13. 1999年3月 英国とんぼ返り

 

13.1 ヒースロー

 

ドーバー海峡の舌平目

独の関係会社主催のセミナは半年毎にあり、1年半前から出席し始めて、今回が4度目。日本からの出張者は数人いて、事前にロンドンで作戦会議やってからミュンヘンに行くが、私だけ一足先に行って、セミナ後にはまた週末にブリュールの委託先に寄ってくる、という予定だった。

11時半に成田発のJALで、15時ごろヒースロー空港着、ホテルは空港と事務所の中程、数kmのところにあり、駐在員が車で送ってくれた。Mr.Tが急用で事務所に行っても話ができない、ということで、ずっと駐在員が近在を車で案内してくれて、待つこと1時間、Mr.Tがやってきて、駐在員と入れ替わり、食事しながら、打ち合せを行なった。

このとき薦められて食べたのが、ドーバー海峡の舌平目。Mr.Tが言うには、絶品なんだそうだ。大げさな名前だけど、、、期待外れだったなあ。皿をはみ出すような大きな平目で、スープに浸かって厚みがなく、見た目にもイマイチ、歯応えのないふにゃふにゃの食感で、柔らかくてとろけるようだ、と評するべきかも知れないが、私はやっぱりアジの干物のほうがよほど旨いと思った。それでも3大珍味ほど酷くはなくて、全部食べた。ドイツのとんかつもどきと同じレベルだったな、あくまで個人的な感想ですけど、、、

ホテルに戻って、割と健全に0時前には寝た。普通は時差ボケで数日間はなかなか寝られないものだが、珍しい、出張慣れしたのか、すぐ寝付いたようだ。それもぐっすり・・・

 

真夜中の電話

突然、電話が鳴った。ぼやっとした頭に「Collect call from Japan」と言われ、名前を確認されて、つないでもらうと、同じ部署の課長さんからだった。「お父様が亡くなられました。奥様から連絡するよう頼まれました。」

夜中の2時頃だったと思う。いっぺんに目が覚めた。わかった、とりあえず電話は切ったが、さてどうする?一瞬途方にくれたが、まず状況を確認せねば。フロントに頼んで、妻と弟に電話した。

時差9時間なので日本は今11時頃だが、父は今朝方亡くなり、葬儀場の関係で、今夜通夜を行ない、明日告別式とのこと。う~む、すぐ帰って告別式に間に合うか?間に合わなくても、とにかくすぐ帰らなくてはならない。飛び入りで一番早い飛行機に乗ろう。

セミナでの自分の役割はどうしよう?だれかに代わりにやってもらうしかない。これまで何回も喋った内容だけど、最新情報に替えてあるから、自分はキーワードを頭に入れてるけど、他人にはわからない。プレゼン用のメモを作るしかない。

 

徹夜でプレゼンメモ作成

この時期、プレゼンはまだOHPフィルムだったが、幸いなことに、質疑で書込みをするために、紙コピーを持っていた。この紙コピーに、キーワードに印を付けて、主旨を空きスペースに日本語で細かく書き込んで、話す順番に番号を付けて、これを何十枚もあるすべてに書き込んでいった。

プレゼン用のメモを何とか作り終わって、どっと疲れを感じた。もう外は明るくなっていた。飛行機の確保で一刻も早く空港に行きたいが、他の出張者が朝一番にこのホテルに到着する予定なので、ちゃんと頼んでから帰ろう。目覚まし時計を1時間後にセットして、パタンと寝た。

1時間でも寝たので頭がすっきりした。8時にはチェックアウト、ホテル代は£109だったが、電話代が£138だった。3万円もかかったんだ。因みにこの時期は $1=120円くらい、ポンドは強く£1=220円だった。

コーヒー飲みながらロビーで待っていると、来たきた。みなに事情を話すと、今回のセミナで特にプレゼン予定のない人が、代わりにやってくれるというので、OHPフィルムとプレゼン用のメモを渡して、ざっとメモの見方を説明した。一つ肩の荷が下りた

 

無念の実感

タクシーで空港に行き、帰国便はフランクフルト発のJALだったので、JALのカウンターで帰国便のキャンセルと、一番早い便への変更を頼んだ。JALでは適当な便がないので、他の航空会社を調べてもらい、BAの15時頃の便が一番早い、ただビジネスクラスしか空いてない。50万円以上だったが、クレジットカードで払った。

朝から何も食べてないので、コーヒーとサンドイッチを食べて、搭乗口で座って待ってる間、ようやく親父の顔が頭に浮かんできた。そうか、死んじゃったんだ、そんなとき俺はロンドンにいるなんて、無念だ。売店でウェジウッドの淡いブルーの小皿を一つ買った。これを見る度に、親父の最期に立ち会えなかった無念さを思い出すように。

 

想うこと

翌日の昼前に成田に着いた。父の告別式は午前中に終わっていたが、私が葬儀場に着いたときは、まだ親類縁者が会食していて、長男として挨拶だけはできた。途中から声が詰まって、涙まで出てきて、嗚咽しながら、ボツボツと喋った。出てくる言葉は、残念、無念だけ。みっともないと言われようが、しかたがないじゃないか、、、

父の具合が悪かったのはもう1年くらい前からで、毎月のように、故郷に帰って見舞っていたのだが、その間も海外出張が何回かあった。入院も今回が初めてではなかったし、出張の話が出たときには、父の容態は良くなっていて、また退院するとばかり思っていた。尤も、たとえ出張を止めて日本にいたとしても、死に目に会えたかどうか?最期がわかっていれば、誰だって対応できるが、先のことはわからない、その場で最善の行動をとるしかない。小皿を見る度に、悔恨の念に駆られるが、やむを得なかったんだ。

あれから20年以上経って、母が亡くなったとき、入院した母を毎日見舞っていたのに、母の死に目にも会えなかった。でも駆けつけたとき、母の手はまだ温かく、握っているうちにだんだん冷たくなっていった。前日に見舞ったとき、私が手を握ったら、ずっと無表情だった母が、ニッと笑った。確かに笑った。救われた気がした。

ずっと傍についているわけにはいかないから、親の死に目に会えるかどうか、ということよりも、普段自分がどのように接するか、ということの方が大切だと思う。これは、看取られる親よりも、自分自身の問題なのだから。