人生が中断して、はや2ヶ月半。
ようやく人生が再開します。
心を見つめるため、入院当初のノートを見返してみると、
私は外に出たら、違う世界に行きたい。
そう願ってた。
元の世界への未練がもうないこと。
それは、恋愛を追い求める世界。
恋愛が手に入らなくて悩んでる自分。
そことは違う世界が見たいと願ってた。
5月20日。
ノートには、私のことをこんな風に書いていた。
ほら、簡単にやっちゃうからダメなのよ。
自分がないから付き合えないのよ。
私は本命になれない女だ。
私ってちょろい女だ。
好きになってもらえるチャンスあったのに、自分でダメにして恋愛下手くそ。
好きだったら付き合うのよ、付き合わないのは好きじゃやないから。
この辛辣な言葉たちは、インスタで流れてくる男性心理みたいなものを見て、もやもやした内面を言語化したもの。
前回Aくんへの執着を手放したかったって書いていましたが、それはこういう自己否定を手放したかったから。
これが本当に苦しかったんですね。
でも、今見返しても、何のこと?って感じ。
そこに、臨場感はない。
そんなこと思ってたの、可哀想、とすら思わない。
もっと言うと、その私は存在してない、に近い。
ここまで執着を手放せたのは、エゴを認識できたから。
この時の気づきも大きかったし、
ホラっちょ(※)とエゴのことを命名し、全てが完璧を前提とした場合に、一見ネガティブに見える現実に反応してる自分は全てホラっちょの言い分、と区分けしていきました。
※2ちゃんチケット板の、イウォーク師匠に感化されました。話面白いしめちゃくちゃ腹落ちしました
そうしてると、少しずつエゴと同化していた自分に気づいていきました。
エゴと同化=上に書いた、この“ 恋愛が及第点な私” に「なって」いた、ということです。
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ほら、簡単にやっちゃうからダメなのよ。
自分がないから付き合えないのよ。
私は本命になれない女だ。
私ってちょろい女だ。
好きになってもらえるチャンスあったのに、自分でダメにして恋愛下手くそ。
好きだったら付き合うのよ、付き合わないのは好きじゃやないから。
なぜなら、当初意図した通り、この時と違う世界に来たからです。
(つづく)