今日は 母の命日。


大動脈炎症候群 (現在は 高安動脈炎と言うらしい)という 大動脈などの 大きな血管に炎症が起きる 難病指定の病気で 亡くなるまでの 数年間、闘病生活をしていた。


ちなみに 私は 毛細血管のどこかに 炎症が起きる病気を持っている。


母とは 血が繋がっていないし 元々、遺伝性の病気でもないが 母は 大動脈、私は 毛細血管に炎症が起きる 少しだけ 珍しい 同じような病気になるなんて 何か 不思議。




今日は その母の話をしよう。


今となれば 母の言うことを 聞いておけば 間違いない…と 言えるような 真っ当な 考えや 行動をする母。


知り合いには 優しく 母を慕っていた人も 多かった。


父には 「はい」以外は 言わず 食卓は 栄養を考えた料理が 何品も並び、無駄に広い家は いつでも ピカピカ。



でも そんな母が 大嫌いだった。


とにかく とにかく とにかく 厳しい。


小さな頃から 怖い… という 印象しかない。


いつも 怒ってばかりいて その辺にある物で すぐに 叩く。


怒鳴っているか、小言を言っているか。


褒められた記憶も ない。


今、思えば 父の仕事も手伝い、半住み込み(家は別で 食事は一緒)の 従業員さんたちの 食事なども作り、無駄に広い家の 家事を こなしていたのだから 常に イライラしていたのかも しれない。


私を 一人前の人間に 育てようと 意気込んでいたのかも。


でも それが 何となく わかったのは 母が亡くなる数年前のこと。


難病がわかり 入院していた病院から 退院する直前


「家に帰ったら 家事を含め 会社の手伝いなど 何もかも やりません」


「電話にも 出ません」


「お父さんも それで 良いなら 退院するわ」


と。


私は それでも 良いが 問題は 父。


家事など 手伝った事もないし 「おーい」の一言で どこでも 母を呼ぶ人。


私は 父を説得し 母は 退院した。


帰宅した母は 本当に 何もしなかった。


その代わりに 周りに見せるような 優しい(と言うか、普通の) 母になった。



その後、私は 離婚をすることになる。


元々、私の部屋だったところを 改築し キッチン、お風呂も付け 二世帯別々の生活(光熱費も 食費も 全て 別) だったが 母には 同居してから ずっと お家賃を 渡していた。


渡していたと言うより 母から 家賃を入れるように言われていたから。


離婚した当日 母から 数年間 毎月、私が 母へ お家賃として 渡していた 茶封筒の束を 貰う。


これで 当分、生活できるでしょうと。





まぁ、それでも 最後まで ああしろ、こうしろ…と 言っては いたけれど😅


亡くなる 2、3日程前から 食欲がなくなり 3月4日の午前中、父の診察日に合わせて 2人で 病院へ行った

(父と 同じ 病院だった)


そのまま入院することになり 病室へ 荷物を持って行ったのが お昼すぎ。


いつも 個室にしか入らなかったのに 何故か、この時は 自ら 大部屋を選んでいた。


これは 今でも 不思議。


母は その日 マッサージの予約を入れていたので キャンセルの電話を入れたが 病室まで 施術に来てくれると言われ、夕方まで ベッドの上で 先生と 楽しく話しながら マッサージを受ける。



水分制限がある母は 水量が わかるように いつも 小さな水筒を 入院時に 持参していたが 少し前に 父に あげてしまっていたので 同じ物を 買って来るように 私に言った。


「明日、買ってから 病院へ来るね」


と言う私に


「明日と言わず 今、買って来なさい」


と 母。


何でも 後で… は 許されない😅


おちゃるを 空手へ送って行かなきゃ いけないのに 正直、 今か…と 思ったけれど。



水筒を届けた後、おちゃるの 迎えへ行くから 明日ねと 言う私に


「明日は どんな事が あっても おちゃるの病院へ 行くのよ」


「疲れたから 寝るわ」


「バイバイ」


と母。


これが 母と話した 最後になる。



病院の入口で 父に会ったので 「疲れたから 寝るって言っていたよ」と 話したが せっかく 来たから 顔だけ 見に行って来ると父。


入院したからと 病室へ顔を出すような 父でもなく それも 今から思えば 不思議。


それから 3時間後の 午後9時。


病院から 「息をしていません」と 電話があり 病室へ駆け付けた時には もう 話すことは できなかった。



母が 最期に話した おちゃるの病院とは 発達障害の病院のこと。


その数年前に 児童相談所の簡単な検査で 発達障害でしょう…とは言われていたが  正式に病院で 色々な検査をし 3月5日が その 診断結果の出る日だった。


最初に 発達障害というものが あると 教えてくれたのは 母。


入院中 ラジオで 聞いたとか。


一般的な 学校が 合わないのなら おちゃるに合う学校を探して 引越しすれば 良いと 言ったのも 母。


母が 亡くなった次の日(3月5日) 母に 言われた通りに おちゃると 病院へ行った。


母の知り合いや 親戚の人 たくさんの方が 我が家へ お手伝いや お悔やみに来てくれていた。


その方たちに 母との 最後の約束だからと 話すと ただ1人 


「お母さんが 亡くなったばかりだというのに ひとり娘が 出掛けるなんて」と 怒った人がいた。


それが その後、父の彼女になった人。


その他の人は 快く 約束したのなら 行っておいで…と 言ってくれたけれど。



診断は 「ADHDと アスペルガー」


偶然にも 病院からの帰り道には おちゃるを 産んだ 病院があった。


出産当日 おちゃるの父親と 入れ替わるように 病院へ来た母。


すでに 陣痛が来ていて 出されたお昼ご飯が 食べられない私の代わりに 母が 昼食を食べる事に。


病室へ寄らずに 分娩室に 直行だった私の荷物を持って 病室へ。


大部屋で 同室の皆さんに  ご挨拶をし 私のベッドのところで 昼食を食べ 分娩室へ 来た母は 陣痛で 苦しむ私に


「皆(同じ病室の人) 私が(母のこと) 産むと 思ったかも🤣」


と 大笑い。


いたたっ…と 言いつつ そんなワケ、ないじゃない! 

でも あまりにも おかしくて 笑ったのを 思い出した。



そして 私は 発達障害の子を 産んだんだ。


こんな日(母が亡くなって 24時間も経っていない)に 診断されるなんて これからは 1人で 頑張れって事だなと 思ったら 泣けて来た。


そんな思いを知らない おちゃるは 母が 亡くなった事で 泣いていると 思ったらしくて 


「僕が そばにいるから 大丈夫だよ」


と 言ってくれた。


そんな思い出のある 3月4日と5日。


30代だった私も 50代後半になり 母の亡くなった 年齢に近くなった。


おちゃるからは 今日は 行けないけれど 近いうちに お線香をあげに行くと 連絡があった。



今日は お墓参りに行き 帰りに 桜餅を 買って お供えした


あれ程、大嫌いだった母のことを 感謝できるようになったのは 私も 母になったからかも。


母から 教えられた事は なんだかんだ言って しっかり 守ったりしている。


そして 口うるさくて 嫌だったのに おちゃるには 同じように あれこれ 言っている😅