私の自分の容姿に対する過度なコンプレックスは、今に始まったものではない。

思えば、小学生の頃からそれはあり、主だったことは、目の小ささや、中学生にもなれば、体育の授業でブルマになったときに、自分の足が太くて、可愛くて細い子と比べては、憂鬱だった。

 

どうしてこんなに自分の顔や体型が嫌なんだろうと、自分と向き合うことに時間を割いた。

 

大抵は、幼少期に男子からのいじめや、親からなじられたなどのトラウマからきていることがあるけれど、私の場合、クレイジーな父親で、むしろ”お前は芸能人の〇〇に似ていて可愛い”と言われた。

男子からのいじめもあったけれど、容姿をいじられることはなかった。

父親は、目の小さい姉に整形を勧めていたくらいやはりクレイジーだった。

 

幼少の私は”可愛くいなければ父親に見捨てられる”、もしくわ、”可愛くいなければ更に殴られる”というマインドセットがあったのかもしれない。

 

でも、今の私が幼少の私を写真で見てもお世辞にも、可愛い子供とは思えない。

本当に、ぶさいくな子供であった。(自分の事で、自分もこのことを理解しているので言える)

結局は、私自身の個人的な心理的動きが、”何かに囚われていないといられない”という現状を作ったかもしれない。

そんな心理的動きを持った私がのちのち、摂食障害となり、更にこだわりの要素が増える事で、他者に関心を持たず、常に自分の容姿を意識するという現実逃避になっていったのかもしれない。

 

醜形障害だと、ミリ単位で容姿が気になってしまう。

二重にしたくて、19才くらいの時に初めて埋没法のオペを受けた。

これは、片方しかやっていなくて、両目がちぐはぐだったのでそろえてもらったのだ。だから両目ともまだ小さい二重?だった。

 

その後、10年以上経ってから二度目の埋没オペを受けた。

自分の中の理想の二重に近づくことが出来ず、次は全切開を受けた。

それでも、今度は加齢という現実が二重幅を狭くし、そもそも全切開の仕上がりも気に入ってはなかった。

そして今年になり、眼科で眼瞼下垂のオペを受ける。

こちらは、保険適用なのでデザインとかミリ単位でのカウンセリングはなかった。

でも、メスを入れる前に先生に

”どのくらいがいい?”とはアバウトに聞かれたので、”せっかくなら広めの二重にしてください。”とアバウトにでも、一生懸命に答えた。

”いつくらいにやったの?

全切開?”

お医者様だから、私が言わなくてもお分かりなのでしょう。

”ええっと、数年まえに某クリニックで。”

 

”眼瞼下垂はやってないよね?”

 

”はい、全切開だけです。”

 

”目の上の脂肪除去もしてるね。”

 

ああ、医学は全て見透かされるんだな。

 

癒着が酷くて少し時間がかかったオペだった。

正直ダウンタイムでこの幅なら、完成は奥二重だと思う。

 

本当に二重になるって難しい。

これも私のこだわりの一つであり、まだそのこだわりが強いのだと理解している。

ダウンタイムで、引きこもっているので、体重もまた増えつつあり(怖くて体重計に乗れない)気持ちは鬱々している。

 

ずっと同じことで悩んでいる自分がいる。

なんの成長も進歩もない自分に深くため息をつく。

でも、幸せな人生かもしれない。

こだわりを持ちながら生きているのは、普通の人も多少はあるかもしれない。

その内容は人それぞれだし、度合も様々。

病むほどにこだわるのは、ちょっと違うのかもしれない。

でも、健康との向き合い方、加齢との向き合い方、人それぞれで良いと思っていることは確か。

 

いい加減好きなように生きようって何度も思う。

もし、肥満が賞賛される国、時代に生まれていたらきっと摂食障害になってなかったって思う。

 

私のこだわりは誰のこだわり?

本当に自分自身のこだわりだと解ればそれもそれで苦しいね。