学生の頃、どんなノートの取り方をしていたのかを思い出そう | 気分良く前向きに生きよう & テクニカルを楽しむ

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日常感じた心の世界に通じることや脳の働きに関することを書きながら、PCや携帯やプログラミングなどの技術的なことなども書いていこうと思います。

先日、叔父さんの四十九日の法要があり、実家に一泊したのですが、一人で実家にいるとやはり実家に住んでいたころのこと、つまり高校時代よりも前のことをよく思い出します。
今回思い出したエピソードを、いくつか書きたいと思います。

この記事は、その中の一つになります。

・・あれは中学3年生の時でした。
偶然、クラスの女子達が、自分の悪い噂をしているのが聞こえてしまったのです。

「・・・でも、アイツのノートって、もっのすごく汚いらしいよ?」
「えーそうなのー。じゃあ借りても仕方ないよねー。」
というような会話でした。

実はそれが結構ショックというか、驚きでした。
というのは、当時自分は自分のノートには絶対的な自信があったのです。
自信があった、というよりも、自分にとってノートを書く(あえてノートを取る、ではなくノートを書く、という表現をしています)、という行為は自分の中の脳内の整理をするための行為であり、ノートを書くことで授業で学んだことを「自分のもの」として定着させていたのです。

だから、あの頃のノートは自分にとっては宝であり、ノートを書かなかったら知識が定着せず、成績などもずっと悪かったと思います。

なので、その自慢のノート、単なる黒板の模写ではなく、知識を定着させるための工夫がつまったそのノートを否定されたことは当時としては本当に驚きでした。


でも今は少し、それがどういうことだったのかわかる気がします。
第一に、すべての人が、自分と同じ理解の仕方で知識を脳内に定着させているわけではない、というこです。
人にはそれぞれ独自の記憶方法、理解方法があるわけで、自分の理解・記憶のパターンに合わせて書かれたそのノートが万人にとって有益なものではなかったのだと思います。

第二に、これは想像ですが、そのクラスの女子達にとっての「良いノート」というのは、きれいな字できれいなレイアウトで書かれた、「表面の美しいノート」だったのではないかと思います。
おそらく彼女たちが借りたかったノートは、先生が黒板に書いたことを完璧にコピーしたもので、かつ字が美しいものだったのではないかという気がしています。

自分のノートは、必ずしも黒板に書かれていることのコピーではありませんでしたから、もしも彼女たちが正確な黒板のコピーを求めていたのならば、自分のノートはダメなノートだったはずです。


それで先日、叔父の四十九日の際に実家に立ち寄って、自分の中学時代のノートを見てみました。
・・うーん、字が汚い!
これじゃあ、知識を定着させるための記述だの、単なる黒板のコピーではないだの、色々言っても話にならない、だれも見向きもしなくて当然だったな、と思いました(笑)

これは面接試験などと同じで、仮に内容自体はいい面があったとしても、あまりにも表面上の部分(服装とか、挨拶とか、マナーとか)が悪いとそのいい面にたどり着く前にダメ、ということになってしまうのと同じなのだと思います。l

もう少し字をきれいに書かないと、人が借りたいと思ってくれるようなノートにはならなかったのですね。