この前の夕方、仕事帰りにスーパーへ寄ったとき、急に、アサリのお味噌汁が食べたくなりました。
そういうことって、ありませんか。
朝から一度もアサリのことなんて考えていなかったのに、魚売り場の前を通った瞬間、
「あ、今日はアサリのお味噌汁だ」
と、頭の中ではもう夕食の献立が決定している、あの感じです。
しかも、その日は少し肌寒くて、撮影で外に長くいたこともあり、温かいお味噌汁がとても魅力的に思えました。
ところが、アサリのパックを手に取って、お値段を見て、そっと戻しました。
高い。
いや、もちろん、何もかも値上がりしているので、アサリだけが悪いわけではありません。
でも、そのアサリは、比較的近くで獲れたものだったんです。
私はパックの前で、
「輸送費……そんなにかかってないよね」
と考えました。
さらに、
「アサリを獲るのに、大きな船で沖まで行くわけでもないよね。じゃあ、重油代でもないよね」
と、勝手に原価会議を始めました。
スーパーの魚売り場で、アサリ一パックを前にして、なぜ私は経営コンサルタントのような顔をしているのだろう、と思いましたが、それでも結局、その日は買いませんでした。
節約は大事です。
私は普段から、美容でも暮らしでも、「高いものを買えばいい」という考え方ではありません。
化粧水だって、たっぷり使えて肌に合うものが一番だし、撮影の小物も、100円ショップの布が、思いがけずいい仕事をすることがあります。
というわけで、その日の夕食は、家にあった豆腐と乾燥わかめのお味噌汁になりました。
悪くありません。
むしろ安定の美味しさです。
ただ、最初にアサリを思い浮かべてしまったせいで、なんとなく物足りない。
ひと口飲んでは、
「うん、美味しい。でもアサリだったら、だしがねえ……」
と考え、またひと口飲んでは、
「いや、豆腐も悪くないよ。君は何も悪くない」
と、心の中で豆腐を励ましていました。
その数日後のことです。
ネットで記事を読んでいたら、
「近頃、アサリが獲れにくくなっている」
という内容が目に入りました。
へえ、そうなんだ、と読み進めてみると、そこには、ちょっと意外な話が書かれていました。
下水処理の技術が進み、水がきれいになりすぎたことで、海の栄養分が少なくなり、プランクトンなどが育ちにくくなって、それを餌にする貝にも影響が出ている、という話でした。
私は、スマートフォンを持ったまま、しばらく固まりました。
海がきれいになる。
これは、当然いいことだと思っていました。
というか、今でも、基本的にはいいことだと思っています。
でも、
「きれいになりすぎると、生き物によっては困る」
という話になると、一気に頭が混乱します。
さらに考えてしまいました。
え、ちょっと待って。
これまで私たちが美味しく食べてきたアサリというのは、ある程度、栄養分のある海で育っていて、その栄養分というのは、巡り巡って、人の生活から出たものも含まれていて……。
そこまで考えたところで、
「もういい。ここから先は考えない」
と、スマートフォンを閉じました。
食べ物というのは、ときどき、詳しく知りすぎないほうが幸せなことがあります。
もちろん、仕組みとしてはもっと複雑でしょうし、単純に「汚れた水のほうがいい」という話ではありません。
それでも私の頭の中では、
「きれいな海」
「プランクトン」
「生活排水」
「アサリのお味噌汁」
という、本来なら同じ画面に並べたくない言葉たちが、数日間、仲よく共存してしまいました。
ちょうどその頃、仕事で海の近くへ撮影に行くことがありました。
夕方の光がきれいで、波も穏やかで、私は、
「やっぱり海っていいなあ」
と思いながら写真を撮っていました。
砂浜には、小さな貝殻も落ちています。
普通なら、
「かわいい。写真に撮ろう」
となるところです。
ところが、その日は貝殻を見た瞬間、
「あなたたち、栄養事情、大丈夫?」
と考えてしまいました。
職業柄、被写体にはわりと感情移入するほうですが、貝の食生活まで心配したのは初めてです。
そのあと、近くの食堂のメニューに「あさり汁」という文字を見つけました。
一瞬、迷いました。
ほんの数日前まで、あれほど食べたかったものです。
でも今の私は、アサリについて少しだけ知りすぎています。
注文するか、やめるか。
三十秒くらい悩んで、結局、頼みました。
出てきたお椀のふたを開けると、いい香りがしました。
ひと口飲んで、
「あ、美味しい」
と思った瞬間、私の中の難しい話は、かなりどうでもよくなりました。
人間というのは、都合よくできています。
美味しいものの前では、思想が弱い。
もちろん、環境のことを考えるのは大切です。
海がどういう状態なら、生き物にとっていいのか。
きれいにすることと、生態系のバランスを保つことが、必ずしも同じではないということも、今回、少し知りました。
でも私は、研究者ではありません。
海の栄養バランスについて、正しい答えを出せるわけでもありません。
だったら、自分にできるのは、知ったことをちょっと心に置いておくことと、食べ物を無駄にしないことくらいかな、と思っています。
そして、アサリについては、もう少し距離感を大切にしたい。
美味しくいただく。
でも、生育環境については、食事中には考えない。
この二つを、今後の私のルールにします。
ちなみに、先日またスーパーでアサリを見かけました。
お値段は、やっぱり少し高めでした。
でも今度は、
「まあ、いろいろ事情があるんだよね」
と、少し物分かりのいい顔で、カゴに入れました。
そしてその日の夜、美味しくお味噌汁をいただきました。
海の環境について考えたのは、食べ終わってからです。
大人なので、そのへんの順番は、ちゃんと守ります。