セザンヌと日本画(2):葛飾北斎・富嶽三十六景の複数視点と幾何学 | 平山朝治のブログ

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左:葛飾北斎 富嶽三十六景 34. 東海道程ケ谷 1831-34年頃

右:ポール・セザンヌ 大きな松のあるサント=ヴィクトワール山 1986-7年 フィリップス・コレクション

 

セザンヌが葛飾北斎の影響を強く受けたことは、サント=ヴィクトワール山を描いた全83点に及ぶ作品(工藤弘二『図説 セザンヌ「サント=ヴィクトワール山」の世界』創元社、2022年)が北斎の富嶽三十六景や富嶽百景に因んだものであることからも示唆される(JBグループ 情報誌『Link』vol.198、2009年における及川茂の発言、和樂web編集部「セザンヌと葛飾北斎、共通点は「山」そして「描くこと」への愛」『和樂』2017.09.25、『北斎とジャポニズム:HOKUSAIが西洋に与えた衝撃 展覧会図録』国立西洋美術館・読売新聞東京本社、2017年、165、188頁)

 

カバー画像に採用した上の二つの絵は、二本の松の幹と枝が山のフレームとなっているという点で共通しており、また、上の右のセザンヌの絵は、和樂web編集部記事や『北斎とジャポニズム展図録』(188〜9頁)では

葛飾北斎 富嶽三十六景 39. 駿州片倉茶園ノ不二 1831-34年頃

 

との類似が指摘されており、構図の作り方自体に北斎からセザンヌへという影響がありそうだ。

 

二本の平行線が遠くなるほど幅が狭く見え、無限遠においては消失点で交わるという原理に基づく透視図法の遠近法を、一つの視点だけに固定して使うという、近代西洋絵画において正統とされてきた遠近法の制約をはずし、複数視点を使って一枚の絵にまとめるという普遍的遠近法をセザンヌは手がけ、キュビズムの先駆者となったが、やまと絵にも同様の発想がみられることを「セザンヌと日本画(1):やまと絵遠近法の複数視点」でみた。江戸時代中期に登場した浮絵は、奥ほど平行線の間隔が狭まる西洋的遠近法とやまと絵以来の消失点のない平行遠近法を併用していた。

奥村政信 芝居狂言浮絵根元 1743年頃

 

芝居小屋の内部を舞台正面の低い視点から表現するには西洋的遠近法が優れているのでそれが採用されたのだろうが、平行遠近法を併用する理由はよくわからず、右上の障子窓はとくに不自然に見える。西洋的遠近法の受容が不完全ないし消化不良で、平行遠近法の因襲が残存していると評すべきであろう。このような併用から西洋の画家が示唆を受けるだろうか?

 

セザンヌがやまと絵の伝統からキュビズムの原理を体得したとすれば、それは北斎を経由したものである可能性が高い。北斎も、江戸時代の日本で多用されるようになっていた、遠方ほど平行線の間隔が狭くなるという、近代西洋で支配的な遠近法をしばしば使用していた。北斎、とりわけセザンヌが傾倒した富嶽三十六景において、そのような遠近感覚と、やまと絵の平行遠近法とがどのように共存、統合されているかを見てみよう。

 

まず、

30. 江都駿河町三井見世略圖 1831-34年頃

 

においては、道の両側に並ぶ店の2階の窓の上枠を延長した線が交わるのは、画面よりもかなり下になる

のだが、地上から見る人の視点による透視法においては地平線が消失点になるはずであり、地平線は、奥に見える江戸城の堀の石垣あたりにあるはずだ。三井本店のあった日本橋三越前から大手町にかけては海抜4メートルのほぼ平坦な土地で、江戸城跡は海抜24メートルなので、日本橋駿河町の路面上にある、この絵の視点から眺めると、堀や富士山が店の2階よりも高いところに見えることは、実際にはありえない。店の一階部分や地面は描かれていないが、それらを画面の下に書き足してみると、実際にみえた景色よりも堀や富士山が上方に描かれていることがわかるはずだ。

 

富嶽三十六景において、街並みの消失点よりも上方に水面(隅田川下流域なので海水面とほぼ同一平面)が描かれた例としては、

4.深川万年橋下 1831-34年頃

 

がある。江戸城や富士山が実際に見た景色よりも高く聳えるように描かれている富嶽三十六景の例としては、地平線上に消失点がある透視図法で日本橋から一石橋に至るまでの景色を描いた

29.江戸日本橋 1831-34年頃

 

もある。この絵の江戸城も、海抜24メートルで日本橋より20メートル高いだけとは思えないほど高い位置に描かれている。このことは、この絵では日本橋の奥にみえる一石橋から江戸城や富士山を、実景にかなり忠実に描いた

歌川広重 江戸名所百景 八つ見のはし 1856年

 

と比べてみれば明らかだ。

 

大久保純一は、「広重が風景画家としてようやく頭角を現したのが35歳のころ、『冨嶽三十六景』の発売が始まってから数年後になります。その2年後に『東海道五拾三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』を発表しますが、この時点ですでに北斎を抜きつつあったと私は考えています。なぜなら広重の描いた景色のほうが北斎を上回るほどに真実味があり、絵のもっともらしさが人々に受けたから。広重の風景画に人気が移ったところで、北斎はもういいや、と思ってしまったのではないかな。そもそも、北斎は広重のように風景を本物らしく描くことにはさほど興味もなかったんでしょう。北斎が「冨嶽三十六景」を出せたのも、すでに大物画家としてのポジションがあったから。風景をデフォルメしすぎていて当時の人は実際の景色を想像できなかったでしょう」(和樂web編集部「歌川広重、風景画の名作には秘密があった!」『和樂』2017.07.27)と、北斎と比べてむしろ広重を評価している。広重と比べて北斎には透視法による自然の模写に反するデフォルメが目立つのは事実だが、それをネガティブに評価する傾向が同時代の日本では主流だったため、北斎から広重に人気が移ったとする大久保説が事実かどうかを検証するのは美術史のしろうとである私には困難だ。単に北斎は飽きられ、広重は新鮮だったという、流行の移り変わりにすぎないのかもしれない。

 

しかし、西洋においては、ありきたりな透視法による広重の絵よりも北斎の絵のほうがインパクトが大きく、セザンヌを経てブラックやピカソへというキュビズムの元祖になったと思われる。遠方の海水面や水平線を実景より高く描いたものとしては、ピカソが購入し、パリのピカソ美術館が所蔵している

セザンヌ レタックスの海 1878-9年頃

 

がある。

 

北斎の江戸日本橋をよくみると、透視図法の消失点の高さにある水平線だけではなく、江戸城の堀の石垣の少し上あたりにも、江戸城を描くための水平線があり、さらにその上に富士山を描くための水平線がある。遠くのものほど上に描くというやまと絵遠近法の原則に従って、一番手前の日本橋川とその両岸用の水平線の上に江戸城用の水平線、さらにその上に富士山用の水平線が配置されている。

 

しかし、水平線が三つとも明確に描かれているわけではない。本来、一枚の絵としてまとめるためには、水平線も一つでなければならない。水平線としてはっきりしているのは日本橋川とその両岸の建物の消失点を通る水平線だけであり、水平方向に細長く延びたやすり霞が日本橋から一石橋までの街、江戸城、富士山の三つの景色の境界を不明瞭にしつつ、上の二つの水平線を覆い隠し、三つを一つの絵にまとめる役割を果たしていることがわかる。

 

近景と遠景とその中間の三つを異なった視点から描くという手法は、富嶽三十六景のなかの

19. 東都浅艸本願寺 1831-34年頃

 

にもみられる。ここでは、近景が浅草本願寺の切妻屋根であり、屋根の上部を見下しているが、切妻面がよく見えるので、視点は本願寺屋根のすぐ近くにあり、屋根の棟と比べてそれほど高くない。また、瓦の幅は近くと遠くとで同じで、消失点に収束しない、やまと絵によくある平行透視を踏襲している。

 

本願寺屋根の下に広がる街並みは、洛中洛外図と同様、手前も奥も同じ縮尺で、手前の本願寺屋根を見た視点よりもかなり高い上空にある視点から見られたように描かれており、そこから本願寺を見れば小さく見える眼下の建物のひとつにすぎないはずだ。このことは、実景にかなり忠実に描かれた歌川広重の絵と比べてみれば明らかだ。

歌川広重 Higashi Hongan-ji Temple at Asakusa (Asakusa Higashi Hongan-ji no zu), from the series Famous Places in Edo (Edo meisho) 1847-52 ボストン美術館


飛行船でスカイツリーに近寄り、展望回廊(地上350メートル)を若干上部から見たら、直下の街並みは東都浅艸本願寺のように小さく見える。この街並みの図も洛中洛外図屏風同様、画面全体が上空から俯瞰された江戸の街並みになり、富士山は上方彼方に追いやられてしまって描かれないはずである。試みに東都浅艸本願寺の街並み部分をコピーして富士山を隠すように貼り付けると、

このようになる。

 

以上の検討から、遠景である富士山を見る視点は、本願寺屋根を見る視点とも街並みを俯瞰する視点とも異なる。

 

この三つの視点で描かれた景色は、ここでもやすり霞で隔てられている。つまり、やすり霞や雲は、三つの視点で描かれた景色同士が直接ぶつかり合って矛盾葛藤するのを防ぎ、一つの絵としてまとめるために不可欠なものとなっている。さらに、街並みのうち本願寺に一番近く描かれた建物のみ例外的に本願寺屋根と直接し、街並みから揚げられた凧とそびえ立つ火の見櫓は富士山よりも高い位置に描かれ、街並みの描かれた領域と富士山の描かれた領域をつないぐ。浅草寺屋根、凧、火の見櫓、富士山と遠くのものほど縮尺(の分母)を増して描かれていることも重要だ。このように3つの領域がバラバラに分解しないようにつなぐ工夫も凝らされている。

 

また、

25. 礫川雪ノ且(且は旦の誤字) 1831-34年頃

 

も、東都浅艸本願寺とよく似た構図である。近景の、平行透視法で描かれた大きな切妻屋根の家屋と遠方の富士山とその間の低地の建物群の視点と描き方はよく似ているが、中間の建物群は遠いものほど小さくなるような遠近感を伴っている。ここでも、三つの視点それぞれの景色は、雪を被った樹木、やすり霞や池で隔てられているが、中間の建物群のなかにある遠近感のおかげでひとつづきの眺めを描いたように見える。

 

以上のように、北斎はやまと絵の伝統と消失点のある透視法とをともに生かすような、複数視点による絵画表現を示したが、最も独創的なのは、やすり霞などによってそれぞれの視点で描かれた部分を隔てることで、複数の視点を一つの絵の内部で統合することに成功した点だろう。

 

それと同様の試みは、西洋におけるキュビズムのはしりとされる

セザンヌ 果物籠のある静物 1888-90年 オルセー美術館

 

にも見ることができる。この絵は、テーブルの左を見る視点が右を見る視点よりも高く、その結果、テーブルの左よりも右のほうが上下間隔が短くなっており、本来長方形であるはずのテーブルの天板が、右と比べて左のほうが前にせりだしているが、両者の間を隔てるテーブルクロスによってそのことがめだたなくなり、天板は長方形であるという事実と両立できる絵にまとめられている。つまり、天板の左と右を隔てるテーブルクロスは、北斎におけるやすり霞などと同じ役割を果たしているのである。

 

また、テーブルクロス上の3つの陶器のうち真ん中の壺だけが高い視点から見られ、両側の陶器は左に少し傾いている*のも、天板の左右の違いを目立たなくしている。さらに、右上の籠は、右半分が右上方から見られた姿、左半分が正面上方から見られた姿てあり、そう描くことによって左半分を見る視点を右から正面へと左方向に動かしている。また籠に入れられた布は右半分と左半分の対立を緩和し、ひとつの籠に統一している。このように、3つの陶器や籠は、東都浅艸本願寺の火の見櫓や凧と同じような役割を果たしている。

*これは、鑑賞者の意識を左上の方に向けようとするもので、左上方の視点から見ればテーブルの天板は手前になる左のほうが幅広になるため、描かれた天板の不自然さをを緩和させる効果がある。

 

なお、以上の説明はアール・ローラン著、内田園生訳『セザンヌの構図』美術出版社、1972年、127-9ページを参照したが、そこでは天板の左右の違いを断層とし、視点の高さの違いとは結びつけていないようだ。

 

果物籠のある静物の少しあとに制作されたと思われる

セザンヌ The Basket of Apples 1893年頃 シカゴ美術館

 

 

は、リンゴの籠がその左下に置かれた直方体らしきものによって傾けられ、皿の上に重ねられたクッキーのいちばんうえの二つも右上方を向いているので、右上方からの視点を示唆している。テーブルの天板の幅が右、中、左と狭くなっているのも右上方からの視点を表しているようだ。ワイン瓶が左に傾いているのは、左上方にも視点があることを示唆しているのではなく、右上方から瓶のラベルを眺める視点があることに対応しているように見える。左上の視点は単一視点ではなく、近景、遠景、中間に対応して別視点が想定されていることが、天板の上辺や下辺が連続していないことによって示されている。

 

この絵は正面の視点のほかに、左上方からの視点がかなり強調されており、その視点は、北斎の江戸日本橋東都浅艸本願寺礫川雪ノ且と同様、近景と遠景と中間の三つに分かれ、それらはテーブルクロスと皿と瓶および籠によって隔てられている。

 

また、東都浅艸本願寺の富士山と切妻屋根の形が似ていることによって、前景と遠景との相似性が際立つことも、複数視点を統一するためのひとつの工夫である。セザンヌのThe Basket of Applesでは天板の左右いずれの領域にも洋梨があり、リンゴの籠の近景と遠景と中間のいずれの領域にもリンゴがあるのも、同様に、三つの領域を統一している。

 

セザンヌが「自然を球、円錐、円筒などとして見よ。」(エミール・ベルナール宛ての手紙、1904.4.15、ローラン『セザンヌの構図』35ページ)「我々は、まず第一に、球、円錐、円筒などの幾何学的図形を研究しなければならない。」(ベルナールが伝えた談話、同書、36ページ)と述べ、ピカソやブラックのキュビズムが幾何学的図形による抽象化を重視したのも、複数視点を一枚の絵に統合することと結びついていたのではなかろうか。

 

従来、キュビズムの特徴としては複数視点と幾何学重視とが単に並列されることが多かったようだが、北斎をセザンヌからさらに遡るキュビズムの祖とすることによって両者を統一的に理解することができるのではなかろうか?円錐は富士山の代名詞と言ってよい。

 

北斎の円筒といえば、

5. 尾州不二見原 1831-34年頃

 

や、

富嶽百景三篇 跨キ不二 1835年以降

 

があり、球といえば、

富嶽百景三篇 鳥越の不二 1835年以降

 

がある。カバー画像左の東海道程ケ谷においても、松の枝はみな富士山と相似形に描かれている。

 

球はどの方向から見ても球、垂直に立つ円錐や円筒は同じ高さと距離から見ればどの方向から見ても同じである。果物はみな球形に近く、その静物画はそのような題材選択によって複数視点の対立を緩和する。円錐形の富士山も同様だ。

 

視点の異なる景色をやすり霞などによって隔てる工夫のひとつとし、紙面の別立てをとらえ、さらに、紙面の違いを超えて、諸人登山のように近すぎない限りどこから見ても富士山は相似形に見える同じ山だということがひとつの作品としてまとめる要になっていることに焦点を当てることによって、北斎の富嶽三十六景や富嶽百景は、単なるシリーズもの連作ではなく、多視点からの描写が不ニによってまとめられた、壮大なキュビズム作品であると評価できる。

 

西洋絵画において連作をはじめたのはモネで、1890-91年の「積みわら」は同じテーマを異なる時間、季節、天候で描き分け、円錐形が連作を統一している点に富嶽三十六景の影響が見て取れる。

モネ 積みわら - 日没 1991年 ボストン美術館

 

33.凱風快晴 1831-34年頃

 

モネの連作は自然の忠実な模写から逸脱した単純化を伴い、抽象画の源流のひとつとされているが、この流れもさらに遡れば北斎に行き着くだろう。

 

付論

やまと絵をはじめとする東洋絵画には、実際に絵を描く人の目が存在する位置よりも高いところにある想像上の視点から俯瞰されたものが多い。その結果、空想力によって視点の自由な設定や移動が可能となり、複数視点からの眺めを一枚の絵にまとめるという発想も生まれやすい。それに対して自然模倣説が支配的ななかで営まれてきた西洋絵画は、地上の人が自然を詳細に観察して写しとることを重視するため、スケッチしたりイーゼルを置いたりする場所に画家の視点を固定しがちで、その視点が特権化されやすく、その結果、ルネサンス以降、唯一の視点からの透視図法も支配的となってきた。

 

東洋絵画のように想像上の視点を自由に設定するという発想を自然模倣説の西洋絵画が受け入れたのは、1783年にはじまるとされる熱気球による有人飛行や、とりわけ1852年の動力つき飛行船登場以降であり、西洋絵画の主流を相対化する際に、日本絵画、とりわけ北斎が大きなインパクトを与えたのは、気球や飛行船によって、そこから景色を見てみたい場所、視点に実際に行ける可能性が広がった時期と重なったからだろう。

 

気球や飛行船は球や楕円体のような幾何学的形体をしている。セザンヌが球を代表例として幾何学的形体を重視したことと複数視点とが結びつくのは、単に北斎の絵に幾何学的形体を重視したものが少なからずあるということだけではなく、気球や飛行船という新しい視点を提供した技術の影響もあるかもしれない。

 

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