一昨日から、腎臓の薬を飲みだした。
今年から通うことになった腎臓内科。
そこでは、行くと血液検査と尿検査がもれなくついてくる。
そして、データーはすぐに出される。
診察室に入ると、靴のまま体重計に乗らされた。
先生のお顔は正直、シールド越しで、更に透明のパーテーションがあり、よく分からないけれど、何となくの雰囲気は優しそうな感じで、話しも良く聞いてくれるのでここの病院にお世話になるのは悪くないと思った。
”腎臓の数値が、前よりも悪くなっているなあ。”
”透析になるかならないかは、もう腎臓次第で。”
”どうなるか分からないけど、これからこちらでも診ていきますね。”
先生が気を遣って話してくれてたのは分かったけれど、私の頭の中は、さっき見た自分の体重の数値でいっぱいで、こんなに太るものなんだ!とそっちのショックが大きかった。
”下痢はもうしていないかな?”
先生が聞いてくる。
もう、かれこれ一年くらい下剤乱用もやめて、今は病院の薬を飲んでいる。
”下痢はしてません。”
”ご飯は食べれてる?”
回復期を経て、今は三食しっかり食べている。
でも、まだ食べると太るというマインドの残りかすは、沈殿しているし
きっと、標準?からすると、食事の内容は少ない、もしくは、栄養の偏りがあるかもだ。
”自分なりには食べていますが・・・。”
”でもまだ太ることが怖い自分がいます、はい。”
ずっと身についてしまった、食べ物を考えて食べる癖。
揚げ物は無理。
外で出てきたら、衣は外す。
お肉の脂も無理。
糖類なら、果物といったなるべくクリーンなものを摂る。
炭水化物はようやく食べられるようにはなった。
色々と食べ物の制約や拘りがあり、きっと自由に思い切り食べることは今回の人生では味わえないのかもしれない。
食べ物を摂らないことで、密かに生きる事を拒絶し続けてきたんだろう。
本当に、家庭環境が辛過ぎて、生きる事に絶望していた。
だから、摂食障害になって、生きるための最低限のエネルギーさえ受け付けなくなって、その行為の根っこには自分なりに生きる事に抵抗し、ろくでもない大人たちへの復讐だったのかもしれない。
私の身体は生きたがっている。
だから今腎臓を患って、これまでのつけが回ってきたのだ。
食べなかった、生きる事に必死に抗った過去を後悔はしていない。
もしかしたら現在と辻褄を合わせるためのエクスキューズかもしれないが、
例えそうでも、
そうならざるを得なかった現実があるわけで、
温かい場所を好む植物を日陰にずっと置いていたら枯れてしまうのと、全く同じ現象が起きたに過ぎない。
身体は自分のエゴや思考よりもはるかに生きもので、
そこには遺伝や、細胞や組織、宇宙と同じ神秘があり、
自分のエゴでどうにかなるものではない。
確かに私は生きる事を拒み続けた。
でも身体は生きたかった。
身体がエゴに乗っ取られていると、病む。
小さな私の死はもう必要ない。
生きてやるくらいの気持ちでないと、この旅こそがろくでもないものになる。
穏やかな私の生を
回復していく。
取り損ねた分を回収していく。
生きてみようと思えてきたかもしれない。