愛を以って和と成し、和を以って尊しと成す。 -3ページ目

【動 画】 ガソリンスタンドに車が突っ込む

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【動 画】 英で世界最大級の最新兵器見本市

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【動 画】 母子家庭への児童扶養手当 2009 08 17

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【動 画】 NTT派遣切りの姿

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【動 画】 NTT派遣切り組合幹部追及

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≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(29)

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文:飯塚正子


 【大紀元日本4月24日】私たちのこの長屋には、西棟の北の間にもう一世帯住んでいました。独身の中年男性で、私は「党智」おじさんと叫んでいました。彼は、趙源家の親戚で、関内の実家から出て来てまだ間もないとのことでした。

 彼は毎日天秤棒を担いでは、揚げ菓子や焼きパンを売っており、売れ残りが出ると、時には王潔如と私と弟に、均等になるように分けてくれました。私が養母から酷い仕打ちを受けたとき、彼は私をかばってくれたことがありました。

 中国の冬は寒く、屋内の水甕の水さえ凍りつくほどで、屋外に撒いた水はあっという間に凍りました。降った雪も溶けませんでした。弟の養母は弟に、小さな柄の綿入れの服とズボン、それに小さな綿入れの靴も作ってくれました。靴の先には虎の頭が刺繍されていて、とてもかわいく見えました。

 私の養母は縫いものができなかったので、西棟の南の間の王おばさんが、紫色の長い綿入れの上着を持ってきてくれました。王潔如にはもう小さくなったのだそうです。私は、こんなに長い綿入れの上着を着るのは初めてだったので、全身を鏡に写してみたいと思いましたが、どの家にも大きな鏡はなく、小さな長方形の鏡があるだけで、顔が映るだけでした。

 私と弟は、中国服を身につけました。中国語もすぐに話すことができるようになりました。私は当時、母に私たちのこのような格好を見てもらいたいと思いました。しかし、母はどこにいるのでしょうか。どうやって探したらいいのでしょうか。

 私は腹を決めて、西棟の南の間に住む王おじさんに頼みに行きました。おじさんは困って、「あんたたちを連れてお母さんを探しに行くことはできないが…機会があれば、団長と連絡を取ってお母さんに会いにきてもらうことにしよう」と言いました。私はうれしくて、王おじさんにお礼を言いました。それ以来、私は早く母に会えるよう、待ち望んでいました。

 長屋の人はみな、養母が癇癪もちだというのを知っていましたが、私は初めは全くわかりませんでした。私が養母の家に来て間もないころ、中国語がわからなかったので、薪を持って来るように言われたのに、箒をもって部屋に入って掃除したことがあります。すると、養母は部屋に入って来るなり、私から箒をひったくって、柄のほうで私を打ちすえたのでした。

 私は唖然としました。今まで人に叩かれたことがなく、両親さえも私を叩いたことがありませんでした。ましてや、箒の柄で叩くなど言うまでもありません。ところが、養母は、思いっきり私を叩いたのです。彼女は年も若く、手にも力があったので、叩かれると痛くてたまりませんでした。

 南の間の趙おばさんが、養母を止めに入ってきて、箒を奪い取ろうとしたのですが、年をとっているし、纏足だったので、養母を制止できませんでした。

 そのときちょうど、西棟の北の間の党智おじさんが揚げ菓子を売り終わって、天秤棒を担いで帰って来ました。長屋に入って来てこの光景を見ると、彼は何も言わず、養母の手から箒を奪い取り、私を王おばさんの家に連れて行きました。

 時間が経つにつれて、私はだんだんと事情が呑み込めてきました。養母という人は、しょっちゅう私を叩いたり罵ったりしただけでなく、近所の人たちをも罵り、汚いことばを浴びせていたのです。ですから、両親も親戚もおらず、誰も護ってくれる人のいない私を叩いたり罵るのは言うまでもありません。私に対しては、本当に毎日のように口汚く罵り、手を出して殴りました。時には訳もわからず、理由もなく殴られました。

 私は養母に叩かれるのが怖く、始終びくびくしていました。養母が私を叩いても、泣くことも声を出すことも許されず、声を出せば、さらにひどく叩かれました。来たばかりの時は、中国語が話せなかったし、大人がするような家の仕事ができなかったので、そのためにしょっちゅう叩かれたものです。

 養母が私を叩くたびに、長屋中の人が来て護ってくれたので、養母はいっそう腹を立て、しまいには、私を叩くときには、まず玄関に鍵を掛けてから私を叩くようになりました。

 養母は、私に「劉淑琴」という名前を付けましたが、一度も私をそう呼んだことはなく、侮辱して「お馬鹿さん」と呼んでいました。彼女が毎日私をこのように呼んだので、近所の大人や子供たちも私をそのように呼ぶようになりました。

 私は当時それを聞いても、「お馬鹿さん」の本当の意味が分からず、それがどれほど酷いことばかも分かりませんでした。ただ、弟の「一」だけはずっと、「お姉さん」と呼んでくれました。中国語でそう呼んだのですが。なぜなら、日本語だと大人たちが不機嫌になったからです。

 弟の養父母は、親しみを込めて弟のことを「全友」、時に「小友」と呼んでいました。私は殴られ怒られていましたが、弟が殴られず、罵られもせず、以前に比べて太ったのを見て、私の心は慰められました。

 私の境遇を母は思ってもみなかったはずですし、弟も、私と憂いを分かち合うすべがありませんでした。姉が殴られているのを見て、弟は私以上に辛いのではなかろうか、私と同じく毎日母がやってくるのを心待ちにしているのではなかろうか、と心配になりました。その後の長い10年間でついぞ弟の本当の心境を知る由もありませんでした。

 殴られるたびに、私はすぐにでも母に会いたい、すぐにでもここを離れたいと、毎日のようにそれを望んでいました。

 王おじさんは、団長に連絡をとって、母に会いに来てくれるように段取りをつけてくれるはずでしたが、母はどうしてまだ来てくれないのでしょうか。母は、私が養母に殴られているのを知らないはずです。もし、母が知ったら、きっと私を連れて行ってくれるはずです。

 私はたとえひもじい思いをしても、母のそばに帰りたいと思いました。当時9歳だった私は、突然の境遇の変化に直面して、それをどうにも受け入れることができませんでした。


被災者の脳機能の異常変化 MRIで確認

被災者の脳機能の異常変化 MRIで確認



 【大紀元日本9月12日】

 昨年5月に起きた四川大地震の被災者を対象に、核磁気共鳴画像法(MRI)を用いて脳機能の変化を観察していたところ、被災後10日間ぐらいから、脳機能の異常変化が起き始めることがわかった。この研究結果が、被災者への迅速な心のケアの重要性を示唆している、と研究者らが指摘している。

 この研究は、中国の四川大学華西病院、ロンドン王立学院、米国イリノイ大学の研究者らによる共同で行なわれたもので、研究報告は『米国科学アカデミー紀要』(PNAS)の最新号に発表された。研究を率いた四川大学華西病院の研究者によると、今回の研究で始めて、核磁気共鳴画像法(MRI)を用いて、震災生存者の脳の変化について調べた。その結果、震災後25日間以内に、情緒と記憶をつかさどる部分の大脳にすでに異変が起きていることがわかった。

 このような脳機能の変化は、通常、慢性統合失調症の患者に見られるもので、被災後の人に短期間でこのような変化が現れたのは初めて確認された、と研究に参加したロンドン王立学院のAndrea Mechelli氏が語った。

 研究に協力した44人の被災者は、20歳から60歳までの身体健康者。彼らが震災中、家屋の倒壊、親族の死傷を経験している。今回の研究成果が、災害後遺症のメカニズムの究明、さらに、適確な心理治療につながると期待が寄せられている。

 Mechelli氏は「生存者たちは健康そうに見えるが、実は精神疾患の危険を抱えている。脳機能だけではなく、脳の構造にまで変化が起きる恐れもある」と指摘した。

 被災後、多くの人に焦りや憂うつ、さらに、PTSD(外傷後ストレス障害)症状が見られた。四川大学華西病院の龔啓勇(コウ・チーユー)教授によると、震災生存者の20%の人がPTSDにかかる危険性があり、社会活動に支障をもたらすだけでなく、一部の人に自殺傾向まで見られているという。

 龔教授とMeccelli氏は、被災者への迅速な心のケアの重要性を指摘した。今回の研究成果が臨床に応用されれば、脳機能に変化が起きた被災者の早期発見、早期治療が可能になり、慢性的な精神疾患にならないように防ぎ、さらに脳機能を回復させることにも期待されている。


台湾、陳水扁前総統夫妻に無期懲役

台湾、陳水扁前総統夫妻に無期懲役



陳水扁・前台湾総統と家族(PATRICK LIN/AFP/Getty Images)


 【大紀元日本9月12日】11日、台北地方法院(地裁)は陳水扁・前総統(58)に無期懲役および罰金2億台湾ドル(約5億5千万円)、公民権の終身剥奪の実刑を言い渡した。

 この一審判決は、機密費横領、職権乱用による蓄財、収賄、マネーロンダリング(資金洗浄)などの罪に問われた陳水扁被告に対するもので、夫人の呉淑珍被告(57)に対しても無期懲役、罰金3億台湾ドル(約8億2千500万円)、公民権の終身剥奪の実刑判決が下され、息子の陳致中被告および嫁の黄睿靚被告にもそれぞれ、2年6カ月と1年8カ月の実刑が言い渡された。その他10人の容疑者にも厳しい判決が下っている。陳被告の代わりに法庭に出席した秘書・江志銘は、判決結果は陳被告の予想内であるが、合議制裁判による違憲・違法の無効判決であるとして、控訴の意向を示した。

 昨年12月、台湾最高検察署が陳氏を起訴。総統府機密費の不正流用疑惑のために設けられた特別調査チームが、国務費、龍潭の土地売買、南港展覧館、マネーロンダリングの調査にあたった。今年5月には、前中央信用金庫副頭取・辜仲諒氏の献金疑惑、101ビル会長・陳敏薫氏の収賄疑惑で、陳被告夫妻は追訴されていた。

 また、側近の前総統府副秘書長・馬永成被告は、3つの罪で、20年の有期懲役、10年の公民権剥奪の実刑、前総統府弁公室主任・林徳訓被告は、16年の有期懲役、8年の公民権剥奪の実刑を言い渡された。5つの罪に問われた総統府会計兼出納係の陳鎮慧被告は刑を免がれた。

 出廷しなかった陳被告は公判前日に、検察側の起訴を全面否認し、犯した唯一の罪が「社会文化罪」であるとした答弁書を発表した。陳被告は、社会文化の角度から家族を管理しなかったことは罪になるであろうが、司法犯罪ではないとして、これまで検察側の起訴内容に対して無罪を主張してきた。

 台湾の総統経験者が無期懲役の判決を言い渡されたことは前代未聞。民進党の中で、「政治が介入している」との見方を持つ議員は、陳被告による10日以内の控訴を支持する姿勢を見せている。


「教師の日」が「謝礼の日」に=中国の教育現場、「袖の下」が氾濫

「教師の日」が「謝礼の日」に=中国の教育現場、「袖の下」が氾濫





中国の学校の教室の風景(LIU JIN/AFP/Getty Images)


 【大紀元日本9月13日】9月10日は、中国の「教師の日」。本来ならば、教師たちに尊敬と感謝の念を抱く日である。しかし、中国の教育現場は、昔と違って「袖の下」が当たり前となっているようだ。

 多くの親たちは「教師の日」になると憂鬱になる。なぜなら、この日は、学校の教師に現金やプレゼントを送らなければならないからだ。もちろん、これは強制ではない。しかし、この習慣がすでに暗黙のルールとなっており、教師に明確な謝意を表さなければ、子供はよい待遇を受けられないのだ。

 教師の日を前に、現金1,000元(約1万4千円)を息子の担任に送った山東省秦皇島市の任輝さん(42)は、「高校生の息子が近眼で、前の席でなければ黒板が見えない。謝礼を送っておけば、担任が前の席にしてくれる」と話す。しかし、しばらくすると、また後ろの席に移されてしまうという。任さんは、「また謝礼をはずんで前の席に息子を戻してもらうしかない」とこぼしている。

 湖北省襄樊県の高校教師・楊さんは、自身のブログで「教師の日」が「袖の下」の日になっていることに「失望している」と嘆く。楊さんのブログには、親からの教師に対する謝礼に関して、書き込みが殺到した。

 ある親の書き込みでは、「息子は9月初旬に生まれ、隣の家の子は息子より2日後に生まれた。隣人は教師に2千元を渡し、子供は1年早く学校に入学することができた」と不満を漏らしている。

 また、ある教師は「私の月給は2,000元にも満たない。社会的地位も低い。学生や親にも見下されている」と投げやりな書き込みをしていた。

 教師の待遇が低いことも、教育現場が腐敗する原因だといわれている。