父は 昔から 母が 誰かと出掛けることを とても 嫌っていました。
昔からの友人や 趣味のお習字などの お友達、全て 女性でしたが いい顔をしませんでした。
姉妹の家に行くのも 姪っ子の 子供の誕生のお祝いすら 散々、文句を言って 母は お昼ごはんを食べてから 片付け 夕食の支度前までの間に 帰宅しないと いけませんでした。
今、思えば 父には 友人と呼べるような人が 1人もいなかったんです。
仕事絡みの関係者は いても お茶を飲んだり 一緒に出掛けるような 友人は いませんでした。
だから 嫌だったのかもしれません。
私にも 同じように 出掛けることを 極端に嫌っていました。
ある お昼に 友人と 出掛ける為に おでんを作って行った事が 父の逆鱗にふれました。
友人から お風呂に ランチもついて 千円にも満たないところが あるからと 誘われて 行った日でした。
玄関先に お風呂に行く時に使うタオルなどの入ったバッグを 置いておいたのを 見つけ 「俺に おでんを食べさせて 自分は 友達と お風呂か!」と。
俺のお金を使って お風呂屋などと 優雅なもんだ!や 俺には おでんを食べさせておいて 自分は 豪華な お昼ごはんか!など。
午前中に行くと 入浴料とランチが ついて 千円もしないと説明したけれど そんな話を聞くはずもなく。
だいたい 父のお金など 捕っていないし 私が 働いたお金で 出掛けただけ。
言いたくないけれど その おでんだって 私の お金から 買っているのに。
私を突き飛ばして 怒鳴る父に 「金庫の番号は 教えるから 自分で全て管理して。銀行にも 役所にも行きません。もう家事も何もしません」と 宣言しました。
お金を盗んだと言われても ご飯を、作ってくれないと言われても ムカつくなぁ~と 思いつつ ずっと 家事をして来たのに。
今すぐ!が 父の 決まり文句だったから 頼まれて事は どこにいても 帰宅して やって来たのに もっと お金が あったはずと 罵倒し 彼女や親戚には 娘や 孫の生活費も 払ってやっていると 無いことを話す。
母と父との 共通の知人である女性が 母の亡くなった日から 毎日、朝から 来て 夜中まで 帰らない日もある。
それも ずっと 我慢していたけれど あまりにも 勝手なので 家事をしません!と 宣言したのでした。
上等だ!と言われて それから 本当に 何もしませんでした。
それでも 父が 調子が悪いと言えば 食事を作ったり 真夜中でも 病院の送り迎えもしました。
入院した時には 毎日、新聞を届けに 通ったし もちろん 入退院のお迎えもしました。
病気の父を 放っておくのは さすがに 出来ませんでしたから。
役所や銀行に 一度も行った事の無い父は 結局、何も出来ず その後も 私が 手続きに行くことになりましたが。
その間も せっせと 彼女は 我が家に 通っていたけれど やる事と言えば 父との お喋りだけ。
父が話す 私の悪口を フンフンと聞いて 私に 注意。
母とも 友人だったのに よく 彼女として 我が家に来れるなとも 思ったし、母の生前は 滅多に来なかったのに 亡くなった その日から 毎日、我が家に来ているのも嫌だったけれど もう 母は亡くなって 父も 独身だからと 自分を納得させていました。
父が 入院すると聞くと その彼女も 病院へやって来ました。
いつものように お喋りして帰る。
特に 何かをお手伝いしてくれるわけでも なく。
遠方の病院に 父が入院した時には 私が 病院へ行く時間に 家まで お迎えに来てくれる?と言って 私の運転で 病院へ。
しかも 病院の近くに 友人が住んでいるからと その家の前で おろしてって。
夕方に 病院に行くから そうしたら 家まで 乗せて帰ってと。
私は タクシーじゃ無いですが(笑)
友人宅に遊びに行き 10分程、病室に顔を出して 丁度いいから 帰りは 乗せて行ってもらおうかしらなどと 病院まで来るのに 電車で来たような 言い方。
洗濯物を ヒョイと持って 新しい下着を持って来るわねと 病室を出て エレベーター前で 私に手渡す彼女(笑)
病室の中だけなのね、洗濯物を持つのは。しかも 洗濯をするのも私、新しい下着を持って来るのも私ですが(笑)
前にも書いたけれど 私が 開腹手術をして 帰宅した次の日に 父の病院に 付き添ったことも。
まだヨタヨタとしか 歩けなくて 当然、運転も バッグも持ってあげられない。
それでも 父や 父の彼女から 病院に一緒に行くのは 当然だと言われて 付き添った事も ありました。
認知症なのか、忘れたフリなのか 父は 全て 覚えが無いことだと言っています。
入院中は もちろん 入退院の時には 来てくれなかった。
具合が悪い時にも 病院へ連れて行ってもらえなかったと。
私的には 認知症の症状なら それの方が 救われます。
だだ 父の言う 退院に迎えに来てくれない、病院へ来なかったと言うのは 数回の事を 大袈裟に話しているだけでして。
父は 1日だけの入院も含め 何回も 入院しています。
車で 10分も行けば良い病院から 車で 2時間程 かかる病院まで。
私が子供の頃にした怪我で 何度か 長期に入院した時に 母は 1、2時間の面会に 遠方まで 毎日 病院まで来てくれました。
父が 来てくれた記憶は ありませんし そう聞いていますが(笑)
だから 家族が 入院した時には 毎日、病院へ行くのが 当たり前だと思って 過ごして来たので 父にも そうしてきました。
ただ 一昨年 父の入院中に 私も 緊急入院した事がありました。
父は 食事制限があるのに 守らないので 浮腫みが出たりして 食事のコントロールをする為でした。
寝たきりでも ありませんし 絶対安静でも ありません。トイレにも 自分の足で行けました。
でも 毎回 入院すると 父は 一歩も 歩きません。車椅子で 移動したがるので 病院からも 歩いて下さいと言われてしまう程です。
そんな中 私は 緊急入院することになり 父の病院へ 行けなくなりました。
私が 入院する前に 父が そろそろ帰ろうかな?と言っていたので 退院間近でした。
帰ろうかなと 自分で判断して 帰れるものなの?と 思うかもしれないけれど 父の入院している病院は 俗に言う 老人病院で 食事のコントロールなどが主で 体調が悪いと言えば 数日間 入院させてくれる病院です。
だから もう大丈夫だと言えば 先生の許可が出れば 帰れるのです。
私は 入院中でしたから 当然、父の病院に 洗濯物を取りに行く事も 退院の お迎えは 出来ませんでした。
父は 退院の日、10分程の距離をタクシーで 帰宅することになりました。
その後も 私は 入院していましたが 父が 私の入院する病院へ 顔を出すことは ありませんでした。
オッパが 自宅から 2時間かけて 私の病院へ 毎回のように 洗濯物を洗いに 来てくれたり 退院時に お迎えに来てくれました。
私が退院して 家に帰った時、入院していたことを知っていた父から 「迎えに来ないから 退院するのにタクシーで 帰って来たんだ」と 怒られました。
そして これから 外食に行こうと。焼肉にしようか? それとも お寿司かって。
私 腹膜炎を起こしていたので 入院中は ほぼ絶食でした。退院の2日前くらいだったかな? 重湯を出され とりあえず 形のある食べ物になったところで 退院でした。
その晩に 焼肉は 無理だったし だいたい 退院と言っても 症状が治まったので 退院させてもらっただけで その後の治療もあった時期でした。
本調子では無いと説明しても 聞いてもらえず 結局、和食のあるお店にしてもらい 雑炊を頼みましたが 二口、三口しか食べられませんでした。
いつでも 父は 自分の思うよう。
それに 反発すれば 怒り狂う。
慣れてるとはいえ こういう時には 本当に嫌になりました。
その前に 私が やはり 緊急入院した時も 消防署からの連絡で 病院まで 来てくれたものの 痛さで 唸る私に 何故、こんな遠い病院にしたのか!と言った父。
これ 前も書きましたね(笑)
病院は 私が 選んだのでは ありません。救急車で運ばれたのですから。
激痛で いつも行っている入院施設のある病院へ行ったところ 我が病院では 難しい症状だと 病院から 病院へ 救急車で運ばれたのだから 私が 好んで行った病院では ありませんでした。
大丈夫?の一言もなく 遠い!遠いを連発。
印鑑を持って 来て下さいと言われても 印鑑を持って来てくれない。
その後 手術になり 同意書にサインしてと頼んでも 拒否。
もちろん 手術の立会いも拒否。
退院時 膨大な治療費が 手元になく お迎えに来ながら 後で返すから とりあえず お金を持って来てと言ったら そんな お金も 手元にないのか!と怒り 拒否。
突然、入院になったのだから お金なんぞ 持って来ないわ。
その入院中に サインや手術の立会いは 拒否していたのに 彼女とは 日帰り旅行していたし。
術後、1ヶ月は 運転は しないでと言われていたけれど 父の病院への 送り迎えをするために 一週間で 運転する羽目になったり。
どこまで 意地悪をして どこまで 私が 尽くせば 良いのか?