三重県熊野市紀和町丸山地区の斜面の棚田、
日本の棚田百選にも選ばれている「丸山千枚田」で、昨日6月10日(日曜)、
「虫送りの行事」
が行われた。
(新型コロナウイルスの影響で中止が続き、今回は4年ぶりの開催)

「虫送り」とは、

「田畑の害虫を駆除し、豊作を祈願する伝統行事」

のことで、
虫おくりの日は、夕方になると棚田ごとにキャンドルが灯され、
人々が太鼓や松明(たいまつ)を持ち千枚田の畔(あぜ)を練り歩き、

最後は北山砲が鳴り響く。


「北山砲」って聞いたことないよね?


戊辰戦争最初の内乱「鳥羽・伏見の戦い」は1868年(慶応4年)。
その5年前の1863年8月(文久3年)に

大和国(現在の奈良県)で尊王攘夷派志士による最初の挙兵事件が起こった。

同年5月、下関海峡を通過する外国船を長州藩が砲撃するという

外国船砲撃事件が起き、朝廷もこの攘夷決行を称賛していたが、

6月にはアメリカ・フランスの艦隊が長州藩に報復攻撃をして、
8月に孝明天皇が攘夷の祈願をした。


それにより尊王攘夷派の志士たちは討幕を進めようと動き出した。

土佐脱藩浪士の吉村寅太郎は急進的な攘夷派公卿の中山忠光を首領として、

土佐・因幡・久留米・肥後などの脱藩士38名で「天誅組」と名乗り、
「我こそが尊王攘夷の先鋒となろう」
と大和国へ向かう。

「天誅組」のリーダー中山忠光以外の全員は「草莽(そうもう)の徒」。
「草莽の徒」というのは、

「武士という身分を捨てた人=脱藩した人」

「武士身分でありながら農業を営んでいた人」
つまり志のため地位を捨て、

国家の危機に国家への忠誠心に基づく行動に出る人たちが結集し、
「天に代わって悪を倒し、世の中を変えよう」
として集まったのが「天誅組」。

「天誅組」は8月17日、幕府直轄地の大和国五条藩(奈良県五條市)に到着し、

幕府代官所を包囲して代官に降伏を要求。
翌8月18日、代官たち30人は殺され代官所は焼き討ちされる。


これが「天誅組の変(=大和義挙、大和の乱)」というのだけど…。
あと5年決起を待っていれば彼らは逆賊ではなく

ヒーローになっていたかもしれない、彼らは焦り過ぎたね。


三重県や奈良県、和歌山県では、この「天誅組の変」は知られているけど

全国的には「天誅組の変」はほとんど知らないんじゃない?

8月18日同日、会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派が

朝廷の実権を握るために京都で「八月十八日の政変」が起こる。


朝廷内で勢力を伸ばしつつあった攘夷急進派に対して

公武合体派がクーデターを起こし、攘夷急進派を京都から追放したという事件。
(新選組が公式デビューした事変、この政変が原因となり、

 後に池田屋事件や禁門の変が起こる世相が激変してる頃)

この事変で「天誅組」は暴徒、逆賊とされるが「天誅組」は後に引けなくなり、
尊王の志が高い大和国十津川郷(紀和町近隣)で

約1000人の農民を同志にするが、幕府は紀州藩などに天誅組の討伐を命じる。

紀州藩は8代将軍徳川吉宗を出した徳川御三家の名門。
幕府連合軍は総勢1万4千人もの精鋭部隊、もちろん大砲や銃などもあり、

「天誅組」に総攻撃を仕掛ける。

「天誅組」は元武士が38人で武器は刀だけ、

1000人の農民は武闘経験もなく竹槍とかクワ。
圧倒的な戦力で圧倒し「天誅組」は惨敗。

紀和町小川口の村では敗走してくる「天誅組」を迎え撃とうと準備。
北山川の河原に多く生えていた松の木を切り倒し、

幹をくり抜いて竹を巻き大砲を造って並べ敗残兵を待ち構えていたが、
「天誅組」はこの地域に侵入することはなかった。


この松の木の大砲は一度も発射されることなく、河原で朽ち果てたらしい。
この大砲を地名の北山川にちなんで

「北山砲(きたさんぽう)」と呼ばれているのだけど、

木の大砲って…?空砲?


この丸山千枚田「虫送りの行事」は、

たまたま観た三重テレビの「三重テレビニュースウィズ」という

15分の県内ニュースを観て私は初めて知った。


この番組はJAグループの提供なので農業関係が主体のニュースと思われる。
スポンサーであるJA批判やJA内での不祥事とかの報道はもちろんないだろうけどね。

丸山千枚田の棚田は日本一ともいわれている。
西暦1601年(慶長6年)には2240枚の棚田があったという記録があるらしいが、
昭和40年代半ばから始まった稲作転換対策による杉の植林や

昭和50年代以降の過疎・高齢化による耕作放棄地の増加によって、
平成初期には530枚までに激減。


地元住民たちは

「素晴らしい景観と農耕文化を後世に残し伝え残したい」

と、平成5年に丸山地区住民全員による丸山千枚田保存会が結成され、

丸山千枚田の棚田復元と保全活動が始まり、
現在は約1340枚(7ha )の棚田があるらしい。

「虫送りの行事」は農薬が無い時代の地域の伝統行事で、
「虫送り殿のお通りだい」
と言いながら、住民が太鼓や鐘を打ち鳴らして田畑の畔を練り歩く。

「虫送り殿のお通りだい」
というと、
「国松さまのお通りだい」
(原作ちばてつや、アニメの題名は 「ハリスの旋風(かぜ)」?)
主題歌が
「ドンガ ドンガラガッタ 国松さまのお通りだい…」
というのだけ覚えているけど、これと言い方が似ているよね?

田畑には、
「ウンカ、カメムシ、ハムシ、ヨトウムシ、ゾウムシ、カタツムリ、

イナゴ、バッタ…」
といった害虫がいて、それを捕食するのが
「アメンボ、ゲンゴロウ、クモ、トンボ、アカハライモリ…」
といった益虫。

また、それらをカエル、ツバメ、カナヘビ、トカゲ、スズメが捕食し、
それらをトンビ、カラス、サギ、カモ、雉(キジ)などが捕食する。

生態系の食物連鎖=厳しい自然界では

「食べる」「食べられる」の捕食のつながりがあるのだ。


田んぼのカエルというと、

「カエルの声がうるさい」という騒音問題が最近あった。


私が中学生の頃までは父が米作も行っていたので、

カエルの大合唱は春~初夏の風物詩といえども

テレビの声が聞き取りにくいくらいの騒音レベルだったけど、
例年聴きなれた慣れもあって癒されもした。


今では減反や離農、放棄地が増えたし、

日本最大の農薬販売会社(=JA)の組合員農家は

農薬を使うためカエルの声も激減している。

カエルのいない農薬米、私は絶対食べたくない。
そのため私は自然農法に近い有機農法を実践している。

「カエルの声がうるさい」と抗議した人は訴訟を起こしたが、裁判所から
「カエルの鳴き声は自然の音の1つで、我慢すべき限度を超えているとはいえない」
と、原告の請求が却下されている。

また、「声がうるさい」といえば、
「(長野県長野市の)公園で遊ぶ子どもの声がうるさい」
と近隣住民からの抗議で公園は閉鎖になってしまった。

保育園や小学校でも「子どもの声がうるさい」という苦情がよくあるが、
クレームを言う人たちが幼少の頃はさぞかし静かにしていたんだろうね?

また、「騒音」といえば約20年前の奈良県の「騒音おばさん」を思い出す。

CDラジカセで大音量の音楽を流し、

ベランダに干した布団をバンバン叩きながら鬼の形相で
「引っ越し、引っ越し、さっさと引っ越し、しばくぞ」
と吠える中年女性の映像を覚えている人も多いはず。

この「騒音おばさん」は最高裁で懲役1年8ヵ月の実刑判決を受けた。


騒音を訴えた奥さんはすでに亡くられているらしいが、

マスメディアは面白おかしく興味本位で「騒音おばさん」を

終始悪者に仕立て上げて報道。


「騒音おばさん」は当時難病の家族を抱えて心身ともに疲弊していたとか

クレームした被害者にも落ち度があったとか判決後に週刊誌で報道され
真偽不明のままうやむやになった。

「カエルの鳴き声」「公園の子どもの声」「騒音おばさん」は、
いずれも、よそから移り住んできた移住者が

「うるさい」と騒ぎ立てた騒音トラブル。

「郷には郷に従え」
というように、地域の伝統風習を無視して自己主張を貫こうとすると、
地域から総スカンを食らうことになり居場所を狭めると思うけどね。

丸山千枚田から直線距離約9kmあたりに

「金山パイロットファーム」

というみかん園がある。


天皇・皇后両陛下もご来園された大みかん園で、

三重県人にとってはわりと有名なみかん園。


元気の良い木に気を配り、果実に対しても防腐剤やワックスを使用せず、
できるだけ農薬を使わないようにした栽培ポリシー、

私だけでなく近隣でも12~1月頃はここのみかんを買っている。


沖縄在住時、沖縄本島北部では「アブシバレー」という

虫払いイベントが毎年旧暦4月に行われていた。

「アブシバレー」の「アブシ」は田や畑の「畦(あぜ)」、

「バレー」は「払う」という意味。

「農作物から害虫を追い払い、五穀豊穣を願う」
という伝統行事だから、丸山千枚田の「虫送りの行事」と同じ。


こういう「害虫駆除祈願+五穀豊穣祈願行事」は、

おそらく全国的に行われていたはずだけど、
私の住む集落ではいつ頃廃(すた)れたのかわからない。


私の祖母は明治生まれで97歳で亡くなったけど、

そういう話は生前聞いたことが無かった。

「アブシバレー」は、笹舟にバッタなどの虫を捕まえて乗せ海に流すとか

集落によって風習が違うけど、ほとんどはビーチでの集落のピクニック会食。

私が居た集落では弁当や飲み物は各宅持参だったよ。

 

 

「沖縄の米作は減少の一途…。」

に続く。