悲劇のプリンス 近衛文隆とゴルフ2 | 還暦までにシングル ニャンガーのブログ

還暦までにシングル ニャンガーのブログ

ゴルフ理論、ギアには、一家言も、ニ家言もあるものの、万年Bクラスで、ハンディ16前後を、うろうろしてる、どアベレージゴルファー。
還暦までに何とかシングルになりたいと思ってます。ゴルフに限らず、映画、音楽ほか、よもやま語りたいなと思ってます。

文隆氏(以下敬称略)は、
1915年4月3日京都にて、五摂家近衞家第30代目当主、公爵 近衛文麿(1891〜1945)の長男として生まれました。

  母千代子(1896〜1980)は運動神経抜群で、日本における女性ゴルファーの草分けでした。 
   文麿と千代子は、第一高等学校に通う文麿が、華族女学校一の美人と言われた、毛利千代子に一目惚れした当時珍しい恋愛、しかも学生結婚でした。
  まあ、千代子も、元肥後宇土藩主、毛利家の子爵家の出、母方は元彦根藩主 井伊家というか、桜田門外の変の大老 井伊直弼が千代子の曾祖父にあたり、釣り合いの取れた結婚でした。
{48799B31-0196-4FD7-958B-606F3A261797}
1912年 大正元年 公爵、子爵家の御成婚
新郎21歳 新婦19歳


 文麿は、公家御用達の学習院ではなく、第一高等学校に進み、東京帝大の哲学科に入学するも、マルクス主義に興味を持ち、京都帝大の河上馨教授にあこがれ、京都帝大法科大学に転入します。
  大卒者の初任給が50円程度であった当時に仕送りは、月150円といいますから、いまなら70万円くらいでしょうか?
  下鴨で一年間を過ごしたのち、千代子と、結婚し、京大よりほど近い、吉田山南面の宗忠神社近くの呉服店別荘に住いを構えます。

近衛家の子息の肖像です。
撮影は、1932年(昭和7年)前後でしょうか?上から、17,16,15,10歳くらいですか。

{6B224B92-C500-481B-95AE-8D8E8061CBAA}
左より、
次女 細川温子(よしこ 1917〜1940) 
後の首相 細川護熙(1938〜)の母
夫は細川護貞(1912〜2005)
戦前戦後のトップアマゴルファー
近衛文麿の総理秘書官
日本ゴルフ協会JGA会長
を歴任
長男        文隆(1915〜1956)
次男      通隆(みちたか1922〜2012)
東大史料編纂所教授 関東アマゴルフ
制覇 全国学生ゴルフ協会名誉理事
長女 吉岡明子(1916〜2004)

  こう見ると、本当にゴルフと強い繋がりのある一族ですね。

ここに、弟である、通隆氏の当時の想い出の貴重なインタビューを、紹介します。

「両親、兄ともにゴルフを愛好しておりましたので、私も自然とゴルフをプレーするようになりましたね。母のほうが、父よりも格上だったのではないでしょうか(笑)」と、話しはじめた近衞通隆氏。父・近衞文磨氏も母・千代子さんもゴルフ愛好家として知られ、また、兄の文隆氏は1931年の日本アマに出場したトップアマ。若冠16才ながら予選を突破し、“驚異の新人登場”ということでゴルフ界の注目を浴びた人物だ。

「兄は、飛距離が出るほうで、大きなショットが上手かったですね。逆に、50ヤード圏内のアプローチショットが苦手だったようです。飛びすぎてしまうと“バカ!”と頭を抱えていました。技術的な面でも兄からは色々教えてもらいましたね」(通隆氏)。
 
   筆者が過去の雑誌文献を見た記憶によれば、道隆の飛距離は、300yと書かれていました。当時は、何とか、スチールシャフト、糸巻きボール3ピースボールは登場していたとは言え、パーシモンのクラブで、それはあり得ないと思ったので、覚えています。打ち下ろしのホールで、フェアウェイが硬くて、みたいな状況なら可能性はあるかと思いますが、これは後に検証してみたいと思います。

  学習院中等科より、文隆はメキメキとゴルフの頭角を現し、1931年茨木カントリーで開催された日本アマチュア選手権に16歳で、3位に入ります。

という所で、続きはまた、次回へ。