上海市街戰生き殘りの軍用犬『バロン』と『霧島』は、たゝかいのはじめには富士、扶桑、榛名、由良、エデイスと合せて七頭ゐた。陸戰隊の軍用犬が砲煙彈雨のなかをくゞつて敵情視察、便衣隊狩、戰死傷者の發見などに活躍するうちたうとうエデイスは傷つき、ほかの四頭は名譽の戰死をとげてしまつた。

生き殘つたバロンと霧島は、いま高濱二等水兵の指導のもとに漸く平和をとりもどした上海市街に潜入してゐる便衣隊狩に活躍してゐる。

 

『不眠不休 便衣隊狩に』より 上海にて 讀賣原特派員九月十六日發

 

帝國ノ犬達-海軍
戦前の絵葉書より

 

冒頭の引用は昭和12年の新聞記事より、第二次上海事変に於ける軍用犬のエピソードです。文中にある“陸戦隊”とは、日本海軍が編成していた陸上戦闘部隊の事。
その海軍陸戦隊が使っていた軍用犬は、当然ながら日本海軍に所属していました。

 

日本陸軍犬の直系は、警察予備隊や保安隊や陸上自衛隊の犬たちです(昭和30年代で廃止されたため、存在すら忘れ去られましたが)。

世の中には海上自衛隊や航空自衛隊の警備犬を旧陸軍の犬と絡めて語る向きもありますが、両者は全くの無関係。海自警備犬と比較すべきは「旧海軍の犬」でしょう?

ルーツとなるべき「日本空軍」が存在しない空自警備犬に至っては、極東米軍の流れを汲んだ犬ですよ。

そういった誤認を改めるには、それぞれ「陸軍犬史」と「海軍犬史」を知る必要があるのです。

 

残念なことに、我が国ではジャーナリストや軍事オタクが軍用犬史を解説してきました。

犬の歴史を知らない彼らが語るのは、「陸軍の犬」や「内地犬界」ばかり。その結果、外地犬界や満州国犬界や海軍犬の存在は無視されてしまったのです。

声高に軍用犬を讃える人々こそが、軍用犬史を粗末に扱う張本人だったワケですね。

陸軍の犬に比べて目立たない存在でしたが、海軍の犬も任務を全うし、その犠牲となった事には変りありません。

海軍の犬はどのように誕生し、どのように運用されていたのか。その前に、有名な海軍犬の記録から取り上げてみましょう(映画や小説でこのエピソードをご存知の方も多いと思います)。

 

帝國ノ犬達-イメージ
●陸上警備にあたった海軍犬ですが、一般にイメージされるのはこんな感じでしょうか(昭和十年度帝國軍用犬協會水中訓練競技會より)

 

【キスカ島の犬たち】

 

冒頭の第二次上海事変から5年後、場所は太平洋北部でのお話。
昭和17年6月7日、アリューシャン列島にあるアッツ島とキスカ島に、突如として日本陸海軍混成部隊が侵攻しました(アリューシャン列島とは、ユーラシア大陸のカムチャツカ半島から北米大陸のアラスカ半島を結ぶように点在する島々。コマンドルスキー諸島を除き、大部分がアメリカ領となっています)。

日本軍の上陸後、アッツ島は熱田島(久住忠男参謀命名)、キスカ島は鳴神島(松本通世参謀命名)と呼ばれ、北方の前進基地として米軍と対峙する事となりました。
因みに、“熱田島”“鳴神島”の占領地名は内閣地名改称協議会の承認を得ていません。つまりは非公式の名称です。
報道時にどちらの名を使うべきか困った新聞社が軍部に質問したところ、「公式な呼称ではないが、作戦上の必要などから、呼びにくい現地の地名を日本式の地名で仮称する事は敢て咎めない」との回答があったとか。


帝國ノ犬達-キスカ島
地図上でもっとも北にある日の丸印がアッツとキスカです。

 

アメリカ側は、6月10日頃まで自国領が占拠された事に気付かなかった様です。キスカ湾に着水しようとした米軍飛行艇が日本軍を目撃、慌てて逃げ去るという椿事も発生しました。
アッツとキスカには、その程度の軍事的価値しかなかったのです。
そもそも、日本軍は何でこんな北の小島を占領したのでしょうか。

昭和17年、敵機動艦隊撃滅を目論む日本海軍は、決戦の場としてミッドウェイ島攻撃を計画。
同年5月、上層部は「聯合艦隊司令長官は陸軍と協力し、AF(ミッドウェイ)及AO(アリューシャン)西部要地を攻略すべし」との命令を下します。北方での作戦が追加されたのは、ミッドウェイから敵の目を逸らさせる事が目的でした。
連合艦隊司令部の計画では「(補給困難な)キスカ島の配備は同年九月中に撤収する予定」となっておりアッツ、アムチトカ、キスカ、セミチの各島を「夏の間だけ占拠する短期陽動作戦」として立案されています。
その後、海軍内部では「敵大型爆撃機の北方前進基地を叩き、更なる本土空襲を阻止する」短期作戦案と、「越冬駐留を続け、哨戒拠点を北方へ拡大する」長期作戦案が対立。更には大本営や陸軍も加わった事で作戦方針が二転三転した結果、アッツ、アダック、キスカへ限定した侵攻で纏まりました。

6月2日、上陸部隊を載せた第5艦隊は幌筵から出撃。アリューシャン列島へ向かいます。続いて6月3日23時、別動の第4航空戦隊も行動を開始しました。
空母「龍驤」「隼鷹」から飛び立った第4戦隊の航空機は、翌4日にアリューシャン列島へ到達。米軍の拠点であったウナラスカ島ダッチハーバーを空襲します。
6月5日、これら北方での陽動作戦に呼応して行われたミッドウェー作戦は、主力空母四隻喪失という無残な敗北に終わりました。

ミッドウェー大敗の報告を受けた山本五十六長官は、5日夜になってアリューシャン作戦の延期を命令。
士気喪失を恐れた上層部は徹底的な緘口令を布いており、突如反転する理由について、第5艦隊内で知らされていたのは幹部クラスだけでした。携帯コンパスで南へ変針している事に気付き、艦内の上陸部隊には動揺が広がります。
「南方に敵艦隊を発見したので、そちらの攻撃に向かっているのでは」などと噂が飛び交いますが、説明は一切行われていません。
翌日になって、事態は更に迷走していきます。
大本営と連合艦隊司令部の間で検討が重ねられた結果、6日正午にアダック攻撃中止とキスカ・アッツ攻略作戦の続行が決定され、艦隊は再び北へと反転。こうして、アリューシャン作戦は決行されました。

私たちが議論に倦きて再び本を讀み出した頃、船はまた百八十度の轉針をして、最初通り北の目的地に向つてスピードを加へてゐた。
―なぜ轉針したのかいまだに私たちにはわかつてゐない―。

 

深澤幹蔵著『アリューシャン襲撃戰記(昭和17年)』より


帝國ノ犬達-キスカ島
 

6月7日22時27分、日本海軍陸戦隊はキスカ湾のレナードコープに上陸を開始。翌8日、アッツ島にも日本軍が上陸し、両島は無血占領されます。

事前に行われた航空偵察の結果、「キスカには100名規模の敵兵力が展開中」と思われていました。しかし、上陸作戦中に戦闘らしい戦闘は行われていません。
それもその筈、キスカ島にいた“敵兵力”は、10名の海軍気象観測班員と1頭の仔犬だけだったのです。

 

ウィキペディアを参照(2008年5月時点)しますと
“The Japanese captured the sole inhabitants of the island: a small U.S. Navy Weather Detachment consisting of ten men, including a lieutenant, along with their dog. ”
とありますね。
この米軍犬の名は「エクスプロージョン(Explosion)」とも伝えられています。

観測班と一緒に記念撮影されたエクスプロージョンは、垂れ耳の仔犬。写真を見る限り、犬種はよく分かりません。

 

日本軍の急襲に、キスカ島の米兵は大混乱に陥りました。

アメリカ軍観測班10名のうち、逃げ遅れたコックフィールド(衛生隊員)とマッカンドレス(調理士)の2名が占領初日に捕虜となり、10日にはターナー観測隊員ら3名が捕えられ、山中に隠れていた4名も降伏します。
最後まで逃走を続けたウィリアム・チャールハウス隊員も、約2ヶ月後に食料が尽きて投降。彼の存在すら忘れていた日本兵を驚かせました。

 

目玉ばかりギヨロ〃として頬はこけ、手足も「糸のやうに」と云ふ形容がぴつたりと當てはまる程にやせ、茶色のあご髯をのばした男、これが「五十日間島を逃げ廻つてゐた男」であつた。

部隊が鳴神島に上陸した當時、そこには十人のアメリカ兵が、氣象観測と通信の任務についてゐた。その中九人だけは捕へられたが、殘る一人はどうしても行方が知れず。

おそらく霧の中をさまよひ歩いてゐる間に凍死するか、餓死してしまつただらうと、部隊では既に殘る一人に對する注意を忘れてゐたところ、逃走してか ら五十幾日ぶりの○○日に灣の南側の丘から、棒の先にハンカチをつけ、それを振りながら投降してきたのだ。それがこの男さ―と神崎大尉は云つた。

そこへ○○の元氣な軍醫長もやつてきた。

「煙草を吸はないか」

一本取つて彼に差出すと、彼は大げさに手を振つて「煙草は吸わない」と云ふ。

「五十幾日も食物らしいものも食はず、海岸に生えてる草を食つて生きて来たのでお粥をやつたら、食べ過ぎて腹をこわしてゐるんですよ」

 

『アリューシャン襲撃戰記』より

 

いっぽうのアッツ島には42名のアレウト族と通信技師の米国人老夫婦が住んでいましたが、全員が日本軍の監視下へ置かれました。
6月12日になってF・ジョーンズ夫妻は自殺を図ります。

恐らく、日本軍の厳しい訊問に耐えられなかったのでしょう(当初、アメリカ側では“夫妻は処刑された”と思っていました)。

 

「何時の間に眠つたのか、目を覺ましたときは上陸第二日目の朝がやつて來てゐた。

毛布をはねて起きたところへ五百木軍醫中尉がやつて來た。

「朝つぱらからひどい目に會つてしまつた」

「何があつたんだ」

「いや、例のアメリカ人夫婦が心中したのさ」

今朝早く―(私と松山君が木箱のこわれを集めに行つた頃かも知れない)―彼等は手頸の動脈を切つて心中を企てた。うめき聲を聞いて駈けつけた部落民の知らせで、直ぐ五百木軍醫が行つて今手當を加へて來たところだといふ。

「出血多量だが、或は助かるかも知れない」

昨日先きに立つて部落民の世話を焼き、通譯を通じて皇軍の命令に違背しないことを誓約した、太つた、老いた夫婦を頭の中に畫いてみた。

「助かるものなら是非助けよ」

部隊長の命令であらゆる看護の手を尽したが、その夕刻夫のジヨオンズは六十五年の生涯をアリユーシヤンの一孤島で終つて行つた。細君だけは助かつて、軍醫に「サンキユウ」を繰返してゐた。

「最初かけつけた時―御親切は感謝します。しかし私は助かりません。早く苦しみを無くして下さい―と彼は云つてゐた」と五百木軍醫中尉はつけ加へた。

その後部隊の手によつて、彼の遺骸は丘の下にある白い教會の墓地に手厚く葬られた。

 

『アリューシャン襲撃戰記』より

 

夫人と共にアリュートの民たちも輸送船長田丸で北海道の小樽へと移送されますが、慣れぬ異国の地で健康を害したのでしょう。帰国までの3年間に約半数の人が亡くなったそうです。
戦後、アメリカへ帰国した彼らがアッツ島へ戻る事は許可されませんでした。


6月11日15時、ミッドウェイ・アリューシャンの両作戦を大本営が発表します。

しかし、ミッドウェイ敗北の事実は隠蔽されました。

 

東太平洋全海域に作戰中の帝國海軍部隊は、六月四日アリユーシヤン列島の敵據點ダツチハーバー並びに同列島一帶を急襲し、四日、五日兩日に互りこれを攻撃せり。
一方同五日洋心の敵根據地ミツドウエーに對し猛烈なる強襲を敢行するとゝもに、同方向に増援中の米國艦隊を捕捉、猛攻を加へ敵海上および航空兵力並びに重要軍事施設に甚大なる損害を與へたり。
更に同七日以後陸軍部隊と緊密なる協同の下にアリユーシヤン列島の諸要點を攻略し目下尚作戰續行中なり。

 

上陸後のキスカ・アッツの両守備隊は、硬い岩盤や火山性地震に悪戦苦闘しながら陣地構築を開始。キスカ島には6機の水上戦闘機と特殊潜航艇部隊が展開し、通信所や飛行場も建設されます。
それまで散発的だった米軍の空襲は、9月に入ると激しさを増していきました。
11月24日には「島全体をベトンで要塞化して長期戦に備えるか、さもなければ全隊員を即刻撤収させるべき」との現地調査報告が海軍省に提出されましたが、軍上層部は優柔不断な態度に終始します。

 

12月28日、飛来した米軍機が伝単(心理戦用の宣伝ビラ)を撒いていきました。

舞い降りてきた伝単は、アート紙を桐の葉状に切り抜いたもの。

その表裏には「春ふたたび來る前 降るアメリカの爆彈は 桐の葉落するが如く 不運と不幸を來すべし」「桐一葉 落つるは軍権必滅の凶兆なり 散りて悲運と不運ぞ募るのみ」と日本語で書かれてありました。

「アラスカ防衛の米陸海軍人は日本の將兵各自及びその御家族に対して深く同情の意を表す」として別の伝単に記されていたのは、日独伊三国同盟を揶揄する文章と降伏勧告。

米軍の本格反攻は、目前に迫っていました。

 

實に癪に触つたのは、日本の基地設定能力の貧弱な事です。
敵が上陸するとすぐ、私は逐一敵の飛行場の設定を見て來ましたが、その速いこと物凄いです。
(中略)
吾々が上から見ると、當時は少し雪が降つてをつたですが、日本の飛行場はまつ白です。
向ふ(※アムチトカ島の米軍)の飛行場を造つてる處はまつ黑です。その位違つてをつた。實に速い。

一日一日と伸びて行くんです。幅百米に千二百米の飛行場が二十五日で出來てしまつた。

 

『大洋(昭和19年)』掲載、元キスカ守備隊飛行士山田九七郎海軍大尉の談話より

 

刻々と増強されていく米軍と対峙しながら、アッツ・キスカ守備隊は北洋の厳しい冬を迎えました。
この頃、キスカ島では何頭かの軍用犬が飼われてたようです。


帝國ノ犬達-キスカ島
●キスカ島のツンドラ地帯で荷橇を曳く3頭の軍用犬。おそらく勝(黒色)と北(白色)です。

斑模様のカラフト犬は何でしょうか?

 

一月二十六日、編成完結。(中略)将校は殆ど予備役で初めての応召者もあったが、下士官、兵は既に支那戦線に従軍し者もかなりあり、当時としては比較的若い平均二十才半ばの者を主とした総員二百名近くの中隊である。
変わり種としては軍用犬にと警務筋から貰い受けたシェパードの『勝』号がおり、部隊中が可愛がっていた。

 

『キスカ戦記』より、北守独立野戦高射砲第32中隊長 陸軍大尉平松清一氏の証言

 

同年兵の高杉正勇兵曹長が、高杉砲台長から司令部勤務となり、それまで甲板士官を勤めていた私と交代、私が二○名ほどの部下を指揮する高杉砲台長になった。
高杉君は陸軍から貰ったとかいうシェパード犬を子犬の時から飼っていて、自分の名前の正勇をそのままこの子犬の名前にして“正勇号”と呼んでいた。私は大きく育って、もう一人前の若犬になっていた“正勇号”を、高杉君から譲り受けたのである。

 

『キスカ戦記』より、5警高杉砲隊長 海軍兵曹長水島忠一氏の証言

 

メス犬なのですが、キスカには女はこの犬一匹しかいなかったわけですよ。
陸戦隊のキスカ占領当時は、キスカ島には十数人の米兵(気象観測員)とキツネが若干いただけですが、その後の補給の時にペットとして犬が送られてきたんです。

 

『証言私の昭和史4』より、海軍舞鶴第三特別陸戦隊主計長 小林亨氏の証言

 

占領時の記録としては、仔犬時代の正勇や3頭の運搬犬を撮った写真が残されている程度。勝か正勇が「エクスプロージョン」を改名した犬だった可能性もありますが、その辺も不明です。

キスカ・アッツの両守備隊では、鵜やアホウドリの幼鳥、ヒバリなどのほか、小林氏の証言に出てくる狐もペットとして飼っていました。これらは日本軍侵攻以前から毛皮用に持ち込まれ、島で自然繁殖していたものです。
狐の毛皮はアッツ島の主要産品でしたし、アレウトの子供達にとっては良き遊び相手でもありました。

日本軍に飼われた狐の中には、まるで犬のように懐いた個体もいたそうです(野生の狐と間違われた個体は、狩猟時に射殺されてしまいました)。

 

この狐はニリーといふ名前だつた。私達の幕舎につないで置いたが、しばらくの間に縄を外して逃げてしまつた。何處かへと逃げられてしまつたと思つたら、自由になつても元の山へ歸らずに、さつさと飼主のところへ戻つてゐた。
猫は、この島では餘程珍しいものと見え、首に縄をつけて大切さうに飼つてゐた。こんな北の方の猫だから少しは違つてゐるかと思つたが、日本の猫とちつとも違はなかつた。

 

『アリューシャン戰記(杉山吉良著)』より


昭和18年、アムチトカ島の航空基地を完成させた米軍は、アッツ・キスカの奪回作戦を開始します。キスカ島には大部隊がいると推測されていた為、まずは弱小戦力しかないアッツ島へ狙いが定められました。

300㎞離れたキスカ島の守備隊は、自分達の防空戦で精一杯の状況。

アッツへ救援に向かう事は不可能でした。

 

昭和18年5月12日。

空襲警報の発令で配置についたキスカ島高射砲部隊は、一発の爆弾も落とさずに頭上を飛び越えていく米軍機の大編隊に首を傾げました。

米軍機の群れは“キスカ富士”を目印に濃霧を突破。その先にあるアッツ島へ殺到します。

これが、アッツ奪回作戦「ランド・クラブ」の幕開けでした。

圧倒的兵力で上陸を開始した米軍に対し、アッツ島守備隊は絶望的な抵抗を試みます。霧と地形を利用して戦うしかない日本軍は、上陸してきた米軍の挟撃を受け、各個撃破されていきました。
大本営の陸軍部は海軍部に対してアッツ救援作戦を要請するも、ガダルカナル戦への対応に追われていた海軍にアッツへ割く戦力などありません。陸軍独自で落下傘部隊を送り込む案も、実行不可能として却下されます。
5月21日、救援作戦をたてる樋口季一郎北方軍司令官の元に届けられたのは「アッツ救援断念」の決定。

山崎保代陸軍大佐以下、2650名のアッツ守備隊員は見棄てられたのです。

 

これに猛抗議した樋口司令官ですが、残された選択肢はひとつだけでした。
“交換条件”として出されたのが、海軍によるキスカ守備隊5900名の救出作戦です。
この条件は承諾されました。

 

同日、山崎大佐の元には玉砕命令が打電されます。
そうとは知らないアッツ守備隊員は、必死に戦い続けました。8日後の29日には食料弾薬も尽き、戦闘可能な兵力は300名程度に激減。

同日夜の無線連絡を最後に、山崎大佐以下残存部隊は突撃を敢行します。

30日深夜、日本側はパニック状態に陥った米軍の通信を傍受し始めました。

「コールドマウンテンのサラナ及びマサツカル峠は突破されたり(1時53分)」

「只今日本軍の大逆襲を受けつつあり。その兵力300以上。Gよ、Gよ、そちらはどうなっているか」

「Fよ、Fよ、こちらは大逆襲を受けている。敵兵力800を下らず。情況を知らせてくれ。至急連絡をつけて欲しい(3時50分)」

「こちらは第2大隊より派遣せられた第3捜索隊だ。既に1000ヤード後退の止む無きに至っている。敵右翼の情況を知らせてくれ(4時51分)」

「敵はL陣地に向かって攻撃中(5時20分)」

突然の逆襲に不意を突かれた米軍でしたが、山崎隊の進撃ルート上に工兵隊が踏みとどまって奮戦。防衛ラインを突破した少数の日本兵が敵砲兵陣地へ肉迫したものの、攻撃はそこで力尽きました。

5月30日17時、大本営は以下のように発表します。

 

一、アツツ守備部隊は五月十二日以來、極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に對し血戰継續中の處、五月廿九日夜、敵主力部隊に對し最後の鐵槌を下し皇軍の神髄を發揮せんと決意し、全力を擧げて壮烈なる攻撃を敢行せり。
爾後通信全く途絶、全員玉砕せるものと認む。
傷病兵にして攻撃に参加せざる者は之に先だち悉く自決せり。

我が守備部隊は二千數百名にして部隊長は陸軍大佐山崎保代なり。敵は特種優秀装備約二萬にして五月廿八日迄に與へたる損害六千を下らず。
二、キスカ島は之を確保しあり。

 

アッツの戦いは、全滅へ追い込まれた部隊を「玉砕」と表現した最初の事例でもありました。
米軍に奪回されたアッツ島では、尚も抵抗を続ける日本軍残存兵の掃討が6月迄続けられています。捕虜となったアッツ守備隊員は、僅か27名でした。

 

アッツ陥落により、米軍は残されたキスカ島へ攻撃を集中します。空襲と艦砲射撃によって死傷者が続出し、連日の戦闘で守備隊の持てる航空・水上戦力も消耗。
遂には水上機による迎撃も不可能となり、対空砲だけが頼りの戦いとなっていました。

アッツ守備隊が玉砕した5月29日、大本営はキスカ島守備隊を撤退させる「ケ号(乾坤一擲の意味)作戦」を遅まきながら決断します。

 

6月になると、第1、7、12、19潜水戦隊によるケ号第1期作戦が開始されました。潜水艦13隻を投入して夜間輸送を行った結果、傷病兵や軍属ら872名の救出に成功します。
しかし、潜水艦では収容人数に限度がある上、10日に伊24、13日に伊9の2隻が爆雷攻撃で沈没、17日には伊7が米軍哨戒艇と交戦の末大破。
損害の多さもあって、6月23日に第1期作戦は中止されます。

 

その海軍兵はいろいろ郷里の話や海軍の生活の話をした後、『もう、キスカもだめですね。まわりを敵艦にかこまれ、輸送船はおろか潜水艦さえ入ってこれません。恐らく、私の乗って来た潜水艦が最後の艦となるでしょう。私も明日その潜水艦で帰ります』というような事を得意顔で話して行った。

『このやろう、とんでもねえやろうだ』と傍で聞いていながら心の中で私達は憤慨したものであった。

 

キスカ22戦友会誌『キスカの黒百合』より 陸軍独立野戦高射砲第二十二中隊柏木孜氏の回想

 

6月29日に再開されたケ号第2期作戦では、第5艦隊による水上輸送方式に切り替えられました。敵哨戒機の眼を避ける為、救出艦隊は濃霧に紛れてキスカ湾への接近を試みます。
救出艦隊接近中の報せに、キスカ守備隊は撤収準備を整えて海岸へと駈けつけました。

 

収容艦隊は、少ない艦で全守備隊を撤収させるため、将兵の携行品を極度に制限し、小銃すらも捨てろということになっていた。
人の身柄を乗せるだけでせい一杯なのだ。

憐れなことではあったが犬は乗せて貰えないのである。
集合地点に出発するにあたって、兵達はめいめいの握り飯だの、缶詰だのをあけ、一週間分ほどの餌を犬小屋の前に置いてやった。

可哀想だが正勇号は太い杭にロープでつながれたままであった。時が来て私たちは後ろ髪をひかれる思いで山を駈け下りる。
ところがどうだ、まだ半分ほども走っていないというのに、正勇号は弾丸のように後を追って飛んでくるのである。

われわれが船待ちする間じゅう正勇号は私の傍から離れようともしないのだ。
この日は、またも艦隊入港せず。空しく陣地に引き上げることになった。
正勇号はあの頑丈なロープを噛み切って後を追ってきたのであった。
次の日も、また次の日も同じことが繰り返された。ロープは細いのから太いのに、一本から二本にと、噛み切るのををより難しくもしたが、それでも彼は、そのロープを食い千切って追いすがってきた(『キスカ戦記』より)

 

しかし無情にも霧は出ず、キスカ湾への突入は失敗します。

7月15日、指揮官の木村少将は作戦延期を決定。救出艦隊はキスカを目の前に反転帰還していきました。望みを絶たれた守備隊は、キスカ島での死を覚悟します。

撤退できるものと思っていた彼等は、殆どの食糧・装備弾薬を廃棄していました。

一方、帰還した木村少将は周囲から激しく叱責されています。
「卑怯者」「五艦隊ならぬ動かん隊」と陰口を叩かれながら待ち続けた22日、キスカ近海に霧が出るとの気象予報を得た第5艦隊計16隻は直ちに出航。

燃料事情や米軍の攻勢を考えると、これは最後のチャンスでした。

 

救出艦隊が北上しつつあった7月23日、アリューシャン近海を警戒中の米軍哨戒機が7つの船影をレーダーで捕捉。直ちに警報が打電されます。
米海軍北太平洋司令部は、これをキスカ増援の日本艦隊と判断。キスカ海域を封鎖中の艦船に対して迎撃を発令しました。
25日夕刻、日本艦隊の接近を阻止する為、米艦隊は現場海域へ急行。26日0時7分、索敵警戒中の戦艦ミシシッピー、アイダホ、巡洋艦ウイチタ、ポートランドのレーダーが正体不明の反応を探知しました。
実際は当該海域に日本艦船など1隻もいなかったのですが、これを敵艦隊と誤認した米艦隊は同13分からレーダー上の幻影に向けて集中射撃を開始、持てる砲弾を打ち尽くします。
0時44分、レーダー反応が消失したことで砲撃も終了。

しかし、戦果確認に飛び立った捜索機は、交戦相手の痕跡すら発見できませんでした。艦影はおろか、漂流物ひとつ見つからなかったのです。
レーダー上に現れた「幻の日本艦隊」の正体は不明。“アムチトカ島が反射した電波のエコー”という説などがあります。

幻との艦隊戦は、キスカ守備隊でも目撃されていました。

 

七月二十六日の真夜中、私達は敵機の爆音に起こされて火砲の位置についた。

真夜中の空襲は全く初の事である。と、一機の敵機が侵入しキスカ上空に照明弾を落とした。一瞬視界は昼のように明るくなった。

『何かあるぞ』と緊張の一瞬、私達は七夕湾方面のはるか沖合で砲弾を発射する音を聞いた。

数十発のようであった。そして、敵機一機はそのまま頭上を飛び去り、数分後照明弾は消えてもとの暗闇が私達を包んだ。

私達は砲声のやむ迄そこに立っていた。

全く、きつねにつままれたような一刻であった。

 

『キスカの黒百合』より 柏木孜氏の回想

 

それは轉進近き七月二十六日のことである。キスカ島守備隊の電波探知機は、東方よりの一大鐵塊群と、西北方よりの一大鐵塊群とが次第に相接近してゐることを感受した。

それは明かにこのキスカ島の海上封鎖を行つてゐる敵艦隊に相違なかつた。

『いよ〃敵はこの島に上陸せんとするのか』

守備隊一同は悲壮な決意のうちに戰鬪状況を完成し、情況を注視してゐたのであるが、俄然濃霧たれこめる北洋の海上に、殷々たる砲聲が轟きはじめた。

十發、二十發、三十發、それは意外にも上陸戰ではなくして海戰であつた。

艦砲はなほ數十發轟き渡り、やがて今までわが電波探知機に強く感じてゐた二つの大鐡塊の群が次々と消えて行つた。

二つの艦隊が相互に激しく撃ち合ひ傷つき合ひ、そして相互に全滅的大損害を蒙つて次々と海底に没していつたことを科學が證明したのである。

 

『報道叢書(昭和18年)』より

 

どうやら、日本側もレーダー上の幻影に惑わされていた様ですね。

“日米艦隊が戦い、双方壊滅したのだろう”と判断したキスカ守備隊の間では、重い空気が漂いました。

 

幻を相手に砲弾と燃料を浪費してしまったキンケイド提督は、補給の為に28日から30日にかけて海上封鎖を一旦解除してしまいます。

海域に残ったのは駆逐艦ハル1隻のみ。
第5艦隊がキスカ近海へ到着したのは、計らずも敵主力が不在の7月29日だったのです。
濃霧の中、5隻が玉突き衝突(損傷で「若葉」が離脱)したり、小キスカ島の岩礁を敵艦と誤認して魚雷攻撃したりのトラブルはありましたが、ラジオビーコンに誘導された第5艦隊は13時40分にキスカ湾へ突入しました。
それから僅か55分間で5183名の全守備隊員と戦死者の遺骨30柱を収容し、艦隊はアリューシャン海域から全速力で離脱します。
帰還途中の16時27分には敵潜水艦と遭遇していますが、霧のせいで米艦船と見間違えられたらしく、何事もなく擦れ違ったというオマケまでありました。

奇蹟的に成功した第2期ケ号作戦ですが、犬達は置き去りにされます。
前述の通り、武器食糧さえ遺棄するというギリギリの状況下で、犬を連れ帰る余裕はありませんでした。第1期撤収作戦ではロープを喰いちぎって追いすがって来た正勇達も、今回は去りゆく主人たちを黙って見送っていたそうです。

 

私は、終り頃の便の大発(※大型動艇の略。上陸用舟艇のこと)に乗った。振り返って見ると、二隻の最終の大発に兵隊たちが乗り込もうとしていた。
その兵たちに混って白い犬が一生懸命尻尾を振って走り回っているのが見えた。
”いっしょに連れてって”と叫んでいるに違いなかった。
哀れだが、犬は島に残された。
遠ざかって行く海上から見ると、兵舎附近からは黒い煙が上り、可哀想な犬が白い点となって右往左往していた。

 

『キスカ戦記』より 特潜基地隊海軍機関二等兵曹成田誠治郎氏の証言

 

キスカ撤退直後、日本側では“軍用犬も一緒に撤収した”と報道していました。

 

隠密を要する撤収作戦は、かくて一○○パーセントの隠密裡に乗船を完了して、艦艇はいよいよ○○を出航した。

全兵力、一兵も損することなしといふ大成功である。一年餘の間、勇士達と辛苦を共に分け合つた軍用犬も傳書鳩も、みな船に乗つてゐる。

當初に豫想した○割の損害が零ですんだのだ。

 

B兵長「われ〃の方の生活は、單調を通り越してゐました。軍紀厳正、みな敵撃滅の一念以外にないのですから本當に氣合いがかゝつてゐましたよ。

われ〃のキスカ島にも女がゐました。但し二人ではなく二匹です。北千島産の雌犬ですよ、ハハ……」

C一等兵「今度の轉進では、あの犬達も部隊と共に引き揚げたらうと思ひます」

 

いずれも報道叢書『キスカ戰傷勇士座談會(昭和18年)』より


……。

主が去ったキスカ島で、犬達は敵の砲爆撃に晒されながら生き抜いていました。

そうとは知らない米軍は、撤退作戦の翌日からハルとファラガット(補給から帰還)によるキスカ砲撃を再開。8月に入って米艦隊はキスカ近海を完全封鎖し、猛烈な艦砲射撃を繰り返します。

霧の合間にキスカ島を撮影した偵察機は、ぱったりと反撃してこなくなった敵の異状を察知していました。

しかし、キスカ空襲部隊は「地上砲火を見た」「機銃掃射で日本兵を倒した」と、敵の目撃情報を伝え続けます。おそらくは、弾薬の誘爆などを誤認したのでしょう。

7月29日にキスカ守備隊が撤退した後、米軍の行動は下記のとおり。

 

8月1日 米軍の重爆撃隊がキスカの日本軍陣地を空襲。

8月2日 重爆撃隊が空爆。米艦隊がキスカ島潜水艦基地などを砲撃。

8月3日 米艦隊が日本軍陣地を砲撃、反撃は軽微。北・南岬の滑走路と水上機格納庫を空爆。

8月4日 夜間爆撃の後、夜明けから夕方まで日本軍陣地を空爆。日本側の対空砲火は軽微。

8月5日 米艦隊が砲撃するも、日本軍の応射なし。

8月6日 同じく、艦砲射撃に対する日本軍の応射なし。

8月7日 土曜日の為、作戦休止。

8月8日 米艦艇による砲撃。日本軍の応射なし。

8月9日 米艦艇による砲撃。日本軍の応射なし。

8月10日 艦砲射撃と、24回にわたる空爆及び機銃掃射。日本軍の対空砲火は軽微。

8月11日 艦砲射撃と、21回にわたる空爆。

8月12日 艦砲射撃と、20回にわたる空爆。日本軍の抵抗なし。

8月13日 艦砲射撃。午後から9回にわたる空爆を加えたところ、日本軍が対空砲火で応戦。


結局、「日本軍は、上陸作戦に備えて地下陣地に立て篭もっているのだろう」という判断が下されました。

8月14日 早朝から3回の空爆と4回の艦砲射撃。午後も日本軍陣地への空爆が続く中、木製人形を満載した5隻の哨戒艇がキスカ島の七夕湾(ガートルード湾)に侵入します。これは、日本軍の注意を七夕湾に引き付ける為の陽動作戦でした。

翌15日、アメリカ・カナダ合同部隊34426名は反対側の西海岸から上陸を開始。

先遣隊7300名が海岸へ展開する中、日本軍の姿を求めて複数の偵察チームが島の奥地へと浸透していきました。

 

日本軍とは対照的に、連合軍側は作戦開始前から不運続きとなりました。
8月10日、キスカ近海を航行中の駆逐艦「アブナーリード」が機雷に触れたのを始め(70名が死亡、47名が負傷)、上陸後は濃霧による誤認で偵察部隊の同士討ちが続出しています(25名が戦死、31名が負傷)。
しかし、米兵がキスカ島で発見したものは、無人の日本軍陣地と「ペスト患者収容施設」と書かれた看板(日本軍医のイタズラ書き)。

そして、置き去りにされた軍用犬だけでした。

 

米軍ならびにカナダ軍の斥候部隊は十六日キスカ島の日本軍守備隊の主要陣地に入ったが、宿營は壊れていて敵影はなかった。他の斥候部隊がジェルトールド入江に上陸したが、到るところ“人なき陣地”が殘されていたに過ぎない。

哨戒部隊は全島隈なく點檢し、キスカ火山口まで調べたが、遂に日本軍の隻影すら見出せなかった。

日本軍が何處へ行ったのか、どうして米軍の封鎖を脱出したのかは全くの神秘だ。

上陸米軍の將兵達は“どうも信ずることができない”と何回も繰り返したものだ。

 

UP通信 ラッセル・アナベル記者

 

ワシントンからの通信によれば、1902年同島にいた一医師の記憶に従えば島には大きな洞窟が2個あって、各1,000名を収容し得るとのことである。

よってこれを捜索して見よとの提案であった。

しかし日本軍の残して行った生物は三、四匹の雑種犬に過ぎなかった。

一飛行兵曰く、“我々は10万枚の伝単をキスカ島に投下した。しかし犬では字が読めない”

 

防衛庁防衛研修所戦史室

 

キスカ上陸作戦の翌月、日本の児童雑誌にこの様な文章が掲載されています。

 

「敵はわが方の撤収をしらなかつたものだから、その後二週間にもわたつてこの無人島を遠まきにし、八月になつてからでも百二十一回の砲爆撃をしたと發表して、全世界の物笑ひとなつた」

「あきれてしまひますね」

「しかもその攻撃状況を發表した中に、幾度も日本軍の地上砲火をうけたとか、相當の應射ありとかといつてゐる。

誰もゐない島から攻撃をうけるなんて夢みたいな話だが、敵はちやんとさういつてるのだ(後略)」

 

少女倶樂部『心の米英をうて(昭和18年)』より

 

キスカに残された日本陸軍所属の「勝」と「北」、日本海軍所属の「正勇」、そして米海軍所属の「エクスプロージョン」。
上陸してきた米兵を迎え討って戦死した勝を除き、北米大陸へ渡った3頭の軍用犬から世界各地へと子孫たちが拡散し……、
「イヌよ、イヌよ、お前たちはどこにいる?」という問いかけで展開するのが小説『ベルカ、吠えないのか?』

これからベルカを読む人は、古い地球儀とメモ帳を用意したほうが良いでしょう。文庫版なら犬達の系図も載っていてお得です。

そんな事はともかく。

「海軍の犬達」とタイトルを付けておきながら、キスカだのベルカだのと脱線してしまいました。
要するにですね、海軍にも軍用犬は存在していたのです。
次回は、日本海軍で犬が飼育され始めた時代のお話を。

 

(其の2へ続く)