さらに金沢文庫駅で逗子方面へ乗り換えます。
車窓の風景が緑の野山に変わった頃、車内アナウンスが終点の新逗子駅到着を告げました。
初めて訪れる町ですが、地図で見当を付けるまでも無く、駅裏を流れる田越川の対岸に延命寺の本堂が見えています。現在、寺の周囲は閑静な住宅地になっていて、ジュリーが最初に葬られたという竹林は存在しません。逗子小学校も新しい鉄筋コンクリート造校舎に建替えられていました。
近所を一周してから延命寺の門を潜ります。
当時の記録では、寺の境内にジュリー像が建てられたとあるのですが……。
犬の像らしきものは見当たりません。
絵葉書の景色と照らし合わせながら、迷路のような墓地の中をウロウロと探し回ってみたものの、やはり銅像はありませんでした。

もしかしたら、何かの理由で撤去されたのでしょうか?いや、別の場所へ移設された可能性もあります。

しかし、他に人影も無い境内で誰に尋ねれば良いのやら。
「折角ここまで来たのに」という思いもありましたが、諦めて帰る事にしました。全くの無駄足です。
トボトボと出口へ向かって歩き出した時、門の隣にある石碑が目にとまりました。
台座には「動物愛護慰霊之碑」と彫られています。
要はペットの慰霊碑ですね。犬の像ばかり探していたので、この碑の存在に全く気付きませんでした。
絵葉書にある「忠犬之碑」とは似ても似つかないデザイン。目の前にある「動物愛護慰霊之碑」の天辺からは、ジュリーではなく仏像が私を見下ろしています。
まさか、これがそうなのでしょうか?
確信を持てないまま、取り敢えずその慰霊碑に手を合わせ、夕暮れ迫る逗子を後にしました。



それが10年前の出来事。
学生時代の私は、那智・金剛・メリー・ジュリーたちの武勇伝が、さまざまな思惑で脚色されていたことなど知りもしませんでした。
巷に伝えられる軍犬物語が「真実の歴史」だと、無邪気に信じていたのです。

戦時中、二頭の武勇伝を教科書で学んだ子供たちのように。

 

盲導犬の調査に没頭していた当時の私は、あの絵葉書の影響で近代日本犬界史の泥沼へ足を突っ込んでしまいました。

「日本最初の盲導犬は戦後に誕生」という通説が嘘であり、那智と金剛の武勇伝も嘘であったことを知り、昭和20年8月15日で断絶された犬の歴史を知りたくなったのです。

しかしまさか、対象範囲が日本犬界から外地犬界、そして満州国犬界まで広がっていこうとは……。

 

満州事変で戦死した犬たちが宣伝材料として脚色され、偽りの武勇伝と化すまでを解説します。


犬

 

(次回に続く)


(その2へ続く)