こんばんは。
毎日の時の流れが、お天気で言うなら、大雨で洪水を起こしているかのように激しく、私をせわしく感じさせ、以前の更新の日からまるで幾年も日々を過ごしてきたかのように、たくさんの自身の中の気付きや変容というイベントをこなしてきました。
いつ体重増加がストップするのか、なんなら永遠にどんどん膨らみ続けていくのか(笑)
体重計にはもう乗っていないので、絶対的な数値は分かりませんが、体感覚では、ほんとに絶望的に大きくなってしまった。
このまん丸とした、むちむちした顔や身体をひたすら否定しています。
久しぶりに会う人には、”ぽっちゃりしたよね?”と、何度も何度も言われます。
”あれ、分からなかった!”と言われたときは、とても悲しくて。
0.5キロでも太ると消えたいと思っていた。
もう嘔吐はしていないです。
何回も言っているっけ?
嘔吐したとこで、痩せるだとか、今食べたものを帳消しにするだとか、なんか、もうそんなことでは、全くもって手遅れで、意味をなさない、
明らかに、数十キロは肥えて別人になったのだから。
私が別人になったように感じるのは、体重増加ともう一つ、自分の加齢を感じるのです。
マスク生活で、顔が云々という人もいるでしょうが、私の場合は年齢的に、きっとそういうお歳になってきたという感じ。
醜形障がいもあるので、自分の顔の様相にはとても敏感です。
最近、良い意味で言うと、顔が丸く穏やかになってきた。逆の意味だと、私もとうとう、おばさん顔になってきた。
ずっと子供でいたかった。
というか、ずっと誰かに甘えていたい。今も。気にしてもらいたい。
これをかまってちゃんやら、承認欲求が強いなどというのか。
誰にでもそれを求めているわけではない。
私に蜜に関係のある人にそれを思うし、逆にそれ以外の相手には、自立した存在でいたいと思っている。
子供であるべき時期に、子供でいられなかった私の、子供の部分のせめてもの言い訳。
子供の部分が抜け落ちて、肉体だけ、年齢だけ、いっぱしに大人になっても、バランスがとれていないよね。
私みたいなアダルトチルドレンだって、中年になり、おばさんになる。
でも、心と体と、精神のバランスが取れていないから、自分が苦しい。
中身は、ついこの前まで、中学生だったのに、高校生だったのに、
ついこの前まで、受験で悩んでいたのに、恋愛を楽しんでいたのに、友達と遊ぶことで頭がいっぱいだったのに、もう中年なんだ。
子供の頃は、どうしてこの世の大人は、みんな怖い顔しているのだろうと思っていた。大人になるときっと大変なことばかりなのだと思っていた。
でも、自分が大人になったと感じて思ったのは、
大人も、ついこの前まで、子供だった。
そして、みんなは、すごい人でもなんでもなくて、私となんら変わりない、同じ人間なのだと。
大人の方が寂しい気持ちを抱いたままである。
泣きたくても自由に叫ぶことが出来ない。
そんな大人たちを見てきたアダルトチルドレンの私は、大人になる事を心底嫌がっていた。もっと言えば、自分は大人になることなどないと思っていたかもしれない。
けれど。
時は永遠ではない。
あなたが若いなら、若さがあるのは幸せだと伝えたいくらい。
でも、人間って、私がいい例だけど、その時は色んなことが分かんないのよ。
失って、自分の手元から離れて、なくして、初めてそこで理解できる。
ガリガリだった数か月前までの私、自分が痩せていることすら分からなかった。
今、身体が変わって、あの頃、どんだけ痩せていたんだよ!!って思える。
20代や30代の頃の私、自分が若さというギフトに満ちていること分からなかった。
若いというだけで、やっぱりどこか許される事がこの世にあるのだと知った今、もう私はおばさんだ。
後悔しないように生きたい。
誰もが望むことだろう。
たるんだ顔を鏡に映して、もうこれ以上自分の事、悪く言いたくないとほんとに思った。
加齢を受け入れていく。
自分を受け入れていく。
傷ついた過去も受け入れていく。
傷ついている今も受け入れていく。
受け入れるなんて、難しいよね。でも、ただ、あるがままに見ればいい。
その対象を、
なんの眼鏡もかけずに、あるがままに見て、その様子を言葉にすればいい。
つないだその言葉が、私に素敵な眼鏡を付けてくれる。
知性という豊かさを与えてくれる。
知性は私を救う、一つのツールだと思う。
厳しい日々をまろやかにしてくれる。
うっとうしい暑さのトンネルの中で冷静という温度を保って生きる人が好き。