今日は、母の病状がどのように変化していったのかを書きたいと思います。
そもそも胃ガンというのは、現代の医学においては必ずしも「不治の病」ではないと言われていると思います。
脳や脊髄や腸などの部位に比べて外科的な摘出が容易であり、しかも人間は胃が無くても栄養さえ供給すれば生き続けることができるので、胃を完全切除するという方法で治療することができるとされています。
しかしながら、母の場合は胃ガンが発見された時には既に腸の周りにガンが飛び散っており、それが原因でお腹に水がたまってぽっこりとお腹が出てしまうという状態で、いわゆる末期症状でした。
もちろん、そうなる前に自覚症状はあったようです。
食欲がない、お腹が痛い、気持ちが悪い、といった症状はあったようなのですが、ガンでなくてもそういった症状は誰でもあるものなので、特に医者にもかからず誤魔化していたようです。
しかし、お腹に水がたまるようになって、さすがにこれは普通の症状ではないと思ったようで、病院に行って入院して胃カメラを飲み、そこで初めて胃ガンと診断されたのでした。
しかしながら、腸の周りに飛び散ってしまったガン細胞はもはや完全に取り除くことはできない状態だったため、手術による除去は諦め、また、抗がん剤を使ってもここまで進行してしまったガンを抑制するには及ばないと判断されたようで、抗がん剤も使用しないことになりました。
とりあえずおも湯による食事だけで、通常通り家で生活する道を母は選んだのですが、一週間もすると食べたものや飲んだものはすぐに吐いてしまうようになり、再入院を余儀なくされました。
体はすっかり痩せて骨と皮だけになってしまい、顔も別人のように痩せこけてしまいました。
それから2~3週間くらいは一般病棟で、点滴だけで栄養を供給する形で過ごしました。
それでもその頃はまだ、大変とはいえ自力でベッドから起き上がって、トイレまで行くことができる状態でした。
ただ、この時の母はかなり落ち込んでいたため、自分は3日ほど有給をいただいて帰省し、土日と合わせて5日間、毎日お見舞いに行って、母と長話をしてきたのでした。
自分の欲目かも知れませんが、その5日間で母は少し顔色がよくなり、また頑張ろうという気持ちになったように見えました。
それから約1週間後、母はホスピスへ移動しました。
移動後、カテーテル(細い管)を腕から心臓まで通して、点滴が直接心臓近くまで届くようにしました。
「これで例え胃が機能しなくても、栄養を供給することができる」と思ったものでした。
ところがそれから数日後、今度は口から、本来腸にあるもの(つまり大便のようなもの)を吐くようになってしまいました。
これは結局、腸のガンが大きくなり、腸の中に塞き止めのようなものを作ってしまい、直腸に流れないで胃に戻してしまうようになったことによる症状と診断されました。
この連絡を受けたのが土曜日の昼間だったので、自分は急遽新幹線で帰省し、土日の間母に付き添いました。
その時今度は、鼻からチューブを胃まで通したままにすることになり、そのチューブを通して胃にたまった汚物を定期的に吸引するようにしました。
とりあえずこれが効果があったようだったので、日曜日の夜に東京に帰ったのでした。
ところが次の日、今度は汚物が呼吸する器官に入ってしまい、呼吸困難になって危篤という知らせを受けて、仕事を放り出してみたび新幹線で帰省しました。
幸い、自分が病院に着いたころにはその症状は持ち直し、会話ができる状態になっていました。
この日から自分は、長期の休暇をいただいてホスピスに泊まり込むことにしたのでした。
ところが今度は約3日後、胃から吸引した汚物が真っ赤になっていました。
胃から出血するようになってしまったのです。
このまま血が止まらないと、心臓の機能が低下し、脳に酸素が行き渡らなくなり、おそらく1、2日中にお別れになるだろうと主治医の先生に言われました。
幸い、止血剤の効果と母の気力が勝り、血は止まりました。
もちろん1、2日後にお別れを迎えることにはならず、ホッとしていました。
しかしホッとしたのもつかの間、今度は数日後から脈が弱くなり、チアノーゼ(酸素が体の末端まで行き渡らない)の症状があらわれました。
ここでまた、主治医の先生から今夜か明日にお別れを覚悟するようにと言われました。
しかしここでも母が驚異的な頑張りを見せてくれて、脈の強さは元に戻りました。
こうして、「年を越すことはちょっと難しいだろう」と診断されていた母と、年末から応援に来てくれたカミさんと3人で一緒に、年を越すことができたのでした。
ただ、母の体力の衰えは顕著でした。
自分がホスピスに泊まり込むようになって、最初のころは、人の力を借りればトイレまで移動することができたのですが、やがてベッドから離れることができないほど腰が弱くなり、そしてとうとう人が支えていても座った状態を維持できなくなりました。
さらに寝返りが自分では打てなくなり、そして最後のころには腕を90度自力で曲げることさえ難しくなりました。
また、最初のうちは普通に会話ができるくらい声が出ていたのですが、体力の衰えと共にどんどん声が出なくなり、最後にはYesかNoかの意思表示もまともにできなくなってしまいました。
それでも、年を越してからの状態は落ち着いていて、危険な状態に入ることはないまま、自分の休暇の限界である1月4日を迎えました。
このままずっと仕事を休み続けるわけにもいかないので、2週間おきに病院に来ることを約束して、久しぶりに自分のうちへと帰ったのでした。
ところが。
その帰った日の夜、というか早朝の4時半くらいに病院から緊急電話が入りました。
「熱が41度まで上がっています。危篤状態です。すぐに来てください」ということでした。
始発の新幹線を待って、駅からタクシーで病院へ直行しました。
しかし、残念ながら自分が到着したときには母は既に旅立っていました。
それでも、看取ってくれた父の話では、苦しむ様子は全くなく、寝ているのか旅立ったのかわからないような状態で、医者の診断でNoと判断された、ということだったので良かったです。
また、良くも悪くも本人の意識は最後まではっきりしていました。
おそらく、どんどん衰退していく自分の体を実感しながら、ものすごい辛さと絶望感に襲われていたに違いありません。
それでも、最後まで病気と闘い続けて、何度も医師の予測を覆して奇跡を見せてくれた母を、本当に尊敬します。
ありがとうございました。