摂食障害って、

分からない人にはその苦しみや傷みは理解出来ないけれど、

摂食障害って、

はたから見るとただただ病んでいて

体重にこだわるというのは不気味でさえあるかもしれないけれど、

 

そもそも。

100%健常者なんていない、

100%障害者なんていない(髭の殿下のお言葉)

だから。

摂食障害ってだけで、変な風に思われる筋合いないし、

メンタル持ってるってだけで、卑屈になる必要ないし、

そもそもそういう風に思うのは、案外自分が自分に対してであって、

そう、

完璧主義が故に、自分がこんなんじゃだめだってなっちゃうのね。

 

どれだけ相手の価値観とすり合わせていく事が出来るか、

そもそも、ひとりひとりが全く違う人種なのに、

すんなりと解り合えるということの方が稀なのかもしれない。

 

分かってくれない病。

メンタルのあるある。

相手に分かってもらえる前提で過ごしている方がしんどいかもね。

何がだめで、悪いとかじゃなくて、せめて人間関係を生きやすいようにするには、

相手とは違う生き物だから、分かってもらえることは奇跡くらいに思う。

あとは、メンタル系のことは、

摂食障害のことは、

こればっかは、なった人じゃないと理解不能という現実は概ね正しい。

 

私らは普通じゃないから。

健全な思考だったら、摂食障害になってなかったから。

でも、それも、健全かそうじゃないかの両極端の物差しで表現するのではなく、

思考だって、色んな層から成り立っているのだから。

こう思えれば、そう思えない部分だってある。

 

要は、自分が世界をどう見ているか。

いかに物事を自分の都合いいように解釈していくか、ポジティブに解釈していくか。

 

摂食障害っていうだけで、自分を低く見積もっているのは、おそらく自分自身。

メンタルあるっていうだけで、自分はダメ人間だと思うのは、誰でもなく自分。

自分が自分のことを低く見積もっていれば、そりゃあ赤の他人からもそういう目で見られる、

そういう扱いをされるのは当然かもしれない。

 

摂食障害って、並大抵のパワーでは乗り切られない。

摂食障害で生きているだけでも、めっちゃ凄い事だと思う。

そんな自分に、もっと自信持っていいはず。

でも、摂食障害の人は完璧主義で、目指すところがぶっ飛んでいるから、自分なんてまだまだとか、

もっとすごい人がいるからとか

言うけれど、

いやいや、毎日対価のない肉体労働してる、一般的には理解得られない病と生きているだけでも、その生きざまは、めっちゃぶっ飛んでるし、本当にひたむきなんだと思う。

方向性は健全でないけれど、そのエネルギーの塊は、ピュアだし素直だし。

 

前述したけれど、そもそもが理解されない。

だから理解してもらおうというのは徒労。

そもそもが一般的でない。

だから自分は劣っていると思うのは理屈に合わない。

沖縄へ行って、”どうしても東京タワーが観たいんだ!!”っていうのと同じ。

だったら自分が東京へ移動すればいい。

 

蕎麦屋へ行って、”どうしてもパスタが食べたいんだ!!”っていうのと同じ。

だったら自分がパスタ料理の店へ行けばいい。

 

自分がどうありたいか。

そしてどうありたいかを増やすためには経験、体験を増やす。

そして生きやすくするには、まず良いか悪いかの判断を捨てる。

生きること自体、そんな良いか悪いかだけのものでないから。

もっと色んな感情や、判断や、背景が織り成して深みのあるものだから。

そんな薄っぺらいものではない。

 

自分を肯定してくれる人に囲まれているか。

自分がめっちゃしんどいときに居てくれる人は誰?

自分が自分を肯定しているか。

自分がまず、安心を得られて生活出来ているか。

 

周りと比べるより、人を気にするより、誰かの期待に応えるなんてより先に、

安心の確保が最優先。

こんなことしていたらだめだとか、

こんな自分は怠けているとか、少しでも思うのであれば恐らくまだそこは、安心できない空間か、

自分が自分を卑下し続けているかもしれない。

 

どんな人間であれ、自分の中の正義はある程度持っていて、

でも、その正義や倫理が暴走してしまっては、穏やかではない。

そもそも、正義や倫理を語る以前に、自分の安心が確保されているかどうか。

凄い人を目指す前に、

凄い人に憧れる前に、

凄い人を羨む前に、

点検することがあるかもしれない。

 

ホッとしたら、もうそれだけで十分だよ。

今、良い感じ、と思えたなら、もうそれだけで素晴らしいよ。