去る五月三十一日、海軍軍需部よりの御依頼に應じてシエパード犬の買上げ希望を全會員から募りました所、即座に優秀犬が三十餘頭も集まり、海軍當局の方々を感嘆させました。
その後の結果も極く上乗で、買上犬のうちの大部分は○○方面で至極健全で第一線に活躍してゐるそうです。購買官主任佐藤中佐殿よりは下記の様な御禮状を頂きました。今後共に斯る機會がありましたら、會員皆様の御協力を御願ひ申上げます。

前略
先般海軍當局ノ軍用犬調達ニ際シテハ、貴協會ノ特別ノ御斡旋ニヨリ優秀犬ヲ豫定通入手スルコトヲ得候段貴協會ノ非常ナル御盡力ト會員各位ノ御熱誠トニヨルコトト茲ニ深甚ナル感謝ノ意ヲ表ハス次第ニ有之候。尚將來共一層ノ御後援アランコトヲ切望致候
先ハ御禮申迄度如斯ニ御座候 敬具

六月十一日
海軍軍需局
海軍中佐 佐藤 壽
日本シエパード協會御中

 

日本シェパード犬協会『軍需局海軍中佐殿より禮状(昭和13年)』より

 

青島シェパードドッグ倶楽部(TSC)の支援を受けていた日本海軍ですが、TSC消滅後は日本シェパード犬協会(JSV)から軍犬の供給を受けていました。

戦時を通してライバル関係にあった帝国軍用犬協会と日本シェパード犬協会については、「KVは陸軍と結託した軍国主義団体で、JSVは陸軍を距離を置いた純粋な愛犬団体」などという善悪の構図で解説されたりします。
しかし陸軍へ犬を供給していたKVが悪ならば、海軍に犬を供給していたJSVは何なんですかね?あの時代、シェパードの登録団体は多かれ少なかれ戦時体制へ組み込まれていたというのに。
それでは、海軍犬の話を進めます。

 

『横須賀海軍軍需部軍用犬近況(昭和10年)』より


全国各地の海軍施設に軍犬の配備が広まるとともに、調達訓練システムも変更されました。それまでの呉軍需部で陸軍出身者が訓練した犬を各地に分配するという方法から、各軍需部が独自に購買・訓練を行う体制が整います。
海軍の軍用犬供給ルートですが、森電三海軍少将などがKV(帝国軍用犬協会)の理事に名を連ねていたものの、陸軍の軍用犬調達はKV経由が中心。
海軍軍需部はJSVの会員となっており、こちらのルートから軍犬の供給を受けていた様です。

 

【日中戦争と海軍犬】


JSVの資料には海軍犬購買会の記事が頻繁に登場しますし、冒頭に掲載したとおり海軍軍需局からJSV宛への礼状も届いています。

JSV側も海軍側とのパイプをうまく利用していました。
陸軍の威を借りたKVが「ドイツ盲拝の非国民」とJSVを攻撃した際、JSV側も「JSV會員の中には海軍軍需部もあるので、非國民呼ばわりは慎んでもらわぬと事が面倒になる」と反撃するなど、双方が虎の威を借りていたのです。
実際は結構ルーズだったらしく、陸海軍合同での軍犬購買会も開催されていました。

 

五月十日廣島陸軍管理廠に於て、陸軍から獸醫學校深谷熊太郎獸醫大尉外數名が、海軍からは呉海軍々需部戸來少佐、同堀嘱託の二名が出張して陸海軍の共同購買を行つた。海軍としては始めての事であり、犬も少なき爲めに一頭を購買したのみであつたが、陸軍では十數頭を買ひ上げられた(昭和14年)

 

三宅少佐が海軍犬レポートを書いてから2年後には、高度な伝令・警戒訓練を受けた海軍犬が登場。独立の海軍戦闘部隊である上海特別陸戦隊では、紹興市八字橋水電路四明公所西側に軍犬訓練所を開設して訓練を行っています。
上海海軍特別陸戦隊の現有品目録より、配備されていた軍用動物のリストは下記のとおり。

 

夜間鳩1號 30羽
昼間鳩2號 30羽
移動鳩1號 12羽
移動鳩2號 10羽
往復鳩1號  8羽
往復鳩2號 10羽
昼間鳩1號 40羽 
軍用犬 13頭 
軍馬 20頭

 

上海陸戦隊が軍用犬配備を急いだのは、現地の状況が急速に悪化していたのが理由でしょう。
昭和12年7月7日の盧溝橋事件以降、日中の戦いは本格的な戦争へと突入していきました。士気が高く圧倒的に優位な兵力、上海郊外に構築した要塞地帯、有能なドイツ軍事顧問団の指導、高性能の火器を備えた蒋介石軍は上海の日本租界を包囲。8月13日には、日本海軍陸戦隊と軍事衝突します。
いわゆる第二次上海事変の始まりでした。

第一次上海事変では陸軍犬の活躍を眺めているだけだった海軍も、今回は多数の軍犬を実戦投入しました。一進一退を続ける日中両軍は膨大な戦死者を出しますが、多数の海軍犬も犠牲になったと伝えられています。

 
帝國ノ犬達-上海陸戦隊
演習中の上海陸戦隊員と海軍伝令犬(昭和12年)
 

事變以來軍用犬の活躍は北支においても素晴らしいものがあるが、上海の陸戰隊には富士、扶桑、榛名、由良、霧島、エデイス、バロンの七頭が高濱二等兵總指揮のもとに硝煙を潜つて活躍した。歩哨に、警備に、目覺しい働きをし、殊に便衣隊狩にかけては獨自の活躍振りを示した。
軍用犬の嗅覺に嗅ぎ出され、凄い牙で引摺り出された便衣隊は數へ切れない。
しかし、敵の爆彈と砲彈は陸戰隊(原文1字欠)士と一緒にこの犬をも見舞つた。富士、扶桑、榛名、由良の四頭はいづれも砲彈の破片を浴びて悲壮な戰死を遂げ、エデイスもまた彈片を身に浴びて名譽の負傷で、目下勇敢な皇軍將士と一緒に野戰病院で軍醫さんの親切な手當を受けてゐる。
残るのは霧島、バロンの二頭となつた。戰友の仇を討たではおかぬ意氣込みで、上海東部戰線の最前線、海陸共同の最激戰地たる滬江大学付近のわが陣地にふり注ぐ榴散彈、銃彈を物ともせず爛々たる目でじつと前方をみつめてゐる。
兵たちはみんなこの犬の頭を撫で、背をたゝく。二頭の犬は目を細めて尾をふり兵たちの足にまつはりつく。
たび〃支那敗殘兵と見間違へられ、わが兵から狙撃されかけたほど怪しげな服装の記者が近寄つて頭を撫でゝも、犬は頭をすりつけ目を細くする。しかるにこれが一度ほんたうの敗殘兵であり、ほんたうの便衣隊だと有無をいはせず飛びかゝつて行くといふその怜悧さには舌を巻かずにはゐられない。

 

讀賣原特派員十二日發『のがさぬ便衣隊 上海戰線・華と散つた軍犬四頭』より

 

犬
上海近郊にて、ボディアーマーを着て警戒にあたる日本海軍陸戦隊員と歩哨犬(昭和11年)

 

わが勇敢な陸戰隊將士とともに上海の最前線には勇敢可憐な軍用犬が活躍してゐるが、激戰が繰返されてゐる上海東部戰線に出動した軍犬三頭は、將兵の傍に身を置いては、怪しい便衣隊や闇に忍び寄る敵の斥候をいちはやく見つけて飛びかゝると云ふ人間の及ばぬ働きをして感謝されてゐる。
併しその蔭には今事變始まつて間もなく我が陸戰隊本部をねらふ敵の野砲が不幸にも裏庭の犬舎に命中、成犬一頭、仔犬二頭が名譽の戰死を遂げた。その死體は連日戰争が續いて隊員の手が足りない儘に假埋葬になつてゐたが、軍犬班長の榊原少佐は『これもまた名譽の戰死である』と云つて近く正式に海軍墓地に埋葬、無言の霊を弔ふやう取計つた。

 

朝日特電『海軍墓地に葬られた名譽の戰死軍用犬』より

 

日本陸海軍は、堅固な要塞線で迎え撃つ中国軍と一進一退の激戦を展開します。
ここまでは、国民党軍にとって想定内の展開でした。堅固な要塞線に日本軍を釘付けにし、そこで大損害を与えれば、今後の和平交渉でも優位に立てる筈です。
しかし11月になって、日本軍の別働隊が杭州湾に上陸。側面から中国軍に襲いかかってきました。
包囲していた筈が形勢を逆転され、慌てた国民党軍は雪崩を打って潰走。背後に迫る日本軍と戦いつつ南京方面へと撤退します。
これ以降も海軍犬の話は続くのですが、軽々しく触れる話題ではありませんので、南京戦と中国軍用犬部隊については別途改めて。
上海戦で斃れた海軍の犬達については、戦闘終結後も慰霊が続けられた様です。

 

關係してゐる軍需關係會社の用件をかね、令息の暑中休暇を利用して七月末から八月一杯令息と共に中支を視察して、九月初めに歸京したが、その土産話に、上海には犬屋らしいものは全然なく、鳥屋はあるがそれも日本程設備の行届いたものでなく、草花や小鳥を一緒に賣つてゐる程度で、たゞデパートでいくらか見られる。
又上海の犬も國際都市であるから如何にも優秀犬が澤山ゐるやうに思はれてゐるが、實際、我々の見かけたものには碌な犬が殆んどゐなかつた。東京の犬の方が遙かに優れて居り、日本の犬界も却々進歩したものだと思つた。

尤も我々の眼に届かぬところには、もつとよい犬が飼はれてゐるかも知れないが、西洋人の連れてゐる犬でも、大して驚く程のしろものではなかつた。

 

犬

 

上海では八宇橋の近くの陸軍墓地にも通つたが、その時墓地にやゝ離れて一群の墓標が立つて居り、陸戰隊の人達が掃除をしてゐるので不思議に思つて近寄ると、それは事變の犠牲になつた軍犬の墓標であることが判り、彼等の冥福を祈つたが、陸戰隊の人達は毎週かゝさず陸軍墓地と一緒にこゝの掃除も行ふのだと聞いて、思はず涙が湧いて來た。

 

鳴瀧美則『人の噂(昭和14年)』より


大陸での戦いは、短期決戦どころか泥沼化していきます。
それと共に、海軍犬達も前線航空基地などの警備に配備を広げていきました。現地で拾われた野犬も、飛行士たちの心を慰めるペットとして飼育されていたそうです。

 

海の荒鷲、渡邊福松氏は、○月○日出動した。海軍航空隊附の氏は(帝国軍用犬協会)神奈川縣支部の幹事として軍犬界でも訓練家として有名だつた。
横須賀海軍鎮守府で格納庫、倉庫、要塞等に軍用犬を重視するやうになつたのも氏の努力に負ふ處が多い。

「本日協會誌軍用犬を家より送つて來ましたので、讀物不足の折から初めから終りまで讀みました。神奈川縣支部の方々の軍用動物慰問の運動も拝見、お骨折の事とお察し致します。秋季訓練競技大会も近く、豫選も近く行はれる御様子、今年こそ神奈川縣支部から優秀犬の出る事と期待致して居ります。
本基地にも警戒用としてシエパードを使ひ始めました。犬狂には嬉しく思はれます」

 

あいざわ・あきら『海の荒鷲』より 

 

『横須賀海軍軍需部軍用犬近況(昭和10年)』より

 

昨年奥田少將の率ゐる部隊が昨今のやうに四川爆撃を行つてゐたころ、同少將はモリといふ名のシエパードを可愛がつてゐた。
丁度あの十一月四日いつもおとなしいモリが出動しようとする少將の周りを大聲で吠え航空服をくはえて離さず、やつと機上に乗つた後も機の周りを吠えながら駆け巡つた。その日少將は自爆して遂に還らなかつたのであつた。
モリは空を眺めて永い間待つてゐたが、還らぬ主人の身を悲しんでか、爾來二ヶ月間飯もろくろく食はず痩せ細つて了つた。そこで航空隊の勇士もその心を哀れんで色々介抱してやつた後、今春、内地まで海軍機で送つてやり東京の同少將未亡人のもとへこの愛犬を届けたのである。今英霊のもとで元気であるとの便りを受取り、現地の勇士らはまた奥田少將を想ひ出し腕をさするのである。

 

東京朝日新聞『海軍○○基地にて 林田特派員(昭和15年7月27日)』より

 

『横須賀海軍軍需部軍用犬近況(昭和10年)』より

 

奥地で亡くなつたお父さんのことですから遺品と云つても身についてゐたものはありませんでした。あとで生前可愛がつておいでになつた犬があることを聞きましたので、送つて戴けないものかしらと現地の方へお願ひ申しましたところ早速飛行機で届けて下さつたのです。
(中略)
家人一同お父さんが元氣で奥地爆撃に出撃なさつた時にはあんな様子でお父さんにジヤレたのだろうなどと戰地を偲び、思はず泣かされて仕舞ひました。

 

『重慶で戰死した海軍飛行士の犬(昭和15年)』より


帝國ノ犬達-荒鷲
仔犬と戯れる日本海軍パイロット(昭和18年)

 

【敗戦と海軍犬】

 

海軍犬の歴史は、日本海軍の敗退と共に終焉の時を迎えます。
ミッドウェー海戦以降、日本海軍は戦局を挽回する事なく艦船を次々と沈められ、レイテ沖海戦で連合艦隊も壊滅。前線へ向かう輸送船内で船酔いや暑熱によって衰弱死したり、乗っていた艦船もろとも撃沈された軍馬や軍犬は数多く存在したのです。
艦船すら喪失した末期状態の海軍で、犬はどのように運用されていたのでしょうか。

沖縄戦と海軍に関する、相馬JSV理事による興味深い証言があります。

 

沖縄戰の形勢日々に非なり、といふ頃だつたと思ふ。海軍某研究所の将校二人から同じ様な質問を受けた。大同小異次の會話の如くである……。

「相馬サン一寸、一寸聞きたい事があるんだがねエ」

「……?」

「貴方、イヌが詳しいんだつてねエ」

「……?……イヌつてワンワン吠えるあの犬ですか?」

「さう、あの犬なんだが夫れに就いて一寸聞き度い事があるんだ」

「犬つて言つたつて、僕のは非常に限定されてゐるんでしてねえ。シエパード犬といふ耳の立つた奴の事しか知りませんよ。それだつて茲數年來殆んど御無沙汰してゐるので、特に最近の犬界事情や蕃殖傾向等皆目解らないんです」

「それそれ、そのセパードつて奴なんだ。何とかしてあれを旨く懐柔する方法はないかね」

「本廠で飼ふんですか?盗難避けですか?」

「いや茲で飼ふ譯ぢやない」

「貴方ですか?そんなら止された方がいゝですよ。今時個人で彼奴を飼つてゐると、軍人さん丈けに却つて一般の非難と反感を買ひますよ。何しろ大人一人前以上食ふのは衆知ですからね」

「上の方からの研究命令なんだ」

「はゝあ、廠長ですね。沖縄戰の現状と番犬か。大きな聲ぢや叱られるかも知れないが、いい傾向ぢアありませんね」

「廠長といふ譯でもないが、兎に角調べろつていふんだが、何にも解らないで困つてゐたら貴方の話を聞いたものだから」

「左様ですか。何時も御世話に成つてゐる事ですから、私でお役に立つなら、知つてゐる限り何んな秘訣でもお話致しますが、具體的に何んなことなんですか?」

「困つたなあ……、具體的にと言はれると困るんだがねエ……、例へば……犬がやつて來ても、何か……斯う……物でもやるとか、一寸氣合でもかけると、直ぐ馴れて吠えもせず、尻尾を振るつていふ様なうまい方法はないかねエ」

「上の方つて一體誰ですか、要點のないそんな漠然とした莫迦莫迦しい問題を出すのは?だから貴方の様な有爲の将校が徒らに時間と精力の浪費をしなければならないし、吾々一般人は何とか御協力したくとも、やり様がないんです。問題の核心、要點を秘して置いて、質問すれば軍機(軍事機密)云々でせう?これぢや國家總力戰も一億一心も軍の方でさせない様にさせない様にしてゐる様なものですよ。……まあ貴方の前で憤慨しても始まらないが、沖縄戰の現状に於て尚かつ斯んな調査を軍の上司が下に命ずるのを見ちや實際腹が立ちますよ。……ぢやあ斯う回答して下さい。犬ヲ目撃シタラバ直チニ犬ニ脊ヲ向ケテ、両足ヲ開イテ立ツ。犬更ニ近ズクヤ、両手ヲ前方ニ付ケテ四ツ這ヒト成リ、犬愈々近接シタル時股間ヨリ顔ヲ出シばあーツト言フ可シ。如何ナル犬ト雖モ辟易シテ逃ゲ去ルコト妙ナリ。はつはつ……」

「駄目だよ、相馬サンそんな笑談言つて居ちやあ。こつちは真剣なんだから」

「いや済みません。余り漠然とし過ぎてゐるのでツイ。」

「實は正に其の通りだ。何とかいゝ方法はないかねえ。」

「食物ぢや駄目でせうね。失禮ですが、昨今ぢや皆さんの食物より奴等の方がいゝ筈だし、例へばより以上の食物を用意したとしても、拒食訓練も出來てゐるだらうし、又獲物狩出しの作業は、食物よりもずつと犬を興奮させる魅力の對象ですからねえ。今時の日本の犬の様に、いや人間もさうだが、餓えてゐるのとは違ひますからねえ」

「そこを何とかいゝ方法を考へて……、何しろ音を立てる譯にいかないのだから、射殺も出來ないし……」

「所謂、よく訓練された犬、例へば、すつかり型に嵌つた犬ですとねえ、自分の主人と同一の命令語で、同様の口調で高聲に號令掛けられると一種の錯覚か、惰性によつて未知人の命令に容易に服して了ふことがあるし、抑へれば、訓練犬は却つて未訓練のものより制御し易いものなんですが。ずぶの素人ぢや一寸お話にもならない。犬の大家と迄行かなくとも、犬の心理や、犬の感覚等に就いて相當の知識のある愛犬家や、犬の訓練に経験のある者なら、其の時々の實際情況に感じて例へば、風の方向、川の流れ、砂地、樹木等の自然物を利用して自己の足跡を煙滅し或は犬の捜索を混乱に陥れる等のことが必ずしも出來ないことはないのですが、今から軍が犬に関する教育を始めたつて盗縄以上には出ないんだし。

困りましたねエ……、犬の嗅覚又は神経を麻痺させ或は混乱させる様な薬品があるといゝのですがねえ……。何でも千葉の歩校(陸軍歩兵學校)あたりの話で、研究が完成したといふ噂も一寸耳に入つたことがありますが(※陸軍ではソ連軍用犬対策の嗅覚攪乱剤・消臭剤・誘惑剤を開発していました)、假令これがほんとうだとしても、さて此方が海軍ぢや、ウンと言つた利用はさせないだらうし……、困りましたねえ……、結局、胡椒の目潰しでもやつて見ますか」

「胡椒の目潰しつていふと?」

「犬だから鼻潰しだ。畢竟胡椒を澤山用意して置いて、犬が丹念に鼻を使はなければ、足跡が拾へない様な地勢上の足跡及その附近に多量散布したり、愈々犬に襲撃される様な時に犬に向つて投げ付けて胡椒の霧を作つたりすれば、犬が嚏の連續をやつて相當の目的を達するだらうと思ふんです。併し是だつて此方が敵陣へ向つて潜行して行た時には殆んど役に立たないでせう。何れにしてもジヤングル戰の様なゲリラ戰なら犬のない方が必ず不利ですよ」

「では何んと回答したらいゝかなあ」

「犬には犬で對抗する以外に處置なし、時既に遅く萬事休す矣とでも言はれる外ないでせうね」

當時自分の関係してゐる仕事の方面から類推して、沖縄戰は勿論のこと全體的敗色を豫感して、ゴマメの歯ぎしり以上には出なかつたかも知れないが、殆ど工場に泊り込みで敢闘してゐた時分なので中尉さんから受けた質問の莫迦々しさについ腹が立つて、稍々激越な口調の回答して了つた譯であつた。

併し帰途歩き乍ら此の問題を反芻して見て、之は腹を立てる可きではなく無理からぬ質問であつたかも知れないと考へ始めた。第一線に於て軍犬に悩まされゐる将兵としては「高が犬ぐらひ」と言はれはせぬかといふ軍人らしい面子から、幾度か躊躇した後に爲した質問であつたらう。又之を受けた方の軍當局に於ては案の定「高が犬ぐらひ」と犬の攻撃を軽々考へて研究部の名あるが故に、お門違ひの所に調査を命じたのであらう。

凡てが犬と言へばポチでありジヨンである程度の知識、否寧ろ無知から出發したものである。

従つて腹を立てる等は大人氣ない話で、先刻の自分の回答は赤面の至りであつた譯である。にも拘らず、何處からともなく込み上げて來る憤懣を何うすることも出來ない。何故だらうか?

 

新宿中村屋社長・相馬安雄『敗戰と犬(昭和21年)』より

 

アメリカ相手に戦争を始めておきながら、アメリカ軍への研究対策を怠っていた海軍上層部。その無知・無責任への憤懣をどうしようもなかったと相馬さんは記しています。

 

今假りに軍當局に於て犬を識つてゐたら、何う言ふ結果に成つたらうか。勿論自分の所迄質問が下りて來る筈はない。否、第一線部隊からも指令を仰ぐ必要がなかつたであらう。更に犬も使用方法如何に因つて科學兵器の一であり得ることを知つてゐたならば、既に我國も軍犬を正式に採用して居たかも知れない。さうだとすれば、第一線でも當然使用されてゐる筈だし、ゲリラ戰は或は断然我方に有利に展開したかも知れない。少くとも相當の時が稼げるに違ひない。

さうすれば、勝てる見込みは無いとしても何うにか引分けに近い所で手が打てたかも知れない。だとすると一個の犬の問題は決して単なる犬丈けの問題でなくなつて來る(相馬氏)

 

訪れるべくして訪れた敗戦によって、日本帝国海軍は消滅しました。海軍犬を管理する者が居なくなったのです。
国内に残存していた一部の海軍犬は、付近の住民に譲られたり民間市場へ放出されたそうです。しかし持て余され、飼育放棄や殺処分となった犬も多かったのでしょう。
その事実について、JSVの中島理事は「犬に詫びろ」と怒りを込めた文章を書き残しています。

戦後になって、海軍の一部機能を継いだ海上保安庁、そして海上自衛隊が設立されました。その海上自衛隊では、日本警察犬協会の協力を受けつつ大湊地方隊をはじめとする拠点に「警備犬」と称する犬達を採用しました。

当時の保安隊や陸上自衛隊が日本シェパード犬登録協会から、海上自衛隊が日本警察犬協会(帝国軍用犬協会の後身)から犬を調達するという、戦時中とは逆の構図となっているのが興味深いですね。

新世代の“海軍犬”達は、在りし日のクマ達と同じ施設警備の任務に就いています。

 

思えば昨年三月、海上自衛隊より、警備犬を牡牝三頭づつ、支給購入したいと依頼を受けたのが、あと四、五日で四月になるという日。年度末予算の都合で、ぜひ三月中に間に合わせてほしい、との要望に「何とか致しましょう」と約束をして、総監部の契約課を出たものの、果して期日に間に合うかどうか。

とにかく、NPD本部に連絡し、協力方を依頼しましたところ、無理を承知で心よく引受けてくれました。その時の気持は、何とも云い表わしようもありませんでした。お陰で、三月末日ギリ〃に、警察犬協会と防衛庁との間に、契約が成立し、四月早々、二頭の犬が当地に到着。直ちに警備犬としての訓練に入ったわけであります。まず困ったことは、犬も私と初対面、また三名の警備犬係隊員も初対面、おまけに、その隊員には厳格な、訓練日程が組まれているという次第で、気ばかりあせって、思うように能率のあがらないもどかしさ。幸い親友の福田訓練士が協力を惜しみなくしてくれ、また隊員の熱心な努力とが実を結び、一か月後には、すっかり警備犬として恥かしくない犬と隊員が出来上がりました。

翌五月には、当地で開催された警察犬訓練競技会に特別出場し、妙技を市民に公開できるまでになり、人気を集めました。こうして、広大な四万坪の自衛隊弾薬庫警備にそなえて、磐石の護りについたのであります。

 

警察犬協会 佐藤三郎『海上自衛隊で警備犬に階級授與(昭和33年)』より


さて、冒頭で第2次上海事変の事例を取り上げました。
この時、治安悪化を理由に、上海や青島の在留邦人に対して退去命令が出されています。着のみ着のままで避難船に乗り込んだ邦人たちは、愛犬や愛猫たちを現地へ置き去りにするしかありませんでした。
半年後に青島が奪回されたとき、猫達は餓死し、犬達の姿は消えていたそうです。
以降、同様の悲劇は繰り返されました。
昭和18年、日本軍犬の正勇と勝がキスカ島へ置き去りにされます。
昭和20年の終戦時にも、戦地へ置き去りにされた陸海軍の軍犬達は1頭も帰国していません。

 

犬 

治安状況が悪化した上海市街にて、在留邦人が置き去りにしたシェパード。壁には「愛犬家に差上げます」と書かれています(昭和12年8月)。


そして、終戦から10年が過ぎた昭和31年12月のこと。長い間シベリアで抑留生活を送っていた日本兵達に、待ち望んだ帰国の日がやってきました。
彼等は貨物船興安丸で復員する事となり、ナホトカ港へ移送されます。
その中の一人、ハバロフスクの捕虜収容所にいた川口市三郎氏は、現地で拾ったシベリア生まれの雌犬「クマ(当時3歳)」を育てていました。
帰国の日、港までクマを連れてきた川口氏ですが、規則によって犬の乗船は認められません。可哀想ですが、クマはソ連に置き去りにする他ありませんでした。
戦時中の悲劇が、ここでも再現されたのです。

 

帰国者を収容した興安丸が出港しようとした時、岸壁に残されたクマは船を追って海に飛び込みます。
冷たい冬の海を泳ぐその姿は、船上の人々の心を打ちました。玉置船長は興安丸を停止させ、特別措置としてボートで犬を収容します。こうして、川口氏はクマと共に祖国の土を踏む事ができました。
斎藤弘吉氏の著書によりますと、クマは舞鶴市の長木寅市氏宅に預けられ、昭和32年度の動物愛護週間には忠犬として表彰もされたそうです。恐らく、これは戦後になって日本兵が犬を連れ帰った唯一の事例と思われますが、海軍どころか軍犬とも関係無い話ですね。

クマから始まった海軍犬の話を、クマで終わらせようかな、と。
以上。

 

水泳