支那では盲目の芸人を犬が案内して、市中の各戸を訪れ、食物や金銭を貰ひ受けると云ふ珍事があります。夫れは犬の首環より四尺計りな綱を付け、其の綱の一端を芸人の腰に結び付けて、市中を廻り歩くのでありますが、犬は恵まれを受けそうな家か否かを判別して訪れ歩くのでありまして、或は泣き或は尾を振り、人間で言へば、哀訴嘆願と云ふ如な表情がありますが、夫れが如何にも主従が食に飢へて居るが如く視へるのである。
是れには誰れでも犬の憐れに引かされて、金銭其の他を與へるのでありますが、良き犬と良くない犬とは、一日の収入に大した違ひが起つて來るのであります。此の犬の賣買せらるゝ値段も、是れから割り出されるのでありますが、日本の或るものゝ如く、首ツ環に綱を付けて、挨拶もなく玄関先きへ飛び上る如な無禮や不快は致しません。
其の稼ぎ振りは、全く堂に入つたものである。此の犬は、小型にして最も怜悧なもので、支那狆の一種華狗(ホアコオー)と申します。


鈴木東吉郎『犬が人を養ふ』より 昭和4年

帝國ノ犬達-北満盲導犬
関東軍獨立守備隊の藤村高軍曹が撮影した満洲国の盲導犬。昭和10年

№3【東洋の盲導犬史】

ヨーロッパとは違い、東洋における盲導犬の歴史はよく分かっていません。中国の古い絵画には盲導犬らしきものが描かれているそうですが、何時の時代に考案されたのかは不明。

中国の盲導犬に関しては、冒頭のような詳しい記録があります。上の写真にも、犬に導かれる視覚障害者の姿が写っていますね。
中国盲導犬が古くから存在していたのは紛れもない事実なのですが、これらの盲導犬を誰がどうやって訓練し、そのノウハウをどのように後世へ伝えていたのでしょうか?鈴木さんは「此の犬の売買せらるゝ値段」と書いていますから、盲導犬の育成・販売ルートがあった筈。
しかし、全ては謎です。

【桜井忠温とジェーナ】

日本は、中国から大きく遅れて盲導犬の存在を知りました。我が国で盲導犬について取り上げたのは、明治時代の「獨訓盲書」に記載されたものが最初とされています。大正10年頃には、オーストリア軍の軍犬マニュアルに登場する盲人誘導犬を日本陸軍獣医学校が「盲人犬」と邦訳しました。
盲導犬の存在が一般の日本人に知られるようになったのは昭和4年以降の事。それは、陸軍大佐櫻井忠温と日本電報通信社の中根榮がヨーロッパ諸国を訪問したのが切っ掛けでした。

櫻井大佐といえば、世界各国でベストセラーとなった「肉弾」の著者。この本は、当時のドイツ軍でも必読書として推薦されていたそうです。
ドイツ滞在中、櫻井大佐は著名な作家として、そして東洋から来た傷痍軍人として丁重にもてなされました。
その頃のドイツでは、欧州大戦で失明した軍人達が盲導犬と共に歩く姿をよく見かけたそうです。帰国した二人は、ベルリンの街角で出会った盲導犬について其々の著書で取り上げました。

「伯林の盲は氣の毒なことに廃兵なんだ。セファード(ウルフ・ドグ)を連れて町の角で新聞を賣つてゐる盲がゐる。あれがさうなんだ。H君!君は伯林へ行つたか。行つたら、その盲兵を見なかったか。盲兵は、左の腕に黄ろい三つの●(※原文は3つの●印)の腕章をつけてゐる。
犬の首には赤十字の印がつけてある。盲兵の手びきは犬がやる。犬はいつも先きへ立つて歩く。自動車や電車が來ると、犬は踞んでワン〃と吠へる。盲兵はその合圖で足を止める。車が通りすぎると又歩き出す、といふことがキチンと訓練されてある。
盲兵を手びきする犬を見ると涙が出る。犬にからかひでもしやうものなら大變だ。命がけになる。
盲兵から貰うパンでないと決して口にしない。犬は政府から盲兵に與へてあるのださうだ。そして犬をして盲兵の守役にしてゐる」
櫻井忠温著『土の上・水の上』より、昭和4年

「伯林の町を歩いてゐる時、中根君がある町の角で盲兵のそばに踞つてゐる犬の頭をなでやうとして手を出すと、犬は大きな口をあけて吠え立てたので、中根君はビツクリして後へ飛びのいた。犬の方では『どこの黒い奴だ、失敬な』とでも思つたのだらう。
吠えられた中根君は『何を!猪口才な、人を見て吠へろ』といでもいふかと思ふと『イヤ感心々々。えらい奴だ』といつて誉めちぎつた。そして、吠えられ賃にポケツトから金をつまみ出して盲兵の膝の上に置いてやつた。すると犬は『この男話せる』と思つたか。尻つぽをブン廻しのやうに振つた。中根君はニコ〃として『何て可愛いゝ奴なんだ』と、クル〃と頭をなでた。犬はお礼でもいふやうに、中根君に首をすりつけた。
盲兵のそばにゐる犬、それは戰場で失明した不幸な盲兵の守護役で毎朝主人を連れては町の角へ出て、道行く人にあはれを乞ふてゐるのである。中根君は伯林にゐる間、毎日のやうに盲兵とその犬を訪れ、温かい心を寄せてゐた。中根君の旅情を慰むるものは『犬』であつたらう」
櫻井忠温『犬のおぢさん中根君』より、昭和5年

「盲は廃兵である。三ツの黒星は廃兵のしるしである。頭にかぶつた破れた鳥打帽、鬚ぼう〃としたて落ちくぼんだ頬、薄汚い着物。その足もとにうづくまる、小型のシエパード犬。ことに旅行者の心をひきつけるは犬の胸につけた、小判型の赤十字のしるしの入つた徽章。
(中略)
翌くる日も亦、ソーセージの一包をもつて、ウエルトハイムの出入口に行つた。そのソーセージを與へた時に、盲兵の顔に浮んだ感謝の色は昨日よりも遙かに濃いものがあつた。

『あなたはどこの戦で失明したのですか』と尋ねた。
『ヴエルダン』と盲兵は答えた。
ヴエルダン(※1916年、独仏間で行われたヴェルダン要塞攻防戦の事)ときいて、旅行者はゾツとした。此盲兵もヴエルダンで、銃剣をつけた儘、地の中に埋められてしまつた、佛軍の兵士のように悲惨な運命に遭ふところであつたのか。あるひは両眼を失明して生きて居る事は、銃剣をつけたまゝ、地の中に埋められた兵士よりも、悲惨であるかも知れぬ。
『あなたは御親戚はないのですか。廃兵院へなぜおはいりにならぬのですか』と尋ねた。
『親戚はありませぬ、廃兵院へはいつでもはいれますが、あそこで淋しい生活をするよりも、此ジエーナと共に自由な生活をする方が幸福です』と答へた。そうして盲兵は身をかゞめて、ジエーナの頭を撫でようとした。
ジエーナとよばるゝシエパード犬は、いそゝと身を起して、自ら其頭をその主人の手の方へ持つて行つた」
中根榮著『犬ものがたり』より 昭和5年

櫻井大佐と中根氏は、「ドイツ土産に」と盲導犬のポスターを求めてベルリンの街を歩き回ります。

「漢堡(ハンブルグ)の街を歩いた時は、櫻井肉弾大佐と一緒であつた。偶然に電車の窓ガラスにシエパードの廃兵の盲人を導くポスターの貼つてあるのを見た。何れ慈善団體のポスターであらう。僕も櫻井大佐も、珍しいものだなと、暫く見入つた。
(中略)
あちらへ行き、こちらへ行き、最後に漸く、そのポスター配給の會社を見附けた。たつた一枚のポスターであるが、之を得るためには、小半日もかゝつたのである。大佐は此ポスターを得て、獨逸の廃兵に對する心掛けを、日本國民に宣傳すると言つて居た。僕は此ポスターに現はれて居る、シエパード犬の普及のために、珍しいものを得たと喜んだ」
中根榮『盲導犬のポスター』より

後に中根さんは、ベルリンで出会った戦盲者とジェーナを題材に「盲導犬の殉死」という小作品を書いています。これは、ヴェルダン攻防戦で失明した盲廃兵ポルターと盲導犬シトの生活を描いたもので、ラストではポルターがベンチで眠りこむうちに凍死してしまい、その遺体を守り続けたシトも命を失うという悲しい物語でした。

※因みに、中根さんはヴェルダン攻防戦を舞台にフランス軍用犬シトの活躍を描いた短編「犬の探偵(昭和5年)」も書いていますが、「盲導犬の殉死」のシトとは何の関係もありません。

 

彼がこのような悲話を書いたのには理由がありました。

「昨年の冬から今年の春にかけ、盲導犬のこうした悲惨なる死を伯林の新聞は多く傳えた。旅行者はあの盲兵と、あのジエーナは、こうした死に方をしたのではなかつたかと、今尚思ひ出しては気にかけて居る」
『盲導犬の殉死』より 昭和5年

いくら盲導犬が普及していると言っても、敗戦国ドイツで戦盲者が暮して行くのは簡単ではありませんでした。ただ、愛犬家である櫻井大佐や中根さんにとって、戦盲者に盲導犬が与えられるドイツの福祉制度は素晴らしい制度と映った筈です。
何しろ、日本では「独逸番羊犬の呼称をジャーマン・シェパードに統一しよう」と前年に決まったばかり。盲導犬など誰も知らない時代でしたから。

「盲人指導犬は今や米国で非常なる勢をもつて普及されつゝある。我日本にも必ず此種の仕事が行はるべきものである事を信ずるものである。それには(モーリス)フランク氏の如き篤志家を要する。彼は米國からわざ〃欧洲へ渡つて、實際指導家を、連れて來た位である。日本でも金持の慈善家は、此新しい慈善事業のために、若干の金を投げ出す勇氣を出して見たらどうか。
ステツキの先で、コツ〃と路面を叩いて、そして危なしげな足取りで、盲人を通行させるような事は、今に文明國の恥辱となつて現はれて來る事を、はつきりと豫言できる」
中根榮『盲導犬養成學校』より 昭和5年

ドイツ旅行の前年、中根さんらはNSC(日本シエパード犬倶楽部)を設立しています。このNSCによって、日本のシェパード繁殖・訓練法は大幅に進歩する事となり、更に「Blindenhund」 「Kriegs blindenfuhrer hund」「Guid-dog for blind」等を邦訳して「盲導犬」とする事も決定されました。
ただし、NSCの唱える「盲導犬」案には反対意見もあったそうです。

此の譯語に對しては動物文學方面には相當異論を有つた人々もあつた模様である。特に原泰一氏(※中央盲人協会専務理事)の如きは強い反對者で、強いて此の三文字を使用するならば『導盲犬』とす可きであるとて、此の譯語を正式に採用して居た私に屢々抗議があつたのである。
併し、「導盲犬」では「獰猛犬」に語呂が通じて面白くなく、他に別段名譯語も考へて頂けなかつたので、「盲導犬」は「盲人誘導犬」の省略型であると附會(こじつ)けて我慢して頂いたのであつた。要は文字から受ける印象が實際の内容に一番近い様な譯語である事が、大切なのである

新宿中村屋社長 相馬安雄NSC理事『盲導犬』より 昭和18年

世間では數年來、盲導犬などと珍妙な造語が、一部に行はれてゐるが、犬が盲人を導く以上、正しくはむしろ導盲犬とでもしなければなるまい。現にさう呼んでゐる人さへある。盲導犬では盲人が犬を導くとも、盲滅法に引つぱり廻す剣呑千萬な犬だと曲解されないとも限らぬ。ここに種々考慮の末、獨逸語 Blindhund の原意に倣つて誰にでも素直に理解出來る盲人犬と改称した所以である。
識者、幸ひに筆者の微意を諒とし、この犬の日本に於ける重要な将來性と正しい用語樹立のために姑らく卑見に賛同せられたい

ウィル・ジュディ著『愛犬訓育読本』より、翻訳者泰一郎の主張部分。 昭和13年

この頃のNSCでは、盲導犬に関する論文が盛んに発表されていました。

「シエパードを人類の平和生活に使用する事において、盲導犬以上のものはない。殊に盲導犬はシエパードに獨占されて居り、他の犬種の中に完成されたる盲導犬を見ない事は、もつてシエパードの誇りとなすに足りる。げにシエパードの盲人を導きつつ、街路を通行するところを見ると、何人と雖も、そのいぢらしさに涙がにじむのである。
(中略)
完全な盲導犬が出來た以上、假令行く先を犬が知らぬ共、又盲人自身もそれを知らないとしたところが、兎に角犬が盲人を安全に導いてくれさへすれば、行先には途行く人に聴き訊ね乍らでも、達する事は出來るのである。利用の方法は幾らでもある。先づ盲導犬を養成すると言ふ事が、第一の急務である」
哀拳生『盲導犬の養成』より

 

日本盲導犬
小川氏による盲導犬訓練 昭和7年

盲導犬の研究に取り組む日本人も現れましたが、人間を乗せた台車をシェパードに牽引させるという、かなり的外れな内容でした。

 

「訓練に妙を得た人ならば、盲導犬を作る事は決して難事ではあるまい。富山の小川権七君は盲人であるが、同君は其愛育のシエパードにベビー・カーをひかせ、自分がその車の上に乗つて居る寫眞を一度見た事がある。どの程度まで犬を仕込んだものか、どの程度まで利用したものか知らぬが、愉快な寫眞であつた。盲導犬の作出、之はシエパード・フワンの訓練の一生面として、大に努力すべきところである(哀拳生 昭和7年)」


理解者の多いNSCが存続していれば、日本の盲導犬事業はもっと早く実現していたかも知れませんね。
しかし、NSCの盲導犬研究は昭和8年で終了します。

【日本人と盲導犬】
 

「盲導犬の日本にまだ出來ぬのは遺憾にたえぬ。シエパードに對する訓練も追々と上手になつて來たのであるから、盲導犬の養成に手をつけてもよさそうなものである」
日本シェパード倶楽部会報より 昭和8年

 

NSCによって始動するかに見えた日本の盲導犬研究は、事態の急変によって停滞してしまいます。
昭和6年9月18日の満洲事変当夜、日本の軍用犬「那智」「金剛」姉弟、及び「メリー」が戦死。3頭の飼主だった板倉至大尉も、11月27日の装甲列車戦で戦死してしまいます。

この板倉大尉は、陸軍歩兵學校軍用犬研究班員時代にNSCメンバーとして活動していた人物。「お国に命を捧げた元NSCメンバーと愛犬」の報道に衝撃を受け、NSC内部では親軍路線への転換を主張する急進派が台頭します。

同じく「板倉大尉の戦死を軍用犬の宣伝・配備拡大の機会」と捉えた陸軍は、シェパードの調達窓口団体としてNSCの取り込みを図りました。


築山砲兵大尉と結託して親軍路線を唱える伊東・永田理事ら急進派幹部に対し、中根・相馬・中島理事ら保守派幹部は「NSCは同好会であるべき」と激しく抵抗。NSCは内部分裂に至ります。
翌年、NSCから脱退した伊東氏らは、陸軍の後押しでKV(帝国軍用犬協会)を設立。あっという間に巨大化したKVは、荒木陸軍大臣の仲介でNSCを吸収合併してしまいました。NSC消滅後、中根氏はKV理事に就任。いっぽうの相馬氏らはKVへの合流を拒否してNSK(日本シエパード犬研究会)を設立し、後にJSV(日本シエパード犬協会)へと社団化します。
このようにして、NSCの盲導犬研究はKVとJSVに受け継がれる事となりました。


やがて、新聞雑誌の記事などを通して盲導犬を知る人も増えてきます。

「シエパードと言ふ中型の犬が、欧州戰乱の爲に犠牲となつた廃兵を手引きして居るのです。ドイツの廃兵は、凡て腕に黒い星を三ツつけた黄色い布を巻いて居ります。その盲廃兵を、胸に小判型の赤十字の徽章を下げた盲導犬が、頸輪からつながる紐によつて手引をして行くのです」

「獨逸では政府の手で毎月十五頭位の犬を盲導犬として仕立てゝ、それを盲廃兵に與へて居ります。犬の胸につけて居る赤十字の徽章は、盲導犬としての印で、この印をつけて居る犬は一切の税金を免除されて居ります。盲導犬を使用し出したのは獨逸が最初でありまして、さうして今では欧州各國とも之をまねて使用して居ります。英國でも最近シエパード犬を盲導犬に仕立てゝ盲人の手引をする事を始めました。米國でも、昨年あたりから之をまねて盲人協會で盲導犬の訓練を始めて居ります」
少女倶楽部『盲導犬哀話』より、昭和9年

「新青年の十二月號渡邊啓助氏の“悪魔の指”中には獨逸の戦傷者と盲導犬(チヤンと盲導犬と書いてある)の事が次の様に書いてあつた。
(中略)
……十八世紀風の古びた四階建が安造作の近代家屋の間に、ひしぎ潰される様に雑然と挟まつてゐる中を例の盲導犬ビヤは訓練された正確さで、實に巧に雑踏をくぐり抜けてベルグマン軍曹を引つぱつてゆくのですが、時々ビヤは立ちどまつては不審げにその主人の頭を見上げるのでした。
(中略)
これが盲導犬の事を書いた小説を見る最初のものかと思ふが他にも、もつと出てゐるかもしれない(山邊久『身邊雑記』より、昭和11年)」

「私が盲導犬に関する記事を読んだのは、昭和八年十月號『ドツグ』所載のケー・ビー・ミツドルトンと云ふ人の書いた、盲導犬は盲人の生命であるといふ盲導犬を讃美したものである。然し餘りにいぢらしい盲導犬の働きを書き連ねてあるので、到底事實とは信じ得ず半信半疑であつた」
山田晴作『盲導犬の研究こそ急務だ!!』より、昭和15年

ちょっと違うかもしれませんが、こんな児童向け小説も。

帝國ノ犬達-ゴグ

「突然、レネは青年の手をにぎりました。そして『いつまでも、わたしたちのことを忘れないでね。』と言ひました。やがてレネは、手を離すと、走り去りました。建物の中から門番が出て来ました。急に決心すると、クルトは、あひのこ(※犬の名。ドイツ語原作では“シュランパー”)のひもを、しつかりと盲の青年の手ににぎらせて言ひました。『あひのこ、をぢさんに上げます。』そしてクルトも一さんに走りさりました。
青年は、呆然として庭の門のところに立つてゐました。その時、青年のうつろな目には、めつたに見ることの出來ないものが、映つてゐました」
アニ・ガイガ=ゴグ著『犬と子供と兵隊』11章“盲導犬”より、昭和17年

昭和9年、中村勝一氏の著作には「吾が国でも、この盲導犬として訓練を受けた犬が、二三年前輸入された。これがどう云ふ成績を示し、どう云うふ発展振りをするかは興味のあることである」という記述があるのですが、他の犬本では全く取り上げておらず、事の真偽は不明です。
戦時中、盲導犬を親に持つシェパードがドイツから輸入され、JSVに登録された記録なら見たのですが。

 

【盲導犬と出会った人々】
 

日本人が科学的な盲導犬訓練に触れ始めたのは、昭和9年のこと。この年、シベリア鉄道経由でベルリンを訪問した森内章介氏(日本シェパード犬協會訓練士)は、現地シェパード界から大歓迎を受けます。そして、シェパード作出者であるシュテファニッツの仲介により、さまざまなドッグスクールに体験入学することを許されました。

その中の一つが、ポツダムの盲導犬学校です。

 

「其の平家は盲人の寄宿舎の様なもので、盲人は自分の持犬をつれて此の學校に入り、平家に寄宿して犬と一所に訓練を受けるのである。學校には鐵道の遮断機、四ツ角や自動車、プラツトホームの梯子段、散在した建築材料等の各種の障害物が出來て居る。

どの犬も等しく最初はヒール、ゼツツ、フース等の服従訓練を與へるが、盲導犬としての特種の訓練は前に述べた種々の設備によつて、交通繫雑の市中にあつても安全に障害物を避けて、主人たる盲人の道案内をする事を學ぶのである。校内に於て規定の訓練を八週間にして終ると、次は盲人に連れられてといふか、とにかく盲人と一所に、今一人の訓練士もつきそいで市中に出て、實地訓練にかゝるのである。學校に於て八週間學んだ事を外に出て一週間實習を行ひ、初めて盲導犬といふ資格がつくわけである。

それからは毎日その犬が盲人の手引をして市中に用足しにも行けば、仕事にも出るのである。ベルリンの市中を歩くと犬を側に坐らせてマツチ、エハガキ等の簡単な日用品を道側で賣つて居るのを見かけるが、それは即ち盲導犬が主人をつれて市中のよき場所に案内して、そこに坐り商賣をするのである。毎日持つて出る商品全部を賣れば、一日の生活が楽に出來る様な事になつて居て、道行く人も或る盲人のマツチが夕方になつても賣れ残つて居るを見ると、我も〃とそのマツチを買ひ上げ、代金を箱に入れてやるといふ同情心といふか、公徳心といふか、何ともいへぬ實情がわざとならず、自然とあらはれて實に美しいものである。盲人は其の日の商が終ればあすの糧に―生活に―安心して嬉々として、其の愛犬に引かれて家路にたどるのである」

森内章介『ドイツ盲導犬學校の視察』より 昭和9年

 

どうせなら森内さんのドッグスクールでも盲導犬訓練を導入すればよかったのですが、日本犬界のヌルさに嫌気がさした森内さんは満洲国安東へスクールを移転。移転先でも大繁盛したものの、それによって顧客を奪われた満洲軍用犬協会安東支部の怒りを買い(簡単にシェアを奪われる方が悪いのですが)、日本と変わらぬ満洲犬界の閉鎖性に愛想を尽かしていたところを華北交通社の鉄道警備犬ハンドラーとしてスカウトされました。

ドイツの盲導犬訓練を実体験した日本人ハンドラーは、結局のところ対ゲリラ戦に従事する国境警備犬や地雷探知犬の訓練を担当することとなったのです。勿体ない話ですが、そういう時代でした。


続いて昭和10年、日本人が初めて盲導犬との歩行訓練をおこないます。その人物とは、関西学院の岩橋武夫教授でした。

「最近アメリカの實情を見て來て、非常な羨ましさを感じました。アメリカでは一九ニ○年に盲人法が施行されて、貧困な盲人はすべて年金を受け救済されてゐます。特に羨ましく思つたのは、警察犬を貰つて居ることです。
盲人が近代の交通機関に對して非常な恐怖を持つて居る事は申上げるまでもありませんが、よく馴らしたシエパードの警察犬が實によく盲人を護つてゐます。これは元々ドイツから來た事で、有名なシーメンスの工場で、大戰の爲失明した軍人を職工にして救済したとき、失明軍人の眼となり杖となるやう、毎日家庭から工場への通勤に主人を導き、仕事中は主人の足下に待つてゐます。そして主人が食堂や、買ひ付けの店に行かうと思へば、ちやんと連れて行く。犬は數百語を覚えてゐるからです。そして階段や溝の前や、電車が來たときはちやんと止ります。アメリカでも同様で、私もこの犬を連れて、最近繁華街へ行きましたが、實に感心なものでした。此の犬を連れて電車に乗ることも許されてゐます」
大阪朝日新聞より 昭和10年

この年、NSKは発展解散して社団法人JSVとなります。ライバル関係となったKVとJSVは、競って盲導犬の研究を開始しました。
KVでは、昭和8年に大阪朝日新聞の記事を引用する形で盲導犬の普及を主張。その後も外国の盲導犬制度や訓練方法について逐一発表しています。シュテファニッツ大尉の著作を邦訳し、盲導犬の歴史と訓練に関する情報を日本に広めたのもKVの功績でした。
JSVでもユースティス夫人のポツダム盲導犬学校見学記(昭和11年)、リーゼ少佐の盲導犬訓練論(昭和13年)、オランダ盲導犬学校設立記事を紹介するなど、使役犬シェパードの新しい可能性として此の分野に関する情報収集を行っていました。
KV・JSVという2大畜犬団体があったにも関わらず、我が国で盲導犬の実用化が進まなかったのは下記の様な理由からであったといいます。

「JSVに於いては今時の事變突發するやこの事を豫想し、斯る不幸な人達に『犬の忠實性』に依つて光を与えへんが爲め盲導犬の研究に着手したのであつた が、研究につれて機構上、財政上その他種々な困難に遭遇して早急の實現を見るに至らなかつた」
『動物文學』より 昭和18年

この時期の畜犬関係者は、外国からもたらされる情報を収集しつつ、日本に盲導犬が誕生する日を夢見ていました。

(第四部へ続く)