これは一年くらい前の話なのですが、ある有名なお寺で一泊の体験修業を受けました。
その前に滝修業にも入ったのですが、それは時間にすれば2時間くらいだったので、もっと精神世界について勉強させていただきたいと思い、一泊のコースに参加したのです。
自分は出家して僧侶になろうとは全く思っていませんが、「仏教」が目指していることには興味があります。
実は、多くの宗教は「信じてさえいれば救われる」という基本思想があるといわれているのですが、仏教は少し違っているのです。
仏教は「今、この世をしっかりと生きていくために必要なこと」について言及しており、そしてそれに必要な修行方法をも明示しています。
しかも、面白いことに、現在の科学的なアプローチによる脳の仕組みや、心理学的な理論の多くが、仏教で言われていることとに通じていることもあるのです。
つまり「仏教」という世界は論理的であり、実用的な思想だということができると思います。
さて、この体験修業はかなり大がかりなものでした。
50人以上の参加者がいて、自分のような一般人ばかりではなく、関西のお寺の本職のお坊さんや、すでにこういった修行に何十回も参加されている年配者など、本格的な方が多数いらっしゃいました。
そして修業は、予想以上にしっかりしたものでした。
着くや否や、108回座ったり立ったりを繰り返しながら唱えごとをすることから始まりました。
2時間余り正座したまま般若心経を唱えたり、朝四時半に起床して瞑想の修行に入ったりもしました。
もちろん食事は魚や肉のない精進料理でした。
その二日間の中で、よく覚えているのが、和尚様がしてくれた法話の一部分です。
その法話の中で、仏門に入門しにやってきた若者と、そのお寺の最長老のお坊様が交わした会話を話してくださいました。
若者:「私は誰よりも一生懸命修行をするつもりです。いったいどのくらいで悟りを開くことができるでしょうか」
長老:「そうじゃのう、10年くらいかかるかのう」
若者:「ええっ!10年もかかるんですか!? だったら私は人の倍、一生懸命がんばりますから、そうしたらどのくらいでできるでしょうか?」
長老:「なに、人の倍がんばるだと?そんな調子では、20年はかかるじゃろうな。」
若者:「そんな!ならば一生分まとめてがんばりますから、そうしたらどのくらいかかりますか?」
長老:「そんなことを言っているようでは、一生かかっても無理じゃろうな」
この会話の意味するところは、あせって事を急ぎすぎるとかえって時間のかかるもの、つまり急がば回れ、ということだと思います。
以前「サルの脳」の話でも触れましたが、人間は焦っているときは本来の脳の機能を発揮できないものなので、何かをやり遂げようとするときは焦らないこと、ゆっくり腰を据えて取り組むくらいがちょうどいいと言われています。
自分はつい、焦って早く結果を求めて、結局遠回りをしてしまったことが過去に何度もありました。
まさに、その法話に出てくる若者と同じような心境で生きてきたのでした。
実は、「焦ってセカセカと行動をする」のはその瞬間は楽なものです。
なぜなら、その瞬間だけに焦点を当ててみれば、自分にできる最善のことをしているように感じられるからです。
しかしそれは、「自分はがんばっているのだから」と自分を甘やかしてしまっているのです。
しかし、ちょっと目線を遠くして、客観的に自分自身をみれば、その瞬間だけ焦っても無駄にエネルギーを消費しているだけであることに気付きます。
信号待ちで無意味な空ぶかしをして、燃費を落としているようなものです。
だから今、自分がしなくてはならないのは、本能の赴くままに焦ってその場だけの安心を求めたりしないで、腰を据えてて落ち着いて、そして長期的に物事を見る勇気を持つこと。
それが、この修業を通して自分の中に残った思いでした。