まいどーおおきに 河内の樹々の独り言 -11ページ目
木版画 京都 瀧池山 大雲寺







【今から千余年前、円融天皇が比叡山に行幸された砌、当山のあたりに紫雲がたなびくのを眺められて聖地なるを感じとられ、ここに堂宇を結ぶことを許された。
行基菩薩作の「十一面観音」を本尊とする観音院をはじめ、四十九の堂塔伽藍と千人に及ぶ僧を擁した洛北屈指の名刹と称された。
大雲寺の観音様の霊験は広く朝野の尊信を集め今日なお、ご利益を求める善男善女の参拝は絶えることない。
 また、紫式部の「源氏物語」「太平記」 井原西鶴の「好色一代女」等文学作品の舞台としても大雲寺は多く登場する。宋に渡った大雲寺5世成尋阿闍梨が著した紀行文「参天台五台山記」並びにその母の句集は、日本と中国の文化史上不朽の名をとどめている。
 平安時代、南北朝、室町時代、戦国時代と再三再四の兵火に焼かれ、都度不死鳥のごとく再興をなし、昭和の法難と称される「大雲寺事件」の後、昭和60年に成尋開基の宝塔院旧地に仮本堂を結んで現在再興途上である】

※龍池山 大雲寺 公式ホームページより
木版画

信州上田 安楽寺 八角三重塔


墨一色摺り
 墨液 奈良玄林堂 
 和紙 新鳥の子




安楽寺(あんらくじ)は長野県上田市別所温泉にある曹洞宗の寺院。山号を崇福山と称する。院号は護国院。開山は樵谷惟仙(しょうこくいせん)。
本尊は釈迦如来。国宝の八角三重塔があること、また長野県で最古の禅寺であることで知られる。

伝承では天平年間(729 - 749年)、行基の建立とも言い、平安時代の天長年間(824 - 834年)の創立とも言うが、鎌倉時代以前の歴史は判然としない。
平安時代末期には律宗寺院であったとされる。

安楽寺の存在が歴史的に裏付けられるのは、鎌倉時代、実質的な開山である樵谷惟仙が住してからである。樵谷惟仙は、信濃出身の臨済宗の僧で、
生没年ははっきりしないが、13世紀半ばに宋に留学し、著名な禅僧の蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)が来日するのと同じ船で寛元4年(1246年)、日本へ帰国したという。
2世住職の㑃牛恵仁は宋の人で、やはり樵谷惟仙が日本へ帰国するのと同じ船で来日した。

鎌倉時代の安楽寺は塩田荘を領した塩田流北条氏の庇護を得て栄えたが、室町時代以降衰退し、古い建物は八角三重塔を残すのみである。
天正8年(1580年)頃、曹洞宗通幻派の高山順京(こうざんじゅんきょう)によって再興され、以後曹洞宗寺院となっている。

八角三重塔は境内奥の山腹に建つ。昭和27年(1952年)3月29日に松本城とともに、長野県内の建造物として最初の国宝指定を受ける。


【まいどーおおきに 河内の樹々の独り言】にご訪問下さっている皆様に、ブログの更新の遅れについてお詫びいたします。

投稿を続けております中、 「奥の細道」 が立ち止まっていまってしまいました。原因はある一冊の本を探していたからなのです。




ある時、職場にアルバイトで来た女子大学生と出会いました。いろいろと話しているうちに「今、卒業論文で悩んでいる」ことを聞きました。何か論文にする材料無いかと聞いてくるので、私は自分の持っている知識の中でアドバイスできるものがあればと思い、「松尾芭蕉の奥の細道の資料ならあるよ」と言うと、是非見せてくださいと言うので「芭蕉辞典」を貸しました。もう何十年も前の話です、もう貸した事も忘れて現在に至っておりました。

過日、「奥の細道」で投稿の為に資料に目を通している時にある疑問が湧きました。

「古池や 蛙飛び込む 水の音」 この俳句が今回の更新のストップ、遅れにつながりました。

詳細はこの俳句の項でお話いたします。掲載の更新までもう暫くお待ちください。