まいどーおおきに 河内の樹々の独り言 -9ページ目
木版画 西方寺山門より竹原市街を望む

墨一色刷り

墨液
和紙 新鳥の子





西方寺はもとは田中町に在る禅寺で地蔵堂の隣にありました。
現在地には、もと禅寺の妙法寺があり、1602年に火災で焼失し翌年、
妙法寺跡のこの地へ移り、浄土宗に改宗しました。境内には、本堂、
鐘楼、庫裡、法界地蔵堂、山門などの建築が建ち並びます。境内前面
には、一見城郭を思わせるような壮大な石垣があり、錚々たる寺観を
呈しています。 
入母屋造、一重、平入、本瓦葺、前面と側面前方を吹抜とし、側柱には
太い敷桁を載せるだけの簡単な構造をしており、江戸中期のこの地方の
仏堂の典型的形式をもつ、貴重な建築です。須弥檀は禅宗様式となって
います。

普明閣は西方寺本堂横の高台に位置し、1758年の建築。
西方寺の地に妙法寺があった頃の本尊である、木造十一面観音立像(県
重要文化財)を祀っています。方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根、舞台
作りとなっており、京都の清水寺を模して建立されました。
建立年代としては新しいものですが、特異な屋根形式と優れた細部意匠
を持ちます。町のどこからでも望むことができ、竹原市の景観の中心と
なる重要な建築です。普明閣にのぼれば、竹原の町を一望することがで
き、竹原に来た人は、必ずここにのぼると言う重要な場所でもあります。

木版画

広隆寺・弥勒菩薩半跏思惟像

墨一色摺り

墨液
和紙 新鳥の子




弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは「釈迦の死後56億7千万年後の世に降りてきて釈迦に代わって
人々を救う未来仏」とされている。
弥勒菩薩半跏思惟像(みろく ぼさつはんかしゅいぞう)は、片足を他方の足の上に乗せ台に座
った姿で思索にふける弥勒菩薩像であり、人々を救済する方法を考え思索にふ ける様子を表現
している。
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は、通称・宝冠弥勒(ほうかんみろく)は、1951年に国宝に指定さ
れ、国宝彫刻第1号となっ ている。
切れ長の目や鼻筋のラインが簡潔で美しく、少しうつむき加減に思索にふける様子からは口元に
穏やかな微笑みを浮かべているように見える。
女性的とも思える華奢な体つきからは木肌が現れているが、制作当時は漆を塗った上に金箔で覆
われていた。
日本の仏像には珍しいアカマツの木から彫り出されていることから朝鮮半島から伝来した像であ
るとする説が有力となっている。
広隆寺にはもう一体、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゅいぞう)が安置されており、
表情が困り哀しんでいるように見えるため、通称・泣き弥勒 (なきみろく)と呼ばれている。
制作は7世紀半ばと考えられ、クスノキから彫りだされている。こちらも国宝に指定されている。