6.1続 フィリピンの夜

 

展開

よく分からないがとにかく服を着ると、すぐに部屋にいろんな人が入ってきた。同じ寮の人たちだろう。口々に、酷い、可哀想、とか言いながら泣き始めた。昨日のこの部屋の主の女性は、ネグリジェの女性に覆い被さって嗚咽している。そのうちに、別の男が飛び込んで来て、「俺はこの子の兄だが、漁に出てて連絡もらって飛んできたんだ、妹をよくも殺してくれたな!」と殴りかからんばかりの勢い。でも胸ぐら掴む、とか私に触れることは一切無く、大声でまくし立てるだけだ。さすがに私も状況が分かってきた。でも頭はまだ半分寝ていたのか、兄さんの剣幕にも恐怖心が湧かない。それどころか、ありゃ?この兄さんは先ほどの父親とそっくり?親子というより、同じ人じゃないか?本来なら、震え上がって、命乞いをしなければならない場面なんだけど、他人事のような、、、

ぼやけた頭ながらも、それでも徐々に自分が犯罪者の立場に置かれたことが分かってきた。困ったなあ、誤解ですよ、などと妙にのんきに、多分しょげたとは思うが、何もしてない、と言い続けていたような気がする。

 

裁判

いつの間にか、ネグリジェの女性も、赤い血も、ピストルもなくなっていた。同寮の人たちも引き揚げていった。兄さんは、わめくのは止めたが、目をつりあげて私を睨んでいる。でも小太りの顔が下膨れで、どこか愛嬌があり、凄みに欠ける。そこへ、背の高い、医者のような白衣の女性が入ってきた。何もしてない、を繰り返す私の横に座ると、冷ややかな、刺すような視線を向けてきた。一瞬、背筋がゾクッとした、怖わっ、ぼやけた頭に戦慄が走った。白衣の女性は、静かな、しかし芯のある声で、「何をしたか分かってるか?」と言った。兄さんの睨みは恐くないが、白衣の女性の視線と声は、有無を言わさぬ凄みがある。ヤクザ映画に出てくるような、たたきつけるような凄さではなく、もの凄い冷たさなのだ。静かな分、余計冷たい。

相手の顔なんか見てられない、ものすごい美人だったような気がするが、私はずっとうつむいて、I did nothing. を繰り返していた。

白衣の女性もくどくは言わない。自分の立場を理解したね、と念押ししただけのようだ。何もしてないにしろ、立場を理解してればいいことなのだ。しばらく沈黙が続き、その間、刺すような視線は手元に向けられていたが、そこには私のクレジットカード2枚があった。

ふいにまた視線が私に向けられ、「$8,000にする、葬儀費用と慰謝料だ」と宣告された。私は、でもどういうものか、泣き声で謝罪するとか震えるとかはなく、宣告に抗議することもなく、かといって頷くわけでもなく、独り言のように淡々と I did nothing. を繰り返していた。

 

新聞

白衣の女性は「これから銀行に行ってもらう」と言い残して出ていった。後について、兄さんも出ていった。入れ替わりに、背の低い、痩せた老人が入ってきた。新聞の束を抱えている。裁判の決着にまだ実感を持てないでいる私の目の前に立ちはだかると、持っていた新聞の1枚を広げて、「これは最近起きた事件だ、警察に訴えても、悪いのはあんたになる」というようなことを言い出した。次々に新聞を広げて、同じような事件の記事だ、「みな訴えても無駄だった。あんたも、この事件のことは訴えても無駄だから、自分の胸にしまっておくがいい。」

新聞の記事にいちいち目を通す気力なんかないが、どの記事も、訴えた人がしょげている大きな写真が載っている。これは本物の新聞なのか?こんなにたくさん、似た事件があるのか?老人が切々と説教してくれるが、信じられない気もするし、そうなんだ、と納得したくもなる。新聞を何部広げたか、ずいぶんたくさん広げた後、老人は私に準備を促し、といっても持ち物はビニール袋だけで、カード以外の中身はそのまま戻されていた。パスポートも財布の現金もそのまま。カメラのフィルムも入ったままだが、裏蓋は浮いていた。

 

銀行

老人に連れられて寮の入口まで行くと、兄さんと昨日の女性が待っていた。白衣の女性はいないが、老人含めて3人で私を囲むようにして、近くの銀行まで歩いて行った。街並みを眺める余裕などはなかったが、生活感のある、ごく普通の住宅街の早朝の風景だったように思う。あちこちに人もいるので、助けを求める、とか逃げ出すこともできたと思うが、そういう考えはまったく起こらなくて、まだ頭が半分寝ていたのか、3人に囲まれて、すごすご歩いて行った。でも、だれも、この光景を見咎める人がいない、ってのも不思議だ。だって異常でしょ?こんな光景見慣れてるのか、街ぐるみグルなのか?

銀行に着くと、窓口で、クレジットカードを使って、現金を引き出す手続きをしたわけだが、2枚のカードで合計$8,000現金化するなんて、しかも3人に囲まれて、虚ろな目の日本人、とくれば、銀行だって不審なはずでしょ?ところが、手続きは淡々と行なわれ、銀行を出る時は、一人で持ちきれないのか、分厚い札束を手分けして、袋にも入れずにそのまま、手づかみ。銀行までグルなのか?この分じゃ、警察もグルか?白い目に包囲されて、周囲全部がグルに見えた。何が日本人の品格だ、、、

 

仕上げ

銀行から出ると、老人が私のカードを返してくれて、タクシーでホテルまで送ってくれると言う。いつの間にか小さい子どもが老人にくっついている。他の2人は札束を抱えて、いなくなっていた。

タクシーの後部座席に、子どもを真ん中にして3人、子どもは無邪気に老人に何か話しかけ、老人は孫の世話をするような感じで頷づいている。しょげている私に、老人が言った。「このことは忘れてしまいなさい」、今朝の説教調から一転、諭すような優しい、柔らかい口調で、忘れろ、忘れろ、と何度も言うのだ。私は応えるすべもなく、うつむいていた。

ホテルが見える所でタクシーを止めて、「ここからは歩いて行けるね、忘れるんだよ」、どう応えていいか分からず、無言で歩き出し、振り返ると、子どもが手を振っている。老人も福々しい仙人のような優しい顔でじっとこちらを見送っていた。

頭がまだへんだったのか、虎口を逃れた、というにはほど遠い、妙な安堵感がこみ上げてきた。悔しさ、惨めさ、腹立たしさ、無念さ、ありとあらゆる情けない思いで一杯のはずなのに、一幕のお芝居の中にいたような、その幕が下りたような、そんな気持ちだった。

 

後始末

ホテルの玄関に駐在員が待ち構えていた。私の姿を見つけると飛んで来た。「どこにいたんですか?大丈夫ですか?お迎えに来たら、昨晩はこちらに泊ってない、というので、心配してたんですよ」と矢継ぎ早に詰問された。警察に捜索願を出そうか、と考えていたところなのだそうだ。

事務所には、約束の9時にちゃんと行けた。だれも、昨夜の事件のことなんか知ってそうにない。遅れた訳じゃないから、普通に迎えてくれた。

技術屋さんとの挨拶は後回しで、所長室に直行。ほかの人には自然に見えただろうが、所長さんと駐在員との密室会談は、由々しき内容だった。頭は多分正常に戻っていたと思うが、事件の顛末を説明しようにも、断片的な光景が思い浮かぶだけで、理路整然と話せない。一通り私の話を聞いてから、所長さんが、「いくら盗られたの?ほかには何も異変はないか?」と質問された。100万円ほど、ほかには何も異変はない、と答えると、「そうか、まずは無事でよかった、下手すると裸で公園に放り出されていたり、そのまま行方不明になるケースもある。よく100万円で済んだものだ、ほかに何も異変がなければ、この話は無かったことにする。」

こんなことを不問に付すのは、会社への背任行為かも知れず、それを書くのは躊躇するが、もう時効だと思うのでご容赦願いたい。警察沙汰にしても、100万円が戻ってくることも、白衣の女性が捕まることもない。正直に報告することが最善の策か?違うかも、、、正直ぶって免罪符を得た積もりでも、それは自分だけで抱える責任を逃れた、というだけのこと。それどころか、所長さんや現地駐在員にも迷惑掛けるし、おそらく私の会社人生もまったく違ったものになっていただろう。これに懲りて、以後ちゃんと自分の責任ある行動で貢献しなさい、と諭された気がした。所長さんのご判断に頭が下がった。